時の部屋
鏡台の上に口紅が一つ転がっていた。上品なピンク色のそれは、つい先ほど出掛けた母の物だった。ずいぶんと急いでいたようだから、うっかりしまい忘れたのだろう。それを見たマリーの頭の中に、素敵なアイデアが浮かんだ。
八歳になったばかりのマリーは、ある考えを持っていた。自分もいずれは大人になるわけで、そのための準備は出来るうちにやっておくべきだ――早速、マリーが口紅を手に取ると、足首に白い毛玉が体当たりを仕掛けてきた。マリーは「ハロルド、やめて」とペットのウサギを叱ってから口紅のキャップを開け、ピンク色の先端を唇に寄せた。
鏡の中のマリーが、抗うように首を振る。どうして? ほんのちょっとだけど、大人になるチャンスなのよ。それなのに、あなたはどうして、そんなに悲しそうな顔をしているの。
鏡の中のマリーは、何も答えなかった。その代わり、彼女は翡翠色の瞳に決意を宿して立ち上がった。マリーが呆然と見守る中、鏡のマリーはくるりと背を向け、鏡の奥に映る扉へ向かい、ノブに手を掛け、開けた。マリーの背後で、扉の開く音がした。驚いて振り向くと、緑色のスカートの裾と金色のおさげが、扉の向こうへ滑り込むのが見えた。扉は閉ざされ、向き直った鏡には、もはや誰も映っていなかった。
マリーは手元の口紅に視線を落とした。私は何をしてしまったの? 口紅にキャップを被せるが、すでに手遅れだった。鏡の境界がじわりと溶け出したかと思うと、それはクラゲの脚のように伸びて、マリーの身体を絡め取った。クラゲの触手は波打ち、激しい流れとなって彼女を押し流し、飲みこんだ。マリーは空気を求めて大きく口を開けるが、流れ込んできたのは空気ではなく、とろけて歪んだ世界だった。マリーは大きな泡を一つ吐き出して、流れの中へゆるりと沈んでいった。
「急がなきゃ、急がなきゃ!」
母親はばたばたと家の中を駆け回り、仕事の準備に追われている。こんな時の彼女に話し掛けたり、何かを手伝おうとすれば、叱られることはとおに知っていたので、マリーは部屋の隅で大人しくハロルドの毛にブラシを当てていた。
「ごめんね、マリー。せっかくの日曜日なのに」
母親は鏡の向こうから、アイラインを引く手を休めることなく言った。
「気にしないで、ママ」
マリーはハロルドの毛並みが滑らかに整うよう、丹念にブラシを走らせた。
「来週、埋め合わせをさせてちょうだい」
そんな日が来ないことは、マリーが一番よく知っていた。
「それじゃあ、行ってきます」
化粧を終えた母親はマリーの頬にキスをひとつくれると、書類が詰まった鞄を持って玄関へ向かった。その背中に向かって、マリーは「いってらっしゃい」と、声を掛けた。母親は小さく手を振ってそれに応えると、扉を開けて出て行った。
マリーはブラシを置いて、母親の鏡台へ向かった。顔を映して、キスされた場所を見れば、微かに口紅が付いている。鏡の前には、同じ色の口紅が転がっていた。
冷たい石畳の上で、マリーは目を覚ました。身体を起こして見渡せば、そこは窓ひとつない石積みの狭い部屋だった。片隅に置かれた机の前に、灰色のローブをまとう白髪の老人が一人、ちっぽけなランプの灯りを頼りにして、黄味をおびた紙に何やら熱心に書き付けている。部屋の中には赤い扉と青い扉がひとつずつ。それと、大きな壁掛けの姿見がひとつ。
マリーは、ふと思い出して自分の手を広げて見た。口紅が無くなっていた。摩耗して滑らかになった石の床をきょろきょろ見回すが、どこにも見当たらない。一体、口紅はどこへ行ってしまったのだろうか。それに、さっきまで一緒にいたハロルドは?
「何をしている。起きたのなら、さっさと来い」
老人は振り返りもせず言った。マリーは老人に歩み寄った。途中、姿見をちらりと覗くが、そこには何も映らなかった。
「何か御用ですか、おじいさん?」
机の側に立ってマリーが尋ねると、老人は机の引き出しから銀の懐中時計を取り出し、彼女に手渡した。
「貴重なものだ、無くすなよ」
マリーは頷き、時計を受け取った。
「赤い部屋から本を一冊持ってこい。確か、左端の本棚のてっぺんにあるはずだ」
マリーは老人が指さす赤い扉に向かい、それを開けた。扉の隙間に身体を滑り込ませると、そこも窓のない狭い部屋で、壁一面に本棚が並べられていた。
一番左端にある本棚の天板の上に、分厚い本の角が三角に見えていた。しかし本棚は七フィートほどもあり、マリーの背丈では手が届きそうにない。踏み台でもあればと辺りを見渡すが、使えそうなものは無かった。赤い扉を戻り、老人に無理だと告げ、どうすればよいかと問うが、彼は取り付く島もなかった。
「そんな事、自分で考えろ」
無体なと思いながらも、マリーは本棚の前に戻り、三角の角を見つめた。いっそ、本を積み重ねて踏み台にしてやろうかと考えていると、赤い扉が開き、金髪にベレー帽を被った旅装の女性が入ってきた。彼女は本棚の前に来ると、背伸びをして分厚い本を取った。
「これでしょ?」
彼女は言ってマリーに本を手渡すと、赤い扉から部屋を出て行った。マリーは礼を言い忘れたことに気付き、すぐ後を追うが、老人の部屋に女性の姿は無かった。首を傾げながら、老人に本を渡そうとすると、彼はそれを押し返した。
「わしじゃない。それが必要なのは、お前だ」
マリーは部屋の片隅に座り込んで、手に入れた本を読み始めた。タイトルは「取扱説明書」とあった。
「お買い上げいただき、ありがとうございました。この製品は、時間変換技術により、使用者を未来の姿に変身させる時空間湾曲懐中時計です。この説明書をよくお読みの上、正しくお使いください」
専門用語ばかりでマリーにはほとんど理解出来なかった。どうにかわかったのは、この時計を持って鏡の前に立てば、大人の自分に変身できると言うことだった。
マリーは取扱説明書を床に置き、懐中時計を手に姿見の前に立った。鏡の中には、ベレー帽を被った女性の姿が映っていた。懐中時計の蓋を開けると、時計の針がくるくると右に回りだした。針の回転はどんどん速くなり、とうとう目で追えない程になった。文字盤から光が飛び出し、マリーの身体を渦巻くように包み込む。光が消えると、きょとんとした顔の子供のマリーが、鏡の中からこちらを見上げていた。
マリーの視界に、何か邪魔っけなものがあった。それが自分の胸だと気付くのに、少しばかり時間が必要だった。懐中時計を見ると、針が少しずつ左回りに動いていた。説明書には、変身できる時間は限られているとあった。
マリーは懐中時計の蓋をぱちんと閉じて、赤い扉の部屋へ向かった。そこには緑のワンピースドレスに白いピナフォアを着けた、金髪でおさげの少女がいた。彼女は本棚の天板に置かれた本を、しょんぼりと見上げている。マリーは背伸びをして本を取ると、それを少女に手渡した。
「ありがとう、お姉さん」
満面の笑みで礼を言うと、少女は赤い扉を開けて部屋を出て行った。少し遅れてマリーも元の部屋へ戻り、姿見の前に立って懐中時計の蓋を開けた。時計の針は高速で左回転を始め、彼女はたちまち子供の姿に戻った。
「使い方はわかったな?」
老人は書き物の手を止め、椅子の上で身体を捻ってマリーに目を向けた。
「出口は青い扉だ。さっさと行け」
そう言って、彼はまた仕事に戻った。
マリーは青い扉のノブに手を掛け、老人の部屋を出た。