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爪の下の  作者: 3986
爪の下の(推敲前)
7/9

今日初めて喋ったのに結婚はおかしいと思う、と私はようやくそれだけを喉の奥から絞り出した。


そうだよね、と磯貝君はあっさりと頷く。


「じゃあ、僕と付き合ってくれませんか、中村菊花さん」


「それなら……」


結婚よりははるかにマシだと、私は彼の提案を受け入れた。

後から考えてみれば、既に私の思考はおかしくなっていたのかもしれない。


息を吐くたびに、私の体に溜まったローズヒップの薫りが纏わりついて、薄暗い部屋の中でさらにもやがかかる。


「磯貝君、そろそろ大学に戻らないと」


彼は腕時計に目をやってふっと笑んだ。

まだ、あと40分あるよ、って。


思ったよりも時間の流れはゆっくりだった。

彼に詰め込まれた情報は、私の中で行き場をなくしてぐるぐると渦巻いている。


「キッカちゃん、磯貝君じゃなくて名前で呼んでほしいな」


博睦ヒロチカ君? 」


「そう」


名前を呼んだだけなのに、彼は嬉しそうだ。


「彼女になってくれたキッカちゃんに、もう一つお願いしてもいい? あのね、」


彼は床に膝をついたまま、私の方をとろけるように見つめた。





「博睦君、それは無理」


彼のお願いに私は、恥ずかしくて泣きそうになった。


「なんで? 僕はキッカちゃんに踏まれたいんだよ。もっともキッカちゃん以外には踏まれたくない。お願いだよ、僕にはキッカちゃんだけなんだ」


他の人にお願いしてください、と言ったのに彼は頑なに拒んで私の右足に縋り付いてきた。

彼は私の足に踏まれたいと言って聞かなかった。


キッカちゃん、と名前を呼ばれる度に、彼が用意した底なし沼にズブズブと沈んでいく。


「実は菊ちゃんに隠してた事があるんだ」という言葉から始まった彼の告白に私は狼狽えた。



菊ちゃんに踏まれたい。


そう言えば軽蔑される。その想像だけで僕は耐えられなくてね、それで僕は遊郭に通うようになったんだ。16の時だったかな。


ああ、そんな顔しないで、違うんだ、僕は女の人と寝に行ったわけじゃない。

僕はただ、踏みつけて欲しかっただけなんだ。


ほら、そういう顔する。

だから、菊ちゃんには絶対に頼めない事だったんだって。


でも、何度か通ううちに違う理由で耐えられなくなってきた。

誰に踏まれても、満足できなかったんだ。

顔の美醜や年齢、果ては性別まで色々試してみたけど、全然満足できなくて、それどころかどんどん心は乾いてくる。踏まれるたびに、菊ちゃんの可愛らしい足を思い出すんだ。

白くて、ほっそりとして、貝がらみたいな爪が足先で僕を惑わしてくる。


だから結婚して何年か経ったら、告白して踏んでもらおうって決心した。


でも、菊ちゃんは先に亡くなってしまった。


僕は抜け殻みたいになって。あんな思い、もうしたくない。


磯貝博睦になってからは、キッカちゃんに顔向けできないようなことは何一つやってない。

誰とも付き合ったこともないし、キッカちゃん以外を好きになったことすらない。


僕にはキッカちゃんしかいないんだよ。



彼の強烈な独白。

私の足にすがりついてくる白い手。


「キッカちゃん、僕を踏んで」


切実な声。

足の甲に何度も落とされる口付け。

小さな眩暈はだんだんと私を侵食してくる。


靄は一層濃くなって、私の後悔を見えなくしていった。

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