天使の眼鏡
「ふぁあ」あくびが出る。今日も憂鬱だ。そろそろ中間テストは近いし、進路相談もあるし、あぁ。中3なんてなるもんじゃないな。いつまでも中2でいたいのに。
学校へと続く、いつもの通学路を真木ゆうは歩いている。梅雨の合間の晴れの日だ。昨日まで降っていた雨が空や緑を磨き上げている。
ゆうは空を見上げた。青空がうらめしい。何にも考えずに遊んでいられたらいいのに。近頃はいろんな人たちがゆうにああしなさい。こうしなさいと指図してくる。いやそれは今に始まったことじゃないか。母さんは顔を合わせるたびに、もう高校は決めたのとか、本当に塾に行かなくてもいいのとかきいてくる。
まだ高校は決めていないし、塾にも行きたくない。でもそう答えると母さんは興奮しちゃうから、いつも、うんとか、はぁとか答えている。父さんは進路のことにはあんまり興味ないみたいで、ま、無理するなよ。とか適当にやれ、とかゆうの人生だからな、なんて言ってる。
つまりわたしの人生は適当に無理せず過ごせってこと?あんまり期待してないんだろうな。それはそれで楽なのか、さみしいのかよく分からない。
「はぁ」この青い青い空の下、受験やら人生やら考えるなんてなんか違うわ。海に行きたいなぁ。ショッピングモールもいいなぁ。公園もいいなぁ。ああ~あ。学校でなければどこでもいいなぁ。
空を見上ると、ひとすじの飛行機雲。あの飛行機に乗ってどこかへ行けたらな。
「ん?」空に黒いぽつんとしたものが見える。
「あ」
コチン!おでこにそれが落ちてきた。いたーっ痛い。なんだ?涙目になって下を見て、何が落ちてきたのか探す。黒いふちのメガネが落ちている。これが落ちてきたのかしら。
「なぜ」ゆうの頭にはるか上空を飛ぶ飛行機の乗客がメガネを落とす場面が浮かんだ。「んん。でも飛行機の中からどうやたらメガネが落ちるのかしら」考えても疑問は解けなかった。
そのほんの少し前。
ゆうの頭上では天使が散歩にきていた。彼女は近頃ファッションに凝っていた。
白いドレスに黒ぶち眼鏡と下駄という姿で今日は休日と散歩に繰り出しているところだった。
「あ。あの下駄かわいい~」町のおじいさんが履いている下駄だった。と、その下駄に見惚れていて、一機のジャンボジェットが近づいていたことに気が付かなかった。
「うわっ」間一髪よけたものの、お気に入りの眼鏡を落としてしまった。落ちていく眼鏡。みるみる小さくなっていく。
「あ。誰かにあたった」はるか下界で女の子がおでこをさすりながら眼鏡を拾い上げる様子が見えた。
「あちゃあ。どうしよう」
一方の地上では「どうしたもんかな。この黒ぶちメガネ。どうせ降ってくるなら現金とか降ってくればいいのに」とりあえず鞄にしまうとゆうは歩きだした。「帰りに交番に届けるか」
学校へ着いて席に着くと「ゆう、おはよう」と斜め前の席から声がかかった。
「おはよーさや」ゆうは机の上に右ひじをついてあごを手のひらに乗せて答えた。
「国語の宿題やった?」さやと呼ばれた少女は予習したノートを机に広げながらたずねる。
「はっはっは」ゆうは頬杖をついたまま笑った。
「笑ってごまかすな。また山下にちくちく言われるぞ」さやが手に持った鉛筆をくるくる回しながらいう。
「うーん。もう慣れたし」椅子に体をもたせかけながらゆうはいった。
「ちょっとは気にしなさいよ」鉛筆をゆうの前で上下させながらさやがいう。
「日本語が話せれば国語はいらないのだ」わざとらしく唇を尖らせてゆうはいう。
「いやいや。程度にもよるでしょ」そういうとさやはあきらめたように鉛筆を左右に振ると前を向いて小テストの準備に取りかかった。
間もなく一現目のチャイムが鳴り、山下が教室に入ってきた。
「それではまず小テストから始めます」
漢字の書き取りと読みのテストだ。毎回10問ずつでゆうは特に書き取りが苦手だった。携帯で漢字変換できるのだから漢字は読めればよいというのがゆうの持論だ。そうだ、さやの答案を覗いてみるか。ふと思いつき、ゆうは鞄の中からメガネを取り出してかけた。これでよく見えるかもしれない。
「あれ」テスト用紙がさっき後ろに回したものとは違う。これは楽譜だ。先生が間違えたのかしら。ほかのひとは問題を解いているようだし、私の分だけが違うのかしら。
「こらっ」すぐ横から声が聞こえた。先生にばれたかと思って見ると、白いワンピースを着たきれいな女の人が立っていた。臨時の先生かしら。でもなんで下駄?
「だめでしょう。カンニングしちゃ」透き通るような声だ。「なんてね、一度いってみたかったんだ。私も学校ではよく怒られていたから。それよりあなた、その眼鏡、私のなの。返してくれる」
突然あらわれて何を言うのだ。他の生徒や先生の反応を見ようとして息が止まる。
周りの景色が灰色になっている。そして誰も動いていない。
「そう。時が止まっているの。天使のわたしが止めたのよ」下駄の人は得意げにいった。ほら、といって白い手のひらをえみこに向ける。陶器のように滑らかな肌。ゆうは状況についていけずに周りのモノクロの景色と目の前の女のひととを見ている。
「ちょっと失礼」白い指がじれったそうにメガネのフレームにかかる。
「うん、あれ。はずれないぞ。やだ、これちょっと何」もとから体の一部だったかのようにメガネはびくともしなかった。
「痛いっ。そんなに引っ張ったら首がもげちゃうよ」ゆうはたまらずに声を上げた。
「これは・・面倒なことになったわね」自分が天使だという女のひとはがっくりしたようにいった。「眼鏡が故障したみたい。私以外には使えないはずなのに。落としたのがいけなかったのかな」
これがゆうと天使との出会いだった。
「いい?この眼鏡はね、特別なときでないとかけてはいけないのよ」学校帰りの公園で天使はゆうから買ってもらったたこ焼きをほおばりながらいった。
ゆうの耳には「ひぃーひ?ほのめがねはね、ほくべつなほきでないとかけてはひけなひのよ。あつっあつっ」と聞こえた。
しかし中学生にたこ焼きおごってもらう天使ってどういうことなのよ。たこ焼きくらい魔法で出せないのかしら。いやこの場合天使だから奇跡か。しかし白いドレスは天使っぽいとしても下駄はないよね。しかも男ものの黒い鼻緒の下駄だ。ゆうがあやしむような目で見ていると、天使は何を誤解したのか、
「お腹痛くてもう食べられないのか。じゃあ私が食べてあげるね」ゆうのぶんのたこ焼きを全部食べてしまった。
「あぁ」なんてことだ。
「まぁ困ったときはお互いさまっていうじゃない。とにかく、特別なとき以外では眼鏡はかけないこと」
そう。眼鏡はゆうが触ると、あっさりととれたのだった。
「特別なときっていったいいつよ」ゆうは眼鏡を天使の鼻先で振りながらいった。眼鏡を天使に渡しても、いつの間にかゆうの手のひらや頭の上に帰ってきてしまうのだ。
「私がそうだというとき。私のものなんだから当たり前でしょう。とりあえず明日からフィールドに同行してもらおうかしら」
天使は顔を眼鏡からそらしていう。
「ええっ。わたし明日も学校だよ」勉強は好きではないけれどゆうは学校が好きだった。
「大丈夫よ。私に考えがあるからね」
そういうと女の人は自信満々といった表情でゆうの肩を数回叩くと、最初からそこにいなかったように姿を消した。二人分のたこ焼きの器だけが残っていた。
「ごみは捨ててけよな」ゆうは宙に呟いた。
翌朝目を覚ますと昨日の女の人がゆうの机に座って何やら書いていた。
「やだ。どっから入ったの」上半身をベッドから起こしてゆうはたずねた。
「窓だよ。よく寝てたから起こすの悪いかなって思って」見ると窓が少し開いている。
「不法侵入は悪いと思わないのか」
「天使に人間の法律は適用されないのよ」
「だからって人間につきまとっていいのか。神さまに抗議の手紙を出してやる」
「今日会って直接いえば」
「行きたくない」ゆうはベッドに横になると布団を頭までかぶった。
「死んだら天国に行けるように裏工作してあげるからさ。それとも無間地獄へ行きたいの。ゆうみたいなかわいい子が来たら悪魔たち喜ぶわよ」
「絶対いやだ。脅したりするんならなおさら」
「もう。ゆうちゃん怒らないでよ。冗談じゃない」
「・・・。」
「寝たふりしないで」
「モンサンデルのチョコパンとあまおうの苺盛り合わせが食べたい」
「それ持ってきたら一緒に行ってくれるの」
「話は聞いてあげる」
「そんなぁ」天使が弱り切った声を出す。
「天使なのに中学生を脅した罰よ」
「ゆうって結構根に持つタイプなのね」
「うるさい」
「それならはい。どうぞ」布団を下げて見てみると目の前に薄茶の包装紙にくるまれたチョコパンとボウル皿に大盛りの苺が差し出されている。
「はいどうぞって、速すぎ。本物なの」
「試してみれば。お味は本物以上よ」
ゆうは苺をかじってみた。「・・・」頬を涙が流れる。「何これ・・」
「天国産とれたて香辛料をかけてあるの。今日かけたのは幸せの気持ち」
確かに胸いっぱいに広がる気持ちがある。ずっとこの気持ちに浸っていたい。苺とパンをもくもくと食べ終わった。
「いいわ。話を聞いてあげる」
「今週のあたしの担当は死者を送り届けること。そのために必要な眼鏡をあなたが持ってるってわけ」
「わたしだって好きで持ってるんじゃないもん。運悪く、眼鏡が落ちてくるところにいただけで」
「そうなのよね」天使はため息をついていった。「過去にもこういうことは何度かあったらしいけれど、まさか私が人間とバディを組むなんてね。あきらめるしかないけれど、あんまりひどくない任務だといいな」
「ちょっと待って。過去にもあったってどういうこと。メガネが故障したのではないの」
「昨日は私もそう思っていたんだけどね。あれから運命の神に呼ばれたのよ。人間のバディと組む任務が回ってきたみたいだなって。私もそんな任務があるなんて知らなくって」
「あなたも知らなかったなんて。そんなの無責任だよ」
「しかたないじゃない。まだ私だってこの世界に慣れていないんだから。そういうわけで任務達成までよろしくね。自己紹介が遅くなったけれど私はメアリ」
「慣れてないってメアリは何歳なの」
「人間の時間は天使には当てはまらないの。私たちははじめから終わりまでいる存在よ。ちなみにこの世界に来たのは人間の時間でいったら500年ほど前ね。それまでは別の世界にいたもの」
「・・わけが分からない。じゃあ任務ってなにをすればいいの」
「ゆうと私の任務があるとしか分からないわ。運命の神さまにも分からないのが運命じゃないの」
「とりあえず、さっきも言ったけど今週の私の担当は死者を次の段階まで送り届けること。そのために必要な眼鏡を、」
「私が持ってるんでしょ。その死者を天国まで送り届けることが任務なのね」
「そうじゃないのよ。天使はそれぞれに担当の仕事を週ごととか月ごとで持ち回るの。で、そういった仕事はこれまで天使だけでやってきたし、これからも天使だけでできる仕事なのよ。わざわざ人間と組む必要はないの。だから今回のようなケースは任務と呼ばれるのよ」
「ちょっと待って。その任務って運命の神さまにも分からないっていったよね。ということはいつ始まるかも分からないの?」
「そういうこと。果報は寝て待てというし、気長に待ちましょう」
「時間の概念がないメアリがいわないでよ。じゃあ任務と持ち回りの仕事は関係ないじゃない。メアリひとりで行ってきなよ」
「そんな連れないこといわないで。バディじゃない。それに私だって眼鏡がないと仕事がしづらいのよ」
「わけの分からないことに巻き込まれたこっちの身にもなってよ。天使と人間がバディを組む任務だなんて。わたしには関係ないじゃない」
「そうでもないのよ」
「なにが」
「関係あるからあなたがバディに選ばれたのよ。これからあきらかになる任務はあなたにも関係することなの」
「素敵な彼を見つける任務とか、大金を掘り当てるとか?」
「楽天的おおいに結構ね。でもそれこそ私には関係ないわ」
「いいひと紹介してあげるよ、私が幸せになったら。私がお金持ちになったら低賃金でこき使ってあげる」
「ふふっ。天使にも呪いがかけられるのよ。そのかわいいお口を後頭部につけてみたいとか舌が1メートル伸びたら便利だなんて思ったことはあるかしら」
「冗談です天使様。優しい顔して怖いこといわないでよ」
「いいのよ。バディが協力的でなかったら教育するのも天使の仕事だもの」
「任務って何か、分かったらはやく教えてよね。それで私はなにをすればいいの」
「眼鏡をかけて、さまよっている魂を探してほしいの。それから先は私がするわ」
「そんな恐ろしいこと」ゆうの頭に心霊ホラーの映像が浮かぶ。
「テレビの見過ぎよ。危険はないわ」
「だったらいいのだけれど」天使と一緒に行くのだから怖がることはないんだろうと思いつつ「ところでさっきは何書いてたの」机の上でメアリが何かを書いていたことを思い出してたずねる。
「人間とバディ組むのははじめてだから記録をつけておこうと思って」
「天使は真面目なのね」ゆうは広げてあるノートをのぞき込んだ。「これは」ノートの上半分にわら人形のような絵が描いてある。バディ:真木ゆうちゃん と丸文字が添えられてある。
「絵、下手すぎ・・」
「そうかな。よく描けてると思うけど」
「それじゃ本人に失礼だろ」
「どういう意味」本当に気付いていないのだろうか、メアリは真顔だ。
「いや、何でもない」パラパラとページをめくっていくと、昔話に出てくる猟師のような格好の人形が紫の傘をかけていたり、白いふんどしに黄色いTシャツの人形が描いてあった。どの人形もどことなくメアリに似ている。「この絵はなに」
「これはファッションのアイデアを描いてるのよ。かっこいいでしょう」
「なるほど。メアリの趣味が奇妙だからワンピースに下駄を履いていたりするのね」
「奇妙かな、斬新だとは思うけれど。それならここに描いてある絵の中からゆうが選んだ服を着てもいいよ」
ゆうは残りのページもめくっていったが絵は不思議なことになっていくばかりだった。トビウオの着ぐるみのような絵もある。「今のでいいと思う」ため息をつきながらゆうはいった。
「そう。じゃあ行きましょう」
「待って学校はどうするの」
「大丈夫、コピーを用意しておいたから」そういうとメアリはドアの前に立っているゆうを指さした。
「わっ鏡を見てるみたい」
「そ、鏡から一人出したのよ」
「・・・。」
「大丈夫よ。心配しないでも。性格の良さそうなのを選んでおいたから」
「・・・。」深く考えるのはよそう。夜中に鏡を見られなくなりそうだった。
「行くわよ」メアリがゆうの手をつかむと体がふわふわと浮いた。そのまま二人で窓から空へとのぼっていった。
「気持ちいい」空を飛ぶ夢を見ているようだった。
「さ、眼鏡をかけて」
「え、眼鏡は部屋に置いてきたけど。それに私寝間着のままだよ」
「眼鏡は呼べばあらわれるわ」
頭に眼鏡を浮かべると、目の前に眼鏡が飛んできた。
「寝間着はどうしよう」
「眼鏡をかけてから、制服姿を想像してみて。少しの奇跡なら起こせるはずだから」
眼鏡のときより時間はかかったが、目を開いたときには学校の薄青い制服を着ていた。
「すごい。でもこれって制服じゃなくても良かったんじゃない」
「最初はいつも着ている服のほうが想像しやすいでしょう。慣れてきたら他の服も試したらいいわ。私のアイデアの中から選んであげてもいいし」
「制服でいい」
「遠慮しないでいいよ。それでは捜索はじめるわよ」
最初はどこをどう探せばよいか分からない、そういうとメアリは光を探せばいいのよと言った。宙に浮かびながら地上を眺めているとキラキラと光るものが見えた。
「メアリ、あれ。赤いポストのあるところ」
「オーケー。行ってみましょう」
近づくと白い玉がポストのよこで光っていた。
「ここまで近づけば眼鏡がなくても見えるわ」そういうとメアリはその白い玉に近づき語りかけた。なにを言っているのか声が小さくて聴きとれない。メアリは何度か頷きまた語りかける。次第に白い玉が瞬きはじめ、やがて消えた。
「どこへ行ったの」
「追ってみましょう」メアリのがゆうの手を握る。眩暈のような感覚のあとで、ゆうは空に囲まれた世界にいた。見渡す限りが青い空で、雲が散らばっている。七色の光があたりを飛び交っている。
「ここはどこ」浮き上がる体のバランスをとりながらゆうはたずねる。
「生と死の狭間よ」自宅の間取りを案内するような口調でメアリがいう。
「こんなに綺麗なの。天国はどこにあるの、地獄は」周りを飛び交う光を目で追いながらゆうはいう。
「こことは違う次元にあるわ。ここよりもゆうが生きている世界の近くね」
「さっきの白い玉は魂でしょう。死んだら天国か地獄に行くのではないの」
「死んだら生まれる。それだけよ。だから天国も地獄も生きている世界の隣にあるのよ」
「よく分からないよ。さっきみたいな白い玉をあといくつ見つければいいの」
「まだまだよ。天使の仕事に終わりはないの」
「そんなぁ」一気に重力を感じるような気がしてゆうはため息をついた。
ゆうが家へ帰ったのは日が落ちかけていている頃だった。
部屋では学校から帰ったもうひとりのゆうが宿題を解いていた。
「ご苦労様。明日も頼むわね」メアリがそういって頭を撫でるともうひとりのゆうは消えた。
「明日もって、明日もまたやるの」
「当然。とりあえず今週は今日と同じことをやるのよ」
翌日もその翌日も、ゆうはメアリと白い玉を探し続けた。海を渡って別の大陸へ行くこともあった。最初は大変そうだと思っていたが実際はそうでもなかった。メアリが用意してくれる食べ物にふんだんにかけられている天国産とれたて香辛料のおかげで朝から胸いっぱいに広がる幸福感に包まれたし、疲れたときにはそれをお茶に入れて飲めば新鮮な気持ちになることができた。香辛料にはいろいろな種類があって、幸福感、充実感、優しい気持ちやわくわくする高揚感などがあった。でもこれって麻薬とかに似ているのではないだろうか。中毒になったら大変なのではないかとメアリにたずねるとメアリは「中毒というより好みの問題ね。その気になればいつでも天国にとりに行けるのだから」といっていた。天使のいうことはよく分からない。人間がそんな簡単に天国に行けるものか。いや、行けるのかな。
毎朝目を覚ますとメアリは絵日記のような記録をつけていた。机に向かって一心にペンを動かす様子はゆうより幼くも見えたが、整った顔立ちのため年上の女性にも見えた。書いてある内容は、ふたりで食べた物のことや、ゆうと見つけたおかしな看板で笑ったエピソードなど仕事とは全く関係ないことだった。こんなしょうもない記録をつけてふざけているといって神様に怒られないのだろうか。メアリに聞くと「報告は別にしてあるから問題ないのよ。これは私のための記録だもの」といっていた。
白い玉探しにもだいぶ慣れてきたが月曜日からまた別の仕事の担当になった。新しい担当を聞いてゆうのテンションは上がった。
「やった。面白そうじゃない。キューピッドでしょう。それ」小さくガッツポーズをしてゆうがいう。
「きゅーぴっど?知らないが、気持ちを伝える手伝いだよ」
「それをキューピッドっていうのよ。早く行こうよ」
雰囲気を出すためにゆうは制服の背中に小さな翼をつけて飛び出した。メアリに手をつないでもらうのは変わらないが、今では格好よく、と自分で思っているだけだが、飛ぶことができるようになった。風に煽られてもあたふたと手足を動かすこともない。
「で、私はなにを見つければいいのかな。いや今日はどんなひとを見つければいいの、か」
「負のオーラが漂っているひとよ」
「おおっ分かりやすい」とはいっても空から街の人々を眺めてもなかなか違いが分からなかった。眼鏡をかけずにいるときに雰囲気の暗いひとだな、と思っても眼鏡をかけると明るく光っているひともいる。その逆もしかりだ。「見た目の雰囲気とオーラは必ずしも一致しないのね」といっても決定的なほどの負のオーラをまとったひとはなかなか見つからなかった。
「あのひとなんてどうかしら。でも恋で悩んでいるのではなさそうだけど」背広を着た男性、50歳くらいだろうか、ゆうの父親よりも年上そうだ。いつもなにも考えてないように見える父親と違い、表情は深刻そうで老けて見える。眼鏡をかけてみるとそのひとの周りだけがとても暗いのだ。
「近くで見てみましょう」声をかければ聞こえるほど近づいた。
「あまり近すぎるんじゃない」ゆうはメアリの手を引っ張りながらいった。
「こっちの姿は見えてないのよ。私の頭の上に光の輪があるときには普通の人間には見えないのよ」
「ほんとだ。メアリが天使に見える」
「何いってるのよ。今まで気付いてないほうが驚きだわ。こんな美人が空を飛んでたら大騒ぎになるはずでしょう」
「そういうところは天使っぽくないんだよなぁ」
「あら。ゆうだって十分かわいいわよ」
「そ、そんなことないって」
「ゆうってお世辞に弱いのね。赤くなってる」
「お世辞ってゆうな。もうやめてよ」
「はいはい。それではお仕事しましょうか」そういうとメアリは男の人の頭の上に手を伸ばした。するとそこにも光の輪が現れた。男の人の顔色が晴れていく。さっきまではうつむいていた頭がすこし上向きになって歩き去って行く。
「なにをしたの」
「いったじゃない。気持ちを伝える手伝いよ」
「光の輪をつけることがそうなの」
「そう。あの光の輪はあと数時間は残る。その間にあの輪を通じて大きいほう自分の気持ちを受けとるのよ」
「大きいほうの自分。なにそれこわい」
「ゆうだって自分がもうひとりいるような気がしたことがあるでしょう。閃いたり自信を感じるときよ」
「そう感じるときはあるけど。じゃあメアリは過去に私にも光の輪をかけてくれたということ」
「あの光の輪がなくってもコミュニケーションは取れるのよ。まれにさっきのひとみたいに気持ちが通じ合わなくなると負のオーラで澱んでしまうの。そういうときは私たちの出番ね。でもそういうひともいったんコミュニケーションを回復すると以前よりも気持ちが通じ合うようになるのよ」
「雨降って地固まる」
「そういうこと」
負のオーラ探しは目が慣れていくに従って簡単になっていった。
「今日はこんなところにしておきましょうか」日が暮れることには合計で四人の頭上に光の輪をかけていた。
「負のオーラをまとうひとを見るって結構疲れる。こっちまで暗くなっちゃうよ。それに全然思っていた恋のキューピッドとは違ったよ。恋を叶えて相思相愛とかそういうやつ」
「しくみは同じなのよ。恋をしたいって思うのは大きな自分とつながりたいって思うことだし、相思相愛っていうのはふたりともそれぞれが大きな自分とつながっているってことだもの」
「メアリがいうことはわけが分からないよ」
「そうかしら。あたしは普通だと思うけど」
「天使の普通でしょ。それって」
やがて日曜日になり気持ちを伝えるお手伝い、の一週間が終わろうとしていた。負のオーラをまとうのは性別、年齢に関係ないようだった。小さい子供はさすがにいなかったけれど。ま、あの頃は悩みなんて無縁だよな。あたしだってそうだったもの。負のオーラのひとを見ると最初はゆうも暗い気持ちになっていたが、光の輪をつけて前よりも明るい表情で去って行く姿を何度も目にするうちに、平気になっていた。
「はぁ。ようやく今週も終わったね。天国産とれたて調味料があるから辛くはないけれど、これで二週間働きづめだし、学校だって行ってない。友達に会いたいよ。先生さえ懐かしいわ」
「そうね。今週は天使業をお休みしましょうか」
「いいの?でも白い玉とか負のオーラとかが増えちゃうんじゃない」
「大丈夫よ。天使はほかにもたくさんいるし。わたしたちの任務はまだ分からないし、気長にやりましょう」
「やったーフリーダムだ」学校に行けてフリーダムもないと思いつつもゆうは嬉しかった。
「あといいこと教えてあげる。ゆうが学校に行っていないあいだ、鏡の中のゆうが代わりに授業を受けていたでしょう」
「うん。わたしとは似ても似つかないお利口さん」
「あの子が経験したことはゆうの経験したことでもあるのよ。だからゆうは授業の内容を思い出すことができるの」
「へ」
「学校に行ってみれば分かるわ」
翌日の教室の中で、ゆうは授業の内容が分かることに驚いていた。これは、あたしだってやればできるじゃないか。確かな足場を見つけて、するすると山を登っていくようにゆうは授業の内容を頭に入れていった。一限目の授業は眠気に襲われることもなく過ぎた。
「はっはっは。さや、私は生まれ変わったのだよ」
「なにいってんの。二週間前も同じこといってたじゃない。私はやるぞー。もう声のない存在じゃないぞーっ。目指せ下克上ってやたら張り切っていて。最初は信じられなかったけどね」
「あれ。そうだっけ」目指せ下克上?あいつったらそんなこといっていたのか。あとで鏡を見て説教してやらないと。とはいえ、授業が分かるのは気分が良かったし、久しぶりの学校は楽しく、あっという間に一日は過ぎていった。
金曜日の朝、ゆうは起きるとまず呼吸していることを確かめた。少し胸が苦しい。あたし生きてる。こうして息をしている。りょうくんも今頃どこかで息をしてるんだ。今日会ったならなに話そう。あんまり馴れ馴れしくしないようにしよう。ゆうはふつうに話しかけているところを想像してみた。どうしても口がにやけてしまう。ゆうがベッドで妄想にふけっている間も時計の針は進んでいて、一階から母さんの声がした。「ゆうー。起きてるの?はやくしないと遅刻するわよ」ゆうは飛び起きて支度を始めた。