第二話 妹の来訪、そして体質の秘密
いつもの発作が起きた。
死んだ。みんな死んだ。大勢死んだ。たしかに握っていた兄の手の感触はなく、母の声も聞こえず、父の姿も見えない。視界を暗闇が埋め尽くしていき、目を開けているのかどうかもわからない。頭が痛む。顔がヌルヌルする。体中がヌルヌルする。なにかで濡れている。重い。空気が異様に重い。一度の呼吸さえも集中力が必要な作業。気を抜くとすぐに息が阻害されて詰まる。声を出そうとしても、痛む喉がそれを許さない。なんだこれは。なんだこれは一体。どうしてこんなことになったんだ。誰か助けて。誰か助けて。誰か、僕を、助けて。一生のお願いです。
でもその願いが叶うのは、数十時間もの月日が流れてからだった。
◆
目を覚ました春人は、窓から差し込む朝日を見て心の底からホッとした。脂汗でじっとりと濡れた額を焦ったように手の内側で拭い、何度か深呼吸を繰り返す。
大丈夫、俺はまだ生きてる。
呼吸は正常、手足も動く、目もハッキリと見える。
両手を何度か握り、軽くストレッチしながら起き上がると、
「……ふぅ」
そう一息つき春人はカーテンと窓を開け、吹き込む冷たい風を浴びて、より一層意識を覚醒させた。
なるようになる。だから気にするな、とそう気持ちを落ち着かせ、春人はいつもの朝を迎えた。
あのとき絶望しても、今はこうして生きているように。
すると、慎ましいチャイムの音とドアを優しく叩く音が聞こえてきた。春人はそれに誰が来たのかの推測を立てながら制服に着替えて出る。
「お兄様、もう起きてますか」
「今、起きたところだ。灯那」
素敵な笑顔を見せながらドアの向こうに立っていたのは、春人の妹であり生徒会庶務を任せられてる鳳道院灯那。学院指定の制服に身を包み、黒く澄んだ瞳に背の半ばまである艶やかなストレートの黒髪を肩下と腰下の部分の髪にリボンを結んでいる。小学校のころは周りから「お伽噺の雪女みたい」と言われたほど日本人離れした白く透き通った肌と、鈴を振るような声音をしていたため、誰かに話しかけなくても自然と複数の男女が集まるタイプ。
「悪いな、頼みのシュークリーム買えなくて悪かったな」
「いえ、昨日の経緯を電話で聞いてしょうがないと理解してますから、お気になさらずに」
軽い詫びを込めた世間話しながら、灯那を部屋に招き入れる。
「そういえば、明日から伊勢神宮に行くんだったよな」
きちんとダイニングテーブルにつくのもどうかと思ったので、春人はそこを通り過ぎ古いテレビが置かれている居間の床へと腰を下ろす。
「はい。学科の合宿にて伊勢神宮に行くことになってます。おそらく二週間ばかりお兄様とお会いすることができないかと」
そう言いながら灯那もふわりと正座すると、大事そうに持っていた和布の包みを赤子を撫でるかのように解いていく。
そこには漆塗りの高級そうな重箱があり、蒔絵が描かれた蓋を優しく開ける。
中にはふんわりと柔らかそうな卵焼き、菜箸を使って正確に向きを揃えて並べた海老の甘辛煮、銀鮭のホイル焼き、鯛の煮付けなどの豪華食材を使った料理の数々、終いには厄除けの意味を持ち今が旬の栗が入った赤飯が敷き詰められていた。
「おいおい……土御門の祝祭でも正月でもないのに、これはやり過ぎじゃないか?」
お祝い事やお正月のおせち料理やお雑煮をいただくときに使う、祝い箸を渡されながら春人が言うと、灯那は、
「いいえ。お兄様は忘れているかもしれませんが、お兄様が鳳道院家で育ち、幼い私のことを初めて助けていただいた日が今日なのです。私にとっては他の祝い事と同じ価値を持っているのですよ」
「そ、そうか……でもあまり無理をしなくてもいいからな。お前の真っ直ぐな気持ちだけでも俺は有り難いことだと思っているし、もし無茶をさせて学院生活に支障をきたしたら俺はかなり落ち込むんだからさ」
と言いながら、せっかく朝早く起きて丹精込めて作ったこのお重の数々を春人は次々に口の中へ放り込んでいく。いつも何気なしに思うが、灯那が作る料理、特に和食に関しては本当に美味い。鳳道院家の娘なので一般家庭と異なり数多くいる使用人らに手料理を学ぶのだが、それにしても和食を生業とする本職から味の秘訣を直接聞いたのか、と思うほどに質が高い。
良妻賢母なんて言葉は灯那のためにあるのかもしれない。
まあ、良妻賢母は明治後期に誕生した比較的新しい言葉なのに、古き良き日本人女性という意味を持つなんて矛盾してるが。
そう春人が内心、どうでもいい雑学で苦笑していたらそれを知ってか知らずか灯那は正座をしたまま頬を桜色に染めてうつむき、実がぎっしりと詰まってそうな蜜柑をむきはじめた。丁寧に皮を剥いて一つ一つ取って小皿に乗せているところを見るに、それも食べてもらうために持ってきたらしい。
本当に、やり過ぎなのでは?
と、若干行き過ぎた妹の献身性に焦りを覚えつつも、春人は蜜柑を一つ頬張りながら灯那に感謝の言葉を伝える。
「まあ、その、なんだ……こんな美味しい弁当作ってきてくれてありがとう。いつも感謝してるよ」
色々な感情が渦巻きつつも、春人が言葉を紡ぐと灯那は満面の笑顔を見せてくれた。
そんな灯那に思わずドキッとしてしまい、顔を背けてしまう。ドクンと、春人の血流が勢いを増す。
慣れたとはいえ、この二人きりの空間でこんな愛おしい顔を向けられては心が揺るがないほうがおかしい。
本当に忌々しい体質だ。家族として愛している妹にも反応するとか条件が軽すぎる。
なんとか深呼吸をして春人は気持ちを落ち着かせて血流を落ち着かせる。
春人が弁当を食べ終わる頃を見計らって、いそいそと横に座る灯那は、「はい、お兄様。お茶をどうぞ」と湯吞みに入れたお茶を差し出してくる。
それを飲み干し、ふぅと一息つき、「ご馳走様、美味しかったよ」と言うと、灯那は両手を合わせて、「こ、こちらこそありがとうございました!」と感激した様子を見せる。
そのまま灯那は、何かを期待するようにこちらを見つめてきた。
その長いまつ毛の下にある、ぱっちりとしたつぶらな瞳がなにかを欲してそうな潤いを見せる。
静寂だけが二人を包む。二人しかいないこの空間において、灯那がなにを望んでいるのか、それは言わずともわかっていたことであった。
ドクンッドクンッと春人の鼓動が早鐘を打つように全身に鳴り響いていき、血流も勢いづいていく。
ダメだ、耐えるんだ俺。自分のこのふざけてる体質の抑える方法は嫌と言うほど学んだだろ。
必死に己を抑えていたが、その瞬間ふわりと春人の胸に灯那が飛び込んできた。そのまま灯那は春人の胸にもたれかかるように抱き着いてくる。
「あぁ、お兄様! もう私我慢できません! もっと、私を、私を見てください!」
感極まったと言わんばかりに灯那はそう言うと、その小さな顔を春人の胸板にすりすりとしてくる。灯那の大人へと変貌してる柔らかい色々な部分が全身から伝わってくる。
不意のことであり、状況を認識した瞬間、春人の血流が一気に勢いづく。
あ、これ無理みたいだ。
急速に遠のいていく意識の中で、春人は心の中でそう呟いた。
そして、
「──まったく、オレの可愛らしい灯那ちゃんは困った子だ」
その口調には先ほどまでの緊張は消えていた。代わりに、余裕と優しさが含まれていた。
春人は、急速に肉体と意識の両方から乖離していくのを感じつつ絶望に包まれていた。
……いや、まあ、そうだよな。
俺の精神力でどうにかなるわけないよな。
わかってたけど、なんか期待しちゃうんだよな。
それなりに異性に対する免疫耐性つけたところで男の性はどう頑張っても逆らえない。だってこの世の真理だから。
「灯那ちゃんが望むことを言ってごらん?」
「はうう、お兄様。あ、あの、ヨシヨシして頑張ってるね、って褒めてほしいです」
春人の腕の中に納まった灯那が恍惚とした表情を浮かべながら、甘い声色でそうお願いをしてくる。
これ、兄妹だとしたらインモラルすぎない? なんか都合よく警察が令状持って踏み込んでくれないかなぁ。
「……オレの灯那ちゃんがそれを望むなら。よしよし、灯那はいつも一生懸命でいてとても偉い子だ。灯那のような子に毎日お世話になっている俺は幸せ者だな。兄妹じゃなかったら結婚したいくらいさ」
「お、お兄様……。わ、私、今とても幸せです。お兄様のためなら私はなんだってしてみせます」
「ありがとう。オレも灯那の身に何かあればこの命に代えても必ず守って見せるよ」
その後、しばらく二人きりだけの世界に入り浸ったが、無情にも登校する時間が近づいてくる。
「灯那、残念だがそろそろ学校に行く時間だ」
「……嫌。ずっとお兄様と一緒にいたい」
春人にぎゅーと抱き着いて駄々っ子のように振舞う灯那。そんな灯那の姿を俯瞰的な視野で見てる春人は頭を抱えて身震いしていた。
しかし、学校に無断欠席としたとあれば次期当主になることが決まっている灯那の評価が落ちてしまう。これまで積み上げてきた最愛の妹の努力が水の泡になってしまうのだ。
「灯那、俺も灯那と一緒にいたい。でも灯那もするべきことがあるはずだよ」
「で、でも私……」
「……これを灯那に」
そう言って春人は鍵を差し出す。それはこの寮の部屋の合い鍵だ。
このままここにいたいという灯那の望みを叶えられない代わりのつもりだろう。「このほうが効率的だろう?」なんて言葉を口にする。
灯那もそれがこの部屋の鍵であると理解したのだろう。その大きな瞳をまん丸にして驚いたように鍵を見つめている。
「──え、これって」
「この部屋の合い鍵だよ。灯那が望むときにいつでも来れるようにね。だから、今日はもう学校にお行き。ほら、灯那は良い子だから」
灯那はなぜか今日一で感激しているようで、春人から合い鍵を割れ物でも扱うように丁寧に両手で受け取る。灯那は信じられない様子で自身の手にある鍵を見つめている。
それ、別に保管してる合い鍵じゃなくて、普段使いしてる自前の鍵なんだが。本当にふざけんなよ、暴走一歩手前のオレよ。
「……私、これまでの人生の中で今日が一番幸せです。……これで私の優勢。それに堂々とお兄様の家にお邪魔できます」
「優勢? 堂々?」
灯那が後半に呟いた小さな声も暴走手前の並外れた聴力でしっかりと聞き取った春人が、純粋に疑問に思ったことを口にすると、灯那はしまったと言うように慌てると、春人の元から少し離れる。
「あ、ええと、なんでもないです。お兄様の言う通り、今日はもう学校に行きます。そ、それじゃあ。あの、鍵、ありがとうございました。また、来ます!」
そう言うと、灯那は春人の返事を待たずにバタバタと荷物をかき集めるとそのまま部屋を出て行ってしまった。
……やれやれ、そんなに急ぐと転んでしまうぞ灯那。ま、そんな灯那も妹らしくて可愛いけどな。
と、意識体として浮遊している春人は現実逃避思考になり、そんな心情で締めくくる。
◆
数分後、意識が引き戻されたことによって解けた春人は部屋の中央で膝から崩れ落ちた状態で絶望していた。
「はぁ……本当に終わってんな俺は」
暴虐性屍獣細胞症。
ネメステリア状態と単純に呼ばれる。自身の霊気を目覚めさせてない人間が、何らかの要因で屍獣から傷を負い、万分の一未満の確率で屍獣の持つ細胞に適合した人間がなる病気。同時に現在治療法が一切確立していない後遺症の一種でもあり、同時に新人類の手がかりとされている。
簡潔に言えば、屍獣細胞の作用によって身体組織が一時的に遺伝子レベルで改変してしまう稀少な人類と言える。
それにより脳組織の伝達系統である電気信号が、常人の基準値から七十倍まで膨れ上がり多角的情報処理速度の大幅な向上や、細胞の変異活性化による身体能力の強化が起きる。
結果、ネメステリア状態時には、論理的思考力、判断力、動体視力、反射神経、筋力強度の底上げなどがコンマ一秒足らずで起き超人の域に達してしまう。
屍獣細胞が反応する条件は適合した人間によって異なるが、春人の場合は魅力的な異性の言動によって、性的な興奮へと至ると、深層意識に存在している意識が浮かび上がり「文字通り人が変わった」性格へと変貌するのだ。
この後天的かつ特異な体質は絶対、人に知られては行けないものだ。
本来、この細胞持つ人間は闘争本能を刺激される条件で反応し、目の前のいかなる外敵も排除しようとするのだが。
どういうわけか春人の屍獣細胞は、子孫を残すための生物的男性本能を強く呼び起こし、身近にいる女を命懸けで守ろうとするようになり、その女を何がなんでも助けようとする。
簡単に言えば困っている女や、危機的な状況の女であり春人が意識する異性であれば、この力を存分に振るい、求められるままに戦ってやりたくなってしまうのだ。
さらに言えばその際、オレ様気質の紳士というわけわからない抑圧意識が膨れ上がり、隣人症に近似した状態になる。
これは春人特有のネメステリア状態時における「子孫を残す」本能が働いて、春人自身がイメージする魅力的な男性像を形作り演じていくのだ。
そうなるとクラス内で目立たないようにしている春人の立ち位置をぶち壊すかごとく、女に優しく接するわ、誉めるわ、慰めるわ、さりげなく触ったり撫でたりするわ、と非常に目立つ行為を臆面もなく実行してしまうである。
ちなみに隣人症みたい、と例を上げたが隣人症のように自分が自分の心や体から離れていったり、また自分が自身の観察者になるような状態ではあるが、世界が曖昧になり、現実感を喪失し、その重きや実感を失ったと感じるといったことはない。むしろ逆に五感は実体験よりも強く残り長く覚えてしまうからだ。
なので、ネメステリア状態が解けたころには精神的疲労がフルマラソンを走った並に襲ってくる。
朝から本当にキツいな、血の繋がってない妹とはいえ家族以上の接し方するとか、焼身自殺したいぐらいに気持ちが悪い。……まあ、そんな死に方する気はないが。
凄まじい自己嫌悪に陥りつつも、春人は自身の過去を少しずつ振り返っていく。
春人にとって思い起こすとなると──地元近くの横浜市にある中学校の頃は、実に最悪だったと言えた。
この体質、もとい細胞反応を面白がった一部の女子が悪用することを覚えてしまい、地元の不良グループの制裁やら根暗な男子生徒へのイジメ主犯役にさせられたのである。
とくに中学時代は女子に関する強い興味があったため、魅力的な異性──精神面が成熟した女子──ではなく、外見上の容姿さえ整っていれば、誰でも簡単に条件を満たしネメステリア状態になっていた。
そんな理由から春人は御三家や数紋家の子息が集まる関東第二学院ではなく、この神奈川県にある由緒ある関東第一学院を選び、受験をする日の朝──
本家で修行していた灯那が、他校のタチの悪いナンパ集団に絡まれていたところを容赦なく春人が叩き潰したら、久しぶりの再会に感動した灯那に抱きつかれたことでネメステリア状態なってしまった。
で、それから約三十分近くキザったらしい甘い言葉をかけ、頭を撫で慰めてしまっている。
以来、灯那の良家の子女らしい世話焼き体質に妙な拍車がかかったのは。
俺はできれば、特別な雰囲気にならない普通の妹になって欲しいんだがなあ……。
ちなみに大人向けの本やDVDは別に問題なく見れる。そもそも自分自身と思い込まなければ細胞が反応することはないし、ただの知識情報の類でしかない。
だが、身近にいる比良河のような精神的に自立してるような女子に関してはそうはいかない。
春人は後ろ頭を雑に掻きながら立ち上がる。そしてふと部屋に掛けられた時計に視線を送る。
もう時刻はいつものルーティンと化した登校時間を示していた。
本当に、困った病気に罹ったもんだな。でも……自分はまだ抑圧できるほうなんだ。最悪は自分の暴虐性屍獣細胞症を抑えきれず制御不能へとなった戦姉の鈴鹿さんのように、人生をそのものを狂わせ、壊してしまうほどなのだから。
そんな不快や悲哀が混じった醜悪な顔を一瞬したあと、春人は目を閉じ深呼吸するといつもの表情に戻す。そのあと入念に火の元を確認し、戸締りを確認。必要な鞄やら拳銃を持ちドアに鍵を閉めて春人は家をあとにした。
◆
家より出て自転車に乗り学院へと向かう。
ここ、「特定国立教育関連法人団体 日本執行官管理機構次世代環境未来都市」、通称・神奈川特区は旧小田原市をベースに作られ区画整理されており、本来あった旧小田原市とは少し異なっている。地理的構造は酒匂川の流れる足柄平野を中心に、東は大磯丘陵の南西端である曽我丘陵と呼ばれる丘陵に、西は箱根山の外輪山となっている。南は太平洋へと続く相模湾だが明治後期ごろより、旧家や下級華族などが住む昔からの中心街であった西側区と、新たに開発が進み、近代的なビル群が立ち並んでいる東側区へと発展させていた。観光招致、利便性が上がったために、西と東で趣きががらりと変わる。といっても、この手の話は地方都市を見ればいくらでもある話だろう。
かくいう春人の住まう二階建てのアパートは西側区の、比較的山間のほうに位置している。
単純な利便性を考えるなら、東側区の相模湾沿いに南北二キロ・東西一キロの人工浮島の上に建てられている学院近くに住むのがいいのだろうが、常識を置いてきた学院の喧騒から離れたのどかな風景が好きで、日のめぐりと共に忙しなく変わっていく東側区の都市部より、こちらのほうが気分的に落ち着くんだよな……。
そんなことを考えながら、春人が漕ぐ自転車は東側区へと入り関東第一学院のある場所へ近づいていく。
自転車に乗って二十分ほど経った頃だろうか、ようやく執行官を育成する日本初の建物が春人の視界に映る。
執行官とは神秘科学を知り、霊災や黒蝕地の浄化を目的として新設された国際資格で、それぞれの政府から支給される執行官手帳を持つ者は、個人携行可能な武装の多数保持や逮捕状なき緊急逮捕も可能になる、という警察とほぼ同等の活動ができる職業。
なんでこんな警察以上の地位や武力を有しているかと言うと、軍事的価値が高いだけではなく多様化し凶悪化する犯罪の抑止を担う側面があるからだ。
ただし警察と違い明確に異なる点は、霊気という万物を成す──あるいは万物に宿るとされる形無き『気』を目覚めさせ、黒蝕地の汚染から身を守れるか否か、である。
この霊気は無意識下でも発する執行官までなると、至近距離による自動拳銃の襲撃を物ともしない強靭な肉体強度を最低レベルでも持つため、執行官法の許す範囲内で凶悪犯逮捕をやらされる都合の良い『始末屋』だ。
ゆえにこの関東第一学院では、通常の一般科目に加えて執行官の活動に関わる専門科目を履修できる学部が存在する。
専門科目でも多岐にわたり、例えば春人が通過中の調査科の専門棟。
春人が高一の九月中旬から転科したところで、警察官と同様の捜査の基本、聞込み・現場臨場などの捜査活動、捜査書類作成、鑑識活動などについての知識を身につけ学ぶ間違いなく警察職務に近い学科と言える。
その先にあるのが通信科、さらに向こうに警備科と情報科があり、その奥には追跡科と春人が入学してから夏休みまで在籍していた強襲科の専門棟らが立ち並ぶ。
フランス語読みで存在する未成年に教えるのは望ましくない学科たちを横目に、春人は地下にある専用駐輪場へと向かい、自転車を止めた。
少しずつ、冬の足音が聞こえてくるようだ。それなりに厚着をしてくるべきだったか?
湾の上にあるため、時折吹く強風に春人はそんなことを思い少し震えながら、学院生しかいない慣れ親しむまでになった通学路を歩いていく。体操着を着た生徒の姿もちらほら見えてきたので、ちょうど朝練の部活が終わった頃らしい。
と、周囲を確認しながら歩いていたら途中でおかしなものを春人は見た。
鋭い目つきと風紀委員長にのみ着用が許されている白いコート──男女で色が逆──に身を包み、その見事な直立はあたかも絶対不可侵の王国を生み出していると錯覚させる男子生徒。
國柴雅紀。調査科で常に最高結果を出している三年生。容姿端麗、成績優秀、伯爵華族の出身で代々警察一家という完璧超人を地で行く優等生だ。当然ながら、学院での人気も非常に高い。それゆえに学院の公式ホームページで紹介されており、その知名度からか三島先輩とは親同士が決めた許嫁の関係だとか。
と、どこぞの記者らしく個人情報を羅列していく春人だが、内心ではちょっとした憧れと尊敬の気持ちがある。
誠実だとか、真面目だとか、善良な男子生徒が持つべき人格に、家名を傷つけまいとする尽力する姿は実にカッコいい。
好青年と真反対にいる自分からすれば輝いて見えるから。
普段、この通学路で風紀委員長の彼を見かけることはほぼないのだが……まぁ、稀にこういうこともあるかもしれない。
そんな変わった経験に遭遇しながらも、いつものように春人は教室へ入り、何人かの女子から好意的な視線を向けられつつもそれを無視してホームルームの時間を待つ。
正確には、ホームルームの時間はもう始まっている。ただ、担任が時間通りに来ないだけだ。もう皆も慣れたもので、クラスメイトたちの表情にはまたか、という感想が浮かんでいる。
数分ほどぼーっとしていると、どっどどどどうど……と、忙しない足音が聞こえてくる。ほどなくして、豪快に開かれる扉。
「みんなー、おっはよーさん!」
勢いよく飛び込んでくるのは、春人らの担任であらせられる自称「虎にぃ」こと、湖丈虎彦。
三十代半ばの珍しい白い髪。常にニコニコ笑っているように見えるわりには、自信が感じられる鋭い眼光。なのに着古したワイシャツとネクタイに、安物っぽいジャケットとよれよれのスラックスがトレードマークになってしまう残念な教官。馴れ馴れしい口調でフランクに生徒と接してくるのだが、それが「優しい」というより「胡散臭い」がどうしても先に感じるせいで生徒からの人気はイマイチ。
本人は執行官としてめちゃくちゃ優秀なんやん、と吹聴するが誰も信じてない。
そんな情けない人、というか酒癖の悪く大声で喚き散らすタイプが、なぜかこうして春人らのクラス担任をしているワケである。
そして、いつものように教壇に向かい──
「あ、嘘やん」
小声で呟いたあと、ガシャーン、と。それはもう、盛大にずっこけた。
こけただけならまだしも、教卓の角に頭が思い切りめり込んでいる。
「先生、今度こそ入院コースじゃね?」
「せんせーい、大丈夫ですかー?」
目の前で教官が動かなくなったというのに、緊張感の欠片もない一年D組。あの学級委員を務める比良河でさえ、ため息をして額に手を当ててるだけ。こんな感じで普通の学校らしく、春人は平凡な一日になるよう努めていくのだった。
毎週金曜日への投稿を心掛けております。