第三話 青なる取引、そして地獄の日々
「なあ代表、ちょっといいか?」
四限の一般科目の授業が一通り終わり、昼休みに入ったところで茶色に染め上げた短髪をツンツンに逆立てて、ヘッドフォンを首にかけたクラスメイトの男子生徒、風間藤臣に呼び止められた。
彼と春人の出会いは二学期を迎え強襲科から調査科へと転科書類を提出し終えた頃。そこから気を使ってか何度か話しかけてくれたことが始まり。まさに絵に描いたような善人。あまり人付き合いが良くない春人にとっては、男子から毛嫌いされ男子のコミュニティから浮いた存在にならないための数少ない話し相手だ。
ただ、そんな経緯があるにも関わらず親友と呼べるほどに彼と春人の仲が良いというわけではない。彼は持ち前の明るさと面倒見のいい性格から交友関係が広く、他に中学時代から仲のよい友人も多くいる。なので春人と特別会話する機会が多いというわけではないのである。
だからこそ、珍しく彼、風間に呼び止められて春人は顔に出さずとも多少ではあるが驚いた。
「どうした、風間。なんかあったか」
「ああ、大アリも大アリだ。実は今日、大物のお宝本の取引をマサとする予定があるんだが、そこで我らが代表殿に立会人になってもらいたいんだ」
クソほどどうでもいいことだった。驚いた感情を返せと言いたくなるぐらいには。
彼の指すお宝本とは、いわゆるエロ本。それも直球のものではなくネット上にのみ販売されている希少なグラビア本のことだ。
だが、たかがグラビア本と侮ってはいけない。彼らの持つそれは多種多様に渡り、様々な性癖に対応したいわばバイブルそのもの。
今までに何度か見せてもらったことがある。この間見せてもらった本は確か「ローアングル冒険隊」と言ったか。内容は様々なコスチュームの女の子をローアングルから撮影したグラビア本であった。ちょっとニッチすぎる性癖な気もしなくはないが。
春人が彼らの本の取引の立会人として呼ばれることはたまにある。その理由は二つ。
一つ目は、自分が彼らの性癖に理解がありつつ、それらの本を手にしようという欲求を持っていないのが知られているため。
二つ目は、ニッチな性癖に目覚め始めた彼らに、中学時代に自身の性的興奮を抑える目的で持っていた十数冊の本を融通してやった過去があるためだ。
風間が春人を呼ぶ代表という呼び名もそこからきている。エロの代表、略して代表。候補生級としての代表と呼ばれないことも含め非常に不名誉なあだ名だが、風間の人気のせいか相当数の男子らに定着してしまったがために、春人は男子から毛嫌いされるリスクが減るならと不本意ながら受け入れているのが実情。
どうせ昼休みは暇なのだし付き合ってやることにするか、と春人は受け入れる。
大物の取引と言っているし、多少の興味はあるしな。
立会人を担うときは飲み物を一本奢ってもらうのが基本事項だ。それなりの見世物を見学できながら飲み物までもらえるということであれば春人としても十分足りうる。
「まぁ、その程度ならいつも通り構わないが」
「おう! 助かるぜ! それじゃあ十五分後に二号館の四階の階段に来てくれ。いつものココアでいいか?」
「んー、いや、今日はりんごジュースって気分だな」
「オッケー! 遅刻しないでくれよ!」
「まかせろ」
そう言うと風間は自分の学生鞄を大事そうに抱えて、スキップをしながら教室を後にした。……複数の女子から怪訝な視線を浴びてることにさえ気づかずに。
なんと言うか、グラビア本程度であそこまで情熱的になれる彼らが羨ましい。自分には細胞の制御という意味合いが大いに占めるためか、そう言う青臭い匂わせエロにはなびかなくなってしまったのだ。大人になるってことは代わりに子供を捨てることだと言う言葉を何かの本で読んだことがあるが、きっとこういうことなんだろう。……いや全然違うか。
そんなアホなことを春人が考えているうちに、遠くで風間とのやりとりを眺めていたのか、学級委員の比良河がこちらにやって来た。
「春人くん、やるじゃない! その調子でいけば友達くらい簡単にできるはずよ!」
「そ、そうか……?」
思いっきり勘違いされているようだ。先ほどの会話はアホな男子による十八禁に該当しない絶妙なエロ本の取引に関するクソな密約だと言うのに。
「頑張ってね春人くん! 私応援してるから!」
そう言い残すと、春人の返事を待たずに彼女は友人の輪へと戻っていった。
苦しい。純粋な善意がとてつもなく苦しい。彼女は俺が仲の良いほうの風間と昼休みを過ごすのを応援してくれているようなのだが、これから行われるのは性癖を拗らせた男子高校生によるエロ本交換会なのだ。彼女の考えているようなキラキラとしたものではなく、どす黒く淀んだ汚い欲望のぶつけ合いなのだ。
ごめん比良河、と春人は心の中で謝罪する。
俺たち男子は高校生になっても、君が考えているより何倍もアホなんだ。
◆
「えー、それではこれより風間、マサ両氏によるブツの取引を始めさせていただきます。立会人は自分、鳳道院春人が努めさせていただきますので、えー、どうかご両者公正公平なる手段での交渉をお願いします。もし不正発覚の際は、鳳道院家の名におい制裁を下すのでご理解を」
「おう!」
「承知した!」
昼休み開始からきっかり十五分後、春人と風間、マサと呼ばれる男子生徒たちは二号館の奥にある人通りのほとんどない階段に集合していた。
二号館は主に移動教室で使われるため昼休みの間は人が訪れることは少ない。しかも階段は死角になっており、なおかつ足音だけが響くため誰か来たときもすぐに察知できる場所である。
「えー、それでは先に風間氏、取引物の提示をお願いします」
「よしきた! 俺が今回手に入れたとっておきはこいつだ!」
風間は黒い質のいい袋から取り出した本を自信満々に見せつける。
タイトルは『部活少女足裏大全集』
なんだこのフェチズムの塊みたいな本は。健全な男子高校生にしてはなんかちょっとキモい。オッサン世代が家族の目を盗んで読むような類だ。
「なっ!? これは余りにもニーズが狭すぎたがゆえに第一版以降生産されていない伝説のお宝本!?」
「詳しいなあ、おい。お前ら不健全すぎだろ」
「ふっ…褒め言葉として受け取っておこう」
欠片たりとも褒めてねえぞマサ。正気に戻れ。ほぼ初対面に等しいのに、正気かどうかを確かめたくなってくる。頼むから学園ハーレムとかのような性欲全開のエロに邁進しろ。
「……えー、ごほん。気を取り直して、マサ氏も取引物の提示をお願いします」
「藤臣。今回の取引、お前の紳士な言葉を信じて最高のブツを用意しておいて良かったぜ……」
「ああ! 見せてくれよお前のお宝を!」
「ほらよ! この輝かしき良さをとくと目に焼き付けやがれ!」
そう言ってマサはカバンから一冊の本を取り出し二人の前に叩きつけた。
タイトルは……『絶対領域』
思ったよりも健全だった。風間のブツに対する謎の知識を見せたから、相当ヤバいのがくると身構えていて損した。まあ、表紙とタイトルからもわかるように、どうやらチラリズムに焦点を置いたやや特殊なグラビア本のようだ。
「おいおい、俺は小学生じゃねぇんだぞ?」
「まあ待て、黙って七ページを開いてみろ」
半信半疑ながらもページをめくる風間。マサに言われたページを開くと、そこには整った顔立ちの少女が制服姿でスカートをたくし上げてる写真が掲載されていた。
まぁ、ちょっとばかしほのかにエロい。ダイレクトにエロをぶつけてこないところが購買意欲的な意味でも興味をそそられる。
「お…おまえ、もしかしてこれって……」
「そう。今をときめくアイドル声優、サトマリこと佐藤聖愛の数少ない素人グラビア写真だ。かなりのプレミアものだぜ?」
春人はあまり芸能人に詳しくないのだが、人気アニメのヒロイン役に抜擢されたとかで一時期ネットニュースを騒がせてたので彼女の名前には聞き覚えがある。
どうやら、アイドルグループの一員から声優として栄光を掴む前のそれなりに価値のある品物だったようだ。
絶句している風間に、マサが腰に手を当て覗き込むように話しかける。
「どうだ? これなら一対一でもレートは釣り合ってるんじゃないか?」
「……いいのかこんなもの貰っちまって」
「なぁに。こっちの嗜好を理解して最高の一品を用意してくれたダチへのお返しにはこれくらいは必要だろ?」
「マサっ……おまえってやつは……!」
「へっ……その代わり新しいのが手に入ったら融通きかせてくれよ?」
「ああ、もちろんだぜ相棒。やっぱり持つべきものは友達だよな!」
「なぁに水臭いこと語ってんだ相棒! 当たり前のことを言うんじゃねぇよ! それに俺らは友達じゃねぇ魂で繋がった親友だろ?」
がっしりと手を取り合う風間とマサの二人。血と汗ではなくイカと栗の花の蜜に幻想を募らせる友情は、想像以上に汚らしい。
比良河が笑顔で送り出してくれた先にあったものが、これだと考えると複雑な気持ちを春人は抱く。ズリネタを共有して感極まり、仲が深まる男子高校生など見たくなかったからだ。
今にも男の異臭を漂わせ兼ねない狂気の雰囲気が広がり歪な空間が出来上がってる中、突如として下の階からこちらに向かってくる足音が春人の耳に届いてきた。
アホと化した二人は純度の高い共感性で双方高まっており、まるで気づいていないようだ。急いで知らせて片付けさせなければ。
「おい、そこのアホ二人! 人が来るぞ! 急いでそのヤバい本を隠せ!」
「えっ!? ちょ、マジか!」
「やべぇ! ここでもし没収されたら洒落にならねぇぞ!」
慌てて本を学生鞄に押し込む二人。その姿は一人で欲求を満たすために一人寂しく行為に至っているそのものに見えた。
なんとか証拠を隠し終えたところで、こちらに向かって来る足音に耳をすませながら、緊張した面持ちでやって来るであろう方向を春人は見つめる。
段々と足音が近づいて来て、とうとうこちらが視界に入るであろう位置に到達したようだ。
そこにいたのは……
「……三島先輩?」
「あっ、いたいた! 春人くん、今ちょっといい?」
突然現れた魅力溢れる学園のアイドル、二年の三島那岐沙が、なぜかそばにいるクラスメイトの名前を呼んだことで、二人の視線がこちらに向けられる。
あれ? これってもしかして結構まずい状況なんじゃないか?
そう春人が思い始め無難なところから話すのだが、
「あー、その三島先輩? どうしたんですか?」
「んーっと、ほら、昨日のお礼がしたくて。もし良かったら放課後一緒にシュークリームを買いにいかないかなーってお誘いをしようと思って来たんだけど……お邪魔だった?」
「いや、そんなことはないですけど……でもほんと、昨日のことは気にしないでくださいって」
「んー、それじゃお礼とか関係なしでならどう? 今日の放課後、私と一緒にケーキ屋に行ってくれない?」
待て待て。その返しはとてつもなく好ましくない。俺の立場を窮地にやるものだ。
おそるおそる隣に目を向けると、マサと風間は血の涙でも流しそうな表情でこちらを睨んでいる。現代に甦った怨霊と言えるぐらいにはすごい形相だった。
「それじゃあ春人くん! 授業が終わったら中庭の噴水で待ち合わせしましょ。もしすっぽかしたりしたら泣いちゃうからね?」
「えっ、あ、ちょ、三島先輩!? 待っ…」
言うだけ言い残してその場を去ろうとした三島先輩を追いかけようと立ち上がろうとしたのだが、両隣から肩を掴まれその場に抑え込まれてしまった。
「風紀委員長と許嫁がいるとかで、男と一緒にいるところを見かけたことがない、あの三島先輩とぉ……?」
「二人でケーキ屋かぁ……これは良くないね」
ハイライトの消えた瞳でこちらを見つめる二人。肩を掴む握力が段々と増している。気のせいであるとは思うのだがミシミシという音まで聞こえてきた。
「おっ…落ち着こうぜお前ら……まずは話し合おう? きっと俺たちはわかり合えるって……相互理解は平和のきっかけだろ?」
そう言って春人は、二人と目線を合わせる。
一瞬間が空いたと思うと、彼らは同時に微笑んできた。
ああ、良かった。やっぱり人間は通じ合える生き物なんだ。やったよ比良河。俺にも分かり合える友達ができたよ。
次の瞬間、二人から同時に繰り出された拳によって春人の意識は一瞬で刈り取られるのであった。
その後、放置されてしばらく経った後、春人は目覚めて思う。相互理解はやっぱ無理だよな、と。
◆
玄関のチャイムが鳴っていた。二時間をゆうに過ぎても。
それは断続性があるものであり、たまに数秒途絶えたあとに、そのかわりに玄関の扉を乱雑に叩く音が数十回続く。それが止むと、再びチャイムが鳴り始める。まさに音の侵略行為そのものだ。
部屋の契約者である山本美紀は両手で耳を塞ぎ、ソファの上で身を丸め、必死にそれに耐えていた。テレビの音量を上げて打ち消したり、管理人に訴え対処してもらったりしたが、ドアの向こうにいる男は、それらを気にする様子もなく侵略を続ける。
彼女が家に居て管理人が不在のタイミングを見計らい、音だけで責める。男はそうやって、彼女に反省を促しているつもりなのだ。彼女が誠心誠意ある謝罪の意思を示し、ドアを自ら開け男を招き入れるまで、ずっと続けるのだろう。
ここしばらくは、ずっとそうだった。
大学に入学するのに合わせて、長野からこの神奈川特区に一人暮らしを始めてそれなりになる。三ヶ月前までは、こうじゃなかった。チェーン展開するレストランで働きつつの生活はかなり快適で、大学のサッカー部で出会った、今時珍しい彼氏もいた。室山という男女問わず好かれる青年で、都会に不慣れな彼女を上手く気遣ってくれた。
長野の中でも静かな田舎町で生まれ育った彼女は、毎日のバイトとマネージャーの忙しさに半ば翻弄されながらも、室山との結婚を見据えた交際と大学生活に、とても心は満たされていた。
それが崩れる前兆となったのは、茶色い封筒に入った一通の手紙。
ある日、部屋のポストに差出人の情報がない手紙が入っていた。中には白の便箋が一枚だけ。文面は、ただ一言。「お前に言いたいことがある」と書かれていた。切手も住所も書かれていないことから、本人がここまで来てポストに投函していたと想像がつき、彼女は気味の悪いものを感じて手紙を適当に破って捨てた。
その翌日、ポストに同様の手紙が入っていた。美紀がゾッとしたのは、その手紙は昨日のうちに彼女が破って捨てたものだったから。
大学行く前に燃えるゴミと一緒に指定のゴミ袋に入れ、その上に生ゴミを被せて、アパートのゴミ捨て場に置いてきたもの。手紙の差出人はそれを探し出し、破かれた手紙をテープで貼り合わせて再びポストに入れたのだ。まさかそんな、と動揺しつつも、彼女は生ゴミを特有の異臭による生理的嫌悪を無視して感情のままに乱雑に破り、今度は大学近くにあるコンビニのゴミ箱に捨てた。
だがその翌日も、手紙はポストに入っていた。
乱雑に破った手紙はまたもや丁寧にテープで継ぎ接ぎされ、「お前に言いたいことがある」という文節は、かなりの歪さを感じた。
美紀は確信した。手紙の差出人は自分をどこかで監視している。しかも、普段の私生活に及ぶまで調べている、と。これはテレビやネットニュースで見聞きしたストーカーというものか。美紀は部屋のカーテンをすべて閉めて、手紙は嫌々ながらも炭クズになるまで焼いて、警察署の生活安全課へと相談した。
もちろん、高校以来の恋人である室山に相談するということも考えたが、彼がちょうど新たなスタメンをかけた時期であることも考慮し、直接警察へと頼むことにした。
しかし、警察の対応は真摯だったが、あまりにも真摯すぎた。ストーカー関連の相談は、虚偽的なものも存在するためそれらを丹念に調べるのは時間が掛かる。ただでさえ、社会に不満を持つ者の突発的な犯罪が増加している昨今では、美紀のような証拠となるものがない相談事は、形式ばかりの調書をして注意すべき点を指摘されるだけで終わってしまう。
美紀は粘ったが、「じゃあ恋人と同棲でもすれば、向こうもこんなことしなくなるんじゃない?」という投げやりな助言しかもらえなかった。時たま睨めつけ下心を隠そうともしない四十代後半の男性巡査部長のあまりの冷たさと不快さに、彼女は憤りを覚えるも、同棲するという案には一理あるように思えた。
恋人と暮らしていると知れば、悪質なストーカーも諦めるのではないだろうか。室山との交際はゆったりとしたもの。美紀は浮気をきっかけとした、軽い男性に対する不信感を抱いていたが、こういう相談事を契機にそんなことが払拭されるかもしれない。同棲することに多少の不安はあるが、彼を好きな気持ちに偽りはない。
美紀は部活終わりの彼に話してみることにした。室山は好きな女性に頼られる自分に快感を得ながら、「男の俺に任せておけ」、と自信満々に答えた。室山は高校時代は部活一辺倒ではなく喧嘩に明け暮れていたらしく、腕には自信があると豪語。しばらく美紀の部屋に泊まり、その男に鉄拳制裁をお見舞いしてやると息巻いていた。美紀はそんな室山に嬉しく思い笑顔で頷いた。
それから室山と同じ部屋で過ごし、恋人らしい甘い空間が少しずつ多くなり、次第に学生妊娠を考えるほどに幸せだった。
室山の出番は、そんな幸せな数週間後に訪れた。室山が美紀の部屋に泊まったある日の夜。食事を終え男女の営みを迎えようとした瞬間、部屋のドアを猛烈に誰かが叩いたのだ。覗き窓から見ると、そこにいたのは十代後半くらいの、ひょろっとした痩せ型の男。無表情で瞳孔を開いたままドアを叩き続ける様子に美紀は怯え、そんな彼女を安心させるべく室山はさっそくドアを開けた。
室山はまずは平和的に説得を試み、その背中に隠れるようにしながら美紀は男の写真を撮った。もし逃げられても写真があればあのやる気のない巡査部長も動いてくれるのではないか、と考えたからだ。男は室山に目もくれず、血走った狂気めいてる瞳で、美紀のほうをずっと見つめ続けていた。
その口が「ぼくの気持ちを否定し燃やした」と何度も呟いたのを聞き取り、それが手紙を焼いたことを指しているのがわかると、美紀の顔から血の気が引いた。そんな彼女に室山は声をより一層荒げて、拳を鳴らしながら男に最後の警告をする。「俺の女に手を出すことも、関わることも、近づくことも許さん」と。室山が明確な戦意を見せると、男は内ポケットに隠し持っていたナイフを取り出すと、躊躇する気配もなく振り抜き、室山の左目に突き立てた。
そこからは一方的な展開。覗き窓から見えない位置に立てかけていた金属バットを素早く掴み、美紀に見せつけるかのように左目を抑えうずくまっている室山の体中を容赦なく殴り続けた。両腕がひしゃげ折れても、鼻を潰しても、恐怖で立てなくなった足を砕く。
その光景に美紀は腰を抜かし、叫ぶことさえできないほどだった。室山の反応が弱くなり、男の暴力の矛先が自分にも向かってくるのを予想したが、男はその怯える様子を見ると、とても嬉しそうに笑い「また来るね」と猫なで声で伝えその場を去って行った。
それからの美紀には、ただ耐えるだけの日常が常態化していった。
緊急搬送された室山はすっかり自信を失い、男の復讐に怯えるほどに精神を病んでしまい、警察に被害届を出すことにさえ拒絶。それどころか美紀の顔を思い出すのも嫌だと言い、まさかの面会謝絶となった。命の危機になる根源的恐怖から逃げる、ということだろう。
無理を言って地元ではない大学進学を選んだことで揉めた経緯があるため、田舎の両親に助けを求める気持ちになれず、美紀はダメもとで同じ学部に通う友人やマネージャー仲間に相談してみた。
しかし、他人事感覚で聞いてくれるだけで本気で助けようとする者は一人もいなかった。それどころか、サッカー部で人気を博していた室山と交際していることそのものが気に食わないと言い切る者や、こうなった原因は美紀の側にあると叱責する者までいた。「そういうことされちゃう油断が、美紀ちゃんにあったってことじゃないの? 田舎育ちだから女としての品性が欠如してるから」「まさに自業自得よねー」と馬鹿にするように笑い混じりで言われ、周りはそれに賛同する気配なのを察し、美紀はこの話題を学内で話すことを諦めた。
それからしばらくして前に話して巡回してもらっていた管理人が、遊歩道の上から突き落とされ即死した。警察は殺人事件と判断し捜査しているが、防犯カメラも目撃者もいないときに行われたため、その犯人は不明。
立て続けに悲劇が起きたことで美紀の精神は不安定になり、鳴り響くチャイムとドアを叩かれる音を無心に聞きながら、「……本当にそうなのかもしれない。全部自分が悪いのかもしれない」、とそう呟いた。だったらこれは罰だ。分不相応の幸せを得ようとした罰をわたしは受けているのだ。神様、許してください。どうか、わたしを許してください。田舎から出るときに身を案じて祖母からもらった十字架を握りしめ、両手を震わせながら祈り続けていく。すると、どうだろう。チャイムもドアを叩く音も、ピタリと止んだ。
静寂。息を殺し待ってみたが、不安を和らげるほどに静かだ。
聞こえるのは、時計の秒針が進んでいく作動音くらい。
……わたしは許されたのだろうか。
そうでありますようにと、再び手を合わせ祈り始めたその瞬間。彼女の耳許で聞き覚えのある声で言う。
「そんなに許してほしいの?」
ひっ、と喉を引きつらせた悲鳴を漏らし、美紀はゆっくりと声のする方へ視線をやる。
血走った狂気めいてる瞳が、自分のすべてを支配するように見ていた。
風になびくベランダのカーテンが、視界の隅に映る。たぶん自分が出かけて不在の間に入って鍵を外していたんだ、とぼんやりとこの状況を理解した。この男はストーカーの中でも異常なのだ。室山や管理人を襲うという犯罪に葛藤を抱くこともないから、不法侵入程度ならただの日常にしてしまうのだ、と。
そんな美紀の怯える様子に、男は下から見つめ笑みを浮かべ楽しげに言う。
「ねえ、反省した? ぼくの気持ちを否定して燃やしたこと、ちゃんと反省した? 心の底からさ」
そんな気持ち欠片も持ってないが、そうしなければ殺されると強く思った。だから、瞬きすることさえ忘れるほどに、彼女はコクコクと壊れた人形のように頷いた。
「神であるぼくに、許してほしい?」
彼女はまた頷いた。
男は、美紀の頬を伝う涙に指で触れる。
「うん。実にいいね。まさしく運命の人だよ。ならどう言えば許してもらえるか、わかるよね? どうか許してください。身も心も貴方様に捧げますってさ」
「…ゆ……ゆ…る……し……くだ………さ……」
正常な判断ができなくなっていた彼女は、男に促されるまま言おうとするも、あまりにもな恐怖に呼吸さえ上手くいかず、言葉が詰まり続かない。
大きく見開かれた男の目が、荒い息とともに凄まじいほどに鋭くなる。
「……おい、こんな当たり前のこともさあ、言えないのかよ? ああ!」
先ほどまでの子供じみた声色がドスの効いた声に変わり、美紀の首に男の指が伸びていく。室山を金属バット一つでへし折り、精神を崩壊させた力がジワジワと彼女の細くて綺麗な首を絞め上げていく。呼吸を強制的に止められた彼女は、手足をバタバタと動かしながら、苦しげに視線を彷徨わせて口が開けられる。その姿を目の当たりにして、男は怒りの表情を落ち着かせ薄く笑った。
「……ああ、いいよ。すごくいい。ぼくが見たかった表情をきみは見せてくれる。そうだ。藻掻いて、必死に抗き理解しろ。今起きていることは服従すべき神から受ける寵愛だ!」
興奮しきった男は首から手を放すと、激しく咳き込む美紀を気にせず、ポケットから赤い縄を取り出した。ああ、これで縛られるんだな、と美紀は悟った。これからの自分の逃れられない運命も。この男に連れて行かれ、誰にもわからない場所に閉じ込められるんだ、きっと。
そして壊れるのだ、わたしは。
こいつに容赦なく壊されてしまうのだ。
もはや抵抗する気力をなくした彼女の手足を、男は鼻歌を唄いながら赤い縄で縛り始めた。そうして動けなくなくしてから彼女の顎を掴み、男の方へと力ずくで向けさせる。
「ねえ、美紀。ぼくに謝る気になったかな?」
美紀は口をパクパクさせたが、声は上手く出なかった。
男は顎を掴む手を震わせる。
「ねえ、ねえ、ねえ、謝るべきじゃないの? なんで謝らないの? 謝るってのはわかってるよね? さあ、さあ、さあ、さあさあ、さあっ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ! 謝れ!」
まるでカルト宗教の狂気に染まった洗脳に、美紀の瞳から涙が溢れ出し、その口から謝罪の言葉が出そうになったとき、歪み始めていたなにかを矯正するような光ある声が聞こえた。
「なにも悪いことしてないのに、あなたが謝る必要性はまるでないですよ」
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