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前編

 ある日の午後、眩しいほどの太陽が公園を襲っている。暑い、そう呟くのは若い女性。

「髪切ろうかな」

 女性ーー新島沙希は自らの髪を掴み、毛先を眺めた。枝毛がある。普段は大して気にもとめていないが、一度気づくと気になって仕方がない。しかしハサミを持っているわけではなく、沙希は諦めたように髪から手を離す。

「やっぱり髪切りたい。でも成人式まで切るなって母さんうるさいしなぁ」

 沙希は大げさにため息をつくと、持っていたヘアゴムで髪をポニーテールにした。少しはマシになったと思いながら腕時計に目をやる。午後一時。真夏の暑さはますます酷くなるということが容易に想像できるほど、太陽は眩しい。

「……遅いな。もう時間なのに」

「……こんにちは」

「ん?」

 声をかけられ、沙希は振り向いた。目の前には真っ黒なコートを身にまとった男がいる。暑そう、それが沙希の率直な感想だ。クールビズが叫ばれている現在、サラリーマンでさえ上着を脱いで活動している。それなのに目の前の男はスーツどころかコートを羽織っているのだ、しかも黒。熱を吸収する色である。

 驚いたことに男は汗一つ流さず、涼しそうな顔で沙希を見つめている。

「……何?」

 男は無言で一つの人形を差し出してきた。

「うわ、きれいな人形……」

 布製のぬいぐるみだった。髪の毛を表す黒のフェルトは丁寧に切られ、腰のあたりまである。今の季節にふさわしそうな白を基調としたワンピースは、襟や袖に青の色で刺繍が施され涼しげだ。靴は水色で作られており、それも可愛らしい。

 新品なのだろうか、汚れ一つない人形が沙希の目に映っている。

「きれい……?」

 男は不思議そうに首を傾げ、人形を上下左右に動かしたりひっくり返したりしている。

「こんなにもボロボロで、痛々しいのに?」

「え……」

 きれいであることを否定されるとは思わず、沙希は面食らった。同時に男の顔と人形を交互に見比べる。不思議そうな顔、キレイな顔、疑問を感じている顔、かわいらしい顔。

「何言ってるの? 新品みたいじゃない。汚れ一つないし」

「汚れてるとは言ってない。ボロボロだと言った」

「何言ってるの?」

 沙希は相手の言葉が理解できず、眉をひそめる。男の右手が動きだし、左手に掴まれた人形に触れようとする。

「腕は破れて中身がでてる」

 男の指が人形の左腕に触れる。

「髪の毛はちぎれて長さはばらばら」

 男の親指と人差し指が髪の毛を掴む。

「胸の辺りは触れると痛い」

 男の指の腹がそっと胸のあたりに触れる。

「これのどこが、傷ついていないんだい?」

 そして彼は沙希に問う。それは嘘を付いている風でも、沙希の言葉を非難しているようでもない。ただ本心から、疑問に思っているだけに見えた。

 ここまで純粋に聞かれると、返ってどう答えていいのかわからなくなった。しかし明らかにキレイで傷のない人形。男の真意が何であれ、納得するわけにはいかない。

「あなたね……目が悪いの?」

「悪くないよ」

「どっからどう見てもそれはキレイ。新品みたいだもん」

「……そうかい?」

「そう。人に合わせる気はないから」

 沙希は手で額の汗を拭った。その手を見れば汗のつぶがついている。男は相変わらず汗もかかず、辛そうな顔も見せず、ただ人形を愛おしそうに見つめていた。

「それ、大事なものなの?」

「ああ」

「じゃあなんで、嘘なんて……」

 言うの、と言おうとしたが、男の悲しそうな声に遮られる。

「皆そう言うんだ。こんなにも傷ついているのに、誰にも気づいてもらえない」

 男は怒るわけではなく、ただ憂いを帯びた表情で人形の頭を撫でている。人形に対し、並々ならぬ思いが感じられた。それは子どもたちが抱くような愛情ではなく、どちらかというとかわいそうなモノに同情するような思いかもしれない。

「じゃあ、どのくらい傷ついてるの?」

 正直もう関わりあいにならないほうがいいとも思ったが、なぜか沙希は尋ねてしまう。

「かなり。いつ壊れてもおかしくないぐらいに」

「髪の毛がちぎれてるとか腕が破れてるとか言ってたよね? 微妙にならともかく、そんなにボロボロなら私でも分かるよ。どうせならもっとうまい嘘をつけばいいのに」

「嘘は言ってない。ぼろぼろだよ、この子は」

 男は切実に何かを訴えたいかのように、沙希に人形を差し出した。人形の目と、自らの目がぶつかる。人形だから、見つめ合っても何とも思わない。

 休日の午後の公園。どこかで楽しげな子どもたちのはしゃぎ声がする。また大人たちだろうか、楽しげな会話が耳に入る。ごく一般的な公園の使い方をしている子どもたちにとって、人形を差し出す男とそれと見つめ合っている沙希は、奇妙に映るかもしれない。

「……何? どうしてそこまで言うわけ? 何が企み?」

「この子は傷ついて……」

「だから傷ついてないでしょ。何? 馬鹿にしてるの? 変な嘘までついて」

「僕は嘘なんてついてない」

「じゃあ、私が嘘付いているとでも?」

 何度言っても主張を変えない男に、沙希は頬をひきつらせた。だけど男は静かに首を振る。

「……君が嘘をついていないことは十分にわかっている。ただ、気づいていないだけなんだ」

 男はぬいぐるみの顔を自分に向けた。

「この子がどれだけ傷つき、弱っているのかを」

 男はぬいぐるみの頭を優しく撫でている。

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