「君の絵なんか価値がない」と酷評され続けた地味な漫画アシスタントですが、退職した途端に連載が崩壊したそうです——もう遅いですよ?
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「——君みたいな地味な子は、現場の雰囲気を悪くするんだよ」
桐生蓮也の言葉が、白いオフィスに冷たく響いた。
私は反射的に手元のペンを握りしめた。インク汚れのついたエプロン、ペンだこだらけの指先。三年間、この手で何枚の原稿を救ってきただろう。
「申し訳ありませんが、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
声は震えなかった。むしろ自分でも驚くほど平坦だった。
桐生さんは高級腕時計をちらつかせながら、憐れむような笑みを浮かべる。整った顔立ちに茶色の短髪、切れ長の目。一見すると有能なエリート編集者風だが、その目の奥には誠実さのかけらもない。
「レイカ先生の隣にいるには、君は地味すぎるんだよ、藤宮さん。わかるだろう? 人気漫画家のアシスタントには、それなりの華やかさが必要なんだ」
(華やかさ、ね)
私は内心で小さく笑った。
三年間、毎週の締め切りを一度も落とさなかった。崩壊した背景を徹夜で描き直した回数は数え切れない。星崎先生が「描けない」と投げ出した群衆シーンを、何度代筆したことか。
七十二回の締め切りを全て守らせた実績。それを支えてきたのは、華やかさではなく、この手の技術だった。
でも、そんなことは言わない。言っても無駄だとわかっているから。
「……かしこまりました」
深々と頭を下げる。三年間で身についた、従順なアシスタントの所作。
その時、奥のドアが開いた。
「あら、まだいたの」
腰まで届く金髪をなびかせ、星崎レイカ先生が現れる。ブランド物のワンピース、派手なネイル、濃いめのメイク。『人気少女漫画家』のオーラを全身で主張しながら。
香水の匂いが鼻につく。いつもと同じ、自信に満ちた——いや、傲慢な足取りで私の前に立った。
「蓮也から聞いたわ。今日で終わりなんですって?」
「はい。三年間、大変お世話になりました」
私が頭を下げると、レイカ先生は鼻で笑った。カラーコンタクトで演出された紫の瞳が、見下すように私を捉える。
「あなたがいなくても私の漫画は描けるわ。むしろ足手まといだったの、わかる? あなたの絵には——」
来る、と思った。三年間、何度も聞かされた言葉。
「——魂がないのよ」
(ああ、また言ってる)
私は静かに微笑んだ。怒りはなかった。悲しみも、もうない。
ただ、空っぽだった。
この三年間、私は確かにここにいた。徹夜で背景を仕上げ、崩れたパースを修正し、先生が「もう無理」と投げ出したページを何度も救った。
でも、この人たちの目には映っていなかったのだ。私という存在も、私の仕事も。
「ご指導ありがとうございました」
デスクの引き出しから私物を取り出す。使い古したペン、消しゴム、そして——一冊のスケッチブック。
誰にも見せたことのない、私だけの宝物。三年間、密かに描き溜めてきた自作のネームが詰まっている。百二十七話分の物語が、この中で眠っていた。
「それじゃあ、お元気で」
ドアに手をかけた瞬間、レイカ先生の声が追いかけてきた。
「二度と関わらないでちょうだい。私の成功に便乗しようなんて思わないことね」
振り返らなかった。
(便乗、か)
三年間守り続けた七十二回の締め切り。私がいなければ、そのうちいくつが「落ちて」いただろう。
でも、もういい。
ビルを出ると、五月の風が頬を撫でた。
(ああ、やっと終わった)
空を見上げる。三年ぶりに見る、締め切り前じゃない空。
(もう誰かの影じゃなくていいんだ)
胸の奥で、何かが静かに芽吹いた気がした。
◇◇◇
澪が去ってから、一週間が経った。
「先生、締め切りまであと三時間です」
新しいアシスタント・白石美羽の声が、仕事場に響く。ふわふわのピンクブラウンのロングヘアに、大きな垂れ目。フリルの多いガーリーな服装で、SNSのフォロワー数だけは多いイラストレーター志望の二十一歳。
星崎レイカは原稿用紙を睨みつけていた。背景の下描き。たったそれだけのことが、どうしても進まない。
「うるさいわね、わかってるわよ!」
苛立ちをぶつけるように叫ぶ。美羽が怯えたように肩を縮める。
(どうして描けないの)
三年間、当たり前のように完成していた背景。木々のざわめき、街並みの奥行き、群衆の息遣い——全てが、いつの間にかそこにあった。
自分で描いたと思っていた。いや、そう信じていた。
でも、ペンを握った瞬間にわかった。
この手は、背景なんて描けない。
「あの、前のアシスタントさんはどうやってたんですか?」
美羽の無邪気な質問に、レイカの眉間にしわが寄る。
「あの子の話はしないで。足手まといだったんだから」
「は、はい……でも、この背景、私には——」
「じゃあ何のために雇ったのよ!」
原稿用紙を机に叩きつける。美羽の目に涙が滲んだ。
三時間後。
月刊プリンセスの編集部に届いた原稿を見て、担当編集者は絶句した。
「これは……」
背景は歪み、トーンは雑。キャラクターの表情すら、どこか硬い。
三年間、クオリティを保ち続けてきた『星降るロマンス』が——崩壊していた。
◇◇◇
SNSは炎上した。
『今月の星降るロマンス、作画崩壊してない?』
『背景どうした? 別人が描いてる?』
『推しの顔が違う……泣きたい』
『三年間ずっと神作画だったのに、急にどうしたの?』
「作画崩壊」がトレンド入りするまで、わずか半日。
編集部では緊急会議が開かれていた。
「過去三年分の原稿を調査しました」
資料を手に、若い編集者が報告する。
「読者アンケートで高評価だった回を分析したところ、全てに共通点がありました。背景の緻密さ、群衆シーンの完成度——これらが突出している回は、全て藤宮澪さんがアシスタントとして参加していた回です」
会議室が静まり返る。
「つまり……」
「星崎先生の作品のクオリティを支えていたのは、藤宮さんだった可能性が高いです」
桐生蓮也は青ざめた顔で資料を見つめていた。
藤宮澪が関わった回の読者評価は平均4.8。彼女が休んだ回は3.2。
その差は——歴然だった。
(馬鹿な。あんな地味な女が?)
信じられなかった。信じたくなかった。
自分が解雇を言い渡した、あの地味なアシスタントが。レイカの作品を支えていた?
「桐生さん」
編集長の冷たい声が飛ぶ。
「藤宮さんを解雇したのは、あなたの判断でしたね?」
「そ、それは……レイカ先生の意向を——」
「責任は取っていただきますよ」
◇◇◇
一方、美羽は三週間で限界を迎えていた。
『星崎レイカの現場、ブラックすぎる。毎日怒鳴られて、前のアシスタントさんがどうやってたか聞いただけでキレられた。無理。辞めます』
SNSに投稿されたその告発は、瞬く間に拡散された。
続くように、過去のアシスタントたちも声を上げ始める。
『私も星崎先生の現場にいました。藤宮さんがいなかったら、三ヶ月も持たなかった』
橘千紗。一年で離脱した元アシスタントの証言だった。栗色のショートカットに快活な顔立ちの彼女は、勇気を出してキーボードを叩いていた。
『藤宮さんは神でした。締め切り前は毎回徹夜、先生が描けない背景は全部彼女が描いてた。なのに先生は「あの子の絵には魂がない」って……本当は逆だったのに』
業界に激震が走った。
星崎レイカの『才能』は——虚構だったのではないか。
その疑惑が、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
◇◇◇
五月の風が、スケッチブックのページをめくろうとする。
私は慌てて手で押さえた。
「……危なかった」
退職してから二週間。私は毎日この公園に通っていた。
締め切りに追われない朝。誰かの絵を直す必要のない昼。自分のためだけに線を引ける夜。
(こんなに自由だったっけ、絵を描くって)
目の前のベンチでは、老夫婦が寄り添って座っている。木漏れ日が二人の白髪を優しく照らしていた。長い年月を共に歩んできた穏やかな空気が、二人を包んでいる。
その光景を、私は黙々と描いていく。
「——いい線だな」
突然、背後から声がした。
振り返ると、長身の男性が立っていた。深い藍色の髪に、氷のように澄んだ青灰色の瞳。黒のタートルネックにジャケットという、シンプルだが洗練された装い。
三十代半ばだろうか。落ち着いた佇まいの中に、どこか鋭さを感じる。左手首には古い革のブレスレットが巻かれていた。
「あの、どちら様ですか」
警戒心を隠さずに尋ねる。
男性は軽く頭を下げた。
「失礼。俺は氷室蒼介。月光社で編集をしている」
(月光社?)
その名前は知っていた。老舗の出版社。数々の名作を世に送り出してきた、業界の重鎮。伝説の編集長がいると噂される、あの月光社。
「後ろから覗いて申し訳ない。だが、どうしても声をかけずにはいられなかった」
氷室さんは私のスケッチブックを見つめる。その目は真剣だった。普段は無表情に近いのだろう、でも今、その瞳には確かな熱がある。
「君の線には——物語がある」
心臓が、跳ねた。
「え?」
「この老夫婦の絵。技術的に優れているだけじゃない。二人が歩んできた時間、積み重ねてきた愛情、そういうものが線から伝わってくる」
(物語が、ある?)
三年間、言われ続けた言葉が蘇る。
『あなたの絵には魂がない』
真逆だった。この人は、真逆のことを言っている。
「失礼だが、漫画家志望か?」
「いえ、私は……元アシスタントです」
「元?」
「先日、辞めたばかりで」
氷室さんの眉がわずかに動いた。
「……なるほど。もしかして、星崎レイカの現場にいた藤宮澪か?」
驚いて顔を上げる。なぜ、この人が私の名前を。
「業界は狭い。今、君の名前はあちこちで囁かれている。星崎の作画を支えていたのは君だと」
「それは……」
否定しようとして、やめた。
嘘をつく理由がない。もう、誰かの影じゃないのだから。
「私は、自分の仕事をしていただけです」
「ああ。そうだろうな」
氷室さんは小さく笑った。それまでの無表情が、ほんの少しだけ緩む。その笑顔は意外なほど穏やかで、心臓がまた一つ跳ねた。
「藤宮さん。いや、澪さん」
「はい」
「自分の作品を描いてみないか?」
風が止まった気がした。
「月光社で連載を持たないか。君の才能を、世に出したい」
◇◇◇
夢かと思った。
三年間、こっそり描き溜めてきたネーム。誰にも見せられなかった百二十七話分の物語。
それを、この人は見たいと言う。
「……本当に、いいんですか」
「俺は嘘をつかない。君の線に惹かれた。それだけだ」
氷室さんは名刺を差し出した。
『月光社 編集長 氷室蒼介』
編集長。この人が、業界で「冷徹な眼を持つ伝説の編集長」と呼ばれる人物なのか。彼に見出された作家は必ずヒットするというジンクスがあると、噂で聞いたことがある。
「明日、時間があれば月光社に来てくれ。ネームがあるなら持ってきてほしい」
震える手で名刺を受け取る。
(これは、チャンスなの?)
(私が、漫画家になれる?)
「あの、どうして私を」
思わず聞いていた。
氷室さんは少し間を置いて、遠くを見るような目をした。何か、深い記憶を辿っているような表情だった。
「……君の線が、昔知っていた人を思い出させたからだ」
「昔の人?」
「十年前に亡くなった、伝説の漫画家だ。彼女の線にも、物語があった」
それだけ言って、氷室さんは踵を返す。
「明日、待っている」
長い背中が遠ざかっていく。百八十五センチの長身が、夕暮れの公園に溶けていった。
私は名刺を胸に抱いた。
(伝説の漫画家……?)
心のどこかが、ざわめいた。
知らない記憶が、呼び起こされようとしていた。
◇◇◇
翌日。月光社の会議室。
私は、自分のネームを机の上に広げていた。
『薄明の庭師』——三年間、密かに温めてきた物語。主人公は、誰にも認められない庭師の少女。彼女が作る庭には不思議な力があり、訪れた人の心を癒していく。でも、その価値に気づく者はいない。
(我ながら、自分の境遇を投影しすぎてる気がする)
内心で苦笑しながら、氷室さんの反応を待つ。
彼は黙ってページをめくっていく。一枚、また一枚。表情は読めない。
沈黙が重い。やっぱり駄目だったのかもしれない。所詮は素人の——
「——傑作だ」
静かな声が、沈黙を破った。
「え?」
「藤宮さん、これは傑作だ。いや、傑作になる」
氷室さんの青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。そこには、確かな確信があった。
「繊細な心理描写、息を呑むような背景の美しさ、そして主人公の静かな強さ。読者は必ず引き込まれる」
隣に座っていた黒縁眼鏡の女性——副編集長の神楽真琴さんが、淡々と頷く。きっちりまとめた黒髪のボブ、隙のないパンツスーツ姿。四十歳という年齢に相応しい落ち着きと、鋭い観察眼を持った女性だった。
「……なるほど、編集長が惚れ込むわけですね」
「真琴」
「失礼しました。でも事実ですので」
神楽さんは資料を整えながら、私に視線を向けた。
「藤宮先生、あなたが抜けた途端にあの連載がどうなったか、業界では皆知ってますよ」
「あの、まだ先生なんて呼ばれる立場じゃ——」
「いいえ。この原稿を見れば、誰もがあなたを『先生』と呼びます」
断言だった。
私は言葉を失った。
三年間、否定され続けてきた。『魂がない』『足手まとい』『地味』——そんな言葉ばかりが降り積もって、いつの間にか自分でも信じかけていた。
でも、この人たちは。
「連載会議にかける。来月から、月刊ルナに掲載だ」
氷室さんが宣言する。
「来月……そんなに早く?」
「待たせる理由がない。君の才能を世に出すのが、俺の仕事だ」
その言葉に、胸が熱くなった。
◇◇◇
連載が始まった。
『薄明の庭師』第一話。
SNSの反応は——爆発的だった。
『この新人さん誰? 背景が神すぎる』
『心理描写が繊細で泣いた。主人公に感情移入しすぎて辛い』
『え、待って、この人星崎レイカの元アシスタント? 画力ありすぎでは?』
『むしろこっちが本体だったのでは……』
『星崎の作画崩壊と同時期に新人デビューって、偶然?』
『偶然じゃないでしょ。答え合わせじゃん』
初週で重版が決定した。
私は信じられない思いで、増刷の知らせを聞いていた。
「藤宮先生、おめでとうございます!」
橘千紗——かつて同じ現場で働いていた元同僚が、満面の笑みで私の手を握った。ショートカットの栗色の髪、そばかすの浮いた快活な顔立ち。相変わらずラフなパーカーにジーンズ姿で、耳にはペンが挟まれている。
「千紗ちゃん、どうしてここに」
「氷室編集長にスカウトされたんです。澪さんの専属アシスタントとして」
「え、私の?」
「はい! 今度は澪さんの下で働けて、本当に幸せです!」
千紗ちゃんの目には涙が滲んでいた。
「ずっと思ってたんです。澪さんがいなかったら、あの現場は三ヶ月も持たなかったって。澪さんの才能が正当に評価される日が来て、本当に嬉しい」
(ああ、見てくれてたんだ)
知らなかった。気づいてくれている人がいたなんて。
「千紗ちゃん、ありがとう」
「いえ、私こそありがとうございます。澪さんのおかげで、あの地獄から逃げ出せたから」
二人で笑い合う。
三年間の重荷が、少しずつ軽くなっていく気がした。
◇◇◇
その夜。
編集部を出ようとした私を、氷室さんが呼び止めた。
「藤宮さん」
「はい?」
「少し、話があるんだが」
屋上に案内された。夜風が心地よい。東京の夜景が、宝石箱をひっくり返したように広がっている。
「重版、おめでとう」
「ありがとうございます。氷室さんのおかげです」
「俺は何もしていない。全部、君の実力だ」
氷室さんは夜空を見上げた。青灰色の瞳に、星の光が映る。
「……十年前の話をしてもいいか」
「十年前?」
「俺がまだ駆け出しの編集だった頃、一人の漫画家を担当していた。伝説の少女漫画家——藤宮雪乃」
心臓が止まりそうになった。
「藤宮、雪乃……?」
「君の母親だ」
知らなかった。いや、知っていた。母が漫画を描いていたことは。でも、伝説の漫画家だなんて——。
「母は、私が八歳の時に亡くなりました」
「ああ。病気だった。俺は彼女の才能を、世に出し切れなかった。それがずっと心残りだった」
氷室さんが振り返る。夜風が藍色の髪を揺らした。
「だから、公園で君の絵を見た時、わかったんだ。君の中に、雪乃さんの魂が息づいていると」
「……」
「君の才能を最初に見つけたのは俺だ」
低い声が、夜に溶ける。
「誰にも渡さない」
意味がわからなかった。いや、わかりたくなかった。
「それは、編集者として、ですよね?」
「……ああ、今はそういうことにしておこう」
氷室さんは小さく笑って、踵を返した。
「明日も締め切りがある。今日は帰って休め」
「あ、はい……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
一人残された屋上で、私は母のことを思い出していた。
(お母さんの線を、私は受け継いでいたの?)
八歳の記憶。病室で、母が最後に描いてくれた一枚の絵。窓から差し込む光の中で、震える手でペンを握る母の姿。
『澪は絵が上手ね。お母さんに似て』
その言葉の意味を、今やっと理解した。
涙が、一筋だけ頬を伝った。
◇◇◇
『薄明の庭師』の連載が始まってから、三ヶ月が経った。
私の漫画は、第三話で早くも新人賞にノミネートされた。SNSのフォロワーは十万人を超え、サイン会には長蛇の列ができる。
信じられない日々だった。
一方で、星崎レイカ先生の連載『星降るロマンス』は——打ち切りが決定していた。
◇◇◇
「嘘でしょ……」
編集部からの電話を切った後、レイカは茫然と座り込んでいた。
三年間トップを走り続けた連載。それが、藤宮澪が辞めてわずか三ヶ月で終わった。
アシスタントは次々と辞め、残った者も使い物にならない。SNSでは「作画崩壊」「パワハラ」のワードが彼女の名前と共に拡散され続けている。
「レイカ」
婚約者の桐生蓮也が、冷たい目で見下ろしている。三ヶ月前まで「愛してる」と囁いていた口が、今は別の言葉を紡ごうとしていた。
「話がある」
「何よ、今忙しいの。新しいアシスタントを探さないと——」
「婚約を解消したい」
時間が、止まった。
「……は?」
「聞こえなかったか? 婚約は解消だ」
「どうして……だって、あなたは私のことを——」
「売れない漫画家との婚約は、俺のキャリアに傷がつく」
吐き捨てるように言って、桐生蓮也は踵を返した。
「待って! 待ちなさいよ!」
追いすがるレイカを、蓮也は鬱陶しそうに振り払う。
「君みたいな落ち目の漫画家に構っている暇はないんだ。藤宮澪の担当になれないか、今掛け合ってるところでね」
「藤宮……澪……?」
「ああ。彼女は本物の才能だ。最初から気づいていればよかった」
その言葉が、レイカの心を粉々に砕いた。
藤宮澪。あの地味で、従順で、自分の影に過ぎなかった女。
——本当に、そうだったのか?
三年間、彼女に何を言い続けた? 何をさせてきた?
『あなたの絵には魂がない』
自分の言葉が、呪いのように蘇る。
(違う。魂がなかったのは——)
認めたくなかった。認めてしまったら、全てが崩れる。
自分の『才能』が、虚構だったと認めることになる。
◇◇◇
新人賞の授賞式当日。
私はステージの上に立っていた。
スポットライトが眩しい。会場には業界関係者、ファン、メディアの人々が詰めかけている。
白いブラウスにネイビーのロングスカート。相変わらず地味な装いだけど、今日は少しだけ華やかなアクセサリーをつけた。母の形見のブローチ。
「藤宮澪先生、受賞のお言葉をお願いします」
マイクを向けられ、私は深呼吸をした。
「この度は、このような素晴らしい賞をいただき、心から光栄に思います」
三年前の自分に教えてあげたい。あなたの絵には、魂があるよ、と。
「私は長い間、自分の作品を描くことができませんでした。でも、私の才能を信じてくださる方々に出会い、ようやく自分の物語を世に出すことができました」
客席の最前列で、氷室さんが静かに微笑んでいる。
その隣には、千紗ちゃんと神楽さんの姿も。
「これからも、読者の皆様の心に届く物語を描いていきたいと思います。本当に、ありがとうございました」
会場が拍手に包まれた。
ステージを降りると、氷室さんが待っていた。
「いいスピーチだった」
「ありがとうございます」
「……帰りに、少し寄り道しないか」
「寄り道?」
氷室さんは珍しく照れたような表情を浮かべた。普段の冷静な佇まいが崩れて、なんだか可愛らしい。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
(なんだろう、この人)
不思議に思いながらも、私は微笑んだ。
◇◇◇
授賞式の帰り道、それは起きた。
「澪さん!」
会場の外で、私を待ち伏せしていた人物がいた。
星崎レイカ。
かつての華やかさは見る影もない。化粧は崩れ、金髪は乱れ、ブランド物のワンピースも皺だらけ。目の下には深い隈が刻まれ、頬はこけている。
「お願い、澪さん」
レイカ先生は、私の前で膝をついた。
「戻ってきて。あなたがいないと、私には描けないの」
周囲がざわめく。スマホを向ける人々。フラッシュが焚かれる。
「先生、立ってください」
「お願いよ。何でもする。お金も払う。だから——」
「先生」
私は静かに、しかし毅然と言った。
「私はもう、誰かの影じゃないんです」
「……」
「自分の物語を描く場所を見つけました。そこで、私は幸せなんです」
「でも、あなたの才能は私が——」
「見出した?」
言葉を遮る。
「いいえ。あなたは三年間、私に『魂がない』と言い続けた。私の価値を見つけてくれたのは、別の人です」
レイカ先生の顔が、絶望に歪んだ。
「もう遅いんですよ、星崎先生」
私は背を向けた。
「お元気で」
それだけ言って、歩き出す。
振り返らなかった。もう、振り返る理由がないから。
三年間、私を否定し続けた人。私の価値を踏みにじり続けた人。
その人が今、全てを失って跪いている。
でも、私の心は凪いでいた。
復讐心も、ざまあみろという気持ちも、不思議とない。
ただ、終わったのだと思った。
私はもう、前だけを見て歩いていける。
◇◇◇
「——待たせた」
会場の車寄せで、氷室さんが待っていた。
「大丈夫だったか」
「はい。もう、終わりました」
車に乗り込む。夜の街が窓の外を流れていく。
「氷室さん」
「ん?」
「さっき言いかけてた『寄り道』、してもいいですか」
氷室さんは一瞬驚いたような顔をして、それから穏やかに笑った。
「ああ、いいぞ」
車が方向を変える。
◇◇◇
「寄り道」の行き先は、小さなイタリアンレストランだった。
隠れ家のような店構え。常連しか知らないような、路地裏の一軒。温かい明かりが窓から漏れている。
「氷室さん、ここは」
「俺の行きつけだ。雪乃さん——君の母親とも、よく来た」
心臓が跳ねる。
「母と?」
「ああ。締め切り明けには必ずここで打ち上げをした。彼女はカルボナーラが好きでな」
店内に入ると、年配のマスターが氷室さんに微笑みかけた。
「氷室さん、お久しぶりです。……おや、今日は綺麗なお嬢さんと」
「彼女は藤宮澪。雪乃さんの——」
「娘さんですか」
マスターの目が驚きで見開かれる。
「まあ、面影がおありで。雪乃さん、よくあなたの話をしてましたよ。娘が一番の宝物だって」
涙が込み上げてきた。
「母が……そんなことを」
「ええ。あなたが描いた絵を、いつも嬉しそうに見せてくれました。この子は私より才能があるって、自慢してましたよ」
知らなかった。母がそんなふうに思っていたなんて。
八歳の私が描いた、拙い絵。それを母は宝物のように見せて回っていたのか。
◇◇◇
カルボナーラを頼んだ。母と同じものを。
クリーミーなソースが絡んだパスタは、どこか懐かしい味がした。
「氷室さん」
「ん」
「どうして、私に母のことを話してくれるんですか」
氷室さんはワイングラスを傾けながら、少し考え込んだ。青灰色の瞳が、琥珀色の液体を映している。
「……俺は、雪乃さんを守れなかった」
「守れなかった?」
「彼女は病気を押して描き続けた。俺は止められなかった。編集者として、もっとできることがあったはずなのに」
「……」
「だから、君を見つけた時、誓ったんだ。今度こそ、この才能を守り抜くと」
氷室さんの青灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「最初は、雪乃さんへの贖罪だった。君の中に彼女を見ていた」
「今は……違うんですか」
「ああ」
氷室さんは静かに頷いた。
「今は、藤宮澪という一人の女性を見ている」
心臓が、どくんと鳴った。
「氷室さん」
「君の才能を最初に見つけたのは俺だ」
低い声が、二人だけの空間に響く。
「誰にも渡さない。編集者としても、それ以外の意味でも」
「それ以外の意味……」
「わからないか」
氷室さんが、珍しく困ったような顔をした。普段の冷静さはどこへやら、耳の先が少し赤くなっている。
「……俺は、こういうことを言うのが得意じゃないんだが」
「はい」
「君のことが、好きだ。藤宮澪という漫画家としても、一人の女性としても」
時間が止まった気がした。
三年間、誰からも認められなかった私を。
この人は、全部受け入れてくれると言っている。
「……私も」
声が震える。
「私も、氷室さんのことが、好きです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
氷室さんは一瞬目を見開いて、それから——初めて見る、柔らかな笑顔を浮かべた。
「そうか」
「はい」
「……よかった」
その言葉が、どれほど私の心を温めたか。
◇◇◇
帰り道、手を繋いで歩いた。
五月の夜風が心地よい。同じ季節に全てを失って、同じ季節に全てを手に入れた。
「明日から、締め切りラッシュだ」
「はい。覚悟してます」
「俺は編集者として、君に甘くするつもりはないぞ」
「望むところです」
「……でも、プライベートでは」
氷室さんが、私の手を強く握った。大きくて温かい手。
「誰よりも甘やかす」
「……っ、氷室さん」
「蒼介でいい」
「……蒼介、さん」
名前を呼ぶと、蒼介さんは満足そうに微笑んだ。
「明日から、よろしくな。澪」
「……はい、蒼介さん」
星が綺麗な夜だった。
母が空から見守ってくれている気がした。
◇◇◇
一年後——。
『薄明の庭師』は累計発行部数三百万部を突破していた。
アニメ化の話が持ち上がり、海外からの翻訳オファーも殺到している。表紙を飾った雑誌は数知れず、私の名前を知らない漫画好きはいないと言われるまでになった。
「藤宮先生、次の打ち合わせは三時からです」
千紗ちゃんが資料を抱えてやってくる。
「ありがとう。……って、また先生って呼んでる」
「だって澪さんは先生ですから! 私の尊敬する人です!」
「もう、千紗ちゃんは変わらないね」
笑い合う。
仕事場の窓から見える景色は、一年前とは全く違う。
月光社の自社ビル最上階。私専用のアトリエ。蒼介さんが用意してくれた、夢のような空間。大きな窓からは東京の街並みが一望でき、壁には母の作品のポスターが飾られている。
◇◇◇
昼休み、スマホを開いた。
SNSのトレンドに、見覚えのある名前があった。
『星崎レイカ新連載、3話で打ち切り』
記事を開く。
『かつて人気を博した少女漫画家・星崎レイカの新連載が、わずか3話で打ち切りとなった。読者からは「画力の低下が著しい」「以前の作品とは別人のよう」という声が相次いでいる——』
記事には、崩れた作画のスクリーンショットが添付されていた。
(ああ……)
何の感情も湧かなかった。
憐れみも、ざまあみろという気持ちも。ただ、遠い世界の出来事のように思える。
スマホを閉じた。
「澪」
声がして振り返ると、蒼介さんが立っていた。相変わらず黒のタートルネックにジャケット姿。でも今は、その表情に柔らかさがある。
「打ち合わせ、そろそろだぞ」
「はい。今行きます」
立ち上がり、蒼介さんの隣に並ぶ。
「……見たのか」
「何をですか」
「とぼけるな。星崎の記事だ」
「……ちょっとだけ」
「どう思った」
「別に何も。もう関係ないことですから」
蒼介さんは私の頭をぽんと撫でた。大きな手が、優しく髪を梳く。
「そうだな。君はもう、前だけを見ればいい」
「はい」
並んで廊下を歩く。
「今夜、食事に行かないか」
「いいですよ。どこに行きますか」
「……あの店だ。一年前に行った」
「母が好きだったカルボナーラの店?」
「ああ」
蒼介さんは少し照れたように視線を逸らした。
「一年記念だからな。特別な場所がいいだろう」
「……ふふ、蒼介さんって意外とロマンチストですよね」
「うるさい」
照れ隠しに早足になる蒼介さんの背中を追いかけながら、私は笑った。
◇◇◇
打ち合わせを終え、アトリエに戻る。
机の上には、新作のネームが広げられていた。
『薄明の庭師』は来月で完結する。次回作の構想は、もう頭の中にある。
ペンを取る。
白い原稿用紙に、一本の線を引く。
(私はもう振り返らない)
三年間、誰かの影で生きてきた。自分の価値を信じられなかった。
『あなたの絵には魂がない』——その言葉を、何度も反芻した夜があった。
でも今は違う。
私の線には、物語がある。母から受け継いだ、大切な才能がある。
それを認めてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。一緒に戦ってくれる仲間がいる。
もう、何も怖くない。
(前だけを見て、描き続ける)
ペンが原稿用紙の上を滑っていく。
窓の外では、夕日が東京の街を茜色に染めていた。
一年前、全てを失ったあの日と同じ、五月の夕暮れ。
でも今、私の前には希望しかない。
新しい物語が、今、始まろうとしていた。
——FIN




