第1話 最深部脱走、からの渋谷スクランブル交差点
東京グランドダンジョン百層――。
人類未踏。到達成功率ゼロ。観測記録は断片的。
各国政府が“神の領域”と呼び、日本ダンジョン庁が最重要危険区域に指定している、人類文明最大の禁足地。
その最深部、漆黒の玉座の間で。
「以上が今月分の深層資源採掘報告でございます。我が主の御前にて恐縮ながら、九十七層東区画の魔晶脈に若干の劣化傾向が見られ――」
「……」
「また、九十四層の溶岩河川につきましては、先日の地殻振動を受けて流路の再調整が必要かと。つきましては、上級炎獣どもへの指示系統を再編し――」
「……マイケル」
「はい、我が主」
「話、長い」
玉座にだらんと背を預けていた少女――まおは、半目のまま心底だるそうに言った。
浅層の魔物みたいに無駄に巨体を誇ったり、禍々しい異形を晒したりはしない。神話級の魔力を極限まで圧縮し、最も燃費のいい人間の姿に収まっている。角や翼といった魔王らしいパーツすら、「寝返りうつとき枕に刺さって邪魔だし、背もたれに寄りかかれない」という理由で何万年も前に引っ込めてしまった。
おまけに服装も、漆黒のドレスや重たい王冠ではない。今日の彼女は、ゆるだぼの黒パーカーに、膝上丈のプリーツスカート、ゴツめのスニーカーという、どこからどう見ても都会にいそうな今どきの女の子みたいな格好をしている。
数日前に地上から拾ってきた端末の動画で、人間の女の子が着ているのを見かけ、「ドレスは肩が凝るからヤダ。このダボッとした布、楽そう」とおねだりして用意させたお気に入りの部屋着だ。
ただし、その“どこにでもいそう”を成立させるには、あまりにも顔が良すぎた。
陶器みたいに白い肌。ガラス細工みたいに整った顔立ち。眠たげに伏せられた睫毛の奥で、紅玉みたいな瞳がぼんやりと光っている。
可愛い、で片付けるには少し危うい。
綺麗、で片付けるには少し怖い。
そんな、人ではない美貌だった。
玉座の階下で報告書を抱えている長身の男――執事のクロードもまた、禍々しい悪魔の角や鎧を完全に収納していた。現代の地上において最高位の主君に仕える側近様式にならい、黒髪をきっちり撫でつけ、オーダーメイドの黒いスーツを隙なく着こなした姿で、微塵も表情を崩さず一礼する。
「失礼いたしました。ですが、深層運営の安定は我が国……いえ、我がダンジョンの根幹にございます。定期報告を省略するわけにはまいりません」
「べつに国じゃないし。ダンジョンだし」
「実質的には国家運営と同義です」
「や、わたしそのへん知らないし……」
まおは玉座の肘掛けに頬杖をつき、ふわあと欠伸をした。
つまらない。
とにかく、つまらない。
最近は五十層あたりまで人間が来ることはあっても、それ以上はさっぱりだ。百層まで辿り着く者など当然いない。かつては世界の命運だの、人類の希望だの、そんな大仰なものを背負った勇者も挑んできたらしいが、ここ数百年はその気配すらない。
退屈だった。
あまりにも退屈すぎて、九十八層の番犬が昨日くしゃみを三回したことすら、ちょっとした娯楽に感じるレベルで退屈だった。
「ねえマイケル」
「クロードでございます、我が主」
「どっちでもいいけど。人間、最近ぜんぜん来なくない?」
「五十層到達が現在人類の限界と推測されますので」
「弱……」
「左様でございますね」
「もっと頑張ってほしいんだけど。せっかくラスボスやってるのに、誰も会いに来ないとか虚無すぎ」
「誠に遺憾ながら」
誠に遺憾ながら、で済む話でもない。
まおは脚をぶらぶらさせながら、玉座の間の高い天井を見上げた。巨大な魔法灯が、青白い光で石壁を照らしている。
荘厳ではあるし、威厳もある。ラスボスの居城としては百点満点だろう。
でも、ずっといると飽きる。
というか、電波が悪い。
いや、正確には、地上のネット回線が届かない。
何日か前にクロードが地上から回収してきた端末の中には、やたらと面白いものが詰まっていた。短い動画、音楽、ゲーム実況、スイーツレビュー、猫、踊ってみた、食べ歩き、旅行Vlog。
人間、弱いくせに娯楽だけは天才じゃん――それが、まおの率直な感想だった。
「……行くか」
ぽつり、と呟く。
「何か仰いましたか?」
「べつに」
クロードが次の書類に視線を落とした、その一瞬だった。
まおはひらりと玉座から降りると、白い指先を宙に向ける。爪先ほどの小さな魔力の火花が散り、空間そのものがするりと裂けた。
黒い裂け目の向こうから、まばゆいネオンの光が差し込む。
ざわざわとした喧騒、クラクション、電子音、人の声。
地上だ。
まおの紅い瞳が、きらりと輝いた。
「じゃ、ちょっと遊んでくる」
言うが早いか、彼女は裂け目に身体を滑り込ませた。
ほんの一秒遅れて、クロードが顔を上げる。
「――我が主?」
そこにいたはずの少女は、もういない。
玉座の前には、読みかけの報告書と、まだ揺れている空間の残滓だけが残されていた。
クロードの無表情が、初めてひび割れる。
「…………は?」
百層全域の大気が、びり、と震えた。
「我が主?」
低く、信じ難いものを見る声。
「我が主?」
二度目は、確認。
そして三度目には、漆黒の魔力が玉座の間を満たしていた。
「我が主ぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!?」
東京グランドダンジョン深層に、その日もっとも大きな絶叫が響き渡った。
◇
夜。
渋谷。
まおが降り立ったのは、スクランブル交差点のど真ん中だった。
「うわ」
第一声は、それだった。
「人、多」
見渡す限り、人、人、人。
信号が切り替わるたび、無数の人間が四方八方から流れ込んでくる。服装も、髪色も、年齢もバラバラ。誰も彼もが足早で、手には飲み物かスマホを持っている。
上を見れば、巨大な街頭ビジョンに、けばけばしい広告や光る看板。見たこともないブランド名と、どこからか流れてくる音楽。
百層の玉座の間とは真逆だ。
静寂も威厳もない。なのに、妙に胸が高鳴る。
「なにここ。祭り?」
きょろきょろと辺りを見回しながら、まおは一歩、また一歩と交差点を進む。
すれ違う人間たちは、ほとんど彼女を見ない。たまに「あの子めっちゃ可愛くない?」と囁かれる程度だ。誰も、彼女が世界最大級ダンジョンの最深部を支配する魔王本人だとは思っていない。
それが、まおには妙に面白かった。
「ふーん。人間って、こういう感じなんだ」
ふと、前方で若い女の子二人組がスマホを自分に向けて何か喋っているのが目に入る。少しポーズを取って、笑って、また撮る。
たぶん、あれが動画というやつだ。
端末越しに見たことはあるけど、実物は初めてだった。
「あ、あれ楽しそう」
まおはポケットから、黒い薄板みたいな端末を取り出した。クロードが回収してきた地上製端末を、まおが勝手に魔力で改造したものだ。電源も通信もだいたい何とかなるし、細かい仕組みは知らなくても動けばよし。
画面をぽちぽち弄る。
「えーっと……これで、映る? あ、映った」
インカメラに、自分の顔が出た。
白い。近い。あと普通に可愛い。
「すご。人間の道具、盛れるじゃん」
適当なアプリを開き、さらに適当に配信開始っぽいボタンを押す。
何が起きるのかは、正直よく分かっていない。
でも、楽しそうだからよし。
「ん、んー……聞こえる?」
スマホを少し離して、まおは眠たげな目のままカメラを覗き込んだ。
「えっと、はじめまして? たぶん。わたし、まお。今、東京ってとこ来てる」
夜の渋谷のど真ん中で、世界最深部の魔王による気まぐれな生配信が幕を開けた。




