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トリトニアの伝説 外伝1 ムラーラ狂詩曲

作者: 由美忽子

この作品は「トリトニアの伝説」の外伝です。

時系列では、第三部 ムラーラの恋歌 の直後の話になります。

第三部に登場したミラとメーヴェのその後を書きましたので、ぜひ本編をお読みになった上でご覧ください。


これまでのあらすじ

故郷のトリトニアを目指して旅する一平とパールは海人の国ムラーラの人々に遭遇する。

ナムルという元首の息子に襲われた二人を救ってくれたのは、その姉のミラという大剣使いの剣術指南とその幼馴染で元首の主治医でもあるメーヴェだった。

そこでパールはメーヴェに医術を、一平はミラに武術の教えを請うことになる。

ムラーラでは神の御使いとも言われる神獣が凶暴化して人々を襲っていた。

占いによると、それを鎮めることができるのは珊瑚色の髪をした娘だと言う。

パールが神獣に差し出されるのを阻止するにため、一平は神獣を退治することを買って出た。

一平に死が迫る中、駆けつけたパールの癒しの力によって一命を取り止めた彼は、パールの進言により神獣の病を治すため宝剣であるオリハルコンの剣でメーヴェと共に執刀する。

ムラーラの危機は去り、一平とパールはまた元の旅に戻った。

二人を見送った後、メーヴェとミラは二十年前の約束を果たすため、勇気を振り絞って求婚し合うのだった。

 ミラの身体は温かかった。

 彼女は大柄で大抵の男たちが見劣りしてしまうが、背丈だけはメーヴェの方が上回っていた。

 男たちより体格がいいとは言っても、実際にはそうでもない。逞しいことは否めないが、そう見えるのは筋肉の量よりもミラの発する堂々とした気が大きな要因だった。言葉遣いは元より、何事にも動じない大きな心と、全てを知っていて敢えて黙しているような得体の知れない雰囲気。それらがミラの姿を実際以上に逞しく、大きく見せているのだ。

 背は高くても、運動を不得手とするメーヴェの体重はミラよりも軽い。残念ながらそれは動かし難い事実だ。鍛え抜いた全身に漲る筋肉の比率が大きいので、メーヴェにお姫様抱っこしてもらうのは諦めなければならないだろう。あのミラがそんなことを望んでいるとは思えないが。

 外見がどうでも、質量がどうでも、ミラの中身は女性そのものであった。体のどこかに欠陥があってああいう体格になったわけではない。全て訓練の賜物であり、女性としての機能はどこも損なわれていない。事実、美人の部類にミラは数えられていた。

 まるで色気のない言葉で誘われたのは、互いの気持ちを告白しあった直後である。今からでも子どもが作れるかどうか試してみようとは、なんと乱暴で、そしていかにもミラらしい台詞であった。

 メーヴェはムラーラの男だ。成人したのは十五年も昔に遡る。

 つまり、初めてではないと言うことだ。

 儀式以来、そのチャンスは何度かあった。メーヴェ自身、不確かな約束に縛られず新しい恋をしようと試みたこともある。だがだめだった。ミラに恋焦がれて結婚の約束を交わしたわけではないのに、誰と付き合ってもその気になれない。肝心な時にミラの泣き顔が思い浮かび、手を出すことができなかった。稀に妥協できそうな相手に出くわしても、仕事一本槍のメーヴェは逆に愛想を尽かされてしまうのだ。

 結局、メーヴェにとっては儀式以来、十五年ぶりの女性の柔肌であった。

 メーヴェを押し倒した上に、衣服を脱ぐのは大胆だったが、一度(ひとたび)メーヴェが触れた後は、恥じらい、涙さえ見せた。男に体を許したことのない初な反応に、メーヴェは全身が総毛立つほど打ち震えた。


 ゆっくりと呼吸を整えるミラにメーヴェは問いかけた。

「初めて…だったのか?」

 問いの答えはわかっていた。わかっていたが、直に彼女の口から聞きたかった。

 恥じらいながら俯くか、恥ずかしさのあまりついとそっぽを向いて知らないと突っ撥ねるか、あるいは無言を決め込むか。そんなものだろうと予想したが、ミラは違った。

「当たり前だろう。私はムラーラの女だぞ」

 そんなことを聞くのは論外だ、とばかりに眉を顰めて、ミラはメーヴェを見た。

 ムラーラの女は、身持ちが固い。

 ほとんどの者が、処女のまま嫁に行く。

 メーヴェもよく知っているはずの話だ。

「おまえ…私を普通の女だと思ってないな?」

 あろうことか、ミラはメーヴェに喧嘩を吹っかけ始めた。

「ちっ…違うよ。僕はただ…」

 濡れ場で刃傷沙汰は御免だった。メーヴェは慌てて首を振る。

「言っておくが、待たせたのはおまえの方だからな」

 求婚をするのは男性の方から。それもムラーラの常識だった。ミラが諸国放浪の旅から帰ってきても、それまでと何ら態度を変えず、関係を進めようとしなかったメーヴェには何も言えるものではない。

「二十九にもなっちゃ作用するかどうか心配だったが、取り越し苦労だったようだ」

 見事な身体の線を隠そうともせずに、また色気のないことを言う。だが、違うふうにとれば、めちゃくちゃ艶めいた台詞だ。ちゃんと感じた、とミラは言っているのではないか。

 呆れながら、メーヴェはひとり喜んでいた。自分の欲望のままにミラを抱いただけでは彼女を満足させられないのではないかと、メーヴェの方こそ危ぶんでいたのだから。儀式の女に教わった技術が今も忘れず役立つのかどうか甚だ不安でもあった。だが、それは杞憂に終わった。何も考えず、いや、ミラのことだけを考えて、自分と彼女が心地好いと感じているかだけに没頭した。その結果がこれだ。

 メーヴェは手を伸ばした。ミラを捕まえて抱き締め、項に接吻して囁いた。

「…もう一度…温めてくれるか?」

「ばか…」

 それが、ミラの返事だった。


「子どもができた。結婚する」

 いきなり宣言されたミラの父こと総裁のムムールは一瞬惚けた。

「なんと…言った⁈」

「父上もとうとう耳に来られたか。子どもを宿したから結婚すると言ったのです」

「子どもだと⁈どこにそんな物好きがいたのだ」

 今までの経緯からして、ムムールの口からそのような暴言が出てくるのは致し方なかった。度重なる縁談話を悉く足蹴にして父親の意に逆らってきた娘であれば、ムムールの嘆きも驚きも同情するに値した。

「それで、その物好きはどこの誰だ?新参者でおまえのことをよく知らずにしたことだろうが、早まったものだ」

「いい加減に口を慎んではいかがです?あなたにとっては不肖の娘でしょうが、私の夫たる男にとっては最高の伴侶なのですよ」

 どの口がぬけぬけとそういうことを言うのだと、メーヴェが聞いていたら、呆れ返ったに違いない。

「だったらさっさと言わないか。こんなじゃじゃ馬を孕ませた身の程知らずは一体誰なのかを」

「父親がお咎めにならないと約束するなら申し上げます。逆に、反対なさるのであれば、夫の名は私一人の胸に収め、一人で産みます」

「ミラ‼︎」

 正式に結婚して初めて夫婦は契りを交わすというのが常識のムラーラで、総裁の娘が未婚の母、というのは体裁が悪すぎる。選択肢の一つとは言え、ミラは実行しかねない。ムムールの額や腋の下から焦りの汗が吹き出した。

 娘の名を叫んだなり絶句して、ムムールは腰掛けの背もたれに体を預けた。しばしの間、どうしたものかと思案する。

 これは不祥事だ。

 成人して久しいミラにいちいち干渉する事は、近頃めっきりなくなっていた。若い時の監督を放棄していたつけが今頃回ってきたかと、ムムールは苦虫を噛み潰す。

 諸国を回って箔をつけ、大剣使いの第一人者としてムラーラ一の武術場の指南を務めるミラは、とうに一人前だ。政務官ではないが、総裁にとっても有能な手足の一部である。まさか今頃になって若気の至りのような真似をしでかしてくれるとは思わなかった。

「…避妊…しようとは思わなかったのか?」

 後の祭りだが、そんな言葉が口を出た。

「避妊⁈なぜです?将来を担う子どもは一人でも多い方がいいはず」

「おまえには地位も名誉もあるだろう。みっともないとは思わなかったのか?」

 そういうところに重きを置かない娘である事はとうに心得ていたはずだった。が、ムムールは愚痴らずにはいられない。

「ただ一人の敬愛する男の子どもを産むことが恥ずかしいことですか」

 言っている意味が違う、と思いながら、そんな事は百も承知で口返答(くちごたえ)しているのだと、ムムールにはわかっていた。ミラから常識人としての言葉を引き出すのは不可能だ、と諦めざるを得ない。ムムールは手を変えた。


「なぜ、私が反対すると決めつける?」

「父上が私の婿にと勧めた男は皆政治家でしたから。それが第一条件だったのでしょう?」

 口にした事はなかったが、ミラは父の思惑をとうに読み取っていたのだ。

「私の夫は政治家ではないし、これからなるつもりもない。彼の持つムラーラ一の技術でたつきを立てていくことが彼の生きがいだ。それを取り上げるつもりは、私にはない。そのくらいなら一人で育てる」

 きっぱりと言い切るミラの瞳に悲惨な色や苦渋の色は浮かんでいなかった。ムムールは悟る。ミラは心からお腹の子の父親を愛している。大切だからこそ、その男の人生を自分のわがままで狂わせたくないと願っている。お互い独り立ちできる器量を備え、そういう意味での束縛はしないような関係なのだろう。

 嫡男を得た今となってはそれは争いの種だろうが、息子の周りを縁者で固め、その地位を揺るぎないものにしてやりたいという思いはあった。

 どんな男でもいいから連れて来いと言ったこともある。最低でも、教育次第である程度はものになるような男をミラは選んでくるだろうという勝算がムムールにはあったからだ。そのくらいには、ムムールは娘の審美眼を信用していた。

 とは言え、どんな男を選んだのか。

 結婚もまだなのに手を出すようでは、ろくなやつではないのに決まっている。いや、それも無理はないか。二十九にもなって独身の大女がまさか生娘だとは誰も思うまい。決して消極的ではない上に、見てくれも悪くない。性格も爽やかだ。女性特有のうじうじしたところがないミラを好ましく思う男は少なくないに違いない。ムムールの言うところの物好きは、結構世の中にはいるものだ。

「好きに、するがいい」

 どうせ、引き止めても無駄なのだ。

 一度すると言ったら、ミラは枉げない。

 一人前の大人なのだ。結婚するのに親の許可など必要ない。一応礼を尽くしに来ただけなのだ、娘は。

 鈍感なところがある総裁だが、娘の性格に関してだけは熟知している。散々悩まされ、肝を冷やされた経験がものを言う。あの頃よりは齢を重ねたことで、人間に丸味が出てきたせいだろうか。ミラが思っていたよりも早く、父のムムールはミラの結婚を認めた。

 父の言葉を了承と受け取り、ミラは言う。

「では、時期を見て夫に伝えます。子どもができたと」

「何⁈」

 ムムールは更に驚いた。

 相手の男はまだ知らないのか⁈ミラに子どもができたことを⁈

「共に暮らすか否かの結論が出たらまたご報告にあがります」

 一礼して下がって行こうとするミラをムムールは慌てて引き止める。

「待て。…そんな…あやふやな関係なのか?話し合いはこれからだと?」

「いかにも」

「まさか…結婚の約束もこれからと言うんじゃないだろうな⁈」

 てっきり、その密約はできていると思っていた。そうでなければまんまと嵌められたと言うことになる。

「ご安心を。約束なら二十年前からしています。それを守るだけです」

 涼しい顔で微笑んで、ミラは退室して行った。

(二十年前から…⁈)

 子どもの約束ではないか。一体、誰と?

 ムムールは再び頭を抱えた。


 海人の四十四歳は高齢である。

 百年前なら、まずは生きていなかったであろう年齢だ。

 理由は戦の有無だ。ラーラルーとムーリアが併合されてムラーラとなってからは、戦で死ぬ者が激減し、平均寿命も四十五歳まで伸びた。

 その目安の年まで、ムムールはあと一年を数えるまでになっている。

 若く見えるのは外見だけであり、実はあちこちに老いの兆しを感じる。

 二度目の妻が歳若いので張り合いもあるのだろう。平均寿命に手が届こうかという年齢で足腰がピンピンしているのは見事だった。海人はこれをやられたら生死に関わることになるので、一番気を違うところでもある。

 とは言え、ミラの指摘したように耳が少々遠くなったようには思う。昔から地声は大きい方だったが、近頃は一層でかくなったようなのが、侍女を怒鳴りつけた時の過剰な反応でわかる。目も、以前のようには遠目が効かなくなっていた。

 元首邸のすぐ裏手にあることもあって、ムムールはメーヴェを主治医として召し抱えていた。娘の幼馴染みでもあり、人柄はよく知っているつもりだった。真面目で辛抱強く、信頼のおける人物だ。子どもの頃はよくミラにいじめられて泣いていたが、さすがに今はそんな事はない。ミラと対等に渡り合える貴重な友人の一人だとムムールは認識している。

 目と耳の健診に呼ばれ、メーヴェが元首邸を訪れたのは、ミラの重大告白があった翌々日のことだった。

 診察の後、ムムールは徐に口を開いた。職業柄口の硬いメーヴェになら話しても差し支えないだろう。ひょっとしたら、子どもの父親のことを何か知っているかもしれない。そう思ったのだ。

「あのじゃじゃ馬にも困ったものだ。全く、今までで一番とんでもないことをしでかしてくれたよ」

『あのじゃじゃ馬』が誰であるかは言わずと知れていた。

 ここ一週間ばかり、メーヴェはミラと顔を合わせていなかった。

 神獣との戦いの際に発見した切開と縫合の術について、医師会の会合で発表する準備に忙しかったからだ。結ばれて以来、三日と開けずにメーヴェの診療所に逢引きに来ていたミラは、そうと知るや邪魔をしては悪いと、足を向けるのをやめていたのだ。その間に月のものが止まったことに気づき、子どもを宿したとわかったのだった。ムムールに言った通り、その事はまだメーヴェには告げていない。

 呑気にメーヴェは話を合わせる。

「一体何をしでかしたんです?あなたのじゃじゃ馬娘は⁈」

「口外は無用だぞ。…子どもを身籠ったと抜かしよった。結婚すると」

「え?」

 メーヴェには初耳だ。一瞬、誰のことだ、と思った。

「誰の子なのか、相手の男の名を言わない。私が反対して邪魔をすると思ったらしい」

 それについては頷けた。

「おまけに、まだ相手の男に知らせてもいないらしい。約束したのは、二十年も前だそうだ。誰か心当たりはいないかね?」

 大ありだった。

 だが、言えなかった。

 身に覚えは嫌と言うほどあった。メーヴェはお医師なのだ。

 だが、確信はない。九割までは自信があるが、残り一割がない。

 自分以外にミラに男がいるとは思えなかった。が、言い切れない部分もある。自分にとって魅力的な女は、他の男にとっても魅力があるはずだと、真面目に思い込めるのが恋の凄いところだ。あの時、確かにミラは初めてだったが、その後目覚めて、他の男とも寝てみなかったとは断言できない。彼女の思考回路から考えるに、可能性としては充分だ。好奇心は人一倍強いのだ。ミラのことを信じていないわけではないが、恋する男は自分に自信が持てないのだ。

 とは言え、確率としては自分が一番高いのだ。メーヴェの背を冷や汗が流れた。

「さ…あ…」

 何と答えたものか。これが本当なら、ぐずぐずしてはならない。

 ムムールより医師としての信頼は得たものの、娘婿として歓迎されるかどうかはわからない。甚だ疑問である。

 ムラーラの元首、次期総裁の第一候補は、長男のナムルだ。ミラの夫となる人物は第二候補になるのが順当なところだ。その候補者として、ムムールが自分のことを認めるかと言えば、まずありえないと言わねばなるまい。メーヴェは政治家ではないのだから。ミラの言うように、医師としての仕事を生涯の相棒として続けていきたいと思っている。

 かつては、とりあえず一人前になろうと思って就いた仕事だった。何の取り柄もなかったメーヴェは、好きな道、憧れのナイチンゲールに少しでも近づく道ならばと、医塾に入って勉強を始めたのだ。収入を得られるようになる前にミラが目の前から姿を消してしまい、希望を一つ失ったメーヴェはお医師になるための修行に一層身を入れるしかなかった。ミラが戻ってきた時には、もう他の仕事に就くなど考えられもしないほど、メーヴェは一人前のお医師になっていた。仕事を手放せぬ以上、ミラの傍らの席には手が届かないのだということを、その頃になってメーヴェは自覚する。

 ミラに結婚しようと言われて舞い上がっていたのだろうか。メーヴェは今の今まで、そのことを忘れていた。ミラの夫は政治家にならねばならないということを。


 彷徨うメーヴェの瞳の中に、ムムールは真実を見た。

(まさか…)

「おまえ…か⁈…おまえなのか、メーヴェ⁈…」

 メーヴェは目を瞠き、そして伏せた。

 この男に嘘を吐くことはできない。最愛の女の父親だ。

「……はい…」

 途端にムムールの頭に血が昇った。ムムールは拳を振り上げ、メーヴェの頬を張り倒した。

 老いたとは言え、武術場で出席だった男だ。ミラもナムルも見事に父親の血を受け継いでいる。武力には拙いメーヴェには手も足も出ない。無様にひっくり返り、のろのろと起き上がる。

 たった一撃かましただけなのに、ムムールの息は荒い。胸内に湧き上がる怒りはまだ全て出尽くしてはいない。

 ムムールは言った。

「…なぜだ?…なぜ、おまえは…」

 メーヴェは医師だ。男女の睦事がどういう結果を生むか、一番よく心得ているはずの人種だった。しかも、これ以上ないほどの誠実な男だ。ムムールには信じられなかった。

 しかし、納得もできる。メーヴェはミラの一の親友だ。誰より信頼していると言っていい。しかも、ほんの子どもの頃からの付き合いだ。二十年前には確かにミラと近しかった。だが、そんなことがあったとは考えつかないほど、二人の間はサバサバして、色恋沙汰とはかけ離れていた。それが今になって、なぜ急にこういうことになったのだ?

 ムムールの刺すような視線を全身に痛く感じながら、メーヴェは自問する。

 ―なぜ?―

 なぜ、何も考えなかったのだろう?

 睦み合えば、いずれはこうなるとわかっていたはずなのに。

 いや、むしろそうなることを楽しみに、自分はミラを愛したのではなかったか。

 結婚しよう。一緒になろう。そう確かめ合いながら、身体の方が逸ってしまった。不思議なほど、後にやってくるであろうごたごたを思い煩うことがなかった。

「…わかりません…」

 正直にそう答えるしかメーヴェにできる事はなかった。

「わからないだと?メーヴェ⁈」

 ムムールはさらに湯気を上げるが、実際のところそれが一番的を得ているのだろうと思う。恋とはそういうものだ。お互いに夢中な間は他のことどもは目に入らない。それが普通だ。彼にも経験がある。ミラの母親である最初の妻を失って、再び夢中になれる女に巡り会えるとは思わなかった。後添えとなったナムルの母は娘のミラの方にこそ歳が近く、障害も多かったのに、それを障害とも思わず突き進んできたものだ。

「私に言えるのは…ミラが愛しいということだけです。…彼女の望みが私と共にいることではなく、子どもを産みたいということなのなら…私は、私のできる限りのことをして彼女を応援します。お咎めになるのでしたら、どうぞ私一人を。…ミラはムラーラに必要な人です」

 メーヴェの今の心情を、ムムールは黙って聞いていた。

 青ざめ、動揺はしていても、メーヴェの言葉の端々には誠実さが感じられた。

「戯れに…愛したのではありません。私たちは、幸せだった。それは本当です。生まれるであろう子どもにも恥じるところはありません」

「むぅ…」

 自分一人を罰しろと言いながら、罪の意識はこれっぽっちもないようだった。

 どうしたものかとムムールが思案していると、背後で物音がした。

「よく言ったな、メーヴェ」

 ミラだった。


「ミラ‼︎」

 思わず大声を出すムムールに、ミラは静かに近寄ってくる。

「怒鳴らずとも聞こえます、父上。健診の結果は訊かずとも想像できますね」

「何を言う!私はちゃんと…」

「メーヴェの名誉のために申し上げる」ミラは父親の言葉を遮って続けた。「誘ったのは私です。結婚を迫ったのも私の方からでした。二十年前も、先日も。彼は私の頼みを聞き入れてくれただけです」

「ミラ…」

 名誉のためにと言うのなら、そういう事は言ってもらわない方が…。

 そうは思うが、今は苦笑いするしかない。

「私は覆してみたかったのです。今現在の常識を。三十を過ぎても立派に子どもが産めることを証明したかった。付き合わされて迷惑を被ったのはメーヴェの方だ。咎めるには当たりません」

「もうよせ…」

 なんだか気恥ずかしい。

「悪かったな。いざこざに巻き込んで。おまえを困らすつもりはなかったんだ。ただ純粋に、子どもを産んでみたかった。どうせ産むのなら、おまえの子どもがいいと思った。それだけだ」

 なんだか別れの挨拶みたいだ、とメーヴェは思った。

「ミラ…」

 僕も同罪だ、と言おうとしたメーヴェをミラは目で制した。

「おまえは必要な人間だ。このムラーラで一の技術を持つほどの名医師だ。父上もよくおわかりのはず。おまえを処するのがムラーラの大きな損失だと言うことを」

 ミラはあくまでメーヴェを罰するなと主張しているのだ。自分がお腹の子共々身を引くことになっても。

「損失は君の方だ。ムラーラにまたとない大剣の使い手こそ…」

「今のムラーラは平和だ。武力は必要ない。たとえ必要になったとしても、私の育てた弟子たちが大勢いる。それに比べ、病気や怪我は日常茶飯のことだ」

「ミラ‼︎」

 二人とも一歩も譲らず気迫を戦わせ合っている。まるで憎み合っているかのように真剣で、痛いまなざしをぶつけ合う。

 本当にこの二人は愛し合っているのか?との疑念が、一瞬ムムールの胸を掠めた。だが、ほんの一瞬だ。

 愛しているからこそ、譲れない思いがある。相手を思いやる事は、時に結びつきの終わりに繋がることさえある。それがわからぬ男ではなかった。一国を束ねる元首という職にあれば、人を見る目は並以上に培われるはずだ。

 ムムールは呟いた。ほとんど独り言のように。

「…好きにしろと申したろうに。…勘当してやるから、どこへなりと行くがいい」

 若い男女は同時に目を瞠った。

「…父上⁈…」

「総裁、それは…」

 勘当という言葉とは裏腹に、そこに込められた父の慈しみの心を感じ取った。

 メーヴェはミラを案じるあまり、ムムールを宥めようとする。

 ムムールの立場であれば、未婚の母を許すことはできないのだ。政治家でない男を婿とすることも選択肢にはない。そういう結婚をする意思がないのであれば、見捨てるしかない。部下たちの手前、けじめはきちんと示さなければならない。

「わかりました…」

 ミラは毅然として言った。

「ミラ‼︎」

「ありがとうございました。父上。どうぞ、母上にもよろしく。お達者で、とお伝えください」

 深々と頭を下げ、礼を尽くすミラにメーヴェは慌てる。

 こんなつもりではない。愛しい女に、父親と永遠の仲違いをさせることが自分の望みではない。きちんと結婚して、ミラが望むのなら何人でも子どもを設けようと、メーヴェは思っていたのだ。

「待ってください!どうか、今一度ご再考を。私を罰して、ミラをそのままに。子どもは私が密かに引き取って育ててもいい。総裁のお眼鏡に敵わないのならば、結婚をしようとは思いません」

「ばか言うな。誰がおまえ一人になど渡すものか」

「ではどうするのだ?本当にいいのか?それで?生きているのに、父と呼べなくなるのだぞ⁈」

 メーヴェに父は既にない。幼い頃に事故死した。どんなに会いたくても、死者に会う術は、いかな名医といえども持ち合わせていない。それがどれほど寂しいことか、メーヴェは身を以て知っていた。

「生きていれば、それでいいさ。… 一度は家族を捨てた私だ」

 ミラは言う。しんみりと。悟りの境地をすら感じさせる優しさで。

「それに、勘当は私だけだ。おまえが主治医として、私の便りを聞かせてやればいい。ついでに、私にもな」

「……」

 自分は何のお咎めもなしでこのまま今の仕事を続け、ミラは勘当される⁈そんな馬鹿な‼︎

 狼狽するメーヴェに対し、穏やかな声が降りかかった。

「来月の健診日を忘れるでないぞ、メーヴェ」

 ムムールの言葉はミラの言うことが的を得ていることを裏付けていた。


 ミラはその後、生を全うするまでに十一人の子を産んだ。海人としては異例の多さだ。

 ほぼ一年おきに、男子の双子を四回と九男目を得た後、女子の双子を授かった。初めての子が生まれた時、女の子ならパールと名付けたかったとメーヴェが言ったのを、ずっと心に留めていて頑張ったのだろう。ようやっと女の子が生まれた時、「この子がパール、こっちはオパールだ」

 ミラは夫にそう告げたと言う。

 正式に結婚し、メーヴェの診療所に転がり込んだミラは、しかし診療所を手伝う気は全くなく、すっぱりやめたムラーラ武術場にも足を向けず、しばらくは子どもたちの世話に明け暮れた。とは言うものの、女性らしい繊細さに欠けるミラの育児はぞんざいで大まか、乱暴と言った方が当たっているくらいだった。

 ムラーラの肝っ玉母さんは、夫を尻に敷きながらも夫を尊敬し、やがて自分は子ども相手に武術の指南を始める。子ども相手でも容赦のない稽古法は夫のメーヴェをはらはらさせたが、お医師がそばについていると安心しているのか、スパルタ教育は一向に収まりを見せなかった。

 それでも音を上げて逃げ出す子がいなかったのは、さすがに親譲りと言うものだ。

 健康を絵に描いたように丈夫なミラは、メーヴェの手を煩わせることなく大往生を遂げた。

 愛し子らに囲まれた葬送の席で、ミラは幸せそうに微笑んで旅立ったと言う。


(トリトニアの伝説 外伝1 ムラーラ狂詩曲 完)

男女逆転した性格の二人の遅咲きの恋の顛末はいかがでしたでしょうか。


次回からは二人のキューピッドとなった一平とパールのお話に戻ります。


第四部は「アトランティック協奏曲」です。

準備期間をいただいた後、10/1より連載を開始する予定です。

またページを訪れていただけますように。

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