第五話 高貴な血筋との出会い
部屋に入るとすぐに、宗介の背後にいた人物が彼のカシミアのコートを脱がせた。その人物がカシミアのコートを丁寧に大事そうに畳む様子を見て、春人は目を丸くする。
「……いたんですか、辻原さん」
「はい、いました」
言葉少なくそう答えたのは、宗介の部下である女性、辻原音葉。背が百六十センチあるかないかくらいの、冷たいという印象を抱かせる二十代前半くらいの美人。しかし瞬きをするだけすぐに記憶から消えてしまいそうな、不思議な感覚を常に持たせる。派手な宗介の側にいることもその一因なのだろうが、声を出すか、宗介が接しなければ、誰かに気づかれる可能性は限りなく低い。春人が以前訊いたところによると、かつては政府によって育てられた暗殺者だとか。冗談を言う性格ではないのでおそらく本当なのだろう。
宗介の背後に控えるように立つ彼女の手には、大きな旅行鞄が一つ。
今日の訪問と関係あるのかな、と気にしながら春人は台所で茶葉を入れ沸かす。音葉は他人から渡された飲食物に一切口をつけないので、三人分のお茶を用意。それを膝下テーブルの上に置き、かしこまるように正座をしながら春人は宗介の言葉を待つことにした。
一度お茶に喉を通しながら、宗介は真剣な眼差しで話しを切り出した。
「この子を守ってやってくれ」
前置きなしの、本題。
春人は、隣にちょこんと座る少女を改めて見つめる。一瞬、現実を忘れそうになった。
まるで、絵本から飛び出してきたかのような少女なのだ。それも、悪しき怪物を倒し貴族の娘と結ばれるような古い外国の童話。少女が着ているのが見事な白いドレスであることも理由だが、もちろん、それだけではない。長い髪も、日本人離れした青い瞳も、細い手足も、薄い唇も、伏せられた眼差しも、白い肌も、すべてに気品が溢れており、とにかく整い過ぎている。女児趣味など欠片どころか微塵も持たぬ春人ですら、目を奪われる可憐さは末恐ろしいほど。
少女が宗介と並んだ姿は、悪しき人身売買で買い取った子をどうするか悩んでいる図、といったところか。見知らぬ他人ならこれを目撃した時点で、警察に通報を即座に決めるほどだろう。
春人は気を取り直して、宗介に視線を戻す。
「……つまりは仕事の依頼ってことですか?」
「ま、そういうことだな」
察しが良くて助かる、と宗介は軽い口調だったが、聞いている春人は心臓の鼓動が速まるのを強く感じた。宗介は春人にとって、ただの知り合いではない。恩人であり、目標なのだ。
霧生宗介は大手の民間企業をスポンサーとして動くフリーの執行官。その実力は本庁外の中では業界最高クラスと言われる存在。活躍の場は全世界規模で。武勇伝は数知れず、春人のような駆け出しの新人から見れば、まさに理想の強者そのもの。春人が緊張するのも無理なかった。
焦る気持ちを落ち着けながら、春人は考え始める。
多忙な宗介は、自身に来た依頼を他の執行官に回すことがある。もちろん、それは宗介が信頼足りうる相手限定。だから、候補生級程度の自分に宗介からこういう話が来たことは嬉しい事柄だ、と。
しかし、その内容が問題。そもそも、この少女は誰なのか。
「名は有栖川成亜紗。今年で十歳になる」
春人の疑問を即座に察して、宗介が先回りするかのように紹介してくれた。
吸い終えたタバコを膝下テーブルの上に置かれた灰皿に押しつけ、新たな一本を銜えると、慣れた動作で後ろから音葉が微かに頬を染めながら手を伸ばし、ブランド物のジッポライターで火をつける。
それを見つめながら、春人は尋ねた。
「……もしかして、あの有栖川家ですか?」
「それ以外でここに連れてくるか?」
それもそうか、と違和感を残しつつ納得。春人は再び少女を見つめる。
宗介が絡むような有栖川家と名乗る血筋は、この国に一つだけ。日本帝国の皇室においては大正時代まで存在していた宮家であり、かつては「高松宮」の宮号だったが、宮号を有栖川宮に改めた歴史がある。現在では公爵華族代表である徳川宗家などの支援を受けて、世界全体の数パーセントに及ぶとされるほどであり、日本五大財閥の一角を担っている公爵の有栖川家。執行官の御三家と同等以上の存在。皇室を除けば名家中の名家。
この少女が、そんな歴史ある高名な一族の人間だというのか。
唖然とした顔で見つめる春人に気づいても、有栖川成亜紗は一度も視線を上げなかった。行儀良く座り、眼差しは一点方向を見つめ静かに伏せられている。その口は固く閉ざされ、なにも語ろうとはしない。
「……つまり、この世界的な良家のお嬢様を自分に守れと?」
「そうだ」
「誰に狙われているんですか?」
「それは言えない」
「狙われるだけの理由は?」
「答えられない」
「どうして自分なんかに?」
「それなりの腕があり、適任と思ったから」
「いや、だってそれ、大財閥の有栖川家直々の依頼なんですよね? 自分なんかより霧生さんのほうが……」
「他の仕事が立て込んでいる」
「そんな適当な……」
「まあまあ、安心しろって春人。ここなら間違いなく安全だろ?」
「まぁ。それは確かに……って、ちょっと待ってください。まさかこの部屋で、この子を預かれって言うんですか?」
「問題あるか? 若きトラブル解決屋」
「問題しかないでしょう……霧生さん」
春人の困惑をよそに、宗介は涼しい顔で顎に手を当てながらタバコを吹かしていた。
詳しい事情を説明せずに、こんな幼い少女の警護をしろという。しかもその少女は、あの皇室と縁ある大財閥の有栖川家の人間。普通なら一考する余地すら残らないほど胡散臭い依頼であり、すぐに断るのが妥当。だが、相手が他でもない宗介とあれば話は別。春人は宗介を心から尊敬しており、忘れようもない恩義もある。真剣に検討しなければならない。
参ったなあ……これは。あまりにも俺の技量と依頼が不釣り合いすぎる。
返事をするまでの猶予を得るため、春人は湯呑み茶碗を持ち、腰を上げて台所に向かった。薬缶に残った茶を湯呑み茶碗に注ぎ、一息に飲み干す。熱い液体が口や食道を通る感覚を、目を閉じて味わう。活発になった血流が脳にまで影響を与え、いくらか思考の回転が良くなった気がした。
冷静に一つずつ考えてみる。
誰かを直接護る、警護職務の仕事は初めての経験だ。自分と警護対象、単純に考えて周囲の警戒範囲が増え苦労する。しかも、事態に対して常に受け身。生半可な覚悟では成し遂げられない。音葉が持ってきた旅行鞄は、間違いなくこの有栖川成亜紗の私物。護身用の道具があるかどうかも不明。なのに春人は必ず依頼を引き受けると、宗介は核心を持っている。普通のマンションより狭いこの部屋で、気を張って暮らせというのか。
春人は膝下テーブルに戻り正座のままで考え込むが、結論を出せず、もう一度警護対象の少女へと視線をやる。
思わずドキリとしてしまう。
有栖川成亜紗が初めて顔を上げ、こちらを黙って見ていたのだ。
幼い瞳は、うっすらと涙で濡れていた。その純粋な輝きに春人は目を離せなくなる。
彼女は十歳。それくらいの頃の自分は、今と比べて多くの言葉を持たなかった。だから苦しいときはその意思を瞳に込めるほかなかった。助けて欲しいのに、その苦しみが大きくて言葉にまとめきれず、黙って見つめるしかなかった。相手はそれだけで察してくれると、自分の気持ちを絶対に理解してくれると、助けてくれると、そう信じていた。今となっては脆弱な間抜けで、子どもの幻想。都合の良い考えなどと戒められるが、でも、新たな家族の皆はちゃんと受け止めてくれた。いつも話を真剣に聞いてくれた。そのときの喜びを、忘れてはいけない。
ならば今、春人に出来てやり遂げなければならないことは一つ。
「で、どうする春人?」
「引き受けます。候補生級としてもトラブル解決屋としても」
春人の感情の籠もった目つきを見て、宗介は満足そうに薄く笑い、有栖川成亜紗は心の底から驚いたように目を見開く。春人が無言で頷いてみせると、有栖川成亜紗は焦った様子で俯いた。なにかを我慢するかのように。
さて、これからは想像以上に大変になるぞ……。
抱えることになろう苦労は、今までの仕事の中で最大にして最上級。しかし春人は楽な人生を望んで執行官の道もトラブル解決屋の道も選んだわけではない。それに、少しばかり気分は良かった。それは多分、この選択が正しいと心底思えたからだろう。
春人はそう思った。
そう、このときまでは。
◆
宗介と音葉を敷地外まで送ることにした春人は、有栖川成亜紗を部屋に残し外に出た。
すでに日は暮れ、辺りは夜特有の暗さをしている。岩紫暮荘を囲む樹木が夕方よりも一層巨大に、そして活性化しているように見えるのは、春人の錯覚だろうか。
風に揺れる葉の音を聞きながら、春人は宗介たちと門まで歩く。
「でも、本当に、どうして自分のところに連れてきたんですか?」
「なんだ不服か?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ならいいじゃねぇか。つーか前にも話したが、オレは仕事において大事なことは直感で決めることにしてる。理屈抜きの即断即決ってヤツだな。今までずっとそうしてきた。んで、今回の件は、その直感がお前がいいんだと告げてきたのさ」
「……なにか隠してませんか?」
なにやら含みがありそうな、宗介の言葉。
春人が警護職務を全うこととは、少し違う期待がありそうな気配を感じ取った。
「残念だが、それは言えない」
タバコを銜えたまま、宗介は春人の頭を撫でながらニヤリと笑う。
この秘密だらけの歪さ。やはり胡散臭く難しい依頼だ。
それでも悩みながらも引き受けた以上、最善を尽くすしかない。
「春人、お前に期待している。こればっかりは、オレでは遂行できない依頼なんだ」
「また卑劣な手か」
門の側にある薄闇から、そんな侮蔑を込めた声が聞こえた。
春人がそちらへと向くと、まずは小さな赤い光とそこから伸びる煙が見え、続いてその薄闇から滲み出るようにして知り合いが姿を現す。赤い光はタバコの火。知り合いは、タバコを燻らせるは影架。全身黒一色の服装は、周囲に広がる闇に溶け込み隠に長けた殺し屋に見えた。
とっくに気づいていたのか、春人とは異なり宗介らは驚かない。
「おーおー相変わらず不気味だな、影架」
「そう言う貴様も相変わらず悪辣だな、宗介」
春人も詳しく聞いたことはないのだが、この二人は昔からの知り合いらしく、顔を合わせると嫌味なようなものを言い合う。雰囲気は正反対ともいえる二人だが、人目を惹く容姿の良さ、そして口にタバコを銜えたところだけはそっくりだった。この二人を知らぬ人から見れば、旧知の会話と思い満足するのだろう。
だが二人が話すたびに、影架を嫌悪の表情で睨みつける音葉に関しては、どうにかしてほしいところだが。
「宗介、子どもはどうした?」
「知らん。オレがいなくても生きていけるよ」
「哀れ、だな」
「何がだよ?」
「お前のような父親に育てられるという事実が、どうしようもなく哀れだ」
「あ? 喧嘩売ってんのか? 女だろうがオレは殴るぞ」
軽い睨み合いが始まり、いつもなら春人はただ静観するだけなのだが、今日は気になることが一つ。
「……霧生さん、子どもいるんですか?」
「ん? ああ、いるぞ」
あっさりと何気なしに肯定されたが、宗介に憧れがある春人にとってはわりとショックな事実。宗介の実年齢はわからないが見た目に関しては二十代後半あたりくらいで、その私生活は知らないが、側近である音葉の態度から二人は交際しているもののと思い込んでおり、まさか子持ちとは思わなかった。付き合いは長いが、今までそういう話題を避けてきたからだ。なにせ宗介と父親のイメージは対極だと決めつけていたから。こんな人に子育てなんて出来るのか、と質問を畳み掛けてみたかったが、野暮なような気しかしないのでやめておく。
「んじゃあ、あとはよろしく頼むぜ、春人。近いうちにまた連絡するわ」
はい、と春人が内心で驚きつつも頷く側で、影架は宗介を冷ややかに見つめていた。黒い革手袋に包まれた指でタバコを挟み持ち、その火先を宗介に向ける。まるで咎めるみたいに向け続ける。
「おまえが外道として名を馳せるのは勝手。因果応報が巡り地獄に送られようが当然だと思うが、前途ある有望な少年を、そちらに引きずり込むものじゃない」
「残念。今回は無償の善行なんだよ。オレにとっては、とても珍しくな」
宗介が苦笑を浮かべると、少し感傷に浸る声と紫煙を、一緒に吐き出す。
「あいつとの、約束でな……」
どういう意味なのか気になったが、それについては春人は訊かなかった。さすがに訊ける話ではないだろう、という直感と、なんでも訊けて必ず答えをもらえたのは小学校時代までだ。今はもう。答えは自分で見つけるしかない。見つからないなら、自分の知れる範囲で納得していくしかない。それがどれくらい上手く出来るかの差異が大人かどうかの違いだと、春人は思う。
宗介と音葉の二人を見送った春人は、有栖川成亜紗のことを影架に話しておこうと判断したが、彼女の姿は一瞬のうちに消えてしまい見当たらなかった。まるで、必要な会話を終えたので夜の闇と同化していく歴戦の暗殺者のごとく。かすかに残るタバコ特有の煙だけが、彼女がそこにいた足跡。
それを嗅ぎながら、まあ明日でも問題ないか、と思いつつタバコを拾い完全に火を消して春人は部屋に戻ることにした。
これからしばらくの間、同居人が一人。しかも幼い女の子。自分に兄以上の好意を向ける灯那と鉢合わせたらややこしくなるのは確実。なら両親の二人が成績のことで心配していた、とでも言っておけば家に押しかける日はかなり減らせる。ああ見えても鳳道院家としての誇りはかなり強いからな。問題はあんな童話のお姫様みたいな子に、どう接したらいいかだろうか。一つ下の女の子なら中学校のときに親しくなったことがあり慣れているが、それより下だから難しい。誰かに命を狙われているのなら、さぞかし不安だろうし、ここは壊れ物を扱うように優しくするべきか。
そう春人が考えをまとめつつ部屋に戻ると、有栖川成亜紗はさっきと同じように、行儀良く座ったままだった。部屋の主である春人を、健気に辛抱強く待っていたのか。
春人はより一層気を引き締め、なるべく優しい口調を意識しながら挨拶。
「大変だと思うけど、これからよろしくね成亜紗ちゃん」
彼女の頭を慈しむ意味で撫でようと、伸ばした春人の手は、明確かつ素早い動きで、パシリと跳ね除けられた。
「気安く触るな下郎。殺すぞ」
それが有栖川成亜紗の放った第一声。
ん? これは、一体どういうことだろうか。
唖然とする春人の前で、成亜紗はスッと立ち上がり自分用の荷物が詰まった旅行鞄のところへ移動。そして鞄を開くと、着ていた白いドレスを躊躇なく脱ぎ始めた。まるで、邪魔なものを取り払うかのように。
この場合どういう声をかけていいのか、それ以前に成亜紗の言葉は幻聴だったんじゃないのか、などと春人が混乱しているうちに、彼女は着替えを終える。これもまた、絵本から抜け出したかのような格好だった。ただしお姫様が出てくる王道の物語ではなく、 活発な幼い少年が活躍する冒険物。男物らしき灰色の英文字入りのTシャツとデニムの青い半ズボンを身につけ、その上から厚手の黒ジャンバーを着た成亜紗は、頭を軽く振りその勢いで長い髪を整えてから、春人の方へと目を向ける。さっきまでの可憐さはどこかへと消え失せ、今は生意気さ全開の傲慢そうな表情を浮かべていた。
小さな胸を反らすかのように顎を上げ、成亜紗は腰に手を当てる。
「おい、おまえの名は?」
「え?」
「日本語さえわからんのか。わかるなら答えろ。おまえの名を言え」
「……鳳道院春人」
「覚えよう。それで、わたしの部屋はどこだ? すぐに案内しろ」
「ここだけど」
「なんだと? じゃあ食堂は?」
「あそこだけど」
「リビングは?」
「ここだけど」
「では寝室は?」
「となり」
その言葉に一度視線をやったあとも、成亜紗の質問は続く。
「……浴室は?」
「ないよ。でも、近くに常連の銭湯があるから……」
一通りの質問を終えた成亜紗は、その内心の苛立ちを表すかのようにつま先で床を乱暴に踏み鳴らしまくり、部屋をぐるりと走って内見した。それから春人の顔を見て、もう一度室内を見回して、再び春人の顔に真意を確かめる視線を送る。
「……ふん、そうかそうか。わかったぞ、そういうことか。実に不愉快なことだ。おまえ、わたしが子供だと思ってバカにしてるだろ! こんな貧しくみすぼらしいボロ小屋に人間が住めるはずがないだろ!」
とても他の住人には聞かせられない言葉だった。
現実から逃避するように視線を巡らせた春人は、成亜紗の脱ぎ捨てた白ドレスの近くに、目薬の容器が落ちていることに気づく。
まさか、さっきの涙やドレスは……演出か? 自分にこの仕事を引き受けさせるために? だとしたら……
「おい! なんとか言ってみろ、この一般庶民が!」
成亜紗の強気な声を聞きながら、春人は影架の言葉を思い出し気持ちが抜けた表情になった。
女難の相、大当たり、か。
毎週金曜日への投稿を心掛けております。