囚われの天使
正面に、紫色のビロード布が掛けられた鏡台があり、それを挟んで大きなベッドが二台置かれていた。人影はない。マリーはベッドの下を覗き込むが、女の子どころかウサギもネズミもいなかった。次にマリーは、鏡台の引き出しを開けてみた。けばけばしい色をした用途不明の化粧品が詰まってはいても、ピンク色の口紅は見当たらなかった。そうこうしていると、鏡台に掛けられた布が重たい音を立てて落っこちた。鏡の中ではびっくり顔のマリーが、こちらを見ていた。そして、鏡にはピンク色の文字で、こう書いてあった。
「口紅は渡さない」
これではっきりした。口紅は、鏡のマリーが持っているのだ。どうにかして、彼女を捕まえなければ。マリーは鏡台に背中を向け出口を目指すが、 はっと息を飲んで鏡に向き直った。鏡の中の彼女は、すでに扉を開けていた。出口に振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべたマリーが部屋から出て行くところだった。慌てて追いかけるが、扉はマリーの鼻先で乱暴に閉じられた。急いでノブを回し扉を開けると、廊下の角に消える金色のおさげが見えた。全速力で追い掛け玄関ホールに出ると、がたがたと騒がしい音が聞こえてきた。音がした方へ向かうと、そこはダイニングで、高価そうな椅子がそこら中に引き倒されていた。一番奥の扉の前には鏡のマリーがいて、彼女はマリーを見てからあかんべえをすると、扉の向こうへ身体を滑り込ませた。マリーは追い掛けようとするが、椅子が邪魔で思うように進めない。
ようやくたどり着いた扉の先は、キッチンに繋がっていた。しかし、人影と言えばぐつぐつ煮立つ大鍋の前の、シェフただ一人。他に出口は無いかと見渡して、マリーは地下へ続く階段を発見した。彼女が階段を降りようとすると、シェフがぱっと振り向いて言った。
「こら、勝手に地下へ入るんじゃない!」
マリーは驚いて足を止めた。
「あんた、ジェームズさんの言ってた、マリーちゃんだね。地下は食糧庫になってて、貴重な食材がたくさんしまってあるんだ。出入りは遠慮しておくれ」
マリーは「ごめんなさい」と言って、しぶしぶ階段から離れた。
「まあ、そのうちイヤでも入ることに……」
シェフがぽつりとつぶやいたので、マリーは首を傾げて彼を見た。
「いや、こっちのことだよ。さあさあ、ここには刃物や煮立った鍋や焼けたかまどがあるんだ。怪我をしないうちに出て行ったほうがいい」
シェフに追い立てられ、マリーはキッチンを後にした。
「やれやれ。ジェームズさんも、早く新しい使用人を雇ってくれないかなあ。キッチンを一人で回すのはキツすぎる」
シェフの独り言を背中に聞いて、マリーの頭にあるアイデアが浮かんだ。 マリーは急いで伯爵夫妻の寝室へと向かい、懐中時計を持って鏡台の前に立った。時計の蓋をぱちんと開けると、まばゆい光に包まれて、マリーは大人のマリーに変身した。そうして彼女はキッチンへ戻り、シェフに声を掛けた。
「こんにちは、シェフ。お手伝いするようにって、ジェームズさんに言われたんだけど」
「料理はできるのか?」
「できなくはないけど、お前の腕じゃシェフのお邪魔になるだけだって、ジェームズさんに言われました。でも、それ以外の雑用なら任せてください。こう見えても私、力持ちなんです」
「よし、それじゃあ食糧庫から小麦粉を持ってきてくれ。デザートのケーキを作らなきゃならん」
「はい、任せてください」
マリーは急いで地下への階段を駆け降りた。最後の一段を降りたところで変身が解け、彼女は子供の姿に戻った。
食糧庫は思ったより明るかった。地下室と言っても天井付近は地面より上にあるようで、七フィートほど上の壁面に設けられた明かり取りの窓から、歩き回るのにじゅうぶんな光が差し込んでいる。狭い通路をしばらく進むと広い区画に出た。壁に沿って積み上げられた木箱や袋、調味料や食用油の瓶がずらりと並ぶ棚などがあった。
鏡のマリーが隠れていないかと辺りを見渡していると、マリーは壁の一面が鉄格子になっていることに気付いた。歩み寄ってみれば奥に人影が見える。
マリーの気配に気付いたのか、人影は飛び起きて格子に駆け寄った。
「おい、お前!」
それはマリーよりも二、三歳は年上の少年だった。きれいに整えられた髪は真珠のように真っ白で、瞳はラズベリーのような深紅。目を見張る美少年だが、もっとも驚くべきは彼の背中でぱたぱたはためく、純白の小さな羽根だった。
「よくも騙してくれたな。おかげで俺は、やつらの今夜のメインディッシュだとよ。どうしてくれる?」
意味が分からないと素直に言えば、天使の少年はひどく憤慨した。
「ここに美味しい物がたくさんあるよって、俺を連れてきたのは、お前じゃないか。しらばっくれるな!」
濡れ衣もいいところだ。マリーを騙る誰かが、マリーの知らないところで、妙なことを働いているに違いない。マリーには心当たりがあった。事情を話すと、少年は訳知り顔で頷いた。
「ははあ、なるほど。お前、自分の影に逃げられたのか」
「影?」
「そうさ。地面に映る黒いのも影だけど、鏡に映る自分の姿も影なんだ。足下を見てみろよ」
言われるまま足下を見れば、確かに影がなかった。
「主人に愛想を尽かした影は、どこかへふらっと出かけていなくなってしまうことがあるんだ。けど、主人はスープ皿で影はスープみたいなものだから、長く器を離れていると、影はそのうち地面に吸われて消えてしまう。そして影に逃げられた主人は、セミの抜け殻みたいになって、ピクリとも動けなくなるのさ」
それは一大事だ。でも、少年の言うことには、おかしなことがあった。マリーはとおに空っぽなのだから、それなら今のようにしゃべったり、全速力で駆けたり出来るはずがない。
「簡単なことさ」と天使は言った。「代わりに、別の何かが入ってるんだ。天使の俺には、ちゃんと見えてる」
それはなあに? と尋ねれば、天使の少年はニヤニヤ笑いながら、鉄格子の隙間から手を伸ばし、あろうことかマリーの胸をぺたぺた触った。
「中身と違って、お前はぺったんこだな?」
マリーは少年の鼻にパンチをくれた。少年は派手にひっくり返り、藁が敷かれた牢の床を転がって、奥の壁にぶつかりきゅうと伸びてしまった。しかし、これで合点が入った。マリーの中には影の代わりに、大人の彼女が入っているのだ。鏡に映らないことを除けば、今のところ支障は無いが、逃げ回る影を、このまま放っておくわけにもいかないだろう。彼女を捕まえなければならない理由なら、他にもあるのだ。
「おい、娘。小麦粉を探すのに、いつまで掛かってるんだ!」
シェフの声と足音が通路から聞こえてきた。早く大人に変身しなければとマリーは周囲を見渡すが、食糧庫に鏡などあるはずもなく、やって来たシェフは彼女を見て目を丸くした。
「お前、いつの間に!」
シェフは鬼の形相を浮かべて言った。実際、彼は鬼だった。マリーの目の前でシェフの人間の顔は見る間に崩れ、瞳は黄色に変り、瞳孔は猫のように縦に裂けた。額からは長い角が三本も伸びてきて、耳まで裂けた口の中は、ギザギザの歯でいっぱいになった。彼はマリーの首根っこを捕まえ、腰に下げた鍵で牢を開けると中に彼女を乱暴に放り込んだ。マリーは床をごろごろ転がり、逆さまになった格好で、ようやく止まった。お尻の下には少年の顔があった。
「天使の男の子に、人間の女の子か。はてさて、いい食材がそろったぞ。これを、どう料理しようか。やっぱり、二人とも素っ裸にひんむいて、チシャ菜で飾るのが一番かな。いやいや、せっかくだから旦那様や奥様や、坊ちゃんたちにリクエストをいただこう。みんな、私なんかよりずっと残酷だから、きっと素敵な食べ方を思い付いてくださるぞ」
シェフは下品な笑い声を上げながら、キッチンへと戻っていった。
「さすが、お子様だ。パンツに色気が無い」
マリーの脚の間から、にゅっと顔を出して天使の少年は言った。マリーは足を揃えると、両の踵で少年の顔を蹴り、一回転して身体を起こした。
「イタタ……乱暴だなあ」
少年は立ち上がり、ニヤリと笑ってマリーに右手を差し出した。
「俺はハリー。見ての通り、天使だ。キャラハンでもポッターでもないから、マグナムや魔法は期待するなよ」
意味がわからないわと正直に言ってから、それでも彼の右手を握り返して、マリーは名を告げた。
「マリーか、よろしくな。バケモノのご馳走にされるなんて、ついてないと思ってたけど、裸の女の子と一緒なら、それほど悪くはないかも知れないな」
マリーは、いやらしい笑みを浮かべるハリーの右足を、力いっぱい踏んづけた。それから、足を押さえてぴょんぴょん片足で跳ねるハリーを放置し、脱出の方法を探り始めた。可能性があるとすれば、天井に近い場所にある明かり取りの窓だ。もちろん、それはこの牢の中にもある。しかし、七フィートも上では、どうすることもできない。
マリーは、ハリーの背中の羽根に目をやった。
「俺に飛べって? 無茶言うなよ。この牢には天使の力を抑える結界が張ってあるんだ。それがなかったら、こんな鉄格子なんてバラバラにして逃げ出してるよ」
ハリーが頼りにならないとしたら、どうにかして自力で窓まで登る方法を考えなければならない。マリーは牢の中をキョロキョロ見渡して、水盤が乗った台が壁際の隅に置かれているのを見つけた。しかし、その高さはマリーの背丈の半分ほど。踏み台にするには低すぎる。
「喉でも渇いたのか?」
ハリーが肩越しに覗き込んで来た。彼の整った顔が、水盤に張られた水面に映し出された。マリーは急いでポケットから懐中時計を取り出した。案の定、水面には大人のマリーが映し出された。懐中時計の蓋をパチンと開き、マリーは変身した。大人になってハリーを見下ろすと、彼は口をぽかんと開いてしばらく彼女を見つめてから、親指を立てて見せた。
「いいね。大き過ぎず小さ過ぎず、実に俺好みのおっぱいだ」
マリーは蹴り飛ばしたくなる衝動を抑えた。いくらなんでも、大人の力で蹴ったりしたら、ひどい怪我をさせかねない。
「変身中に真っ裸なのが、お約束な感じで実にいい」
ハリーはマリーの容赦の無い蹴りを食らって、派手に吹っ飛んだ。
「イタタ……本当に乱暴だな、お前」
意外に平気そうなハリーを見て、マリーは少しムッとした。
「さっきはパンチで伸びたのに」
「素敵なおっぱいを前に、気絶なんてしてられるか。ちょっとクラクラするけど」
見上げたスケベ根性である。構っていても時間の無駄なようなので、マリーは台に乗り窓枠に手を伸ばした――が、届かない。目一杯背と右手を伸ばして、ようやく窓枠の上側にある留め金に指が届いた。どうにか留め金を外すと、窓は外側にパタリと倒れて開いた。しかし、これでは窓枠まで身体を引っ張り上げるなど、到底、無理だ。それに、どうにか登れたとしても、窓が小さすぎて大人のマリーでは、胸やお尻がつかえて出られそうにない。
マリーは妙手を思い付いた。彼女がハリーを、窓まで抱え上げれば良いのだ。そして、ハリーにロープのようなものを探してきてもらって、マリーも脱出する。早速、その案をハリーに伝えようとするが、彼はマリーが乗った台の側に屈み込み、真剣な表情でこちらを見上げている。何をしていると問えば――
「決まってるだろう。パンツを覗いてるんだ」
マリーはスカートの裾を押さえ、ハリーの顔を思いっきり踏みつけた。その拍子にバランスを崩し、彼女はハリーの上に倒れ込んだ。台がひっくり返り、水盤は床に落ちて中身をぶちまけた。マリーは子供の姿に戻り、彼女は変身の手段を失った。万事休す。
「なにやってるんだ、人間?」
牢の前に子兎がいた。
「ジロー坊ちゃま。お部屋を出て大丈夫なの?」
「母上に見付からなけりゃ、どうってことないさ。それよりも忘れてないか。ジェームズがどうなったか話しをする約束だぞ」
「ちゃんと覚えてるわ」
マリーはにっこり笑って言った。状況はどうあれ、約束は果たさなければならない。
「今から話すから、他のみんなにはジロー坊ちゃまが話してあげて」
しかし、ジローは首を振った。
「おやつは分ければ減るけど、お話は独り占めすると面白さが減ってしまうんだ。俺は何をすればいい。人間は賢いんだから、何か思い付くだろう?」
マリーは先ほどあきらめたアイデアを、ハリーとジローに話して聞かせた。
「鏡があればいいんだな」
ジローは辺りを見回し、調味料の棚からオリーブ油の瓶を取って、マリーの元に持ってきた。
「色付きガラスの瓶だから、鏡の代わりになるはずだ」
懐中時計を手にすると、オリーブ油の瓶には大人のマリーの顔が映しだされた。こんなもので変身して、顔がゆがんだりしないかしらと心配になったが、贅沢は言ってられなかった。無駄だとは思いつつ、ハリーにこっちを見るなと命令してから懐中時計の蓋を開け、彼女は再び大人に変身した。
「こりゃ驚いた」
ジローが言った。マリーは彼に片目を閉じて見せると、ハリーを背負って台に上った。それから彼を窓まで押し上げ、台を降りて子供の姿に戻り、待った。
「あの天使、一人で逃げたりしないだろうな?」
ハリーが出て行った窓を見上げ、ジローがつぶやいた。もちろん、その可能性もあった。しかし、疑ったところでどうにもならないので、マリーは信じて待ち続けた。
('17/1/9)誤字修正