中編
「……沙希ちゃん?」
後ろから小さな声で呼ばれ、沙希は振り向いた。そこには待ち合わせをしていた友人ーー優香の小さな姿があった。長い髪の毛は一つに束ねられてはいるが、低い位置で結ばれているから項は暑そうだ。
大学がある日は毎日のように会っていたが、夏休みに入ってからは会うこともなかった。
「久しぶり! 遅かったね」
「……うん」
「大丈夫? 元気ないね」
優香は決してはしゃぐタイプではないが、落ち着いた中に笑顔という明るさをもった人間だ。だけど久しぶりにあった彼女は暑さにやられているのか、微笑むこともなく弱々しく見える。額を流れる汗を腕でぬぐっていて、薄手の青いカーディガンには汗が滲んでいる。
「暑そう! それ、脱いだら?」
「うん……でも、日に焼けたくないから」
優香は無理したように笑う。日焼けを気にする辺り自分より肌に気を遣ってるな、沙希は感心しながらも熱中症にやられてしまうのではないかと心配だった。
「誰?」
優香は沙希の後ろに目を向けた。
「こんにちは、優香」
「あ、こんにちは……」
男が穏やかに挨拶をすれば、優香も手で顔を扇ぎながら答える。
(あれ? 何でこの人、優香のこと……)
「優香、この人怪しいし、さっさと行こう」
「知り合いじゃ……」
「ない」
優香は戸惑ったように男を見ていたが、沙希は強引に左腕を引っ張った。
「いたっ」
「え? ごめん!」
沙希は慌てて手を離した。彼女自身はそこまで力を入れたつもりはなかったのだが、痛いと言われた以上どうしようもない。
「ううん。私こそ、ごめん」
優香は精気のない瞳で答える。
沙希は男の様子を窺った。彼は二人の会話には混ざらず、じっと人形を見つめている。
「ぬいぐるみ……ですか? それ」
興味を持ったのか、優香が声をかける。男を怖がっているのか、震えた声だった。
「そ、そうだ。優香も言ってあげて」
「何を?」
「この人、おかしいの。ぬいぐるみがーー」
「ぬいぐるみがどうしたの?」
「これがどう見えるか言ってあげて。この人、変なこと言うの」
優香が答えれば、さすがに男も妙なことは口にしないだろう。そんな確信が沙希にはあった。なぜ男が理解不明なことを言うのかは分からないが、正直これ以上つきあってはいられない。
「そのぬいぐるみ、何かあったんですか?」
「君には、分かるよね?」
「何のことかはわからないけど……腕から綿はでてるし、髪の毛も長さめちゃめちゃですね。失敗作ですか?」
優香は恐る恐る男に問いかけている。
「失敗作なんかじゃないよ。ちょっとボロボロにはなっちゃったけどね」
「そう、ですか?」
「ああ」
優香は吸い込まれたかのように人形に視線を向け続けている。そのまま沈黙し、微動だにしない。
沙希はその肩にそっと触れた。
「優香……何言ってるの?」
「え? どう見えるか言ってって沙希ちゃんが言うから、言ったんだけど」
「え、だってまるでボロボロみたいに言うから」
「だって、破れたりしてるじゃん」
「え!? すっごい綺麗じゃん。まるで新品みたいに」
「え? そんなことないよ」
「優香まで……なんでそんな変なこと言うの!? おかしいよ!」
否定して欲しくて、沙希は思わず声を荒らげた。それに驚いたのか優香は顔を逸らす。しばらくそうしていたが、やがてその瞳に涙が滲み始めた。
「……うん、そうかもね。私、おかしいかも」
「優香?」
「うん、そうだね。なんとなくわかってた。沙希ちゃんも、そう思ってたんだね」
「……優香?」
優香の瞳から涙が一粒、こぼれた。まだ何かを言おうとしているみたいだが、嗚咽混じりで聞き取れない。
「どうしたの!? ちょっと、落ち着いて」
沙希がなだめようとするが、優香は泣き続けるばかりだ。
「もう、やだ。何もわかんない。なんでこうなの? わかんないよ」
「優香?」
彼女の言葉を全部聞き取れた自信はないが、それでも苦しいことぐらいは分かる。
「……ごめん、帰るね」
「優香!?」
優香は沙希に顔を向けることもせず、来た道を戻り始めた。沙希はその後を追おうとする。
「お願い、一人にして」
優香は一度身体をこちらに向けたが、やはり顔は見せてこない。沙希はその様子に困惑し、つい足を止めてしまう。
元気なくふらふらと去っていく姿を、沙希はただ呆然と見送っていた。
「……優香?」
「行ってしまったね」
後ろから憐れむかのように男が言う。
「もう、あんたのせいだからね。あんたが変なこと言うから!」
沙希は男を睨みつける。男は悲しそうな顔をし、人形を見つめている。
「とにかく行くからね」
沙希は足早に歩き始めると、一度も振り返ることなく公園を出て行った。