第四話 非合法な裏バイト
「なにも悪いことしてないのに、あなたが謝る必要性はまるでないですよ」
男の視線が美紀から逸れ、彼女もその声の主へと目を向ける。
部屋の入り口に、一人の少年が立っていた。
日本人にしては顔が整っており女性ウケするイケメンだが、他者に本心を隠そうとする雰囲気があって話しかけにくい感じがする。背は思ったほど高くはないが、低くもない、およそ百七十後半といったところか。学校帰りなのか、中学生が着る制服姿で、脇には中学生には似つかわしくない革製の鞄を抱えていた。
美紀は前に一度だけ、この少年と会ったことがある。
少年は軽く頭を下げ、後頭部を擦りながら困ったような表情で告げた。
「いや~、遅れて申し訳ありません。本当はもっと早くに来るべきだったんですが、準備に少し手間取ってしまって。玄関の鍵、勝手に開けたことについては謝ります。ただ、この鍵は早く替えたほうがいいですよ。ネットで買える安めの道具で簡単に開けられますから」
「おい、誰だお前は」
男は美紀から手を放し、少年をジッと観察していた。
少年は、軽く息を吐いて答える。
「トラブル解決屋の春人だよ」
「とらぶる、かいけつや……?」
聞き馴染みのない職業に男は美紀の方に向き直ると、再び彼女の顎を掴んだ。
「こいつ何なの?」
「……は、春人くん、この男、この男よ!」
恐怖で萎縮していた気力をなんとか奮い立たせ、美紀はやっとの思いで叫ぶ。
「このキモい男が、ずっと、わたしを……!」
「っ! ぼくを侮辱するなクソ女が!」
男は拳を振り上げ、美紀は目を瞑ったが、予期していた痛みは襲ってこなかった。春人の投げた学生鞄が、猛烈な勢いで男の首に当たる。喉仏に当たったのか男が苦鳴を上げ、美紀から手を放した隙に、春人はたったの三歩で美紀にたどり着き彼女を自分の後ろへと引っ張って下がらせた。
「大丈夫。この悲劇は終わらせます」
春人は淡々とそう言ったが、美紀は彼の腕が微かに震えていることに気づき、途端に不安になる。だからといってこの状況では迂闊に動くこともままならず、十字架を握りながら祖母に習った聖人らの名前を心の中で唱える。
男は春人の登場に驚きつつも、それでも冷静に分析。春人から距離を取るように後退し、腰の後ろから凶器を取り出した。それは一般的にナイフといった類ではなく、四十センチ近い牛刀と呼ばれるもの。それを見せつけるよう振り回したあと、春人に接近。刃物を前にすれば誰しもいくらか動きが鈍るもの。だが春人は突き出された刃先を難なく手の甲で逸らし、男の心臓に容赦なく力ある拳を放つ。よほど的確な位置を当てたのか、それだけで男は苦悶な表情を見せる。だが春人はそんな男に対する追撃を止めない。すぐさま股間を蹴り上げ、蹴り上げた足が床に着くや否や体をしゃがめた反動を活かした拳を喉目掛けてめり込ませた。
それだけの連撃を浴びながらも左右の手で胸と股間を押さえながら男は数歩進み、しかし春人にも美紀にもたどり着けず、前のめりに倒れた。美紀がそっと覗き込んでみると、男は口から泡を吹き、完全に失神。
春人は自分の鞄からガムテープで手足を何重にも縛り上げてから、美紀に告げる。
「取り敢えずは、こんな感じで」
「終わったって……こと?」
「ああ、紛らわしい言い方してすみません。まだ仕上げは残ってます」
春人は美紀の縄を解くと、男の体をその縄でさらに縛ったあと肩に担ぎ上げた。スポーツでもやってそうに見えなかったが、自分より大きい男を軽々と玄関まで運んでいく。そして、携帯電話を取り出し誰かと連絡。しばらくすると、玄関に屈強そうな男たちが現れた。
いずれも人相が悪く、普通の人に見えないため美紀は春人に騙されたと疑ったが、彼の失笑により直々に否定される。
「いや、驚かしてしまいましたね。今回の依頼は身の安全の確保って、話でしたね?」
「……そ、そうだけど」
「そのためには、この男を確実になんとかしなくてはいけない。こちらのみなさんは、その仕上げに協力するために来てもらったんです。依頼者であるあなたに危害は絶対に加えませんので、ご安心を」
春人は気絶した男を玄関に無理矢理正座させる形にし、首根っこを押さえ親指を当てグッと押し込む。するとたちまち男は覚醒し、自分の置かれた状況を見て暴れるかに思えたが、意外にもおとなしかった。
「……はは、諦めないぞ」
美紀を見つめながら、男は声に怨念を込めるようにして言葉を紡ぐ。
「ぼくは、絶対に諦めないぞ。必ず、きみを、支配し壊してやる」
男は次に、春人へと目を向けると口元に余裕ある嘲笑を浮かべていた。
「おい、ぼくをどうするんだ? 警察か? リンチか? なにをしても意味ないよ。無駄そのものだから。おまえのことは、一生忘れない。ぼくは、しつこいぞ。何年かかっても、追い詰めまくって、生きてきたことを後悔させてやる。ぼくを、舐めるなよ」
男のその言葉の節々から本気だとわかり、美紀はいつか自分と春人に訪れる破滅を予感したが、春人は携帯電話で時間を気にしており、男の話そのものを無視しているようだった。
「えーと、見立正則だったな」
男は答えなかったが、春人は携帯電話を制服の内ポケットへと仕舞いながら続ける。
「良い携帯電話を持つのが常識になってる現代だぞ? 画像一つでもあれば調べがつくよ。それで、あんた、寒いのは平気な部類か?」
「……なに?」
「いや、なに向こうは寒いらしいから大変だろうなあ、って思っちゃってさ」
春人は玄関の外で待機していた男たちに指示をする。男たちは見立の口に猿轡を手慣れた様子で噛ませると、そのまま数人で担ぎ上げた。いったいどうする気だ? と困惑する見立にら春人は懇切丁寧に教えてやることにした。
「実はとある外国の地下に作られた巨大冷蔵施設を舞台にした闘技ショーが開催されてる。ところが、困ったことに大会に参加してくれる選手がなかなか集まらないらしい。好きな武器を使っていいらしいんだが、一般人では見応えがないとか。この手の賭け事は刺激が第一。でも派手に誘拐をやると警察とかに目をつけられて面倒そのもの。なので一層のこと世界や国に対して慈善事業しようって話になったんだ。活気があり、今日いなくなっても困らない人間を連れてこようってね。それを聞いてあんたにピッタリだ、と思って俺が推薦したわけ。あんた、ストーカーしてたくらいだし根性あるだろ? 武器を使うことに躊躇いなし、もちろん体力もある。まさに適職だね。向こうで頑張ってきなよ。大会で優勝すればファイトマネー出るらしいし、日本からその手のが来ることはあまりないから、刺激を求める観客から喜ばれると思うよ」
見立は顔面蒼白になった。自分を担ぐ男たちの風貌、そしてこれらの筋の者が下請けとなる実体を理解し、春人の話が冗談ではないと気づいたのだろう。これから数年、自分は使い捨ての選手として利用される。いや、生き延びられるかどうかも怪しい。この種の興行で、しかも、犯罪者ばかり集められるような場合、人を殺すことに嫌悪感を抱かないヤツしかいない。それに「優勝すれば」ってことは、優勝以外ではまともな賞金も生活環境も整えていないということだ。これは生き地獄と言える。
見立は今頃になって命乞いをしたが、生憎と猿轡のせいで、誰にも意味が伝わらなかった。
初戦で死なないようになー、と春人はどうでもよさそうな口調と目つきで、雑に手を振って見立を送り出す。
玄関のドアが閉まっても、美紀はしばらく呆然としていた。
これで、終わり? と美紀は感じる。
「あ、あの、今の話って、本当なの?」
「はい、本当ですよ」
春人の頼んだ業者は、とある組織の末端の末端の末端に位置し、その組織内の秩序を乱す存在や生意気な犯罪者などを多く雇い入れるところで、一度雇い入れた人間は仕事が終わるまで決して逃がさない、と春人は美紀に説明。
美紀としては、いい気味だという私情的な気持ちと、過剰な対応ではという理性的な気持ちで半々だったが、それを察したのか、春人はさらに説明を続ける。
知り合いの仲介役に調べてもらったところ、見立正則は前科二犯。半年前に出所したばかりで、以前に犯した二つの事件は、どちらも傷害と監禁に脅迫。被害に遭った女性は心身共に深い傷を負い、入院処置が必要だった。要するに反省というものがない常習犯なのだ。普通なら警察に突き出して終わらせるべきだが、大学生の見立は弁護士一家であり、外聞を気にした父親が政財界や法曹界の人脈を駆使し、減刑を通すため軽微な懲役刑になることは確実。
もし出所すれば復讐を企むか、別の相手を探す可能性しかない。それならば、と独自に春人は対応することにしたのだという。
「可能性は低いですけど、万が一脱走したときは業者から連絡をもらうことになってます。そうなったら、俺が必ず捕まえて、意識ある状態で臓器提供者になってもらいますよ」
そんな形での臓器摘出行為は立派な犯罪なはずだが、春人はそう言いきった。
ようやく安堵した美紀は、春人という少年を改めて見つめ直す。
大学の友人たちに相談したときに、その一人が何気なしにしてくれた噂話。多少危険なことでも金さえ出せば仕事する、いわゆる探偵屋の亜種みたいなのがSNS上にて、「トラブル解決屋」という名前で喧伝しているとか、というその話に美紀は飛びつき、そうして春人とメッセージのやり取りをしたのが数日前。
一万前後という料金から考えても気休め程度にしかならないだろうと思い、依頼したことを半ば忘れてさえいたぐらいなのに、まさかこれほどまでに完璧に解決してみせるとは。
「それでは、依頼完了したので料金をいただきます」
「ありがとう」
美紀ら嬉しさのあまり春人の両手を握り、そのまま抱きしめそうになる自分の気持ちを抑え、封筒の中に指定料金以上の色を添えた額を入れて手渡した。感謝を示し受け取った春人は、中身を確認し四枚ほど抜き取り、美紀に返す。
「ギリギリのタイミングでしたのでね。料金以上は受け取れませんよ」
「えっ、でも……」
美紀としては十倍の額を請求されても妥当だと思うのだが、春人はさっさと封筒を鞄にしまう。
「では」
「あ、あの……」
もう少し会話したいと美紀は思ったが、春人は手を軽く振り、玄関のドア向こうへと消えてしまった。これが、トラブル解決屋というものなのか。
閉じられたドアをしばらく見て、美紀は力が抜けたように床に腰を下ろした。窓の外には赤く染まった空。いまが夕方なのだと、初めて気づく。
ようやく不安要素が消えて静寂が戻った室内。取り戻した本来あるべき平穏。窓から吹き込む冷たい風を感じているとら死さえ覚悟していた絶望も、どこか遠くに感じていって現実味が薄くなっていく。
この神奈川特区という街は怖い、と思う。でも、住む場所を変えてもまだこの街にいようと思う。
恐ろしい悪意もあるけれど、それに負けない力も密かにあると知ったから。
美紀は、その手にまだ十字架を握っていることに気づき、久しぶりに祖母や両親の声が聞きたくなった。しばらく連絡してないので、きっと心配してることだろう。口喧嘩になるかもしれないけど、いろいろと話したいなという暖かな気持ちでいる。
美紀はドアにしっかりと鍵をかけると、故郷に電話することにした。
◆
「……うーん、どうするか」
三島先輩との買い物が今回も目当てのシュークリームが買えず、トラブル解決屋という非合法バイトを終えた帰り道。駅前のスーパーで夕飯の買い物をした春人は、途中の家電量販店で、赤外線スペースヒーターと炬燵セットが三割引きで売られているのを見つけ、その前でしばらく悩んでいた。これからの季節、このような暖房器具があれば妹やご近所のためになるが、頭の中で数字を並べ、結局は諦めた。そのかわり、近くの顔馴染となった個人店の店主からタバコを一箱購入。銘柄はいつものやつ。それを知らない大人に見つからないようズボンのポケットに入れ、片手に買い物袋をカゴに置き、自転車を押して春人は家路につく。
古き良き商店街を吹き抜ける冷たい風は、冬の到来を待ちわびてるかのようだ。元気に走り回る小学生の集団の中には、厚めのパーカーを着込んだ子もいる。主婦たちが少し急ぎ足のように見えるのも、日が暮れると今より冷えることを懸念してのことか。まだ十月だが、場合によっては急な雨が降り出しても驚きはすれど納得しそうな寒さ。電柱に繋がれてコンビニに立ち寄った飼い主を待つ犬も、毛並みが薄いためが寒さに身をすくめているようにも見えた。
春人が学院に入ってから、最初の寒露ごろの秋。つまり、トラブル解決屋という非合法職を始めてまだ一年にも満たないということ。それなりに上手くやれているはずだ、と春人は不安になりつつ思う。
多少の感謝と憎悪たっぷりの瞳とバイトの範疇に留めた謝礼を得ながら、入院しない程度に続けられている。
七年前のあの日を思い返せば、想像もつかないほどに立ち向かえている、今の自分の姿。
ふと落ちかけている夕焼け空を見上げると、呑気な鳴き声を響かせながら飛んでいく鴉の群れ。それは昔と何一つ変わらない日常の風景。マスコミはしきりに環境破壊の深刻さについて警告し、海外の環境保護団体の声明を次々読み上げるが、この日本帝国にて騒ぐ大事な話なのか甚だ疑問だ。本当はそんなに心配するほどじゃないのかもしれない。まあ、自分たちの存在が与える環境の変化にまで気を配る奇特な生物は、地上の支配者と思い上がってる人間だけだろうけど。
そんな役にも立たないことを考えつつ歩いていた春人は、今日の記事に目を通してないことに気づき、携帯電話を開き犯罪系のニュースが載っているサイトに繋げた。一覧に表示されてるのは、相変わらず気分が滅入るような事件が大半だった。イタリアで北アフリカから来た不法移民が家に侵入して女性を誘拐しようとしたとか、インドにて大型トラックで仮眠していた運転手がいるのに襲撃した犯人がいるとか。国防大学生を刺殺した国内の過激派市民団体の幹部。告白を断られたという理由で階段から突き落とした女子中学生などだ。
あまりにも凄惨で陰鬱な最近の世相に、春人が思わず「神様を信じてる宗教や信者が馬鹿らしくみえるな」と訊くと、トラブル解決屋の相棒たる赤紗理恩はこう答えた。
「鳳道院家とか関係なく、そうやって変に捻くれてるから友達が少ないんだよ? 君は。宗教は精神的な平穏を知る場所だ。それがなくなれば『これ以上』に最悪になるよ。だってそうだろ? 争うことが日常になるんだから」
ならば神様は、平穏じゃない場所が増えて限界を迎えてるのかもしれない。
だからあのときも、助けてくれなかったのか。
春人は気分が重くなるのを感じ、サイトを閉じて携帯をしまうと、視線を上げて歩き続けた。途端に吹き付けてくる風の冷たさに閉口しつつ、商店街を抜けて西側へと繋ぐ橋を渡り並木道を通っていく。
春人の住む岩紫暮荘は、学院とも繋がる駅から徒歩三十分ほどの場所にある古いアパート。豊富な樹木に囲まれ、そこだけ昭和後期ごろかのように、ひっそりと存在している。鉄筋コンクリート製の二階建て。部屋は一号室から三号室まであり、全六部屋。各部屋の間取りは一緒、六畳二つにリビングダイニングに個室トイレ付き、風呂は無し。
古い石造りの門を通り、わりと広い敷地へと入ると、そのすぐ右側には大きな木。樹齢が想像もつかないほどに立派で、この建物の歴史を数々見てきたであろう主だ。
春人がいつものように視線を上げると、そこには知り合いがいた。太い枝に腰を下ろし、幹に背中を預けた一人の女性。その服装は、頭の上から足の爪先まで黒一色。つばの拾い黒の帽子、黒革の手袋、黒いブラウス、黒いロングスカート、黒いピンヒール。拳ほどのサイズのドクロが付いた首飾りが唯一のアクセサリー。膝の上に野良の黒猫を乗せた彼女の姿は、ほとんどヒロインを弄ぶ系の魔女にしか見えない。
老木に寄り添いながら夕闇を見つめる、黒き魔女。
「どうも、影架さん」
春人が普段通り話しかけると、それまで遠くを見つめていた感情が読めない黒い瞳がこちらへと向けられた。生気がわからず、それでいて吸い込まれそうなほどの妖艶な美を持つ顔は無表情だったが、春人よ姿を捉えると、何らかの意図ある含みの笑みが浮かぶ。
「やあ、少年。いつものバイト帰りかい?」
「はい」
「誰かのために働くのは美しい。頑張りたまえ」
舞台女優かと思うほどに芝居がかった口調だが、彼女が言うと違和感が消える。
存在そのものに違和感があるからだろう。初対面の際、春人が影架に抱いた直感は、このアパートの地縛霊。たまたま彼女を目撃した近所の主婦が、悲鳴を上げて警察を呼んだという逸話もあるほどで、とにかくこのアパートに住んでいると頭に刻み込んでなければ忘れてしまう。それぐらい浮世離れしていた。
影架は、岩紫暮荘六号室の住人であり、このアパートで最も謎に包まれた人物だ。職業も年齢も本名も一切不明だが、夕暮れどきにはこのように木の上にいることが多い。
春人がズボンに入っているタバコを取り出すと、影架の膝にいた黒猫が身軽な動作で地面に飛び下り、足にじゃれついてきた。影架の飼い猫でもないが、クロと名付けられている。その頭を撫で、春人はタバコを渡してやる。クロは器用に箱を口に咥え、再び影架の膝へと舞い戻っていく。
「うん、いつも助かるよ。少年」
影架は箱から一本抜き出し、それを銜えてマッチで火をつける。ライターではなくマッチなのは彼女のこだわりらしい。使い終わったマッチは、彼女が軽く手を振るって優れた手品師のように消えていく。黒い革手袋に包まれた指でタバコを挟み、影架は目を細め紫煙を吐き出す。それは風に乗り、一筋の流れとして空気に溶けていった。
春人としてはタバコがあまり好きではなく、目の前で吸われると不愉快に思うこともあるのだが、こうも自然な感じでその人間のスタイルとして定着していると、むしろ吸ってないことに疑念を持ってしまうことがある。だから未成年ではやってはいけない、タバコを買うということをするのだ。
「前々から訊こうと思ってたんですが、そのドクロって本物なんですか?」
「ああ、これかい?」
金のチェーンで繋げて首から下げたドクロを、影架は夕陽に透かすようにして持ち上げた。
「これはな、わたしの愛した息子の一部なんだ」
「え?」
「正義感溢れるヤツでね。世の中の真実を伝えたいと言い出して、フリーの戦場カメラマンになり世界中を飛び回っていた。帰国しては珍しい話をよく聞かせてくれたものさ。でも最期は、呆気なかったよ。紛争の起きたアフリカ中部にある途上国で取材中に、手榴弾が投げ込まれ、片足が吹き飛んだところを反政府活動を行うゲリラに撃たれて死んだ。遺体は現地で焼かれてしまったが、同僚の尽力でわたしに送られてきてね。その一部を身につけることにしたのだ。わたしなりの弔いだな。こうしていれば、いつかは息子に会えるのではないかって気がして」
「そ、そうだったんですか……。じゃあ、いつも黒い服を着ているのも?」
「ああ、そうだ。喪服のつもりさ」
「すいません、気軽にこんなこと訊いてしまって……」
実に申し訳なさそうにする春人を見下ろしながら、影架はゆったりと紫煙を吐き出した。
「今思いつきで考えたには、上出来な話だろ?」
「は?」
「アフリカの葬儀は土葬が多いし、成人男性の頭蓋骨がこんなサイズか? 君、常識で考えなさい」
言われてみればその通りでしかないが、影架に淡々と語られると、なんとなく鵜呑みにしてしまう。どんな変なことでも影架に言われたらあり得るな、という気がどうしても起きそうだからだ。普段の喋りから摩訶不思議であるため、春人は真実を知ってそうな信頼が芽生えるのである。
「……じゃ、じゃあ、それは」
「三十年ほど昔、海外に言ったときに露店街で見つけたものさ。値切りに値切り、店主がもうやめてくれとわたしにすがりつくまで値切ってから購入した。良い思い出だな。こうして身につけている。ま、これもさっき考えた話だけどな」
「……一つだけでいいんで、本当の話を教えてください」
「やれやれ、しょうがない少年だな。では一つだけ本当の話をしようか。わたしがいつも黒を身につけているのは、純粋なファッションだ。八十年代後半の日本で黒ブームが起きててね。日本のデザイナーもパリコレだ、ミラノだのと世界を舞台にグレードアップして、国産の個性派ブランドもつぎつぎ生まれたのさ。東洋の神秘を武器に、世界の黒ブームの火付け役になったんだ。日本人デザイナーがイタリア人の秘書を従えて世界を飛び回る凄まじい時代の名残だよ。わたしとしてはそんな黒の美しさを体現したい、という気持ちを秘めているってところかな」
「はあ、なるほど……」
なんだかよく理解してなかったが、春人は曖昧に頷いた。何が本当で何が嘘かを誤魔化され煙に巻かれた気分だからだ。
影架が真実を煙に巻くのはいつものこと。深く考えても埒が明かない。
買い物袋に生鮮食品が入っているのを思い出し、春人は部屋に帰ることにする。
「じゃあ俺、そろそろ……」
「少年、今日は一際強い女難の相が出てるな」
「女難の相?」
春人は聞き返したが、影架の瞳はすでに夕焼け空へと戻され、もうこちらを見てはいなかった。彼女はいつも重要なことを事もなさげにサラッと言う。まるで独り言のように。たまたま思いついたこと、感じたことをそのまま口に出しているのかもしれないが、意外にも当たることが多いので侮れない。
一際強い、女難の相ね……。
頭の中で思い当たる可能性に当たりをつけてみるが、特に現在進行形で揉めてる女子はいないため、少し困惑しつつも春人は自転車を左側にある駐輪場に置いた。それから買い物袋を手に持ち、共同玄関で靴を脱ぐと、自室である五号室へと向かった。
◆
床板を軋ませながら階段で二階に上がり、木の柱に五号室と記されたドアの鍵を開け、春人は部屋の中へ。買い物袋の中身を丁寧に冷蔵庫へ入れてから、中学時代の品が良いブレザーを脱ぎ、ラフな私服に着替え、一旦帰ったときに脱ぎ捨てていた学院の上着と一緒に壁に掛ける。そして窓を全開にして部屋の空気を入れ換えた。窓から差し込む夕焼け終わりのかすかな赤さを見つめ、冷たい風をしばらく浴びる。
間取りは2DK。小さな台所はあるが、家具は最低限しか揃っておらず、そのほとんどが隣に住む影架からの貰い物か低価格帯で買った物。春人は生活面に関する物欲は弱いほうであり、現状に大きな不満はない。今早急に欲しいものと言えば暖房器具ぐらいだ。
アパートを囲む樹木が空気を良くするのか、吹き込む風からは自動車の排気ガスの臭いがしない。その空気を目を閉じゆっくり吸い、気持ちを落ち着かせるかのように吐き出していく。それに一段落して春人は居間として使う四本脚の膝下テーブルの上に今日の報酬と電卓、そして家計簿用のノートを置いた。財政事情は無計画に使わなければ問題ないほどで、わざわざトラブル解決屋をしなくとも生活することは可能。一人暮らしで衣食住を管理できてるだけで、男子学生の生活としたらマシなほうだろう。
社会情勢の悪化は、貧富の格差が広がっていることも原因の一つとも言われている。一台一億円もする車を観賞用にと気軽に買う者もいれば、食べるのに困って住宅に侵入し盗みをする不届きな者もいる。平等な社会なんてない。当たり前だ。要するに皆が同じということはあり得ない。他人と自分は違う。俺はきっと他人のような人生は歩めない。そして、他人も俺のような人生は歩みたくはない。
今回も赤字か、と思いながら春人が電卓で計算せずともわかる必要経費の多さに苦笑していたら、誰かが部屋のドアをノックした。
岩紫暮荘の各部屋には今回の被害者女性よりも貧弱な鍵しかないが、防犯という意味では鉄壁。泥棒も強盗殺人も訪問販売も新聞の勧誘も宗教の勧誘も、絶対にあり得ない。この岩紫暮荘は、一般人では気づかない星紋術の術式が仕込まれているため、それらとは無縁になる場所。そういう不干渉の陣地たりえる場所。ここを訪ねる者は、住人の知り合いか、住人に確かな用事を持って訪ねる者だけ。
「どちら様ですか?」
「オレだ」
名乗らずともわかるだろ、という口調。
それを許される人間が、そんな傲慢な態度が見過される人間が、この世には極少数だが存在する。
春人は慌ててドアを開き、そこで動きを止めた。
知り合ってもう長いのだが、いつ会っても数秒間は緊張してしまう。そこらの若手俳優が怯えるだろう冷たい目つきと、ごく緩やかなウェーブかかった黒髪。高級感溢れる縦の白いストライプが入った黒スーツに、肩に羽織ったカシミアの黒コート。口にタバコを銜えた姿は、さながら暗黒街に君臨するマフィアの若き首領とでもいうべき貫禄。それでありながら、口元やら顔の印象を見ればまるで近所のガキ大将のような楽しげな笑みを浮かべているのが、眼前にいる男の特徴だ。
この男の名前は、霧生宗介。思春期の輝きを上手に上手に精錬していけば、やがてこういう人間にたどり着けるのでは、と春人は思う。
自然と頭が下がった。
「お久しぶりです、霧生さん」
「お前も元気そうだなあ、春人」
その後、堅苦しい挨拶はよせよ、と宗介は苦笑しながら春人の頭に手を置く。
この男を部屋に招き入れようとした春人は、そこでようやくあることに気づく。宗介の羽織るコートの横に隠れるようにして立っている、小さな存在に。
それはまるで中学生になるかどうかの、幼い女の子だった。
毎週金曜日への投稿を心掛けております。