婚約者は空の賢者
『婚約者は蛇の貴公子』『婚約者は土の王様』『婚約者は焔の織り手』に続くシリーズ最終。順番にお読みいただく事をお勧めします。前作キャラも出てきますので。
大トリは烏。鳥だけに。
本編はヒロインのオルタンシアの一人称。終幕は『蛇』のヒロインかつシリーズの立役者エリカの一人称になります。
なお。烏と漢字表記すると鳥と区別つきにくいのでルビ打ちしてます。しまった。こんなことなら表記を鴉にしておくべきだった。今更ですが。
どうしてもあなたが欲しいのです。あなたの傍にいることしか望まない。
けれどあなたの傍にはあれがいて、わたくしを拒むのでしょう。
ですが、それでも。わたくしは―――。
◇◆◇◆◇◆◇
わたくしの名はオルタンシア・ゴーベール。誇り高きゴーベール公爵家の娘。ゆるく巻いて垂らした髪は輝く金色。瞳は明るい水色。自他共に認める美少女だ。いや、もうすぐ十八歳になるので美女と言っても良いだろう。
両親も兄姉も末っ子のわたくしには甘く、望めば叶わぬことなどなかった。どんな宝石もドレスも望むがまま。今代は王女がおられないために、未婚の女性の中では一番高位になるのがわたくしだから。
当然、貴族の娘が学ぶことを義務付けられている女学院生の中で一番身分が高いのがわたくし。だからこそ、皆の手本となる淑女として振る舞うよう意識していた。
わたくしにはずっと気になることがある。視界の端に何かが映るのだ。振り向くと誰もいない。三人いる侍女の誰も気付いてはいないけれど、誰か、もしくは何かがわたくしを見ている。悪意は感じない。それでももどかしくは思っていた。
女学院の冬の休暇も近いある日、同学年のイリス・ボナールから手紙を貰った。女学院内に在籍している間は、身分の垣根も低く交流も推奨されている。しかしこれまでそう親しくもしていなかった彼女から、紹介したい後輩がいるというのだ。公爵家に近づきたい層も一定数いるために、そういう紹介は一律で断っていたのだが、イリスの手紙に記載されていた名前を見て会うことを決めた。
エリカ・フォーレ。今やこの女学院で最も注目されている少女。彼女はわたくしに、どんな運命を齎すというのか。
イリス・ボナールは、以前より気にかかる存在だった。まっすぐな銀の髪は絹糸のようで、どこまでも青い瞳は宝石のよう。清楚で高潔。この女学院においてわたくしに比肩しうる美女である。ただどこか人を拒むようなところがあり、親しくなりたいとは思うものの踏み込めぬうちに最終学年になってしまったのだが、近頃の彼女は笑顔が増え、雰囲気もぐっと柔らかくなった。それは―――。
(婚約が決まったから、かしら)
そしてその婚約のきっかけが、どうやら噂のエリカ・フォーレのようなのだ。
自室に招き入れると、流れるような礼を取るイリス・ボナールの後ろで、ストロベリー・ブロンドの髪の少女もまた一礼する。いささかぎこちなく見えるのは彼女が下位貴族だと見てしまうせいか。身分を振りかざすつもりはなくとも、自分がそれに囚われていることを自覚して羞恥を覚える。そんなものがなくとも彼女は―――。
「オルタンシア様。ご紹介いたします。こちらがエリカ・フォーレ嬢。一学年下の子爵令嬢です」
「はじめまして。エリカ・フォーレと申します。この度はお会いしていただきありがとうございます」
「ええ、はじめまして。わたくしに用があるというのは、あなたね? 名を呼ぶことを許します」
「ありがとうございます、オルタンシア様。私のこともエリカと。その、口調と態度を崩すこともお許しくださいませんでしょうか」
「エリカ」
態度を咎めるイリス嬢というのも珍しいと思いつつ、噂よりも余程親しいらしい彼女たちに鷹揚に頷いて見せた。
「その方が話しやすいのであれば許しましょう」
「ありがとうございます。私はまどろっこしい、失礼。遠まわしな会話は苦手なものですから。オルタンシア様は第一神公家の御子息、サロモン様をご存知でいらっしゃいますよね?」
その名前に心臓が跳ねた。
サロモン・コルネイユ様。第一神公家のたったひとりの後継者。五歳年上のかつての幼馴染。八年ほど前に疎遠になってからは、近くでお顔を拝見することも言葉を交わすこともなくなってしまったというのに、思慕だけが消えずに募ってわたくしを苦しめる初恋のひと。
「シア」
家族以外でわたくしをそう呼ぶのはサロモン様だけだった。
初めてお会いした三歳頃には絵本を、成長するにつれ、もう少し複雑なお話を読み聞かせてくださった優しい記憶。あの方は本がお好きで、沢山読んでいらして、わたくしが質問するどんなことでも答えて教えてくださるのだ。穏やかなあの方の声を聴いているうちに、眠くなってしまうことも多かったのに、少しも嫌な顔をされずに可愛がってくださるから、兄や姉たちよりも少し歳が近い分、余計に慕わしくて。誰よりも大好きで。あの方にあまりにもわたくしが懐いたものだから、父や兄たちが拗ねるくらいに。
あんなことがなければ、わたくしは烏を怖いと思うこともなく、そのまま婚約を結んでいたかもしれない。
王妹を母に持つ公爵家の娘ともなれば、父や伯父に強請ればどんな相手でも婚約者にと望める立場でもあるのに。神公家との縁談は政略も王命も無意味。身分など、あの方との縁を繋ぐ役にも立たない。幼馴染の情に訴えたところで、最大の難関が立ちふさがっているから。
それは烏。神の化身にして眷属。わたくしが怖くて仕方のない存在。
「よく知っていてよ。幼馴染と言ってもよいお相手ですもの」
「失礼ですが、オルタンシア様には婚約者がおられない、ですよね」
「ええ。わたくしは公爵家の娘と言えども末の子ですし、必要な政略も特にないということで、お相手は好きに選んで良いと言われておりますから、婚約者を定めないままおりますわ」
「オルタンシア様にとって、サロモン様は恋愛対象になりますか?」
赤紫の瞳は大きく表情豊かだ。そしてまっすぐにわたくしに切り込んできた。
「エリカ! 失礼でしょう!」
「イリス先輩、ここをちゃんと聞いておかないと話が進まないんですよ」
エリカ・フォーレの意図は分からない。けれど彼女は策を弄するようには見えず、むしろ貴族には珍しい裏表のなさが感じられる。これまでわたくしは、誰にも本心を語らずにきた。もしかしたら家族は察していたかもしれないが、誰にも打つ手がなく、望む未来は手の届かぬ絶望の先にある。けれど彼女は。何かわたくしの知らぬ手段を持っているのではないか。そう思うとするりと言葉がこぼれた。
「物心付いた頃から、あの方ただおひとりをお慕いしております」
対するエリカ・フォーレの瞳が瞬く。彼女はきっと、本能的に答えを出すタイプなのだろう。
「好意を持っていらっしゃるのは確定、と。なのに現在は距離を置いておられる。ということは。オルタンシア様は烏を苦手としていらっしゃるんですか?」
たった一言でそこまで辿り着いてしまったエリカ嬢だから、ここは素直になった方が良いと理性が囁くままに、わたくしは頷いた。
「わたくしは烏が恐ろしい。悍ましいとまで感じてしまうのです。だからこそ、サロモン様に相応しくないと分かっているのですわ。それなのに。わたくしは、あの方をどうしても諦められない。あの方がわたくし以外の誰かを選ぶのが耐えられない。
エリカ様、あなたがユーゴ・セルパン様と婚約されて。そしてマエル・ドゥテール様、アントワーヌ・アレニエ様の御縁も結ばれたとか。もう神公家の次期様で残っているのはサロモン様だけになってしまわれた。兄弟のように親しくしていらっしゃる他の三名にお相手の決まってしまった今、あなたは近いうちにサロモン様の御縁も結ばれてしまうのでしょう?」
そうなってしまえばもう、わたくしには為す術がない。
我が国の主神たる四柱。その四柱の子孫である神公家はその血筋の証明として、後継者が役目を果たせると思われる頃―――大抵は十代後半に、神の分体を与えられる。当然のこととして半身と呼ばれるそれは神と同じ姿をしている。すなわち、烏・蛇・蚯蚓・蜘蛛である。
「あなた方はあの半身のお姿をどうやって克服されましたの?」
神への信心はある。心優しき神々が常に見守ってくださっているのを肌で感じない国民はいない。けれどそのお姿を受け入れるのは、正直かなり厳しいものだった。母や姉もどちらかというと苦手のようであるし、女性一般には好かれないお姿だと思うのだが。
「オルタンシア様は神公家の半身をご存知なんですね」
「ええ。その程度には近しかったから」
「慣れ、もしくはまったくの無知。そのどちらかでないと厳しいでしょう」
この場合、慣れているのがエリカ嬢、無知であったのがイリス嬢ということだろうか。
「やはり、そうなのね」
何も知らなければ忌避する気持ちなど湧かなかったものを。けれど今更戻れるわけもなく。胸が塞がれるように息がしにくくなった。
「オルタンシア様はそれでは、このままサロモン様を諦めて他の方の手を取られるんですか?」
「いいえ。どうしても、他の方を選ぶこともできないのです。どのような方を紹介されても、サロモン様でないのならば、わたくしには意味がないと感じてしまって。卒業しましたら、領地でひっそりと過ごそうかと思っておりますわ。噂など聞こえないところに邸でも建てて」
「一生、独身のまま?」
「きっとそうなるでしょう」
神の化身たる半身が神公家の嫁を選ぶ。どれほど表面を取り繕い、言葉で誤魔化したところで、半身には通じない。わたくしの本心、烏が怖いという事は隠せない。ましてや、あの方の側に一生、その存在がいるのだ。恋心と恐怖のそのどちらもがあまりにも強すぎて、もう逃げることしか考えられなくなっていた。
何か、魔法でも何でもいい。行き詰った現状を打破したい。自分の中の感情すらどうしようもないのだ。年下の少女に縋ってでも解決策に行き着けるのであれば。
「あーっ、もう、何てもったいない!」
突然、エリカ・フォーレは立ち上がって叫び出した。
「オルタンシア様、それだけの覚悟がおありならば、いっそ苦手を克服する努力をしてみませんかっ!? ダメなら予定通り領地に行けばいいだけなんですから。何が原因でそこまでダメなのか、ちゃんと追及して、見極めて! 試してからでも遅くないです! 私、不肖、エリカ・フォーレ、野生児だの子猿だの言われて、果樹を巡って烏とも戦ってきたこの私が、全面的に協力させてもらいますから! このままあの、ヘタレ引きこもり頭でっかち野郎を諦めて、一生後悔しながら生きるとか、美女の無駄遣いです!」
なんだか。とても問題のある言葉がいくつも含まれていた気がするのだけれど。それよりも今は。
「克服……できるのかしら」
「生理的にどうしてもダメ、っていうのはあるらしいです。オルタンシア様が烏への苦手意識をどうにかしたいと思われるなら、ちゃんと向き合ってみませんか」
「そもそもどうしてわたくしにお話しを? 他に烏の大丈夫な候補の方だっていらっしゃると思うのですけれど」
どうにもそこが疑問だった。これまで接点のなかったわたくしに、何故話を持ってきたのかが。本人はもちろん、他に神公家二家の縁談を取りまとめた実績のある彼女が、わたくしの元に訪れた理由が知りたくなった。もちろん、他の候補者でなくわたくしに声をかけてくれたのには感謝しかないのだけれど。
「実は私、各神公家から嫁探しの依頼を受けていまして。それで第三と第四とのご縁を結びました。ただ、第一のサロモン様のお相手探しには行き詰っているのが現状です。
他の半身よりかは烏を受け入れられる女性はまだ多いとは思いますが、肝心のサロモン様が縁談に逃げ腰でして。それならばサロモン様と元々親しい方の方が抵抗なく受け入れてくださるんじゃないかと、方向を変えることにしました。
ご本人とお会いした際に以前は仲が良かったとオルタンシア様のお名前が出ましたので、一度私がお会いして、脈がありそうで、かつそれが生理的嫌悪でないのならば、協力したいと思って本日の面会依頼になったんです。
それにですよ? オルタンシア様は烏に苦手意識を持っておられるようなのに、それでもサロモン様を慕っていらっしゃる。そんな健気な女性、応援したいに決まってるじゃないですか!」
烏がダメになってしまったから、わたくしにはサロモン様をお慕いする資格がないと思っていた。けれどもしかしたら、わたくしには努力が足りなかったのかもしれない。きちんと向き合って。それから結論を出しても良いのではないか。
「手伝ってくださる?」
「はいっ! まずは色々お話聞かせてください」
ただ恐ろしくて。自分でも思い出さないようにしていた記憶が、エリカ・フォーレによって暴かれていくことになった。原因を知らないと病気を治すことができないように、恐怖にもまた原因があるはずだからと。
「烏が苦手なのはいつからですか?」
「十歳の頃ですわね」
「それまでは平気でいらした?」
「ええ。特に意識もしたことがなかったので」
「何が原因になったか、心当たりがありますか?」
「サロモン様に誘われて、第一神公家に遊びに行ったのです。その時にお庭で」
鬱蒼と、という言葉が似合うほど、記憶の中のかの家の庭は木が生い茂っており、かなり暗い。そして常に騒がしかった。あの庭の木々は、烏たちが巣を作っているから。
「ああ、あそこのお庭、すっごい烏、多いですもんねえ」
どうやら、現状もそう変わりはないようだ。
「ええ。庭に入った途端、一斉にこちらを見られて。それで、一斉に襲われたのです」
思い出すと恐怖で身体が震えた。まだ小さかったわたくしは頭を抱えてその場で泣き出してしまったのだ。実際には結界の<加護石>を持っていたので被害はなかったのだが、あの時の恐怖はまだ夢に見てしまうほど鮮明だ。何度も叫び、泣き、飛び起きて。もう大人であるから、誰かに縋ることも許されないだろうに。
ふわりと、いつのまにか同じソファーに移ってきたらしいエリカ嬢に抱きしめられているのだと、一拍遅れて気が付いた。そうされていると、恐怖が不思議と薄らぐ気がして、わたくしは息をついた。
「……もしかしてオルタンシア様、その時に髪を降ろして隠さずにいらっしゃいました?」
「そうですわね。普通にリボンで結ぶくらいでしたかしら」
「それ、サロモン様が悪いです。ご本人、黒髪だからまったく頭から抜けてたんでしょう。オルタンシア様はとても煌びやかな美しい髪をお持ちです。習性として光るものが好きなんですよ、烏。それを集めるのも好きで。絶対、毟るつもりで襲われましたね」
「毟る……」
思わず自分の髪を抑えてしまった。あれだけの数の烏に毟られたら、きっと残らないに違いない。
エリカ嬢はわたくしから腕を放し、実に簡潔にまとめてくれた。
「つまり集団に襲われた恐怖が原因、ということでよろしいでしょうか?」
「そう、なるのかしら。あれから一羽だけでも怖くなってしまったのだけれど」
「そんなことがあればトラウマにもなりますよね。鳴き声はただでさえ大きいのに、あまり綺麗な声ではありませんし。翼を広げると結構大きくて。食べても美味しくないし」
「まさか、食べたというの、エリカ!?」
イリス嬢がわたくしの代弁をしてくださった。神の眷属を、食べた……!? とてつもない衝撃だった。
「まあ、成り行きで? ほら、戦いの結果、不運が重なって事故死ということもあって。せっかくだからとその場にいた子供らと食べてみたんですけどね。あ、ちゃんと火は通してますよ、寄生虫とか怖いし。正直、二度と食べたいとは思わない味でしたが、相対するときに『食うぞ!』って念を送ると怯んで逃げてくれるようになりましたので、結果として良かったのではないかと」
仮にも貴族令嬢が、烏を食べたという事実に、頭がついていかない。
「ああ、大丈夫ですよ。うちの主神様方は、元は動物やらですし、弱肉強食は当たり前だと思ってられるそうです。そんなことで怒ったり罰を与えたりされませんから。むしろ、命を奪った後にただ捨てるよりも良いことだと、エトワールにも褒められましたよ」
「待って、エリカ。エトワールというのはどなた?」
イリス嬢が先に質問してくださって助かった。心当たりのないお名前が急に出て来たので。
「サロモン様のお父様、現第一神公家の御当主の半身です!」
エリカ・フォーレ。この娘はあまりにも貴族令嬢として規格外れなびっくり箱だと、この時よりわたくしは認識するようになる。
「では、これからの方針ですが。オルタンシア様には一対一で烏に向き合っていただきます。集団は慣れている人間でも厳しいですが、まずは一羽相手でどうか見てみましょう。指導員は男性になってしまうので、女学院内でなく給餌所で行うのがいいと思います」
「給餌所、というのは初めて聞きますが、それはなんですの?」
「他の三柱の眷属と違って、烏の場合は人家のゴミを漁ったり、畑の農作物を狙ったり、時には家畜の子供も狙います。それなりに大きくて群れますし、頭もよくて追い払うのは困難。でも主神様の眷属なので殺処分するわけにもいかない。—――ということでその被害を収めるため、一定以上の規模の町からは烏に餌を与える場所が設けてあるんです。王都にも数か所あります。
手配は私がします。初日だけ私もご一緒しますから。あ、イリス先輩はいいです。万が一、顔とか髪に傷つけたらアントワーヌ様が烏たちを焼き殺しかねないんで」
「顔とか髪が傷つくような場所ですの?」
「習性のお話、しましたよね? オルタンシア様同様、イリス先輩の髪も狙われそうなんで。あ、安全には勿論留意します。というより安全第一で。手配が済んだら日時をご連絡します。初日は女学院の休日にしましょう。
ただその前に必ず公爵家からの許可を得てください。危険はないように対処しますけど、高位貴族の令嬢が行く場所ではないので」
「それが必要であれば。この後に連絡を取ることにいたしましょう」
方針が決まったことは、わたくしの心に少し余裕を齎したようだ。侍女に命じて新しいお茶とお菓子を用意させる。
「給餌所に実際に行く前にお聞きしたいんですが、オルタンシア様は烏についてどれ位ご存知ですか?」
「それは普通の烏ということですわね? 黒いこと、大きいこと、騒がしいこと。その程度しか知りませんわ」
普通の令嬢ならそうでしょうね、と頷く彼女はこれまでの言動からも普通ではないらしい。
「烏はとても頭がよいです。食べ物を得るために工夫をしたり、他の野生動物はしない、遊ぶことも知っています」
「エリカ様は烏がお嫌い、ではないの?」
「いえ別に。恨みを感じたことはありますよ。烏って果樹の熟れる時期を本当によく知っていて、次の日に取ろうと思っていたら前日に根こそぎ食べられていたあの絶望! アントワーヌ様みたいな力があれば焼き鳥にしてやるところでしたが。でもまあ、なんというか好敵手のような? 次は負けないぞという対抗心というかはありますけど、嫌いではないですね。鳥としては、烏の嘴って鋭くないんですよ。だからまあ、戦い様もあるわけですが。あの賢いところなんて感心しますし、よく見ると結構きれいなんですよね、羽とか全体が艶々していて」
お菓子を口にして、ほにゃっと表情を緩ませるところは小動物のようで、段々彼女が可愛く見えて来た。発言内容はどうかと思うけれど。
「オルタンシア様が目標とされるのは最終的にサロモン様のあの子になりますが。エトワール程ではないですけど、それでも相当賢いです。何せ私、あの子に完全に下に見られてますから! 烏のくせに!」
それは半身に見下されているということでは? そう思いはしたけれど言葉にはしなかった。
それからエリカ嬢からは烏の逸話を聞いたりしたが、思いもかけず楽しかった。それは話す彼女が楽しそうだったせいもあるかもしれない。
数日後、そんなエリカ・フォーレから連絡が入った。次の休日に給餌所に案内すると。
◇◆◇◆◇◆◇
約束の朝。彼女から指定されたように制服で迎えの馬車に乗る。馬車に付いた紋は第一神公家のものだった。烏の為の施設であればその管轄が第一であると何故気付かなかったのかと軽く自嘲する。きっとあの方に繋がるものすべてから目を逸らしていたせいだろう。
「着る物は制服で。私が知る限り服の中でこれが一番防御率が高くて防汚効果もありますので。帽子と手袋、靴下などは第四に依頼しました。費用は第一から出てます。がんがんに防御の祝福かけてもらってますが、念のため、今日は作業に出る前に第一でお参りしていきます。眷属とうまくいけばきっと喜んでくださると思うんで。少なくとも嫌われないようにご加護くださるかもしれませんし」
エリカ嬢と共にまずは第一の神殿に参拝した。静謐な神殿はいつ訪れても心を落ち着かせてくれる。拝殿で跪いて、わたくしはこの烏への恐怖を克服出来るよう心から祈った。ふわりと温かいものに包まれた気がしたのは、わたくしの願望だったのかもしれない。
再び馬車に乗って道を折り返す。目的の給餌所は女学院からそう遠くないのだという。
「初日ですから遠回りして神殿に寄りましたけど、今日の様子で大丈夫そうなら通っていただくことになりますし、近い方が良いでしょう?」
屈託なく笑って見せるのはわたくしの緊張を解すためだろうか。それとも本人の気質によるものか。会うのは今日が二度目だが、彼女は確かに貴族令嬢らしくはないが、おそろしく天然で裏なぞないのだろうと思えるようになった。あの人を寄せ付けなかったイリス嬢ですら気を許すほどなのだから。
初めて訪ねた給仕所は、高い塀の向こうに高い木が植えられており、外からでは建物も見えない。
「色々、工夫されてるんですよ、ここ。烏以外の生き物は基本的に入れないようになっています。肝心の烏の気を引く仕掛けもあったり。何より、外には音と匂いが漏れないような特別な結界が張ってあります。でないと、街中にあるのを近隣の住人に嫌がられますから。門と建物は繋がっていまして、まず建物―――給餌所の事務所に入って着替えてもらいますね」
馬車ごと給餌所の門を入ると、そこはもう屋根のある建物の中だった。
「出入りの際には、この身分証を門で提示してください。一応、一般人の出入りは制限されてますから」
「それには理由があるのかしら?」
「嫌いな人って、一定数いるんですよ。で、嫌いだから傷つけてやろうって人も。そういう人から烏たちを守る意味もある施設なので」
建物の中を進み、更衣室に案内される。
「髪はむき出しにしていると、きらきらしていなくても引っ張られたりすることがあるんで、職員も全員帽子の中に髪を仕舞っています。基本的にここの職員は男性ですが、彼らすらそういう備えをしているので、髪の長い私たちは余計に注意が必要ということです。どうも巣材に狙われるっぽいので。今は私がお手伝いしますけど、他の日は髪をアップにしてから来られたら簡単かもしれません」
女学院の寮にも侍女が付いてきているので、自分で髪をまとめたりすることは普段からない。意外に器用に髪をまとめてくれたエリカ嬢は、侍女教育の成果だと笑っていた。
「このマスクが重要なんです。防臭効果を高めてもらっているので、匂いが気になりません。会話する時に声がくぐもる欠点はありますが、通気性も良いので息苦しくはないはずです。これがないと、オルタンシア様でなくとも、ここは厳しいと思うんです。どうしたって生き物には匂いがあるし、ましてや愛玩動物と違って野生動物だとお風呂に入れるわけにもいかないので、ぶっちゃけ臭いです。烏は水浴びが好きですが、石鹸を使って自力で徹底的に洗うわけでもないので。ここは排泄物の処理も徹底しているのでマシだけれど、それでもどうしても無臭とはいきませんから」
わたくしは犬猫であっても動物を飼ったことがない。邸に番犬はいたが、近づくことさえしなかった。寮では動物を飼っている令嬢もいるが、飼おうと思ったことがそもそもなかったのだ。だから世話と言われても何をしていいのかすら分からない。エリカ嬢の話を聞いても、そうか匂うのか、と思ったくらいである。
帽子に髪を仕舞った後は、靴下も替え、手袋とマスクをして、制服の上からエプロンを纏うと完成だ。目元しか露わになっていないのは向かい合うエリカ嬢が同じ格好をしているので良く分かったが、なんだか少し怪しい人のようでもある。
着替えが終わるとエリカ嬢は一旦部屋を出て行き、一人の人物を伴って帰って来た。
「オルタンシア様、こちらこの給餌所で働いておられるノワールさんです。オルタンシア様の指導係になっていただくようお願いしている方になります」
「第一神殿より派遣されていますノワールです」
髪は帽子の中。濃い色のガラスの嵌った保護眼鏡をかけ、口元も布で覆っている男性に紹介される。露出する部分がほとんどなかったので、私は彼の顔形どころか髪色すら分からない。けれどそれは今の私も同じこと。保護眼鏡こそかけていないものの、全体を布で覆われているのだから。それでも高い身長にひょろっとした体型は見て取れた。声は低く、少し聞き取りにくいのは口を覆う布のせいだろうか。おそらくだけれどまだ若いのではないかと推測できる雰囲気が読み取れる。
「私がお手伝いに入るのは今日だけです。ちょっと休日以外は外せなくて……。淑女教育の補講が……。ですので、基本的に今日からノワールさんの指示に従ってくださいね。熟練の職員さんですから安心ですよ。烏のこともとても詳しいんです」
そう言ってエリカ嬢は一歩下がってノワールという人物を押し出した。補講というのは聞かなかったことにした方がいいのか。それとも今回のお礼に、何だったらわたくしが指導してもよいかもと頭を過った。だが今は目の前の職員への挨拶をせねば。
「よろしくお願いいたしますわね、ノワール様。オルタンシアとお呼びください」
「平民ですのでどうぞノワールと」
「いいえ、わたくしの先生ですもの。言葉も崩してくださって構いませんのよ」
「……ではそのように」
あまり明るい方ではないようだが、神殿から派遣されているのならば人格は確かなはずだ。
ノワール氏に案内されるまま、建物から庭に踏み入ってみると、まず音に圧倒される。耳がどうにかなりそうなくらい騒がしい。複数の烏たちが至る所で鳴いているのだ。
「烏は声が大きいので給餌所はどこも街はずれに作られています。<加護石>を使用して外には音や匂いも漏れないようにはしていますが、ここまで飛んでくる間が騒がしいのが課題ですね」
庭に出たと言っても、そこにはまだ建物への侵入防止用の目の細かい網が張られていて、網の内側には烏は入って来られないようだ。遮るものがあるので、姿を見てもまだ冷静にノワール氏の説明を聞いていられる。
「この烏たちはここに住んでいるわけではないのですね?」
「はい。ここに彼らのための餌があることは知っているので、空腹になったら集まってきます。巣は王都の外の林などにあります。王都内で巣を作って良いのは第一神公家の庭だけにするよう、神に命じて貰っているとかで。ただ、いくら広大な神公家の庭とて受け入れに限度はあるので、それ以外は王都の外で巣作りしています」
給仕所の庭は、決して狭くはないのだが、それでも枝に泊まっていたり、餌場に頭を突っ込んでいたりと、黒い塊があちこちにあり、彼らからの圧が感じられて、少し足が竦む。
「集団だと余計に迫力がありますので、こちらにどうぞ。怪我をした個体を療養させている場所があるのです」
網の向こうを横目で見ながら建物の外周に沿って進むと、いくつか小屋が並んでいる。そのうちの一つの小屋の中に入ると檻が並んでおり、中には一羽ずつ烏がいるのが見て取れた。
「ここには様々な理由でケガをした個体を保護しています。お互いを傷つけたりしないよう、また無理をして悪化させないように、怪我が治るまでは一羽ずつ檻で世話しています」
ノワール氏について歩いているわたくしとエリカ嬢を檻の中から窺っている気配がするが、外の烏ほどには騒がしくないのは助かる。そのまま通路を進んで、小部屋にと案内された。扉を閉めると、外の喧騒が嘘のように静かだ。そして室内は暑いほどに温められていた。
「この部屋には今は一羽の雛しかいないので安心してください。オルタンシア様にはこの雛の担当を御願いしようかと思っています」
「給餌所に雛がいるのですか?」
「はい。今はこの一羽だけですが。巣から落ちて放置された子などがここに連れて来られるのです。烏は通常、春から夏に卵を産みますが、この国は守護の力のせいか冬もそう厳しくないので、稀に時期外れに卵を抱える場合があります。けれどやはり生育に適した気温ではないので、時期外れの雛はきちんと育つことはあまりなく、親も餌が少ないなどで熱心に育てない事もありまして。こちらとしても放置はできないので、ある程度までは育てることになります。この子もこんな時期に生まれてしまったのが不運でした。こちらには昨日連れてこられたばかりです」
今はもう冬で。寒さはこれから厳しくなるのに親に見捨てられるなんて。苦手な烏ではあるけれど、それだけで気の毒に思ってしまう。
「どうして雛を担当するんですの?」
「オルタンシア様は烏が苦手と伺っています。また、これまで動物の世話は未経験とも。いきなり成鳥は抵抗があって無理だと思うのと、動物はやはり子供が一番可愛いので、成鳥より抵抗なく接せられるのではないかと。成鳥よりかは手間も掛かりますが、面倒をみて懐かれたら愛情も沸きやすいですしね」
小部屋の机の上には鉢に入れられた丸めた布があり、そこの中にうずくまるように塊があった。肌色より少し黒っぽい身体は、わたくしの掌よりも小さい。なのに、嘴ばかりが大きく開いて中が赤い。顔というよりも嘴しか見えない。
「うわぁ、これ、孵ったばっかりですね。普通は巣を覗かないと絶対に見られないですよ、こんな状態の子」
隣でエリカ嬢が興奮したような声を上げる。
「この部屋は暖かいでしょう? 魔石を使って温度を上げています。まだ羽が生え揃っていないので寒さに弱いので。巣代わりの布もほんのり温かくなるように付与してもらったものを使用しています」
ノワール氏による解説が続く。通常は巣の中に雛が一羽ということはなく、数羽寄り添って温かくしているか、親が保温するのだという。羽が生え揃ったら保温の必要はなくなるが、何しろこれから本格的に寒くなる。自立できるようになるまでは色々世話が必要なのだという。
「雛には近づけそうですか?」
ノワール氏にそう言われて、嘴ばかりが目立つこの生き物が烏であることにようやく気が付いた。記憶にある烏や、この飼育所の庭にいた烏とはあまりにも違っていて意識していなかったようだ。
「そう、ですわね。この子であれば大丈夫な気がいたします」
そう言うと、ノワール氏の雰囲気がふわっと柔らかいものになった。どうやらわたくしが雛までダメなのではないかと心配されていたのかもしれない。給仕所で働くくらいなので、彼自身は烏が好きなのだろうと思う。自分の好きなものを他人に否定されるのは辛いことだ。そしておそらく、理解されずに傷ついたことがあるのではないだろうか。
「では餌やりをしてみましょうか。雛はだいたい一時間毎に餌をやらねばなりません。まだ自力で餌を食べたり水を飲んだりもできないんです。水分を含んだ餌をこう嘴の上まで運んでやると、ほら、食べましたよ」
ノワール氏は、鉢に入った餌らしきものを手袋をした指先で摘まんで与えてみせた。鉢をわたくしに持たせてやってみよという。
餌が何かはよく分からなかったが、べっちゃりとした柔らかいものである。おそるおそる指先で摘まむとほんのり温かい。それを雛に近づけていくだけのことなのだが、自分でも腰がひけているのが分かった。
「防御の祝福のたっぷりな手袋ですから大丈夫ですよ」
エリカ嬢にもそう言われ、なんとか嘴の近くに持って行くと、当たり前のように雛はそれを食べてくれた。
「食べましたわ!」
それは、ちょっとした感動だった。わたくしがしたのは、ただ餌を運んだだけのこと。けれど、この雛はわたくしを疑うことすらせずに受け入れてくれた。
「もう少しだけ与えてみましょう。まだ生まれて間もない子なので、一度に食べられる量はそれほどではありません。はい、もう良いでしょう。後はまた一時間後ですね」
「一時間毎に餌をやるのは大変ではありません?」
「まあ、大変ですね。片手間にやれるかと言われれば厳しいでしょう。だからこそ、ここに持ち込まれるんですが。もう少し大きくなれば間隔も開けられますし、そのうち置き餌を食べるように教えられればずっと楽になりますが、今しばらくは目が離せません。私も他の作業の合間にこの子の世話をしているので、オルタンシア様に任せられれば助かります」
餌やりの後もまったく未知の作業が連続する。
「貴族のお嬢様にお願いするのはどうかと思う作業も多いですが。餌やりの後は、巣代わりの布を交換してください。交換用の布はこちらの棚です。使用済みは一旦こちらに入れて、合間に洗います。まだ巣の外で糞をすることができないので、どうしても汚しますが、さすがに衛生面でよろしくないので。野生の場合はもちろんそのままで親が食べたりしますが、ここはあくまでも人間が世話をする場なので、人間の都合も取り入れています」
生き物の世話は排泄物の処理からは逃げられないのだとノワール氏は語り、エリカ嬢も頷いている。我が国では初代王の奮闘もあり、王都は特に清潔だ。馬の落とし物もすぐに処理されて、わたくしたち貴族が目にすることもあまりない。貴族の場合、愛玩動物を飼っていても使用人が実際の世話をするので、こういった明け透けな話は驚きに溢れていた。
恐る恐る雛を持ち上げて、布を交換する。寒くないように包むようにしてやると、雛はうとうとと眠りだした。温かくてなんとも頼りない存在だ。
案内された水場で使用済みの布を洗う。室外にある洗い場は風が冷たく、水はもっと冷たい。ただ用意された手袋が優秀で、水はしみ込まない上に冷たさも緩和されているようだった。
この日、給餌所で過ごした数時間のうち、何度か餌を与え、清掃を繰り返した。時折姿を消すノワール氏は餌の準備やら他の烏の世話にと忙しそうだ。他の烏を目にしない方が良いだろうと言う事で、布を洗う以外では部屋を出ることもない。雛は一羽だけなので、すぐにすることがなくなってしまうが、その間はエリカ嬢とお喋りして過ごした。彼女の愛蛇への情熱がすごいことに圧倒されるばかりだ。
「どうでしょう、続けられそうですか?」
夕刻が近づいて辞去する時間になって、改めてノワール氏に尋ねられた。あの、自分では餌も食べられないか弱い存在。わたくしの中では忌まわしき烏と結びつかない小さな温かい生き物。正直、抵抗のある作業も多い。それでも、わたくしに与えられる仕事はごく僅かなものだ。
「あの子自身に抵抗がないようであれば、続けてみてはくださいませんか? オルタンシア様の目的が烏への恐怖の払拭であるのならば、遠回りに見えてもこれが結局は一番の近道だと思うんです」
ノワール氏は烏を愛しておられるのだろう。そしてできるならば、わたくしにも嫌って欲しくないのだ。それが伝わってくる。
「オルタンシア様、目的を思い出してください! 雛が大丈夫なら、一歩前進してるってことですよ!」
エリカ嬢の言葉にはっとする。そう、ここでやめてしまえば、おそらくわたくしが烏への恐怖を乗り越える機会はなくなってしまう。そしてそれはサロモン様との縁が完全に断ち切られるのに等しい。
「この子であれば、まだ受け入れられそうなので、続けさせていただいても良いでしょうか。女学院の授業が終わってからなので、昼過ぎ以降しかお手伝いできませんけれど」
実際には戦力になっていない自覚がある。ただ、ここで放り出してしまうのも無責任にすぎるだろう。この小さな無力な雛がせめて、自力で生きていけるようになるまで関わることができたならば。その時、わたくしは変われている予感がする。
「十分です。明日もお待ちしていますね」
ノワール氏に見送られて給餌所から去っても、弱々しく鳴く雛の声が、いつまでも耳に残った。
◇◆◇◆◇◆◇
女学院における教育は、実際のところ個々で事情が違うため、同じ学年であっても同じ授業を受けるとは限らない。ましてや高位貴族の子女ともなれば、女学院に入る前にある程度教育は施されているものだ。更に最終学年ともなると、授業そのものも少なくなり、自習の割合が高くなる。それでも午前中は何らかの授業が組まれていることが多い。
なので寮の部屋に戻って昼食を取った後は、わたくしの場合、同学年の高位貴族の令嬢たちとのお茶会をすることがほとんどになる。これは、女学院の方針である同年代の貴族女子の交流の推奨に当てはまる。何せ卒業した後も、付き合いの続く相手が同じ場所に起居しているのだから。また在学中であれば対立派閥であっても関係がないとされているので、付き合いの幅は現在の方が広いかもしれない。
つまり、普段お茶会をしている時間を給餌所での活動に充てることも、許可さえあれば可能ということだ。
実家にも女学院にも話は通してあるので、対外的には公爵家の意向により神殿関係の奉仕活動への従事、ということになっている。友人たちにもそのように伝え、しばらくはお茶会に参加できないことを謝った。どうせ間もなく冬季休暇に入るのだ。わたくしが給餌所でどれだけの時間を過ごすことになるかはまだ未知数であるが、休暇中には目途がつくかもしれない。
昼食を終えると、門前で待っていた公爵家の馬車に乗り込む。この馬車は実家が手配してくれており、給餌所までの送迎をしてくれる。近いと言っても、貴族令嬢が歩いて通うというのはありえないからだ。
許可をとって外出する場合は、大抵このように実家が馬車を手配する。ただ、下級貴族の場合は女学院に用意されている馬車を予約して利用したりもするらしい。
今日からはエリカ嬢が一緒ではない。もちろん、侍女も連れていない。むしろ昨日よりも緊張しながら、わたくしは給餌所の門を潜った。
もう覚えた更衣室で身支度を整えたのを見計らったように、ノワール氏が迎えに来てくれた。どうやら小屋まで一人で行くのが怖いというのを見透かされていたようだ。
顔が見えない状態であっても、知った人物がいてくれるのは心強い。
「ごきげんよう、ノワール様」
「はい。こんにちは。来てくださって嬉しいです」
「ですけれど、わたくし、何の役にもたっておりませんのに」
「本来、公爵家のお姫様がされるような作業ではないのに、それでも来てくださったじゃありませんか」
「それは、まあ。来たからにはがんばりますわ」
「はい。お願いします」
エリカ嬢がいない状態でどうなるかと思ったが、ノワール氏とのやりとりは思っていたよりも問題がなく、雛のいる部屋へと向かう。
人の気配を察知したのか、雛は眠っていたらしいのに起きて、さっそくと言わんばかりに大きく嘴を開けた。
「じゃあ、まず餌やりからお願いします」
一回分の餌の容器を渡されて、雛に近づく。大丈夫。昨日よりも怖くない。
わたくしがそうやって雛に餌をやっている様子を見守るノワール氏の声も柔らかくなっている。
「すごいですよね。この子は卵から孵ってまだ数日でしょう。目も見えないのに、こんなに必死に生きようとしているんですから」
烏は怖い。そんな風に凝り固まっていた思考が、その言葉で解けるように流れ動き出したのが分かった。
「生きて、いるんですのね」
そんな当たり前のことが、ようやく腑に落ちたのだ。そしてこの雛が、世話をされないと死んでしまうということも。
「ぜひ毎日、成長を見守ってやってください。鳥類は元々成長が早いですが、烏はこのように食欲旺盛なので、たった一月ほどで飛べるようになるんですよ」
「それは、随分と早いのですね?」
「あっという間ですね。たった数日で見違えますから、見逃したらもったいないですよ」
わたくしが餌をやり終わると、ノワール氏は天秤を取り出して雛をそれに乗せた。
「それは、何をしてらっしゃいますの?」
「毎日、こうやって体重を測って記録しています。成長度合いが分かりますし、今後また雛を引き取った時の資料にもなりますから」
羽ばたけるようになると遊びだと思って素直に測らせてくれなくなるんですけどね、とノワール氏は笑ったようだった。
ノワール氏の言っていたことに誇張はなかった。その翌日に、訪れた小屋でわたくしは悲鳴をあげてしまった。
「ノワール様! 身体の色が変ですわ! 病気ではありませんの!?」
雛の身体は全体的に灰色と白のまだらになっていたからだ。
「ああ、これは羽毛が生えかけているんです。ちゃんと成長しているだけですから慌てないで。ほら、餌を待っていますよ」
わたくしたちが入室した途端に鳴いて嘴を開ける様子は、たしかにここ数日見て来た雛と同じで、病気でないと知って心から安堵した。渡される容器の中身も、少し量が増えたようだ。……相変わらず餌の材料が何か、よくわからないのだが。追求したくないのであえて聞いていない。聞くのが怖いともいう。
それから数日で雛はあっという間にとげとげもわもわな感じになった。目もなんとなく開いているように見えるけれど、視力があるのかは分からない。ただ、とてもきれいな青色だ。
「成鳥になると目の色は黒になります。今だけ、こんな青なんですよ。嘴の中が赤いのも雛のうちだけです。この赤い色が親に餌を与えなければと思わせるそうです」
本当に毎日姿が変わる。もわもわがふわふわの黒い羽毛になって、それが伸びていく。まだ小さいけれど、最初に見た時よりも随分と大きくなった。得体のしれない嘴ばかり目立った生き物は、半月近く通ううちにすっかり鳥らしい姿になって、この頃になると、雛はすっかりわたくしとノワール氏を餌をくれる相手と覚えたようで、甘えてくるようになった。そうなるともう、可愛くて仕方なくなってしまう。
「ニュイ、ニュイ、もう、いたずらっ子ですのね」
手袋をした手であごの下などを撫でてやると目を細めて気持ち良さそうだ。
そう。わたくしは、この雛に限ってはいるけれども平気で触れるようになっていたのだ。
「名前を付けたのですか?」
「ええ、無いと不便でしょう? いつまでも雛と呼ぶのも可哀そうですし」
夜のように黒いからニュイ。まだ黒いだけで艶はない。尾羽もあるかないか分からないくらい。でもきっとこの様子だと後数日で伸びるのだろうと、わたくしにも予想できる成長ぶりだった。
「自然に返すことをここでは前提にしていますから、なるべく職員は名前を付けないようにしているんです。情が沸くと手放せなくなるので。そうは言っても建前ですから、あだ名は付けてしまうんですけどね。この子は運がいい。外の子らは『大食い』だとか『やせっぽち』とか呼ばれているのに、ちゃんと名前を貰ったんですから。オルタンシア様に名付けて貰いたがる烏はきっと他にもいるでしょうに」
「外の子皆に名前を付けようとしたら大変ですわ。それに区別がつきませんもの」
「見慣れたら個別で認識できるようになりますよ。ただ職員でも全部は無理ですが。どうしても目立つ個体のみになってしまいます。ニュイ、お前は本当に幸せだぞ。何と言ってもオルタンシア様の特別なんだからな」
そう言ってニュイを撫でるノワール様の手つきはとても優しい。あの手で撫でられたらきっと気持ちが良いだろうと思ってしまうくらいに。
「あら、ニュイはノワール様にとっても特別でしょう?」
「私は他の烏の面倒もみていますから、この子一羽というわけでもありません。ただやはり、特別になりたいですね」
それはニュイに向けているはずなのに、何故かわたくしに向かって言われたような気がして、顔が熱くなってしまった。誤魔化すように話題を探した。
「ニュイはこんなに可愛いのに、どうして人に嫌われるのでしょう?」
「オルタンシア様が大事に育てていますが、そのニュイが例えば野良猫に襲われたら悲しいでしょう? それと同じで大切に育てているものを狙われたり、生きるために飼育しているものや手をかけた農作物を狙われたりするとどうしても許せなくなるのです。
烏は雑食ですから、人間の食べるものも平気で食べます。むしろ奪うでしょう。また、小さな動物、子猫や子犬、小鳥なども獲物にします。人間の目からだと残虐に見えますが、彼らもまた自分たちが生きる為に狙いやすい食べられるものを選んでいるだけなのですが、それを受け入れられるかは立場によって難しいとしか言えません。
あと、烏は人家で出るゴミを狙って、食べ散らかしても後片づけしませんし、結局掃除の手間を掛けさせるので嫌われますね。腐肉を突くのが汚らしいと思う人もいます。だからこその給餌所なんですけどね。そういった烏の被害を抑え、なるべく平穏に共存できるようにと」
わたくしはこれまで、ここまで烏について考えたことなどなかった。公爵家に生まれて大切に育てられたから、邸の外で必死に生きる動物なぞ、縁のないものでしかなかったから。自分が飢えたこともないから、食べ物がないという状態を知らない。人も動物も食べなければ命に関わると知識として知っているだけで、そこにはまったく実感がなかった。
けれどニュイは。この小さな子は、わたくしが与える餌がなければ簡単に死んでしまう。この半月、毎日触れ合っていたこの子が死んでしまったらと思うと、守るためにどんなことでもできそうだと思ってしまう自分がいる。
わたくしが平気になったのはまだニュイだけで。給餌所の外にいる烏たちと対面できる自信はまだない。ただ、小屋に通うまでに見かける烏たちを見ても、最初の頃のように足が竦むことはなくなっていた。
それはいつも一緒に移動してくれるノワール氏がいるからでもある。この半月の間、わたくしが慣れたのはニュイだけでなく、ノワール氏にもだった。
一緒にニュイの世話をするから、共にいる時間も長く、必然的に会話も増える。会話内容は烏についてがもちろん多いのだけれど、それ以外の雑談もするようになって、彼が実はとても広い知識の持ち主であると気付くようになっていた。わたくしが授業で出された領地問題を口にした時も、ノワール氏は淀みなく問題点を指摘してきたからだ。領地持ちの貴族に嫁いだ場合、夫の代理で領地の管理をする可能性もあるので、女学院では領地での統治についても学ぶ。けれどその内容は当然、高等教育を受けていなければ答えられないはずである。
そしてまた、初対面では平民と言っていた彼だが、この頃にはわたくしはそれが嘘ではないかと疑うようになってきた。わたくしは公爵家の娘で、身の回りに貴族でない者がいない。下男や下女とは顔を合わせることもないし、執事や従者や侍女も下位と言っても貴族の出だ。だから本当の意味で平民とは関わったことがない。ただ、貴族であれば話は別だ。家族、使用人、他家の令嬢たちにその家族。決して少なくない人間を見て来た。その目が、彼の振る舞いを貴族のものと判断したのだ。それもおそらくは高位の。
けれどその疑いを彼に問うこともまた、出来なかった。
それを口にしたら、きっと彼との関係は変わってしまうだろうという予感がしたからだ。おそらく、わたくしの指導担当から外れてしまうのではないか。そうなれば、きっともう会うことはできない。きっともう関わることもできない。
ニュイは、かなり大きく飛び跳ねられるようになってきた。なんとさっき、地面にいたのにわたくしの肩に飛び乗って来られたのだから!
「すごいですわニュイ! きっともうすぐ飛べるようになりますわ!」
体重を測らせてもらえなかったノワール氏が苦笑している気配を感じる。
「そうですね。巣立ちも近いですし、そろそろ羽ばたく練習もさせなければいけませんね」
「それはどうやって教えるんですの?」
「通常でしたら親が飛んでいるのを見て、巣立ちして枝から枝に飛び移るようになります」
「親……おりませんわね」
「はい。これまで他の烏とも顔を合わせてもいませんし。冬生まれだからと少し過保護にしすぎたかもしれません。このままだと烏社会に馴染めなくなってしまうかもしれない」
ノワール氏の声に深刻さが混じる。
「馴染めなかったらどうなるんですの?」
「烏は縄張りを持つ生き物です。給餌所は烏神からの命が降りて共用の認識があるので、ここでなら餌は得られますが、外で寝起きする場所が見つからないか妨害される可能性がありますね。しかもここまで人に慣れていると、人に簡単に近づいて逆に被害を受けたりも考えられます」
「そんなの、ダメですわ!」
わたくしの肩から腕へとちょんちょんと移動してきたニュイを腕に抱いて危険から守ろうとしてしまう。そんなわたくしを見て、ノワール氏が少し笑ったのが伝わって来た。
「今のオルタンシア様、まるでニュイの母鳥のようですよ」
「母鳥! なれるものならなりますわ! それでニュイが守れるのでしたら!」
「それでは、なってみられますか、母鳥に」
それは今まで聞いたノワール氏のどの声音とも違うものだった。思わずつられるように返答が上ずる。
「どうやって、ですの?」
「ニュイを飼い続けるということですよ、オルタンシア様が」
「ニュイを飼う……」
「巣立ち迄まだ少しありますし、それまでに考えてみられませんか。当然、御家族にまず相談してからになりますが。卒業されるまでは女学院の寮で飼われることになりますし、もしそうなるんであれば環境も整えてやらねばなりません」
わたくしのエプロンの端を銜えて遊ぶニュイは自分の事を話されているというのに、ただ無邪気だ。
「もし、わたくしがニュイを飼うことにいたしましたら、ノワール様がいらっしゃらない状態で面倒を見なければいけませんわね?」
「当然ですね。私が女学院の寮でニュイを世話することはできませんから」
考えさせて欲しいと、なんとか言葉を絞り出して、わたくしはその日給餌所を後にした。
頭がぐるぐるとして思考が儘ならない。何故だか涙まで滲んでくる。女学院に着いたわたくしは、下位貴族用の寮へと向かい、エリカ・フォーレを呼び出していた。
面会室に現れたエリカ嬢は、わたくしの状態を見て慌てだした。
「どうなさったんです、オルタンシア様!」
何故なら、エリカ嬢の顔を見た途端に、滲んでいただけの涙がぽろぽろと零れ出したからだ。
「わ、わたくし、ニュイが。ノワール様が。それで……」
声を詰まらせてしまったわたくしの隣に座り、以前もしてくれたように軽く抱きしめられる。
「大丈夫ですよ、オルタンシア様。少しお疲れですか? もう一月近く雛の面倒を見てらっしゃったんでしょう? 慣れない作業なのに、よく頑張られましたね」
抑えようとしても、嗚咽しか出てこない。エリカ嬢の肩に縋るように顔を伏せたわたくしの頭や背中を柔らかい手が宥めるように撫でてくれる。それで随分と楽になったというのに、恩知らずにもわたくしは、その手が―――だったらと思ってしまっていた。
わたくしが泣き止むとエリカ嬢は面接室の備品らしき茶器にお茶を淹れて差し出してくれた。すっかり喉が渇いてしまっていたわたくしには甘露のように感じられる。実際はいつも飲んでいる茶葉よりもずっと落ちるものであっても。
「オルタンシア様がここずっと、給餌所に通って雛の面倒を見ていらっしゃるという報告は聞いていました。初日しかご一緒していませんが、どうなりました?」
「ニュイは。あの雛にはニュイと名付けましたの」
「それは……あの子が嫉妬したことでしょうねえ」
わたくしの言葉に反応したらしいエリカ嬢の言葉はよく聞き取れなかったので、聞き返そうとすると。
「なんでもないです。ニュイですか。呼びやすくて覚えやすくて良い名前ですね」
「ええ。すっかり大きくなりましたの。ノワール様は巣立ちももうすぐだとおっしゃって。まだ飛べませんけれど、とても高くまで飛び跳ねたりできるようになったんです。でも、ニュイは他の烏を知らないから、このままでは烏社会で生きていけないかもと。わたくしにこのままニュイを飼わないかと」
「迷っておられるのですか、飼うことを?」
「いいえ。ここまであの子を世話していて。外に放して不幸になるのならば、ずっと飼うのは良いのです」
「では何故、混乱されていたんです?」
「だって、気が付いてしまったんですもの。わたくし、ニュイは平気です。他の烏だって、見かけても怖くはなくなってきましたの」
「すごく、頑張られたんですね」
「ニュイのおかげですわ。あの子がわたくしに懐いて甘えてくれるようになって。だから可愛くなって。ニュイの仲間だと思うと、他の烏にも段々親しみが沸いて」
うんうん、とエリカ嬢がただ聞いてくれるものだから、わたくしは抑えつけていたものを吐き出してしまった。
「ですから、気付いたのです。わたくしが給餌所に通う目的はほぼ達成されていると。飼う飼わないは別にしても、ニュイが巣立ってしまえば、わたくしが給餌所に行く理由がなくなってしまうことに」
「給餌所にまだ通いたいんですか?」
「だって、給餌所に行かなければ会えなくなってしまうんですもの」
そう。気付いてしまったのだ。ニュイが無事に大きくなって。わたくしが烏にある程度慣れて。そうしてもう給餌所に行かなくなれば。
ノワール氏に会えなくなるということに。
「わ、わたくし、ずっと何年もサロモン様をお慕いしておりましたのに。お会いしてたった一月も経っていないノワール様とお別れするのが耐えられなくなっておりますの」
自分が信じられなかった。ずっとサロモン様一筋で、一生この思いを抱えて生きていくのだと思っていたのに。こんなに簡単に。しかも顔さえまともに見たこともない、素性さえ知らない他の男性を。もしかしたら、恋人どころか家庭をもっていらっしゃるかもしれない、そんな方を。
自分が心底情けなくて。自分自身に裏切られたようなそんな気分で、一度止まったはずの涙でまた視界が滲む。
「あ~、えっとですね、オルタンシア様。明日、私も一緒に給餌所に行きます。授業は明日は午前中だけだし、補講は別の日に振り替えてもらうように頼んできますから。だから。大丈夫です。全部、任せてください。このエリカ、オルタンシア様の幸せをもぎ取ってみせますから!」
◇◆◇◆◇◆◇
翌日、エリカ嬢は本当に補講をどうにかしたらしく、一緒に馬車に乗り込んできた。
「うん、目も腫れてませんし、今日もオルタンシア様はおきれいです」
夕べ、自室に帰ったら侍女たちに慌てて目を冷やされたのだ。おかげで朝起きてからも瞼が腫れていなかった。もし腫れが残っていたら、わたくしは今日、給餌所行きを断念していたかもしれない。そんな酷い顔を見せたくはないから。
すっかり慣れた身支度を終えると、いつものように迎えに来てくださったノワール氏がエリカ嬢に気付いて、何故か動揺されて挙動がおかしかった。それをエリカ嬢は完全に無視して、
「さあ、雛ちゃんがどれほど元気に大きくなったか、見せてもらいますね!」
と、わたくしの手を引いてさっさと歩きだしてしまった。
ニュイの小部屋に入ると、大喜びでわたくしに甘えようとしたニュイが「しらないひと?」という感じに首を傾げる。
「ここに来てすぐの頃に会ってるよ。エリカだよ。仲良くしてね!」
そう言って、ノワール氏の手から餌鉢を奪うようにしてニュイに餌を与えてしまった。ニュイも素直に食べてしまった。鉢が空になるまで。
今回分の餌やりをエリカ嬢に奪われた形のわたくしとノワール氏は固まったままだ。
「さてニュイちゃん。君は少しおとなしく見守ってくれるかな。で、ノワールさん、ちょっとこっちに来てください。これなんですけどね」
何かを取り出したかのように見えるエリカ嬢に近づいて、そうしてかなりの身長差があるために少しノワール氏はかがんでエリカ嬢の手の中を見ようとして。
エリカ嬢は勢いよくノワール氏の帽子をはぎ取って、ニュイの方に投げたのだ。
続いて呆然としているノワール氏の顔から防護眼鏡とマスクも奪い取ってみせた。
「さあ、オルタンシア様。この人に見覚え、ありますよね!?」
疎遠になってからも、機会があれば遠目で見ていた方。
肩につくほどの長さで整えられた黒髪に、神秘的な紫の瞳。
どうしてこの姿を見間違えたりできようか。
「サロモン様!?」
「正解で~す」
ニュイの小部屋に、妙に明るいエリカ嬢の声が響いた。
「そもそもはですねえ。サロモン様が縁談から逃げ回っていたせいなんです」
急遽、ニュイの小部屋でお茶会が開かれる。元々、雛の面倒をみるためだけの小部屋ではあるが、おそらくわたくしのために机と椅子が置かれていた。そこに実に準備よく、エリカ嬢がお茶とお菓子を取り出して、わたくしとサロモン様を座らせる。三人座るととても部屋が狭い。そして自分も外し、わたくしにもお茶が飲めないからとマスクを外すように言ってきた。何故か逆らえずに素直に外してしまう。ニュイしかいないし、清掃を繰り返しているため、この部屋の匂いは気にならなかった。
「第二神公家に伝わる初代王所縁のマジックバッグ、便利ですよね~」
待って。それはほぼ国宝扱いのものではなかったかしら。お茶やお菓子とかにこんなに気軽に使ってよいものではなかったはずなのだけれど。
「さあ、こっちはニュイちゃん用に用意してもらったお菓子だよ~。香辛料なし、甘さ控えめで美味しいよ~。なんたって第一のお庭の烏たちも大好きな逸品だからね~」
ニュイは大喜びでお菓子を貰っている。この調子であれば今日一日でエリカ嬢に懐いてしまうかもしれない。恐るべし順応性。
そして彼女はくるりとわたくしたちに向かい合う。
「で、あまりな逃げっぷりに何か原因があるとみて、鎌をかけたんです。そうしたら飛び出したのが泣き言! 二十歳を過ぎたいい歳の男が泣き言! もう眩暈がしましたよ。『オルタンシアに嫌われたから自分は一生独身なんだ~』って」
「言ってない! そんな風には言ってない!」
「ほぼ同じ意味の言葉は言ってましたよね? ユーゴ様たちに聞こえないとこで尋ねたのは私の恩情ですよ?」
隣に座ったわたくしが顔を見ようとすると反らされてしまったけれど、サロモン様の耳は真っ赤になっていた。
「事情を聞いたら、オルタンシア様と疎遠になってからもずっと様子を伺っていたって言うんです。半身を下されてからは、その半身に公爵家や女学院にまで飛ばせて様子を見させていたというんですから、半身の使い方としてそれはどうかと言いたいですね。よくもまあオルタンシア様に今までバレなかったものだとある意味感心したら、第一の半身に限って大きさを変えられるそうで、オルタンシア様の近くだと目視できないほど小さくならせていたとか。で、半身とは視界を共有できるのが神公家の公子様たちですから、オルタンシア様はずっとず~っと、サロモン様に監視、失礼、見張られ、失礼、見守られていたのです」
変態ですね。危険人物ですよ。エリカ嬢から身も蓋もない言葉が続いていたけれど、それはもう、わたくしの耳には届かなかった。
「ずっと見守ってくださっていたのですか?」
顔を背けたまま頷かれる。
「嫌われたまま正面からは会えなくなってしまったから。でも心配で」
「嫌われたのはわたくしの方だとずっと思っておりましたのに! せめてお手紙でも頂ければ、こんなに悩んでおりませんでしたわ!」
「シアを泣かせて怯えさせて熱まで出させて寝込ませたからと、公爵から接見禁止を言い渡されて。もちろん手紙も禁止で」
……わたくしは末っ子で、たしかに父からも溺愛されている。けれど、だからと言って、ずっと愛娘の恋路を邪魔する権利が父にあると言うのかしら。知ったからには当分、父とは口を利かないと決めた。
「サロモン様に嫌われていないと知っておりましたら、もっと早くに烏恐怖症と向き合って克服しておりましたのに!」
「ごめん。公爵にもしっかり謝って反論して正々堂々と会えるように働きかけなかったから、こんなに遅くなってしまって」
「本当ですわよ!」
もう嬉しいのだか、悔しいのだか分からない感情で、また涙が滲んできたではないか。
「泣かないで、シア。君が泣くと昔からどうしていいか分からなくなる」
「ニュイになさっていたみたいに、頭を撫でてくださったらいいんですわ!」
「……触ってもいいの?」
「だって、ニュイが羨ましかったんですもの!」
そこまで言って顔が赤くなる。これではノワール氏を意識していたことが伝わってしまう。
「なんだ、シアにはノワールが私だってバレていたんだね」
……こんな方だったかしら。幼い頃はずっと年上の頼れるお兄さんで、そして給餌所のノワール氏は頼もしい指導者であったのに。でもよいわ。誤解されているのなら、そういうことにしておきましょう。ある意味、浮気していたようなものだけれど、この様子だと気付かれてはいないようだし。エリカ嬢にも後で口裏を合わせて貰えば。おそらく味方してくれるはず。
先日のエリカ嬢よりもずっと大きくて硬い手が、それでも壊れ物を扱うように帽子越しに頭を撫でてくれる。帽子を脱いでおけば良かったと、その時に思った。
「はいはい、いちゃつくのはもう少し後で! 続けますよ。で、問題は表向きにサロモン様がオルタンシア様に近づけないこと。そしてオルタンシア様が烏恐怖症になっておられること。
さてそこで、私は第四に協力を願いまして。公爵家の情報を入手しました。知ってます? 第四は情報収集能力が抜群なんです。ほら、眷属の蜘蛛ってどこにでも入り込めますからね。
それによりますと、ゴーベール公爵様が、接見禁止はやりすぎだったと後悔されているのを知りました。このままではオルタンシア様が一生独身になってしまうと気が付かれたようなんですって。誰を紹介してもオルタンシア様がお断りになられるので。最近はすっかり焦っておられるとかも。なので第二から密かに連絡を取って貰って、今回の給餌所での活動を許可してもらえるようお願いしたんです。いやあ、私、大活躍ですよねえ。お菓子の分、十分働いてますよねえ。
もちろん肝心のサロモン様も焚きつけましたとも。影から見守るだけじゃ一生平行線なんだから、堂々と隣で烏恐怖症の克服を手伝えばいいと。これで克服できないのだったら、お二人には縁がなかっただけだと。でもちゃんとご縁がありましたよね。だってこの冬場にですよ? 都合よくニュイちゃんと言う雛が現れてくれたんですもん。これはもう、烏神様も後押ししてくださっているということでしょう。さ、ニュイちゃん。お菓子もまたあげるから、ちょっと私と一緒に他のお部屋も見てみようか」
エリカ嬢がニュイを連れて、ご丁寧に閉めていった扉を黙ってなんとなく眺めてしまっていると。
「シア」
ふいに横から、記憶の中の幼い頃の声とは違う、低い男の人の声で呼ばれて、わたくしは飛び上がりそうになった。けれどこの声は、この一月ずっと聞いていた声。
「シア。私はずっとシアが好きだよ。幼い頃は自分にいない妹みたいだと可愛がっていたけれど、いつしか自分のお嫁さんにはシアしかいないと思うようになっていた。あのシアを怯えさせた日も、本当は父上の半身に会ってもらって、いつか私が賜る半身はこんなきれいで賢い存在なのだと教えたかったんだ。私の不注意で庭の烏たちが襲いかかるなんて思ってもみなくて。本当にあの時はごめん。勇気を出して君に向き合えずにごめん。長い間、誤解させたままでごめん。
今回のことでエリカが教えてくれた。君が烏に怯えながら、それでも私を今も諦めずに慕ってくれていると。ねえ、シア。それは兄のように、ではないと思ってもいいかな? こんなに眩しいくらいに美しくなった君を一人の、いや、たった一人の女性として私が愛することを許してくれるだろうか。私はもうとっくに君を愛している。全身全霊を賭けて、一生君だけを愛すると誓うよ。だからどうか、シア。君がそれを許してくれると言うのであれば―――」
「許しますわ。わたくしの全ては今も昔もこれからも、サロモン様のものですわ」
この方の隣にいられるのならば、もう他に何も望まない。ただあなただけが欲しかった。幼い頃からの想いは、淡い憧れにすぎなかったのかもしれない。でも今になってわたくしはノワールと名乗って現れたあなたに恋をしてしまった。今のあなたが欲しいのです。誰にも奪われたくなどないのです。
そんなことを訥々と語るうちに強く強く抱きしめられていた。痛いほどだというのに、それが喜びで薄れるほどに。
「シア、可愛い。ありがとう、私を欲しがってくれて。私に恋をしてくれて。ああ、シア。本当に君は可愛くて。愛おしくて狂いそうだ。私も君が欲しい。君しかいらない。全部、私のものにしてもいい?」
何度もシアと呼ばれる。この愛称を許したのは家族以外にサロモン様だけ。
「シア、シア。ああ、どうしてくれよう。愛しているよ」
帽子が脱がされて、まとめていたはずのわたくしの髪がほどけて背中へと落ちる。そしてまるでニュイが啄むように、髪を額を頬を。そして唇を啄まれて。餌を強請るように深く口中を貪られた。
わたくしの愛しい、雑食の烏が、まだ足りないとばかりに、唇からゆっくりと首筋に降りて、不埒にもどうにか襟の下に潜り込もうとして制服の背中にあるボタンに手を掛けようと―――。
「はぁい! ニュイちゃんとエリカのお帰りで~す! はい、ニュイちゃん、二人にただいまって言おうか!」
わざとなのか大きく音を立てて扉を開き、かつ大声が飛び込んできた。
慌ててわたくしたちは離れて、元のように座る。
「あ~もう。オルタンシア様の帽子、落としてちゃだめじゃないですか。私がまとめますから、サロモン様、ニュイちゃんお願いしますね!」
扉は閉まっていたはずなのに、エリカ嬢には中で何が起こっていたのか見えていたのではないかしら。おそろしい子。
手際よくわたくしの髪を結う手は、それでも丁寧で。例え淑女教育の補講が必要な子だとしても、そんなことよりも大事なことをこの後輩は知っているに違いない。
「いやぁ、これで私、三神公家に恩売っちゃったよ。どうする、最強だよね。それはともかく、サロモン様、オルタンシア様とあの子の顔合わせはできたんですか?」
「……これからだ」
「何やってたんですか。私、ニュイちゃんと給餌所中歩き回って散歩してきたっていうのに。あ、オルタンシア様、半身は皆、白くてきれいな子ばっかりなんで。怖くないですからね」
神公家の直系の半身は、基本的にその相方の側に常にいるのだという。ノワールと名乗っていたサロモン様とはそれなりにご一緒していたけれど、その姿を見た覚えはない。どこにいるのだろうと首を傾げていると、サロモン様はエリカ嬢に脱がされたご自身の帽子を手に取って口を開かれた。
「もういい。本当の大きさに戻れ」
どうやら帽子に潜んでいたであろうそれが、ゆっくりと大きくなって、そうして羽ばたいてサロモン様の肩に泊まった。
白い、光輝くような一羽の烏。ああ、これはもう、給餌所に屯っている彼らとは格が違う。まさしく神の使い。神聖な存在。黒い瞳孔の周りが赤い不思議な目で、じっとわたくしを試すように見つめてきた。
「あら?」
けれどわたくしは。その視線を知っていた。
視界の端に映っていた何か。
ずっとわたくしを見ていた何か。
「あなたでしたのね」
カァーっと、答えるように白い烏は鳴いた。
「シア、これが私の半身だが、大丈夫だろうか?」
「わたくしこそ、受け入れていただけるのかしら?」
そっと怖がらせないように下からゆっくりと手を伸ばすと、白い烏は躊躇いなくわたくしの腕に飛び乗った。ニュイよりもずっと大きいのに、むしろニュイよりも軽いくらいで驚く。
「ずっとわたくしを見てらしたでしょう? これでも努力いたしましたのよ。認めていただけませんか?」
すりっと、わたくしの頬に頭をこすりつける仕草がまるでニュイと同じで、思わず微笑んでしまった。
「シア、大丈夫かい? 無理はしてないか? 怖いなら―――」
「不思議ですわ。この子、サロモン様と同じ匂いがしますのね」
どこか爽やかで、どこか湿った木のような香り。白い頭に鼻を寄せても、この子は嫌がらない。
「どうだろう、シア。その子に名前を付けられそうだろうか?」
「わたくしが?」
「ああ。ニュイの名付け親の君に、我が半身の名付けもぜひ頼みたい」
その心地よい香りを感じるままに思いついた名を呟いた。
「エスポワール」
そうしてその瞬間に、わたくしはサロモン様の花嫁となることを許されたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
それからは公爵家と第一神公家を巻き込んでの大騒ぎになった。とは言え、正確には騒いでいたのは両家の父親たちであり、母親たちはむしろ「時間がかかったわね」と冷静だった。わたくしの母なぞ、嫁入り支度すら用意できているわと余裕の構えで、一生独身かもと悩んでいたのが馬鹿らしくなるほどだった。
この国の新年は、初代王が定められた通りに、冬至から十日後の冬の最中にある。国中は新年の祝いで沸き立つのだ。その忙しい準備中に婚約の成立を国王陛下に伝えると、祝いの品が間に合わないと叱られた。娘のおられない陛下は姉とわたくしにすこぶる甘いのだ。
まだ冬の休暇は半分残っており、その間には結局サロモン様と二人して給餌所に通った。何故かというとニュイのためだ。結局、ニュイはわたくしが引き取って飼うことにしたのだが、飛行訓練を寮や公爵家で行うのは難しいということで。ちなみにノワール氏としてのサロモン様は給餌所の臨時職員の扱いだったそうだ。
給餌所の庭に出されて何羽もいる大人の烏たちに見つめられながら、ニュイは枝から枝へと飛び移ることを覚え、羽ばたきは日々、力強くなっていった。夜間も小部屋に戻ることは許されずに外で過ごすように決められていたのだが、なんとニュイはあの専用布をどこからか見つけてきており、ぬくぬくと過ごしているのが発見された。あまりにもちゃっかりしていて、それがまた可愛くて。他の烏には悪いけれど許してしまった。どうせもうすぐ女学院の寮のわたくしの部屋に引っ越すのだから。
女学院を卒業したらすぐに結婚、ということはほぼ決定であったのだが、ここで第四神公家とどちらが先に結婚するかで揉めてしまった。第四としては、先に婚約が決まったのは家なのだから、先に結婚させろと言うのだ。それも分からないでもない。だが第一も引かない。公子四人の中で一番年上であるサロモン様が先に結婚するのが筋だと訴えたのだ。
この諍いは国王陛下が仲裁に入り、いっそ合同で式を挙げてしまえという結果に。ちなみに翌年に予定されている第二と第三の式も合同でと決められてしまった。
実のところ、四家の花嫁はその結果に異存はない。しかも以前より親しくなりたいと思っていたイリス嬢、そしてオリーブ嬢とも仲良くなれたので、女学院で一緒に過ごしたりもしている。その時は、もちろんニュイも一緒なのだ。
離れて過ごした日を埋めるように、給餌所通いがなくなっても、サロモン様とは毎日のようにお会いしている。エスポワールとも仲良くなれていると思うのだが、ニュイには少し冷たく見えた。
「ああ、ニュイに嫉妬してるんだよ。何せ、ほら、ずっとシアのことを見守っていたから、当然、自分が先に名前を貰えると思っていたのに、まさかの雛に先を越されたからね」
それは少し申し訳ない気もしたので、エスポワールとニュイにお揃いの首輪を作ってプレゼントしてみた。烏の大好きな宝石付きである。何故かエリカ嬢とオリーブ嬢に引かれたけれど。
今はもう、第一神公家の庭にいる烏たちだって怖くない。何故ならば、いつだって隣に黒い髪のわたくしの愛しい烏の貴公子がいてくれるからだ。子供の頃からわたくしのどんな質問にも答えてくれたひと。大人になった今もそれは変わらない。誰もがその知恵を称える賢者のごときその人は、わたくしに様々な話を聞かせてくれて、遠く空の彼方にさえ共に心を馳せるのだから。
◇◆◇◆◇◆◇
(ここよりエリカ視点)
新年の祝いが一段落ついた今日は、四つの神公家の次期様全員、無事お相手が見つかったことを祝って、関係者を集めてお茶会が開かれる。公子様四人にその婚約者四人。公子様方のご両親。それからオルタンシア様の御家族。残念ながらうちやオリーブやイリス先輩の御家族は不参加。まあ、急なことだったし、領地からすぐに出て来るとか無理だからしかたない。
場所は第一神公家のお屋敷。婚約者全員がまだ女学院生ということもあって、晩餐会ではなく昼のお茶会になった。ただし、保護者の皆様が国の重鎮揃いということで、お茶会という名ではあるが実際は昼餐会なので、私たちは婚約者から贈られたドレスを着せつけられている。
さすがにユーゴ様もお義母様も私のことをよくご存じなので、それほど締め付けるようなデザインのドレスではないけれど、昼用とはいえ正式なドレスは着付けだけでも大変である。もちろん一人で着られるものではないので、私とオリーブは下位貴族用の寮内にある広い部屋で、神公家から派遣された侍女の皆様に、マッサージだ着付けだ化粧だと、翻弄されるばかりだ。
一応の支度が済むと、あとは迎えの馬車を待つばかりとなった。着崩れや化粧が落ちないようにとしつこく注意されて、浅くしかソファに座っちゃダメだと、絶対に動くなと言い聞かされた。……何故か重点的に私が。
それでも早朝からの騒ぎが一段落ついて、一息つけたのは嬉しい。
地紋のある象牙色の生地に緑のアクセントの入ったドレスを着たオリーブがとてもきれいだ。アクセサリーは金で揃えられていて、これを見られただけでもかなり幸せな気持ちになる。ただマエル様の独占欲がすごいけれど。
私はといえば、赤いドレスなんである。ユーゴ様の目の色なんである。薄い透ける生地を何枚も重ねたふんわりしたドレスで、軽くて動きやすいのが素敵。
にこにこと親友のドレス姿を堪能していると、当のオリーブが小さな声で話しかけてきた。
「ねえ、エリカ。聞きたいことがあるの」
「何? オリーブ」
「私とイリス先輩のお見合いをあなたは企てたでしょう? でも第一のサロモン様のお相手をあなたがすぐに探さなかったのが不思議だったんだけど」
オリーブにはイリス先輩もオルタンシア様も紹介済みだ。ただまだあまり交流はしていないよう。だって、休日ともなると、マエル様がオリーブを攫っていくんだもの。だから第一と第四の縁組に関してはオリーブに相談する事はなかった。
「ああ、それね。ねえ、オリーブ。烏・蛇・蚯蚓・蜘蛛。この中で令嬢が一番抵抗なく接することができるのって、なんだと思う?」
「それは……烏じゃないかしら」
「うん、そうだと思うの。爬虫類とか節足動物とかに比べると、鳥である烏は、一番親しみやすいはずなの。サロモン様は次期様たちの中では一番年上でいらっしゃる。でもって、半身も一番早くに賜っている。なら、私がユーゴ様と婚約するよりもずっと前に、お相手が見つかっていそうなものじゃない?」
「そうね。そう言われればそうだわ」
「私が最初にユーゴ様以外の次期様たちに紹介された時にね、違和感があったの。マエル様とアントワーヌ様は、お相手の候補も見つからずに焦っておられた。言い方は悪いけれど、もう誰でもいい、みたいな投げやりなところさえ見えていたわ。でもね、サロモン様は逃げておられたのよ。半身が認めるお相手と出会うことを」
「それってどういうことなの? サロモン様は焦ってはおられなかったの?」
マエル様の壊れっぷりと溺愛にさらされているオリーブからすればその疑問は当然だと思う。
「次期様たちと半身は繋がっていて、感情や感覚なんかも共有しておられる。ほら、私にはシャンテリーがいるでしょう? シャンテリーはユーゴ様を大切に思っていてユーゴ様のために相手を探しに出たわ。でもそのことをユーゴ様には伝えていなかったし、さっさと私に名付けさせてしまった。シャンテリーが私を選んで、ユーゴ様は事後承諾だったのよね。私たちの場合はそれで上手くいったけれど、もしサロモンさまのあの子が、勝手にお相手を決めてしまったら、サロモン様はそのお相手しか選べなくなる。例え、サロモン様にもう想う方が別におられても」
「それって……」
「だからね。サロモン様にはもう好きなご令嬢がいて。でもそのご令嬢は烏がダメなんじゃないかって、推測したの。でも、次期様三人の相手が決まって、第一の方からお菓子がどんどん届くし。さすがの私も参ってしまったから、サロモン様を直接、脅したのよねー」
クッキーとか、プチケーキとかだったらまだ良かったんだけど。毎日ホールケーキが複数届くとさすがにきつかった。寮の皆に分けて喜ばれたけどさ。でも、第一のフルーツタルトは絶品。
「……エリカ、何をやっているの」
「意中の相手が誰か吐いてしまえって。でないと、烏の大丈夫なお嬢さん方複数と集団見合いさせるぞ、って。いやあ、効果抜群だったわ。でもって、そのお相手が女学院生のオルタンシア様だったから、なら打つ手はあるなってなって。計画たててお膳立てはするけど、後は自力で口説けと。烏への恐怖よりも強く惚れさせて、一緒に克服しろと」
「私、エリカが敵でなくて良かったわ」
「何を言いますか、親友。サロモン様はユーゴ様のお兄ちゃんなんだよ? ユーゴ様もずっと心配されてたし、私が介入しなかったら、サロモン様もオルタンシア様も独身のままだったかもしれないんだから。うん、私えらい。私がんばった」
ユーゴ様と出会って一年になろうとしている。私の世界もぐっと広がった。あと人脈がすごいことになりつつある。
お茶会に、オルタンシアの伯父です、ってさらっと国王陛下が混じっておられて、オリーブが気絶しそうになったりもした。その前にオルタンシア様のご両親だとかお兄様とかお姉様とかからも熱烈歓迎というか、公爵家の皆様から滅茶苦茶好意を寄せられたばっかりだったのに。どうやら末のオルタンシア様がサロモン様をずっとお好きで、でも無理だからと結婚も諦めておられるのを心配されていたみたい。
あと。神公家のご当主様たちのそれぞれの半身から漏れてたのって、あれって四神様の気配のような気がするんだけど。気のせいという事にしておいてもいいかな?
神公家はどこも腕のよい料理人(と菓子職人)を雇っているんだけど、この日の料理もお菓子も最高だった。お土産も沢山持たせてくれると言うので、今から帰り道の庭の烏たちの視線が痛そうだと予想がつくけど、おまえたちもお祝いだからってご馳走もらってたの、知ってるんだからね。絶対、負けるもんか。
お茶会もいい感じの雰囲気で進んでいるし、せっかくこれだけのメンバーが揃ってるんだから、予てから思っていた提案、しちゃってもいいかな?
「すみません、皆さま。エリカ・フォーレです。少し提案があるので聞いてもらってもいいですか?」
◇◆◇◆◇◆◇
ルメルシエという王国がある。
国土の三方を急峻な山脈に囲まれた内陸の国だ。
さして大きな国ではないが、国土は肥沃で水も豊か。主な財源は農業。
国民は穏やかで清潔好き。食べることも好きな国民性なので、食事は美味で外れがない。
当然、周辺国は何度もこの国を手に入れようとしてきた。
しかしこの国には未だ神がおわすという。
四柱の神が愛し、四柱の神を愛する民の住むその国は、悪意を持つ者を寄せ付けない。
悪意なき旅人は、是非ともかの国を訪ねると良い。
その国の誇る、建国以来変わらぬという神々の神殿に詣でると良い。
そこには少しの驚きと、優しい祈りに満ち溢れているから。
『婚約者は空の賢者』及び、これにて『カトルプリエール(四つの祈り)』終幕。
今回もあとがき長いよ!
何しろラストだからね! 設定大放出だよ!
四神の中では一番女性から嫌われないであろう烏。それもあってエリカに後回しにされた第一神公家。
「だって絶対、蚯蚓と蜘蛛の方がハードル高いじゃない」それはそう。
オルタンシアは紫陽花。華やかに雨季を彩ります。
烏のフランス語はコルボ―の方が一般的ですが、あえてのコルネイユ。英語でもクロウよりレイブンがいい、みたいな。好みの問題。
オルタンシアは縦ロールではありませんが、高笑いしそうなお嬢様な見た目。愛称はシア。末っ子愛され系。放置系末っ子のオリーブとはまた違う感じ。お姉ちゃんぶりたいお年頃。それ系のお話だと悪役令嬢ポジにさせられるところだった。努力の結果、恐怖症を克服。立派な烏吸いに成長しました。
サロモンはソロモンのフランス語読み。はい、ソロモン王から来ています。烏、頭いい、からの連想で。
四公子の一番年上であり、一番私のお気に入りがサロモンです。黒髪のオタクで引きこもり。頭はいいはずなのに、空回ってるひと。色々残念。ポンコツ長男。ロリコン疑惑あり(五つ下の女の子に懸想って、十代でそれはロリコンではないかと)。
最初から正体バレバレの安易な偽名の不審者です(笑) 黒と呼んでやってください。
これまでは半身が気に入った相手を公子たちも気に入って、というパターンでしたが、元から両片思いなのに半身が障害になって双方諦めていた、というのを今回は採用。
最初の構想では、オルタンシアからエリカたちに接触して自分から動く、はずでした。ところが、煮え切らないヘタレ男が初恋拗らせて引きこもって出てこない!
「誰のために苦労しとるんじゃあっ!?」と、ここで「エリカが」切れました。
オルタンシアちゃうんかいっ。見た目は高飛車お嬢なのに受け身なんだよね。
最早、誰もエリカを止められない!
なので全面改稿になったという。エリカ、最強でした……。
エリカはもう、一生お菓子に不自由しないでしょう。太るぞ。あ、その分動いてるから大丈夫か。
エリカが烏を食べた発言ですが。前作の蜘蛛にいただいたコメントで実際に食べたお爺様の感想(食レポ?)がありましたので、果樹を巡る仁義なき戦いの末にお亡くなりになった烏がいたら、一応食べようとするんじゃないかな、と。で、不味くて後悔したのでもう食べません。ちなみにシャンテリーがいるからもう食べられないけれど、蛇は絶対食べてると思う。裕福な貴族のお嬢様なのにな。何が彼女を野生児にしたのか。サバイバル状態になっても生き延びられる生命力があります。強い。
というかサロモン、お前本当に仕事しろ。
書いている途中、「あれ、これエリカがヒーロー・ポジにいるんじゃ?」疑惑。
エリカ、漢前に育って。
ユーゴとシャンテリーとサロモンが泣くけど、百合エンドの方がオルタンシアも幸せなんじゃ、とか一瞬血迷いかけました。
身分的にオルタンシアに紹介させるにはイリスでなければならなかったんですが、イリスではツッコミが弱くて空気に。なので最後はオリーブがツッコミになりました。ユーゴはエリカを甘やかすんでやっぱりツッコミになれない。アントワーヌが辛うじて。……オリーブとアントワーヌという組み合わせもありだった? いや、ツッコミ同士じゃ無理か。
烏の名前ですが。実は最初エトワール(星)にするつもりだったんですが。サロモン・パパの半身に名前を取られてしまったという。不憫な奴。更に雛にまで名付けを先越されているし。
ついでに、いくつか名前の候補をメモっていたのに、そのメモを無くしてしまったという。どこまで不憫なんだ、お前。
エスポワールは「希望」です。諦めなかった先にあるもの。
ニュイは「夜」です。ついでにノワールは「黒」。同じレベル。
最後のエリカ視点のフィナーレ。
ストロベリーブロンドに赤いドレスってどうなんだ、とは思ったんですが。ならばユーゴの髪色の緑にすると、エリカがクリスマスカラーになってしまう。まあ、シフォン系のふわっとドレスなんで、それほど重くないし髪色とまったく同じでないからいいよね。白いシャンテリーが手首にいるけど、赤に白は映えるとエリカはご機嫌。ユーゴも自分の目の色をエリカに着せられてご機嫌。
オリーブのドレスはマエルが自分の髪色に近いものを贈っています。色は落ち着いているけれど凝っていて、大人可愛いデザイン。マエルから見たらオリーブは可愛いでもあるんだろうなと。というか、オリーブってわりと何でも着こなすタイプなんで。マエル母がすごいはっちゃけている。
つうか、公子様方全員、独占欲ばりばりなドレス贈ってます。
未来の義母たちに未来の夫たちがエキサイトして、仕立て屋がたんまり儲かったらしいよ? 宝石商もね。
エリカが最後にした提案ですが。あえて書かなかったんですが、次世代の結婚事情を考えると今から対処しとこうぜ、って奴です。貴族のお嬢さんたちが小さい頃から眷属と触れ合う機会を作ろう、という提案。それで慣れてくれれば、子孫も相手を選べるほどになるんじゃないかと。もれなく信仰心もアップだぜ!
それでもきっと、蚯蚓は厳しいと予想できるけれど。家庭菜園みたいな農作業させればよくね? という。ダメな人は本当にダメなんで、ふるい落としにもなるという。生理的に受け付けない人は本当に無理らしいから仕方ない。
作中に出せませんでしたが、マエルの第三神公家の庭には。がっつり畑があります。だって、ふかふかの最高の土があるんですよ? 畑にしちゃうよね。そこで作られる野菜や果物は極上の味だそうです。主に自家用ですが、他の三家にも分けられています。そして何故か。ここの果物を使った菓子は、第三の職人より第一の菓子職人の方が上手だという謎。
シリーズ四作品の舞台である王都は、中世から近世にかけての「清潔な」(ここ大事)小規模なパリのイメージ。四つの神殿がある場所は凱旋門広場みたいなイメージです。ただ、裏が神公家の邸と庭がある設定なので、王宮のある丘に向かって逆の半円形に広がっているのかも。
国名は今回ようやく出せましたが、ルメルシエと言います。四神さまへの感謝をこめて。
ここでネタバラシ。
この国を建国した初代王は転生者です。元日本人。実家は稲作農家。晴耕雨読を目指す農大生が転生したら王族でした。しかしどう見ても古代か中世のバイキング的な何かで、その衛生状態が耐えられずに色々改善しようとしていたら王位を狙っているとみられて追放されました。
「床に! 食い残しを! 捨てるんじゃねえっ! どこにでも! 排泄物を! 捨てるんじゃねえっ!」
「どれだけ美女でも! 垢だらけフケだらけ虱つきの女が抱けるかっ!」
魂の叫びでした。まず風呂に入れ。話はそれからだ。最初に作るのが石鹸もどきになるのは、まあ仕方ないよね、日本人だったら。
彼が巡り合った四神に抵抗なかったのは、八百万の神さまを受け入れられる日本人かつ農家の出だったから。しかもこの四神のおかげで衛生面と食糧面が向上。両輪揃って、いくらでも信仰してやるっ! になりました。ほら、元日本人としたらね、拘りポイントそこでしょう。
食事が焼いただけの肉(塩味)メインなのも辛かった模様。食うだけでも大変な世界なんで、それでも恵まれていたんだけど、耐えられるかはまた別。その初代王の転生チート(記憶)と四神様が組んだので、現在の美食の国に繋がったのです。
土地柄、日本というよりもヨーロッパ的だったので、目指すはローマ、と頑張ったらしい。
「ローマン・コンクリートはロマン! あ、ここ内陸じゃん、石灰岩あるとこ探してくれる?」
信仰はしているけれど、使えるものは使うタイプ。蚯蚓神が土中を調査して、烏神が現地確認してくる最強タッグ。更に、材料がないと「魔法もあるんだし、錬金すればいいじゃない。うなれ、俺の記憶の化学式!」なお。「風に水に火。発電もできそうだな。でもさすがにオーバーテクノロジーしすぎるのもなあ。魔法でいいか! うなれ、俺のアニメとゲームによる想像力!」それで何とかなったらしい。
最初、四作書いた後に、この初代王の話を書こうと思っていたのですが。ちょっと彼は私の手に負えなかったので断念しました。いやだって、小ローマ目指した内政ものとか書けないってば。
なんというか、恋愛対象にはならないけれど、友だちになれたら楽しい人物。あまり思い詰めるタイプではなく、フレンドリーで適度に自由人。がっつり現在の子孫にも色々引き継がれている模様。王族ももっと出せれば良かったかも。代々、お忍びが得意で庶民の台所に突進してたりする。旨いものに貴賤はない、が王家の家訓。
烏神とは特に仲が良くて「八咫様(勝手にそう呼んでいる)、サッカーしようぜ!」
そう。この国、サッカーあるんですよ……。烏と言えばヤタガラスでサッカーだろうと。貴族男子の競技として現在も残っています。実はプロリーグもあるという。何やってんの、初代王。戦いはフィールドで! 諍いはピッチで晴らせ! なもんで、この国は平和なのです。神殿騎士のチームもあるよ! 普通に騎士やってるより棒給もいいよ! 国民にも人気。領地対抗戦とかもやっている。で、絶対トトカルチョも導入していると思われる。そして王家がおそらく胴元。ちなみに初代王、蛇神のことは「三輪様」呼びらしい。
でまあ、四神様たちの加護で、小さな国だけど豊かで災害も少ないので、周囲の国からめっちゃ狙われてます。初代王のせいで文明度も高いし。
ただ占領に成功しても国民と一緒に四神様は去ってしまうので、得たと思ったら荒野に戻りました、みたいなことになる。で、逃げた皆で新しい国を作るでしょう。
まあ、攻め込まれる前に鎖国しそうなんですけど。
このあと、後書きですら書けなかったぶっちゃけネタ及び半身会議スペシャルを活動報告で書く予定してます。良ければ覗いてみてください。