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「昔はキクちゃんって呼んでたんだけど」
「じゃあ、私は磯貝君のこと、なんて呼んでたの」
「アニサマ、って」
磯貝君、そんな名前なんだろうか、聞き間違いとかじゃないんだろうか。
私が数回瞬きを繰り返すと彼は、僕の方がお兄さんだから、と言った。
アニサマって兄様の事なのか。私、そんな事言ってた頃があったんだ。
呼び方の恥ずかしさよりも驚きの方が勝ってしまって、私は磯貝君をまじまじと見る。
「磯貝君、さっき私の下の名前聞いてたけど、本当は知ってたの?」
「うん、話してたらキッカちゃんが気づいてくれるんじゃないかと思って。ああ、僕の名前は博睦だよ、知らないよね」
素直に首肯すると、彼はやっぱり、と私を責める風でもなく、ただ困ったように笑った。
彼が言うには、私と彼の父が大親友らしく、自分たちに男の子と女の子ができたら結婚させようと約束をしていたらしい。
僕は大学でキッカちゃんを見てすぐにこの子だって分かったんだけど、という彼はちょっと寂しそうだった。私はなんだか申し訳なくなって、ごめんね、と小さく謝った。
私の記憶のどこにも磯貝君の影がなかったけれど、目の前の彼を見るとそんな事は言い出せなくなった。
「僕は覚えているから、てっきりキッカちゃんも覚えてるんだと思ってたんだけど」
「本当にごめんね、気づけなくて」
そんな話を父から聞いたことがあっただろうか。母はなんて言ってたっけ。
彼に謝りながらも、私は一生懸命思い出そうとした。小さい頃の記憶をあれやこれやと探る。
それを遮るかのように、
「ねえ、キッカちゃん。一つだけお願いがあるんだ」
彼はそう、ふわっと言った。
そこに座ってて、と彼に言われるままに、壁際にポツンと一つあるソファに腰掛けた。
ギシリと音がして、体重をかけたところが思ったよりも沈む。
膝上丈のフレアスカートは、沈んだ時に体が前に滑ったせいでお尻の下でくしゃくしゃになったのかもしれない。太ももがレザーにくっつく感じがした。
肘掛けに手を置くのはなんだか偉そうで、体の横に置いたら、手のひらにもペタリとレザーがくっつく。
何があったわけでもない。
ただ座っただけなのに、途端に不安になってこちらに背を向ける磯貝君の姿を確認してしまう。
彼はというと、キッチンへと続く扉の横にあるスイッチに手を伸ばして、リビングの電気を切った。
パチン、と乾いた音がして、部屋の中が薄暗くなる。
今はまだ午前中で明るいはずなのに、漏れてくる光はキッチン側からのものだけ。
思ってもない展開に私は狼狽えた。
え、と掠れた音が喉を震わせただけで、具体的な事は何も言えない。
そして、磯貝君はそれまでと変わらぬ足取りで私の前までやってきて膝をついた。
「キッカちゃん。どうか、懺悔させて? 昔のことだけれど」
そう言って彼は私の右足を柔らかくとって、彼の目の前に持ってくる。
何を、と聞く間も無く彼は躊躇もせずに私のつま先にひたいを当てた。
薄暗い部屋の中で、私の足と彼の手が、不気味なくらい白く浮かび上がっていた。