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今日初めて喋ったのに結婚はおかしいと思う、と私はようやくそれだけを喉の奥から絞り出した。
そうだよね、と磯貝君はあっさりと頷く。
「じゃあ、僕と付き合ってくれませんか、中村菊花さん」
「それなら……」
結婚よりははるかにマシだと、私は彼の提案を受け入れた。
後から考えてみれば、既に私の思考はおかしくなっていたのかもしれない。
息を吐くたびに、私の体に溜まったローズヒップの薫りが纏わりついて、薄暗い部屋の中でさらに靄がかかる。
「磯貝君、そろそろ大学に戻らないと」
彼は腕時計に目をやってふっと笑んだ。
まだ、あと40分あるよ、って。
思ったよりも時間の流れはゆっくりだった。
彼に詰め込まれた情報は、私の中で行き場をなくしてぐるぐると渦巻いている。
「キッカちゃん、磯貝君じゃなくて名前で呼んでほしいな」
「博睦君? 」
「そう」
名前を呼んだだけなのに、彼は嬉しそうだ。
「彼女になってくれたキッカちゃんに、もう一つお願いしてもいい? あのね、」
彼は床に膝をついたまま、私の方を蕩けるように見つめた。
「博睦君、それは無理」
彼のお願いに私は、恥ずかしくて泣きそうになった。
「なんで? 僕はキッカちゃんに踏まれたいんだよ。尤もキッカちゃん以外には踏まれたくない。お願いだよ、僕にはキッカちゃんだけなんだ」
他の人にお願いしてください、と言ったのに彼は頑なに拒んで私の右足に縋り付いてきた。
彼は私の足に踏まれたいと言って聞かなかった。
キッカちゃん、と名前を呼ばれる度に、彼が用意した底なし沼にズブズブと沈んでいく。
「実は菊ちゃんに隠してた事があるんだ」という言葉から始まった彼の告白に私は狼狽えた。
菊ちゃんに踏まれたい。
そう言えば軽蔑される。その想像だけで僕は耐えられなくてね、それで僕は遊郭に通うようになったんだ。16の時だったかな。
ああ、そんな顔しないで、違うんだ、僕は女の人と寝に行ったわけじゃない。
僕はただ、踏みつけて欲しかっただけなんだ。
ほら、そういう顔する。
だから、菊ちゃんには絶対に頼めない事だったんだって。
でも、何度か通ううちに違う理由で耐えられなくなってきた。
誰に踏まれても、満足できなかったんだ。
顔の美醜や年齢、果ては性別まで色々試してみたけど、全然満足できなくて、それどころかどんどん心は乾いてくる。踏まれるたびに、菊ちゃんの可愛らしい足を思い出すんだ。
白くて、ほっそりとして、貝がらみたいな爪が足先で僕を惑わしてくる。
だから結婚して何年か経ったら、告白して踏んでもらおうって決心した。
でも、菊ちゃんは先に亡くなってしまった。
僕は抜け殻みたいになって。あんな思い、もうしたくない。
磯貝博睦になってからは、キッカちゃんに顔向けできないようなことは何一つやってない。
誰とも付き合ったこともないし、キッカちゃん以外を好きになったことすらない。
僕にはキッカちゃんしかいないんだよ。
彼の強烈な独白。
私の足にすがりついてくる白い手。
「キッカちゃん、僕を踏んで」
切実な声。
足の甲に何度も落とされる口付け。
小さな眩暈はだんだんと私を侵食してくる。
靄は一層濃くなって、私の後悔を見えなくしていった。