第六話 普通少女と相棒
成亜紗という幼き少女と出会った翌日。春人は自転車で向かう方法を取らずに学院への通学路を歩いていた。
困ったことに、この学院へと通う生徒にはある一つの共通義務がある。それは日々の通学手段を変更しなくてはならない、というもの。
なので春人は自転車、電車、バスの順番で学院への通学をしており、今日は学院行きの電車に乗り込み向かっているというわけである。
駅から学院まではそれなりの本数が運行しており、所要時間も自転車より圧倒的に速く四十分程度。それだけだと遠いような近いようなという中途半端な距離で終わるのだが、問題はやはり学院の位置する場所だ。
早朝の秋ごろは海からやって来る風が、体の側面に吹きつけてくるため油断するとバランスを崩しかねない。
これが少し遅めに通学する自転車のとき以上に結構キツイのだ。別に体力的にバテるほどでもないのだが。それでも徒歩で向かわなければならないと思うと、精神的な負担が重なり、朝の気力というものの大半を奪われてしまう。
「あっ、ハルっち! おはよー」
そんなこんなで憂鬱な気分のまま春人が歩いていると、後ろから突然声をかけられた。
学院において知り合いの少ない春人を親しげに呼ぶ生徒など限られている……というか、片手分くらいしかいない。
聞き馴染んだ声からも大体相手は想像つくが、一応確認のために春人は後ろを振り向いてみる。
「……おはよ。朝から元気いっぱいだなぁ妹よ?」
「い、妹? わたしはハルっちの友達だよ! 忘れちゃったの?」
「はは、悪い悪い、実は寝起きで頭の回りが悪くてさ。おはよう柚希」
顔を向けた先にいたのは予想通りの人物。
結城柚希。春人のような専科学部ではなく一般学部の普通科に在籍する少女。
栗色混じりの髪を肩より少し下まで伸ばし、そこから色々弄ったような感じの髪型。それから、おっとりとした顔立ちに似合わず出るとこが出てるスタイル。最近は出なくてもいいところまで出始めて悩んでいるようだが、十分男好きするような女子だ。
明るく無邪気な性格ゆえに、話をしていると度々軽口が通じずペースを乱されてしまうのだが、それでも一緒にいて気苦労しない少女。
本来なら違う学部で接点はほぼないはずだが、ある日の放課後にて予定がなく気になる本を借りようと春人が図書室に向かう途中で、同様に本を借りようと急いでいた彼女とぶつかったことで交流が生まれた。しかし今日のように登校中に出会うということはあまりない。というのも、彼女は自分とは違い持ち前の人当たりの良さから学院内での友人が多く、所属している部活の朝練で大抵は他の同級生と一緒に登校しているからだ。
「あれ? いつも一緒に歩いてる子は?」
「文香ちゃんはちょっと用事があるみたいで先に教室に行ってるんだ。だから今日は一人なの」
「ふーん、じゃあ久しぶりに一緒に行くか?」
そう春人が尋ねると、彼女は大きく頷いてから横に並んだ。
交流が生まれて何度か立ち話する機会があるのだが、やはり異性ということもあり彼女と二人っきりで行動を共にする機会は減ってしまっていた。彼女のことを妹のように思っている身としては、なんだか寂しいような気もしなくはない。実に仕方ないことなのだろうが、彼女は同級生目線で見ても可愛いと言える女の子だ。今はまだ恋人はいないようだが、彼女を放っておく男は少ないだろう。いずれは完全に自分の元を離れる時が来るのはわかっている。
どこか兄なのか父親なのかはわからないが、なぜかセンチメンタルのような気分に浸りつつ春人がダラダラと通学路を歩いていたところ、ふと柚希が口を開いた。
「そういえばさ、ハルっちって部活はやらないの?」
「部活? まぁ予定はないかな」
「ふーん、興味もなし?」
「いや、なんかやりたいって気持ちはあるんだけど……いかんせん出遅れてしまったというか……」
「そっか! ならなら吹奏楽部、入ってみない?」
「吹奏楽部、ねぇ……」
吹奏楽部は柚希が所属している部活だ。学院を卒業して楽団に所属するプロが月に何回か指導しに訪れたり、校舎敷地から離れたところに一戸建ての大きな部室が作られているような恵まれた部活なのだが、大会における実績があまりにもないという事情を抱えていた。全国大会で金賞どころか銀賞も取ったことがないぐらいには。現状は三年の先輩は受験のため引退しており、現状は二年の主力たる先輩二人と若手エースと期待される柚希の三人が部活を引っ張っている。
実は一年生部員でエースの柚希の知り合いという立場であるがゆえに、春人は主力たる先輩方からの熱烈なラブコールを受けていた。それはもう、顔を合わせるとなぜか記入済みの入部届けを叩きつけられるほどに。あの綺麗な場所で部活動するという条件は非常に魅力的ではあるのだが、入部したら最後、新参部員と唯一の男子部員という立場が重なりパシリとして使い倒される未来が目に見えているため、現状において春人は入部を渋っていたのだ。
先輩方二人がそんな強引な勧誘するのは、大半が柚希の幸せのためなのだろうから、非常に困る。
「んー、あの先輩たちが引退したら前向きに考える、かな」
「あはは……めっこ先輩もるな先輩もいい人なんだよ? ちょっと強引なところはあるけど……」
「俺は唯一男子だから入部したら最後、その強引な部分を存分にぶつけられる未来が簡単に想像できるんだよ」
流石に一人で二人の無理難題なわがままを引き受けるは荷が重すぎる、と春人が表向きの否定理由を告げると柚希は顔に苦笑いを浮かべた。
「そっかぁ、残念。入部したくなったらいつでも声かけてね? わたし、これでも結構お茶淹れるのうまいんだ」
「お茶を淹れるって……トランペットの演奏が、の間違いだろ?」
「んーん、淹れるであってるよ。最近は紅茶をほとんど飲んでないから緑茶の淹れ方ばっかり上手くなっちゃった」
あはは、と朗らかに笑う柚希。
それで本当にいいのか、吹奏楽部期待のエース様よ。
と、内心で春人はつい心配してしまう。
ちなみにこの学院は一学年だけでも十三クラスもあり、A組からM組に分かれ一クラス四十名前後で振り分けされている。
そのうちA組からC組の三クラスを一般学部として扱い、春人が選んだ専科学部とは異なる別校舎で授業し、A組を特進科、それ以外を普通科としている。
「でもさ、ハルっちって相変わらず友達少ないんでしょ? 部活は入ってみた方がいいと思うんだけど……」
「……まぁ、な。でも機会があったらでいいよ」
「そっか。寂しくなったらいつでもB組に遊びにきていいからね?」
「いや、流石に専科を選んだヤツが別校舎にある普通科クラスの女のとこまで行くのは恥ずかしいっての……」
学院の構造上会いにくいとする春人の言葉を聞いた上で、そんなこと気にしなくていいのに、と彼女は柔らかく微笑んだ。
この女はいつもそうなのだ。鈍臭いようでどこまでも他人を気にかける優しい。俺は彼女のそういう暖かい雰囲気が好きで、話すだけですごく楽しく魅力を感じている。でも普通の感性を持つ彼女のように「友達」として認定するのを躊躇っているのも事実だ。
春人がこのように躊躇っているのは、別に深い理由とかではなく単純に春人自身が友達のハードルを勝手に高めの設定しており、「男女の関係になることもせず、本心を話せるほどに仲が良く放課後も一緒に遊べる存在」を友達扱いしているという身も蓋もない話で、相当捻くれて面倒くさい性格をしているだけだったりする。
春人もその愚かとも言える欠点に内心では自覚的で、どうしようかと悩みつつも、同時にこのままでもいいか、という楽観的な気持ちもあるため、春人自身が友達と公言できる存在が増えていかなかった。
そんなことに春人が思考を割いていたら不意に会話が途切れてしまった。その程度のことでいちいち気まずさを感じる程度の仲ではないのだが、気を使ったのか柚希は話題を変えて話しかけてくる。
「んーと、そういえばハルっち、昨日はテレビ観た?」
「ん? ちょっとは観てたけど。なんの番組?」
「えっとね、昨日の美味しかってん将軍なんだけど、すっごい面白かったんだ!」
美味しかってん将軍……作品の語感的には「美味しんぼ」と「暴れん坊将軍」を少し捻り、内容をかけ合わせたといったところだろう。
最近のテレビは、予算を増やし企画した自信作の大半以上が不調に終わってるため、かつての名作をかけ合わせた番組をオリジナルと評して放映していたりする。
例えば仮面ライダーと児童向けアニメをかけ合わせた仮面クレヨンであったり、機動戦士ガンダムと刑事ドラマをかけ合わせが機動戦士マツバの捜査一課強行犯係であったり。内容自体は双方のパロディ部分を引き出しているため、一級品がほぼないが普通に楽しむことができる。しかしパロ作品特有のネーミングセンスが壊滅しきっているのはご愛嬌。
視聴率が十%超えることが一度もないのに、よくもまぁ頑張るよな。爆死なんてネット掲示板やらサイトで書かれるのもよくわかる。
と、表情を崩すことなく内心でテレビの虚しい努力に冷笑しつつ、春人は柚希の言葉を聞くことにした。
「あー、ちょっと見てないかな。てか聞いたこともないんだけど、新番組?」
「そう! えっとね、名前じゃ想像しにくいと思うんだけど結構コメディ要素が強くて面白かったんだ! 昨日はお母さんと笑いっぱなしだったよ」
「へぇ、そうなんだ。なんか柚希の話しを聞いてたら、ちょっと気になり始めてきたんだけど。でも一話見逃しちゃったし、どうすっかな」
「それなら録画してあるから、今度コピーして渡すね!」
「あ、そう? じゃあ今度借りて観させてもらうな」
そうして柚希が説明する二次創作じみたテレビ番組についての話を聞いて盛り上がりながら、学院へと向かうのであった。
◆
春人はどちらかと言えば、早朝の登校が好きなほうだ。
吹奏楽部の部室へと向かう真っ当な青春を謳歌する柚希と別れ、まだ人気の少ない下駄箱や廊下を渡り、調査科の一年D組がある専科学部校舎ではなく、一般学部校舎の四階へと春人は足を運ぶ。
一般学部校舎の隣が特別棟なためかシーンと静まり返り、世界から隔離されたかのような冷めた雰囲気だが、それはただの錯覚。他の朝練に精を出している運動系の部活と離れすぎているため、その喧騒が届きづらいという立地的な理由によるものだ。
そのような場所の最奥に春人は用事があり、ようやく目的の教室の前へと立ち止まった。プレートには「文化部」と書かれているが、部活動において必要人数である五人以上に達してないため、同好会と呼ぶべきなのだが教職員らがわざわざやって来て訂正するのを面倒くさがっているため、そのままだ。
春人はそんな文化部のプレートをチラ見して部室の扉を開けると、そこには電気もつけずに席に座る一人の男子生徒が、いた。
やはり、早朝からたった一人の部員にして部長である彼は来ていて、興味ないと言わんばかりに電気をつけずに席に着いていた。彼の女と見間違えるほどの細く白い指でノートパソコンのキーを叩く音だけが、静かで薄暗い部室内に響いている。
春人は人間らしくない環境に軽くため息をつきながら、電気のスイッチを押し適当な机に鞄を置いてから、彼に声をかけた。
「おはよう」
聞こえて入るのだろうが、彼はノートパソコンの画面から顔を動かす素振りも見せずに、指先はキーを叩き続ける。彼の瞳には画面が反射しており、それが春人への無関心を強調しているように思えた。
相変わらずの無愛想な態度に額に手を当てつつ、春人は彼の前に置かれた相談席へと腰を下ろす。そこでようやく、彼は手を止め顔を上げてくれた。
「ん、何かな?」
奥にある瞳が、睨みつけるようにして春人を見つめる。別になにか怒っているわけでもなく、ただ警戒ゆえのことだ。相手が親しい親しくない問わずに、誰でも彼はこういう怯えさせる目つきで見る。もう数ヶ月も前から彼と関わってる春人は慣れているが、初対面の者なら、自分のなにかが彼を不愉快にさせているのか不安になることだろう。
気持ちばかりでいいから笑顔を意識すれば、交友関係広がるのにな。言ったところで改善する気も行動もしないから勿体ないんだけど。
と、春人は彼に会うたびについつい思ってしまう。
そんな彼の名は、赤紗理恩。春人が強襲科へと在籍する前──中学二年の秋頃──からしていた善意の人助けをどこからか嗅ぎつけて来て、僕と面白いビジネスをしないか、と持ちかけてきた存在で、いわゆるトラブル解決屋の提案者にして相棒だ。
菓子パンの詰まったコンビニのビニール袋を鞄から取り出し、春人は理恩に渡す。来る途中に買ったもので菓子パンばかりなのは理恩の好みかつトラブル解決屋としての定期報酬。彼はさも当然のようにそれを受け取り、好物のクリームパンを一つ取り出して包みを破った。
「話があるなら、要点をまとめて早く言ってる?」
「まずは昨日の件の報告」
春人は、昨日の悪質ストーカーの件の顛末を理恩に話す。トラブル解決屋の仕事は彼から貰い春人が依頼者に詳しい内容を聞き、動くという形なので報告する必要があるのだ。理恩は再び画面に視線を落としていたが、春人の話はきちんと聞いていたようだった。
ちなみにノートパソコンは彼が在籍する情報科から渡される備品ではなく、理恩の完全なる私物。校則で強く禁じられてるわけではないが、学院に持ってくる私物の範囲を余裕で超えてしまっている。以前は常識を是とする一般科目担当の教師から注意を受けていたらしいが、それを理恩は無視してなし崩し的に許される形になったのが現状。その裏でドン引くような恐喝をし黙らせたらしいが、春人も詳しくは知らない。
そんな彼はクラス内で少し恐れられている。話しかけてもろくに返事もしないでまったく協調性もない男子生徒。暇さえあれば私物のノートパソコンを弄っている暗い陰キャの男。でも過度に干渉すれば公にしたくない弱みを握ってくると。そういう風潮が出来上がるころには、ほとんどが彼と接触するという行為をしなくなった。緩やかな隔離。
危険人物に関わるべきではない、ということだ。そういう人間に関わり事件に発展した例など、今の世の中いくらでもあるからだろう。
まぁ単純に、理恩に探られてしまった自分の黒歴史を、悪く使われてほしくないだけなんだろうが。
相棒と思うほど信頼を置いている春人からすれば、赤紗理恩ほど無駄話を省いて話せる人間は滅多にいないと思うのだが。
「相変わらずバカそのものだね、君はさ」
春人の話を聞き終えた理恩は開口一番、貶す意図を隠そうともしない口調で言った。
「なに中途半端なことしてんだよ、ゴミ春人」
依頼者からの過剰払いの料金を断り、規定額しか貰わなかった春人のその判断に、理恩はいたく不満があるらしい。
「払うものは払い、善意の報酬は多めに貰う。それがビジネスの基本だろ!」
「いや、でも……」
「仕事の心構えの話しているときは黙って聞け!」
理恩に一喝され、春人は口を閉じる。
彼には事細かな個人情報を知られており、それは春人にとって絶対に秘匿したい黒歴史だ。
どうして昔の自分を知られるのは恥ずかしいのだろうか? あの頃は、がむしゃらに突っ走っていたからか。
頭の隅でそんなことを考えながら、春人は理恩による説教を聞き続ける。
「報酬を規定額しか貰わないのは、君がトラブル解決屋の仕事に絶対的な自信を持ってない揺るぎない事実だ。過程はどうあれ、ストーカー退治を成し遂げたなら、しっかり貰ってこい。アメコミのヒーロー気取りは中学生で卒業しろ。善意の報酬を断るようなヤツは、今後舐めた態度を取られるんだからな」
正論と認めたくはないが、仕事として見たトラブル解決屋としては合ってる部分もあるので、春人は反論する気持ちを抑える。簡単な言い合いで、理恩に勝てた経験はほぼない。中間も期末もテストで平均点しか取らないのに、知識も頭の回転も彼のほうが春人よりずっと上なのだ。
春人を見据えながら、理恩は二つ目のチーズ蒸しパンを開けて苛立ち気に齧る。彼は菓子パンが大好物で、大量によく食べるのだがそのわりには男子の平均と比べても細身。自分の貧弱な体躯に多少は悲観しているようで最近では前以上に食べる量を増やし筋トレをしているのだが、それでも変化と呼べるものがないらしい。そういう遺伝的な体質が影響しているのだろう。女だったら周りから嫉妬されそうだ。
「だいたい、君はなぜトラブル解決屋として動くときに拳銃を使わないんだ。なんの矜持だよ。今回の件は強襲科でも使う場面だぞ!」
「またその話か……」
春人は少しうんざりしつつも、理恩に睨まれたので口を閉じた。仕事をする上での契約時に揉めに揉めて決まらなかったのが、拳銃使用に関する件であり、春人がそれだけは頑として断り聞き入れなかったことを理恩はいまだに根に持っているのだ。
そんなこと言われてもなあ、そもそも拳銃は牽制用って思ってるし、執行官未満の身体能力のヤツに使うとか卑怯だろ。
と、頭で浮かべながら感情の籠もった深い息を、長めに春人は出す。
それに目敏く視線を送るものの、理恩は言いたいことを言って満足したらしく、ノートパソコンの画面に視線を戻す。口にチーズ蒸しパンを咥えながらも、その指はキーボードの上を滑らかに踊っていた。指はこれだけ動くのに、運動ごとは心の底から毛嫌いしているのは面白い部分だよな、と春人は多少の愉快さを抱く。
「理恩、ちょっと頼み事があるんだが、いいか?」
「情報系の依頼?」
「ああ、情報を集めてほしいんだ、有栖川家の。真偽の不確かなものも含めて、事細かにな」
詳しいことを宗介が教えずに終わった以上、こちらで調べ上げる必要がある。
理恩はキーを打つ動作を止め、怪訝そうに春人を見つめた。
「……有栖川って、あの有栖川?」
彼も昨日の春人と同じような反応をした。
旧宮家で大財閥に連ねる有栖川家と、鳳道院の複数ある分家筋の中でも末席中の末席である春人との、関係性がまったく結びつかないのだろう。
春人は事情を簡潔に説明。念のため、有栖川家の人間の警護を頼まれるかもしれない、という曖昧な言い方にしておいた。理恩のことはなんだかんだ信用しているが、信頼までには至ってないし、情報を扱う側に迂闊なことを話して、命の危険に晒すわけにはいかない。
赤紗理恩は、学院の情報科である候補生級の立場でありながら昔ながらの裏に通ずる情報屋一族の人間でもある。彼の祖父が、日米冷戦期に暗躍した凄腕の情報屋として立ち回り、日英有利の講和条約を締結させる一助になったとか。まさしく歴史の影に埋もれざるを得ない存在だが、その人脈や資金は孫にして五代目の理恩にすべて受け継がれている。本来なら受け継ぐのは成人──十八歳──を迎えてかららしいのだが、彼の父親が裏の情報屋を継承せず寿司屋の一人娘に惚れ込んで結婚してしまったからだ。
「あのさ、嘘にしても下手すぎ」
話を聞き終えた理恩は、春人を小馬鹿にして笑うことはしなかったが、口を少し開いて固まった表情をしてくる。
「どうしてだ?」
「いや、そんなの直衛隊の仕事だからだよ」
理恩が言うには、公にその存在は認められてないが、有栖川家のような巨大財閥には直衛隊と呼ばれる集団がいて、それが大財閥一族らの護衛を取り仕切っているらしい。直衛隊の多くは海外で傭兵を経験した手練れであり、銃火器の装備どころか駆逐艦数隻の独自保有すら許され、人員は警視庁の機動隊とほぼ同等。
「そんな非公式部隊なんか持ってるのか……」
国家が黙認するお抱えの私設武装組織とは、西暦の延長上を舞台にした機動兵器を扱う作品じみていた。日本どころか世界に影響力を持つ五大財閥はスケールが違う。
そう感心しながらも、春人は思考を巡らせる。
理恩の情報が間違ったことはない。直衛隊という組織は実在するのだろう。それなら一族の人間であろう成亜紗の警護を外部に依頼するのは、確かに不自然でおかしい。疑問視するのもよくわかる。
「そんな異様な仕事、誰から聞いたんだ」
「霧生さん」
「……ああ、あの人か」
こればかりは本気で不愉快そうに、理恩は眉をしかめた。彼は宗介に対してあまり良い印象を欠片ほどにも持っていない。その職業柄、宗介の様々な噂を知っているからだろう。活躍すればそれだけで恨みを買うこともある。悪評が皆無などあり得ない。良い噂よりも悪い噂が広まりやすいのは三対三十三の法則によるものでどうしようもない。
袋の中から紙パックのコーヒー牛乳を取り出し、それを幸せそうに一口飲んでから理恩は告げた。
「あんな危険人物と関わるとすぐに大変な目に遭うよ。平穏でいたいなら無視すべき存在なんだから」
「そうか?」
「良くて無期懲役。悪ければ極刑か、射殺か、焼殺か、非合法な人体実験の被験者か、趣味拷問の相手として嬲られて死ぬか……」
片手を見せて、一つずつ指を折りながら理恩は彼の想像してる様々な可能性を述べていく。
「……どれも酷いな」
「とにもかくにも、そんな危ない話は断っておくように。胡散臭すぎて、そんなの普通の常識があれば引き受けないだろうけど、春人って頭抜けてバカのお人好しだからちゃんと熟考して行動するように。わかった?」
もう引き受けました、などと口が裂けても言える状況ではなかった。
やっぱり失敗だったかな……。
曖昧に頷き床を見つめる春人は、昨日の出来事を鮮明に思い出していく。
昨日は、春人にとってかなり大変な対応だった。トラブル解決屋を豪語してるのが、恥ずかしくなるぐらいには。
成亜紗が言うには、あの白いドレスを着ていたのは、交渉を優位に進めやすいという宗介の言葉を聞いたから。目薬による演技泣きも宗介の指示。春人が台所に背を向けてる隙に、目に垂らしたという。さらに、春人の引き受ける返事を聞いて彼女の顔に浮かんだ驚きは「こいつ馬鹿か」というもので、俯いたのは笑いをなんとか堪えるため。
ああいう女々しい格好は気が滅入るから嫌いだ、とぼやく成亜紗の側で、春人は頭を抱えた。完全完璧に宗介の悪巧みに嵌められたのだ。しかしだからといって今さら断るわけにもいかない。冗談の類いだとしても、だ。春人は不満一杯の成亜紗に2DKの存在を説明。やがて成亜紗も幼いながらも理解を示してくれたが、それでも、
「一般庶民は我慢するのが得意なのだな、こんなゴミみたいなところで暮らせるとは……」
と、悪意なき暴言を言うぐらいには衝撃を受けていた。こんな自由奔放な子を預かるという無謀さを、春人はようやく実感しつつあったが、後悔してももう遅い。
これからの同居人に、改めて春人は自己紹介。
「俺は鳳道院春人。これからよろしく、ね。成亜紗ちゃん」
「ちゃん付けはやめろ、気色悪い」
まったく可愛げがなく毛嫌いじみた反応だった。普通の陰キャなら精神がへし折れるぐらいには。
偉そうにない胸の前で腕を組み、成亜紗は言い放つ。
「わたしの名は有栖川成亜紗。一応、断っておくが子どもだからといって甘く見るな。まず、わたしはこの国において絶対たる存在の有栖川だ。お前のような血筋とはわけが違う。それは、わかるな?」
ここで誠心誠意の対応を取らねば話が進まなそうなので、春人は頷き拍手した。
それを実に満足そうに見ながら、成亜紗は続ける。
「わたしは十歳だが、もう算数と音楽はマスターしている。漢字だって多少はいける。……ああ、わかるぞ一般庶民、春人よ。わたしがそれほどの知能を持つことを、おまえが疑うのも無理はない。直々に証明してやろう」
そう言って、成亜紗は手を差し出した。春人がその小さな手の平を見つめていると、成亜紗は苛立った様子で手首を上下に振る。なにか書くものを用意しろ、という意味だと察し、春人はメモ用紙と鉛筆を渡した。成亜紗は意外なほどに滑らかに鉛筆を動かす。
「どうだ、この通りである!」
相当自信満々な表情を見せ、胸を張る成亜紗。紙には「有栖川成亜紗」と書いてあった。有と川と成の三文字以外の漢字が微妙に間違っていたが、春人は見て見ぬふりをして、大げさに褒める。
うむうむ、とご満悦な成亜紗。かなり練習した成果なのかもしれない。
やっぱり血筋は良くても子供だな、と春人は思った。
「えっと、それで……」
彼女をどう呼ぶべきか思案する春人に、成亜紗はどうでも良さげに言う。
「ん? そうだったな。わたしのことは呼び捨てで構わんぞ」
てっきり「姫様」とでも呼ぶ様に強要されるのかと思い込んでいたので、春人は少し拍子抜けしたが、成亜紗は鷹揚に頷いて両手を広げてみせる。
「なに、そんなにも感動するな。わたしは、心の広き女なのだ」
「あ、そう……」
「愚かな下々の者にも、つまらぬ差別はせんよ。使用人であるおまえ如きであっても優しくするのだ」
「それはありがたいね……成亜紗」
「うむ。さて、春人よ。わたしは長旅で疲れている。用意しろ」
寝床を用意しろ、ということか。
これからのことを思うと気が重くなったが、春人は彼女の希望に従った。客用の寝室などないので、いつも使ってるベッドを軽く掃除し、新たな布団を敷いた。それが終わり次第、成亜紗の方へと振り返った瞬間、呆気に取られる。鞄の近くでゴソゴソとやっていたので当然、パジャマに着替えているだろうと思いきや、成亜紗は裸だったのだ。
「ん? なんだその間抜け面は、気色悪い」
口が半開きになり言葉が上手く出てこない春人を、成亜紗はバッサリと切り捨てる。一度深呼吸してから春人が尋ねると、家ではいつもこうして寝ているのだと、成亜紗は答えた。彼女用の荷物が詰まった鞄には、服や下着などはあれど、パジャマは一切なし。
確かに、全裸で寝るというのは世界的に見れば無くもない。そうとは理解しながらも、成亜紗のあまりにも無防備での脱ぎっぷりの良さには驚くほかなかった。まるで恥じらいなどなく、むしろさっきよりも堂々とした仁王立ちスタイル。桃太郎というより金太郎的な態度。
せめてもの安心感は、春人のど真ん中たる好みが、肉体的にも精神的にも成熟している女であるということ。まだ胸の膨らみもない成亜紗の貧相な体は、純粋に健康的な美しさしか感じず、興味としても異性としても完全なる対象外。なので目のやり場に困るということは確実にあり得ない。
「こんなベッドで寝るのか……」
成亜紗が認識するベッドより小さかったのか、またカルチャーショックのようなものを受けていたが、「地面よりマシだな」とまた悪意なく暴言を吐き、口に手を当てて上品に欠伸を漏らしてから、ベッドへと潜る。そして春人に電気を消すように言いつけると、間もなく寝息が聞こえてきた。
何故そんなにも物怖じしないんだ、と春人は本気で感心。
初めての部屋。そして初対面の相手のすぐ側で、こうも自然と振る舞える豪胆さは、自分の幼い頃とは比べ物にならない。身近に頼りになる人がいなければ絶対に眠れなかった昔を少し思い出しながら、春人はトラブル解決屋の仕事が終わるまで、遊びなどで会えないことを中学時代の友人なども含む複数名にメッセージを送る。
その後、指紋認証と暗証番号必須の金庫から拳銃を取り出し、春人自身の鞄へと入れて、成亜紗が扱えないよう南京錠を取り付ける一連の作業を行った。
よほど疲れていたのか、成亜紗は翌朝になっても目を覚まさず、彼女が起きないようにそっと部屋を抜け出し、春人は新聞部へと来たのだった。
それにしても、よく寝てたな……あの子は。だとすれば、あれだけ疲れ切っていたのは、来る道中にて納得できるほどの疲労があったということか。やっぱり、裏に何かある……のか?
春人がそんなことを考えている間にも、理恩の話は続いていた。
「卑劣な暴力に、それ以上に卑劣で理不尽な手法でねじり潰す。それが霧生宗介の戦い方なんだよ。そんなのに関わるとか絶対に、間違いなく不幸の坩堝に飲まれるから、最大限距離置いときな。春人って稀に見るバカなんだから、利用されまくるよ」
「いや、俺なんかを利用する価値なんか……」
「バカはバカなりに使い道あるんだよ。仮にも鳳道院家の末席なんだからさ。念のため有栖川家の情報は集めておくから、本当に警戒怠るなよ、バカなんだし」
「ああ、わかったよ」
「それと、君は……」
理恩がなにかを言いたそうだったが、ホームルーム十分前を告げる音が聞こえたところで話は終わらせるほかなかった。
春人は鞄を取って自分のクラスへと向かうが、理恩は部室に残ったままだった。一般科目の授業はつまらないから受ける気すら起きないと言う。それに、気の毒だろう僕から指導を浴びせられる教師が、と。
春人は相棒の矯正しきれぬ性格のひん曲がりように辟易としながら、部室の扉を閉めて来た道を戻っていった。
さて、取り敢えずは今日一日を乗り切ろう。その後で、成亜紗にいくつか訊きたいこともある。やることがある、というのは気分が良い。余計な思考に割かなくていいからだ。
春人は大きな欠伸をし、気持ち晴れやかな感じでホームルームと一時限目の数学の授業を受けていった。
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