第1話
姥捨山には立ち入ってはならぬ。昔からの言い伝えだ。なぜならその山には山姥と山爺がおり、立ち入った人間の臓器を喰らい尽くしている為だ。
鬼化した山姥を鬼姥といい、凶暴かつ残忍で、見てしまっては最後、執拗にまで追いかけられ殺されてしまうらしい。しかし、実際には見た人はいない。それは見た人全員食べられてしまったからだ。
そしてこの話は令和現在ではすっかり伝説化してしまっているという訳だ。
万が一にも貴方がこの山に立ち入ってしまったとしたら、唯一助かる方法があるのでお教えしよう。それは、フジツルと空木のある場所を見つけることだ。山姥と山爺はこの2つの木が成るところには立ち入ることができないのだ(古記より)。
また、山姥1体いる山には1000体程の山爺が存在するという一説がある。実際に目にしたことはないが、これらに見つかってしまった場合はもう命を諦める他ないだろう。
この伝説において各地で諸説あるが、中には生贄を供え、神として山姥を祀ることで山の怒りを鎮めている地域などもある。そしてその地域の地元住民は決してその山には近づくことはしない。そうすることで人間と山姥の棲家は分たれていたのだ。
しかし、一度山に入ると帰ってこれないのにこのような古記があるというのも不可解なものだ。しかし、逆に恐怖を駆り立てられ信憑性というものが増してくるというものだ。
そして時は2024年、あるニュースが話題となる。昨年からの東京での行方不明者の数が急速に増えて来ているというニュースだ。どこからの情報かは不明だが、一部のSNS界隈では、鬼化した山姥による仕業ではないかという話で持ちきりになっていた。「山姥、ついに山を出るw」、「山姥って本当にいるの?ウケるww」、「山爺っていうのもいるらしい、呼び名おもろ草」、「鬼化した山姥で鬼姥だな」等々。
その中でも「多摩川から東京目指してるんじゃないか?」という想定コメがダントツ人気だった。SNS平和ボケした人間達が呑気に日常を送っている現在、山姥の鬼の手がひっそりと人間社会に差し迫ろうとしていた。
しかし、そんな平和ボケの中でも、鬼姥と対峙しようという一部の組織がが存在していたのだった。
果たして人間vs鬼姥の闘いはどうなっていくのか?
8月11日 PM8:50頃 東京都奥多摩町氷川住宅街にて真夏の夜空には大三角形が神々しく輝いている。月が人の顔をぼんやりと灯す程度に影を落としている。過疎化が進んでいる地域にしてはやけに暗く静かだ。そんな静寂な夜闇の中、街灯の下にゆらゆらと伸びてゆく人影が一つあった。その人影から常夏に吹く嵐のような荒々しい息づかいが響いてくる。(何でこんなことになったんだ?)(僕は何でこんな目にあっているんだ?)俺の頭の中で過去の記憶が何度も何度もフラッシュバックしていた。思い出す度に吐き気を催す。しかし俺はそれでも走り続けるしかなかった。(こんなの現実じゃない!絶対に夢だ、夢に決まってる!だって_)(…大体何だったんだよアレは)(どうしよう、どうしよう、どうしよう...)(感情が破裂しそうだ。とてもじゃないが耐えきれそうにない…)
あれは、この世の終わりとでもいうような…。 「はぁ……はぁ……はぁ」呼吸を整えようとするも息苦しくてなかなか上手くいかない。街灯の下にやって来た辺りで俺は漸く走る速度を落とした。それでも歩みは止めることは出来ない。(さっきから右の横腹が痛いんだよな。呼吸が苦しい...。)「…っつ。くそが...山爺って、な、何なんだよ...。でも、今はとにかく婆ちゃんの元へ帰ることが最優先だ。」時間の経過とともに徐々にパニック状態から解放された俺は、どうにか冷静さを取り戻した。そして、少し前の記憶を振り返ってみた。
8月11日 PM7:30頃 東京都奥多摩町氷川渓谷キャンプ場
当キャンプ場を訪れていた俺はガチキャンプ勢を決め込んでいた。「飯も食い終わったし、上流に行ってみるか」キャンプ定番のカレーを食べ終わって満足した俺は、夕食後の運動も兼ねて多摩川上流に向かって歩き始めた。砂利を踏みしめる音。川のせせらぎ。時折聴こえてくる人の会話など、あらゆる音に傾聴する。上流に進むにつれ徐々に人気が無くなっていった。(まあ、山の奥に進んで行くと人が減るのは当然だよな。安直な考えかもしれないが、そう考えるのが摂理だ……にしても何か胸騒ぎがする)左手の付けた腕時計のデジタル表示を確認するとPM7:45を表示していた。夕空が未だ残っており、完全には星は輝いていない。虫の囀りも永遠のように鳴り響いている。川沿いに上流へ深く進むと、隠れていた赤い陸橋が顔を覗かせてくる。悠に数十メートルの高さはあるだろう。(昔からよく見てるんだけどいつ見ても壮観だな…感心して言葉もない)陸橋を通過しようとした頃。その真下では若い男女数人のパーティがバーベキューを楽しんでいた。そのパーティは大騒ぎしてご満悦のご様子だ。(それなりに派手目で俺とは無縁の生き物だし関わらないに越したことはない。酒も入ってるようだし、絡まれたりすると厄介だな。俺って何だか知らないんだけど、ああいうのに良く絡まれたりするんだよなぁ…マジ勘弁)息を殺してその場を通り過ぎようとした。が、その時_。「おい兄ちゃん!」俺を呼び止める声が聞こえた。何か絡まれるのか?心臓の鼓動が速くなる。ここはもう逃げるしかない…そう思った。「ひぃ、大丈夫でーす」怖くなって振り返ることなく俺はその場を走り去った。「あっ、待ってキミ!…おーい!……って行っちゃった」「だな…。しかし速かったなあいつ」「ってかハンカチ落としてたから呼んだだけなのにな」「またすれ違ったら渡せばいいよね」「まぁ、それもそうだ。じゃあ飲みの続きやりますかっ!」パリピ達はバーベキューに戻っていった。「はぁ、はぁ、はぁ。ここまで来れば大丈夫か………帰り道どうしよ。あそこ通りたくないな。どこかで車道に登って交わせるとこないかな...」何とか逃れられたと思ったのも束の間だった。俺は周囲の様子を見て息を呑んだ。昼と夜の顔が違うのは理解できるのだが、こんなにも闇が深いような場所に来たのは初めてのことだった。木々が深々生い茂っており、月明かりもあまり照らされないような_。(な、なんだよここ...。こんなとこ来たことないんだけど...)深い闇を前にして恐怖心が強くなる。そんな場所にぽつんとテントが一つ立っていた。全く人がいる気配がしなかった。(大体、何でこんな場所でキャンプなんかしようとしたんだよ。頭おかしいんじゃねーか)周辺を警戒しつつ恐る恐るテントに近付いてみる。(…何だか不自然だな)焚き火に向かって椅子が二つ並んでおり、横には折りたたみ式の小テーブルが一台あった。その上には食べかけのカレーライスが二皿置かれており、倒れたコップから飲み物が溢れ出ていた。その飲み物はテーブルの端まで拡がって一雫ずつ滴っていた。不自然過ぎる状況に目を疑う。俺はその流れでテントの中を覗き込んだ。命の危険があると判断したからだ。本来なら人様のテント内を除くなんて倫理感を疑うような所業は絶対にしない。しかし、今は状況が状況だ。(テント内はおかしな所はないな...。ということはやはり、外で食事をしている時に何かがあったということだろう。まさか、クマか…。大丈夫なのかな。怪我とかしてないかな。だとしたらまだこの近くにいるかもしれない)様々な考えを巡らしていた時、後方から物音が聞こえた。俺はドキッとして行動を止めた。(えっと…今の音って。森の奥から聞こえたか)ゆっくりと森の奥に視線を向けてみるも、恐怖のあまりにすぐさま視線を戻した。(ど、どうせ、小動物か何かだろ...気のせい気のせい)自分に言い聞かせても心臓の爆音は止まらない。(でも…このテントの主が事故に遭って困っているかも知れないし、このまま見過ごすことはできないよな。こ、こわいけど、一度だけでいいから、確認だけでもしとこうかな...)その一心だけで森に近付くことを決意した。何が起こり得るかは分からないので、音を立てないよう慎重に近付く。音が聞こえてきた付近まで歩を進めると、大人三人くらいは裕に身を隠せそうな程巨大な大木が見えてきた。俺は一旦そこに身を隠す事にした。(怖い。どうしよう…。これ以上は危険な気がする)ここまで来て恐怖心に苛まれる。(でも、もし誰かが怪我なんかしてたら…。助けられた命だってあるかも知れないし。もしそうだとしたら、俺、一生後悔するぞ)唾を飲み込む音ですら響くような気がした。俺は深めに息を吸って、漸く決心する。(この先を確認する。何があっても冷静に対処するんだ、俺...)大木の陰から恐る恐る覗き見ると、モゾモゾしている人影がぼんやり見えた。倒れた人の上に誰かが覆いかぶさっているような、そんな感じだ。(おいおい…ま、まさかこんな所で男女の営みってことはないよな)ついつい邪なことを考えてしまった。こんな状況にも関わらずご自慢の逸物が反応しそうになる。(ば、ばかやろう!何でこんな状況なのに_。この!この!俺の_)どうにか逸物の怒りを沈めようとしていると、突然山の方から強い風が吹き下ろしてきた。「うっ…」よろめく身体を支えようと大木に手を添えた時、粘り気のある液体のような物が付着する感覚があった。(樹液か何かかな…後で拭き取ればいいか。それよりも早く先の様子を調べないと)風の流れが強い日で、ちょうど雲間から月明かりが差し込む。(少し明るくなったな。今なら何か見えるかも...)俺は大木の横から顔を覗かせ、目を細めるようにして森の奥を見た。真っ先に視界に入っきたのは横たわっている男性の姿だった。血溜まりの上で仰向けの状態で腹を食い破られていた。………。まるでホラー映画でも観ているのではないかと勘違いする程リアルな映像だった。紛れも無く現実に起きていることで_。俺の思考を破壊するには十分過ぎるインパクトだった。次第に鼓動が速くな理、全ての感情の中から恐怖だけが残った。胃酸が喉の奥から逆流して来たが、何とか手で抑えることができた。そんな時、ガサガサという物音が聞こえてきた。それは俺が立っている位置と反対側からだった。(まさか、この男性をを殺した奴がいるのか…)俺は物音の正体を確認する為、その音が聞こえて来た方まで大木に背を預けたまま慎重に移動することにした。(物音を立てれば気付かれる。見付かれば俺もあんな目に…。)事態は深刻で非常に危険だ。大木の反対側なんて物の数秒程度の距離なのだが、永遠のように感じるのはそれだけ神経をすり減らしているせいだ。どうにか大木の反対側まで到着した俺は、先ず呼吸を整えた。そしてゆっくりと身体を起こし静かに顔を覗かせた。(なんだ、よく見えないな。あれって人なのかな…………はっ!?)月明かりに照らされたそれを見た瞬間に自分の目を疑った。それは、獣のような、人とも言い切れないような生物が女性の腹部を喰らっている姿だった。女性は口から血を噴き出しながら口を動かしていた。幼い頃より祖母に叩き込まれてきた読唇術を習得していた俺はその言葉を読み取ることができた。「だ だれ か たす け た す け デボフッ」(た…たたたぶん、今ので多分死んでしまった...。だ、だ、だれかが内蔵を食い破って殺したってことなんだよな…。猟奇殺人?そんなことって_。と、とととととにかく…い、いまの俺には何もできませんから、ごごごごめんなさいごめんなさい!)人間の内臓を食らうような超猟奇殺人事件に遭遇するなんて何度転生すれば有あり得るのだろうか。とてもじゃないが信じられなかった。俺は超高確率でこのような現場に直面したしまった己の悲運を呪った。(こんな事が現実に目の前で起こっているなんてあり得ない。とにかくこんなのは現実じゃない!絶対にあり得ない!無理無理無理無理無理、絶対に信じられない)情報の圧力に脳の伝達機関が早くも限界を迎えていた。現実逃避しようと脳内トリップを引き起こしている。(やばいやばいやばいやばい。どうしようどうしようどうしようどうしよう…。はっ、早くここを離れないと命が危ない。あの猟奇殺人鬼がいつこっちに来るか…。も、もし自分があんな目にあったら_)恐怖の戦慄が身体を駆け抜けた。(とにかく早くこの場から離れよう)そう思った直後に枯れ葉を踏んでしまう俺。その音を聞き取った猟奇殺人鬼は周囲の様子を確認している。大木から顔を覗かせていた俺は慌てて木陰に身を隠した。そして両手で口を塞いで息を潜める。暫くした後、猟奇殺人鬼は動きを止めて「キノセイカ…」と再びその女性の下に戻って行った。何とかやり過ごした俺は安堵し腰が砕けそうになる。(やばいやばいやばいやばい。もし俺の存在がバレたら_。間違いなくあの人達と同じ末路を辿るだろう。嫌だ嫌だ嫌だ。こんなとこで死ぬなんて絶対嫌だ。早く逃げないと_)そうして俺は額から流れる汗を腕で拭った。その時、異常な刺激臭を感じとった。(何これ?鉄みたいな匂いがするんだけど...。血!!!何で俺の腕に血が付着しているんだよ………さっき大木に手を触れた時か!?恐らく猟奇殺人鬼が男性を食い殺した時の発生した返り血が周辺の木々にも飛び散ったのか...)「オエッ」俺は我慢できずついつい嗚咽を漏らしてしまうと、猟奇殺人鬼はビクッとして反応を示した。(やばい!気付かれたかも)そう思って後退りした瞬間に枯れ木を踏んでしまう。バキッ!枯れ木の折れる物音が森の中に響く。この音で焔の存在に気付いたのは明白だろう。状況が一気に悪化してしまう。ホラー映画によくある死亡確定フラグだ。(こ、こっちに来るのも時間の問題だよな...ど、どうしよう?)「アァ?ナンノ音ダヨァ?」案の定、こちらの存在に気付いたようだ。死亡確定演出を前にして心中が恐怖一色に染まる。神経系がまともに働かなくなっている。そんなこと知る由もなく猟奇殺人鬼の足音が一歩一歩近付いてくる。俺の思考は完全に停止してその場から動けなくなっていた。(猟奇殺人鬼との距離はあとどれくらいだろう…。あとどれくらいだろう…。あとどれくらいだろう…。あとどれくらいだろう…)地面を踏みしめる音を通して猟奇殺人鬼までの距離が俺の身体に伝わってくる。「誰カイルノカ?」大木の横から覗き込むようにして首を伸ばしてきた猟奇殺人鬼。恐怖で下を向いていた俺は、恐る恐る声のした方を振り向くと、ギラギラと血に飢えた瞳と視線が一致した。その瞬間に俺は殺されたものと錯覚する程の恐怖を感じた。そして同時に脳機能に障害が起こり始める。不思議な程に緩やかな時間に感じていた。(窮地に追い込まれている筈なのに………。俺は何故…こんなにも冷静なんだろうか...。何だろうか、この感覚は)遺伝子レベルまで砕かれたイメージが脳内の深くに流れ込んでくる。視覚から得た情報が文書化され、過去の経験と記憶を結合させていった。何だろうか。俺の頭の中には確かな存在がいて…その存在が脳内を整理していく。図書館の何千冊、何万冊もの書籍を管理している図書館司書のようだそしてそいつが何か語りかけてきて_。今目の前にいる猟奇殺人鬼の情報が瞬く間もなく脳内に展開されていった。
名称:山爺(妖怪の類で、山姥に属する。出生は姥捨山。生態は不明、目撃者数が圧倒的に少な過ぎる為、情報不足が原因。)身長:180センチ弱。(俺の身長が178センチだからそれより若干高い程度なのか…でかいな)肌は褐色。怒りや憎悪の感情によって肌の色は変化する。血走った瞳には現世への恨みや憎しみ、そして悲しみが込められている。(今にも飛び出しそうだな。恐ろしくて見れないわ)髪は枯れそうな程ボサボサで服は汚く血生臭いのが印象的。歯はボロボロに見えるが、硬く鋭利で人間の肉を簡単に食い破ることができる。口臭は酷く毒性が高い。(嗅覚には自信があった方だけど…とてもじゃないが耐えられそうにないな。最低な臭いだ)情報の展開終了後。「山爺って言うのか...」俺は無意識にそう口走っていた。すると、その言葉を聞いた山爺の様子がおかしい。見る見るうちに肌が赤黒く変化していく。「ナッデオラノコト知ッテッダァ!」名を呼ばれて怒りを顕にした山爺が、大きな怒声を上げて襲い掛かってくる。不思議な程冷静だった俺は、難なく敵の攻撃を交わす。そして、そのまま相手の動きに合わせて地面に叩きつけるようにして担ぎ投げた。
「ぐわーーー!」地面に叩きつけられた山爺は苦しそうにしている。俺はそこに透かさず蹴りを入れると数メートル飛んで行った。山爺は木にぶつかりその場に落下。「ブホベァァァ」喰らった物を吐き出してのたうち回っている。吐き出した物を含め、とてもじゃないが見ていられそうになかった。「うぅ…気持ち悪い...。しかし痛ってぇな。なんて硬さしてんだよこいつ。足折れてないか?本当に大丈夫か俺の足...」人の頭とは思えない程固くて岩の様だった。(何で大丈夫なんだよ俺の足は…。は?これって、アドレナリンってやつ?そうなのか……いや、いやいやいや、そもそもアドレナリンって肉体強化とかされんのかよ。ちょっとマジで意味わかんねーって。どうなってんだよ俺の体は…。しかも、自分の体じゃないように勝手に動くというか何というか)俺は頭の中がプチパニックに陥っていた。山爺のこともそうなのだが、何よりも自分自身に現れた変化に一番驚いていた。「どうなってんだ、俺の身体...。しかしアレだな。何だか、このままここに居たらまずい気がする...。こいつが苦しんでいる間にできるだけ離れよう。それに…婆ちゃんのことが心配だ」俺は踵を返して、そそくさとその場を離れた。暫く走った後、俺は念の為後ろを確認してみた。するとどうだろうか、先程までのたうち回っていた山爺は既に起き上がっているではないか。「ゲッ…もう起きたのか。こっち向くなよ」そう思った瞬間こちらの存在に気付いた。(やべっ、逃げろ)
「待ァテェェェェ!絶対ニ喰ッテヤルゾォォォォ!」恐ろしい形相で追いかけて来る山爺。(怖っ!!!ほんとにこの世の物か、あれ)河原沿いの足場が悪い中、俺は速度を上げて走った。これでも俺は陸上部だ。10000メートル都大会の記録を持ってるし足には自信があった。(たださ、ここってほんと砂利で走りづらいんだよなぁ。少しでも気を抜くと足持っていかれそうだし…でも現状を嘆いても仕方がない。とにかく逃げるしかないかぁ。捕まったら最後。殺される...。怖い怖い怖い怖い。絶対嫌だそんなの)恐怖心と闘いながら暫く走った後、俺は山爺との距離を測る為、首を後ろ曲げて確認したが、俺と山爺との距離には全く変化がなかったことに気付いた。(足の速さは凡人並みか...。ただ……全く疲れていなさそうに見えるんだが、気のせいか?)この山爺は決して鈍足ではない。炎の速度に付いて来ている。その証拠に、炎と山爺の距離は詰まってもないし離れてもいない。(体力だけ馬鹿みたいにあるのか……マジかよ。最悪だな。このままずっと付いてこられたら...。)そう考えただけで背筋が凍りつくような思いがした。「死んでも、はぁ、はぁ。逃げてやる。はぁ、はぁ」陸橋の下に差し掛かった頃、パリピ達はまだBBQを楽しんでいた。(やっぱりいたか…。このままじゃこの人達が危ない。体力は少しでも温存して起きたいのは山々だが、すぐそこに危険が迫っている状況だ。人としてこのまま見過ごす訳には行かない。せめて注意だけでも...)「早く逃げてください。はぁ、はぁ。山鬼が…すぐそこまで来ています……とにかく危ないんで、皆さんも早く逃げて下さい。はあ、はあ」非現実的な現実だ。俺の言葉に間違いはないし、相手が信じないのも無理もない。どう言っても伝わらないだろう。なぜなら、この世に存在しない物だからだ。でも、他に伝えようがなかった。せめて、一人でも解ってくれる人がいればと思って…”山鬼”と表現した。どうせ山爺とか言っても分からないだろうし。俺にはどうしようもなかったんだ。「はぁ?何言ってんの兄ちゃん、そんなのいるわけねーだろ!お前、頭大丈夫か?きゃははは」「そんなのあり得なーいwww」「マジウケるわーwww」キャッキャと嘲笑っている。(ダメだな…完全に酔ってる。まぁ、泥酔状態じゃなくても信じる訳ないか、こんなこと...。クソッ、これ以上は構ってられない)結局、誰も話を聞いてくれる様相ではなかったので、仕方無く諦めることにした。そして帰り道すがらに「ごめん」とだけ言い残しつつその場を離れた。パリピに構っている間にすぐそこまで迫っていた山爺だったが、パリピが視界に入った途端に迷うことなく進路変更をした。パリピに向かって走って行く山爺。数秒後には俺が過ぎ去った陸橋の方から罵声と悲鳴が聞こえて来た。
「何だ?てめぇは!」
「ぶっ殺すぞ!この野郎!」
「おい!何してんだ!」
「テメェ!ふざけ…ぎゃああああああああ!」
生まれてこの方一度も耳にしたことが無い程恐ろしい悲鳴が聞こえて来た。
これが俗に言う断末魔というのだろうか。
走り去って行く俺の背中越しに聞こえてくる苦痛に満ちた悲鳴が段々と遠退いて行く。
それはただただ虚しく、辛く、切なかった。言い表せられない感情が込み上げてくる。(心の傷として一生残り続けるだろう...。でも、俺はあの人達の方に山爺が言ってくれたお陰で救われたんだ……もう返すことはできない。感謝なんて言葉じゃ表すことは…できない…よな)
「全く知らない人だったけど…本当にごめん。俺には何もできなくて…本当に...。本当にごめん……ごめんなさい...」
その後、俺は下流に向かって無我夢中で走り続けた…周りに目も暮れることなく。無力な自分への虚しさ、苛立ち、悔しさ、悲しみ_様々な感情を抱えたまま...。涙が止まらなかった。そんな俺を他所に、キャンプ場では各所が大パニックに陥入していた。
集団の山爺が、氷山キャンプ場来訪者や地域住民、通りすがらの車両など無差別な殺戮を繰り広げている。
方々から人々の悲鳴が聞こえて来て…俺はふと我に返る。「うっ…なんだこの臭いは」
不快な鉄の臭い感じとった俺は、すぐさま周囲の様子を確認した。「………」俺は言葉を失った。大気中に舞う人間の鮮血の中を走り続けていたことに初めて気付いたのだ。
沢山の人が壁になって……それが人道回廊になっていた。そのお陰で俺はここまで辿り着いた。俺はただ運が良かっただけで_。でなければ今頃山爺の胃袋の中に居たことだろう。
「うぅ...」
これが現実に起きているとは到底信じる事ができない。まさに現代地獄絵図だ。人々の死に際が瞳にこびり付いていく。
それでも走り続ける。もう決して後ろを振り返ることはできない。
生きている俺を恨んで亡霊がやって来るような気がしてしまって_。どうしようもなかったんだ...。怖くて周りなんて見れない、見たくない。怖い怖い怖い……もうとにかく怖いんだ。
自身の生存と祖母の存命だけを考え只管走り続けた。
(まだ死にたくないよ、婆ちゃん!頼むから無事でいてくれ!)
そして現在に至る。
氷川の住宅街は街灯が少ない。人と人の距離が数メートル離れただけでも顔の判別がつきにくくなる。そんな薄暗い中、焔の荒い息遣いだけが響いている。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ…。今日は…はぁ、はぁ…何でこんなに、誰もいないんだよ。し……しずか過ぎる。はぁ、はぁ」
漸く地獄のようなキャンプ場を脱出したと思えば、今度は不自然過ぎる程の静寂。(住宅街の中まで命辛辛逃げて来たっていうのに、何なんだよ...。頼むよぉ……まさか、ここももう?)
そう考えた途端、俺の頭の中にキャンプ場の出来事が走馬灯のように駆け巡ってくる。(いや、まだそうと決まった訳じゃない)恐怖心に苛まれそうになる負の思考をどうにか振り払った。
長時間走り続けたせいか、既に体力は限界を超えていた。しかし、横腹が痛もうが吐きそうになろうが足を止めることが出来なかった。少しでも足を止めると山爺に捕まって殺されてしまうからだ。
(くそっ!俺だって今すぐにでも倒れて楽になりてぇよ。死ねば楽になれるのか、何度考えたかわかんねぇよ……でも、婆ちゃんが待ってるかも知れないんだよ。そう考えたら_。あともう少しなんだよ…もうそこまで来てるんだよ。その先を左に曲がれば……そうすれば婆ちゃんに_)
祖母の顔を思い浮かべるだけで心が落ち着いた。ホッとして走る速度も緩やかになっていた。
漸く呼吸も落ち着いてきた頃には三叉路の前まで来ていた。
この角を左へ曲がると、少し先に背の高い街灯が立っているのが見える。その前に古民家風の瓦屋根の平家こそ俺の実家である。
そして俺はその三叉路を左へ曲がろうとした瞬間、今までに感じたことのない違和感に気付いた。
なんと、家全体が漆黒の霧のようなもので覆われていたのだ。
「………な、なんだあれ?」
一度は塀を曲がろうとしたが、体が反射的に塀の角に身を隠してしまった。
無意識のうちに命の危険を感じたのだろう。俺は呼吸を制止するように両手で口を紡いだ。
ドッドッドッドッ…。
心臓が千切れそうな音を止めない。デスメタルのバスドラムのように喧噪で、"死"を連想させる。
それでも俺は息を殺しつつ塀の角からそろりと奥を覗き見た。
(……誰だ?)
門から街灯の方へ伸びる人影が見えた。
暗くて見通しが悪いので俺は刮目した…すると_。
(…え?)
高さ3メートルはあろうかという巨大な物体が門から出て来た。俺はそれを見た瞬間、すぐに何なのか理解できた。
(あんなの……山爺しかいないだろ。大体なんでウチから出てくんだよ...)
街灯下までそいつが歩いて来ると、漸く山爺であることが視認できた。
しかもそいつは右手に何かを引きずっていた。
(何してんだこいつ...ん?何か手に持ってるけど…何だよあれ?)
それを認識した時から嫌な予感が始まった。
身の毛がよだって...押し寄せる恐怖感が治らない。
そうかも知れないと思ってはいても考えたくなかった。もしかしたら違うかも知れない...。
そうこう考えている内に巨体山爺は持っている物を持ち上げようとした。
街灯の光が徐々に手に持っていた物を照らし出していく。山爺がそれを顔の前まで持ち上げた時、完璧に視認することができた。
(え?・・・ちょ・・・ちょっと待てよ・・・え!?)気が付けば、塀の角から身を乗り出していた。「ほ…ほむら。な、んで…かえって…きたの」「マダ生キテタノカ…オ前、モウイイ加減ニ死ネ」山爺が手を振りかぶった。「に…にげなさい焔!…愛してるよ。ほむ_」「ば、ばあちゃ_」声を上げようとした時には、巨体山爺の腕が祖母の心臓を貫いていた。
俺は自分の目を疑った。
瞳に映る全ての物が信じられなくなった。そして一瞬にして世界が真っ暗になった。
(あれ?婆ちゃんって今日躑躅柄の着物を着てたよな?好きだったよな、青い躑躅。珍しい着物で、いっつも自慢してたな。母さんに貰った大切な着物だって...)
あれは俺がまだ小学生の頃だった。
祖母が愛用していた青い躑躅の着物について尋ねた時の記憶だ。
青い躑躅の着物なんて滅多に無いらしく、着ているのは祖母くらいしか見た事がない。
娘から貰った大事な物だと頻繁に口にしていた。
(還暦の時だったかな、確か。婆ちゃん、ずっと大事にしてたもんな_。でも、どうして今になってあの頃の記憶が?…………あぁ、そうか。あの時着物のことを馬鹿にしたんだよな俺。あの時のこと、謝れなくて、ずっと後悔してたよな。ごめんな、婆ちゃん。俺はあの時恥ずかしかっただけなんだよ……何だか、母さんがすぐそこにいるような気がして...ただそれだけで_)
今の俺にとって祖母の生存が唯一の希望だったが、それも一瞬にして消え失せた。
途方もない感情の波が押し寄せてきて………溢れ出す涙が抑えきれない。
「ゔゔ…」
つい嗚咽を漏らしてしまった。その瞬間に山爺がこちらに反応する。「ダレダ…」
それは一瞬の出来事だった。
どうやったのかは理解できないが、何故か眼前には既にその巨体山爺がいた。
時間が止まったと錯覚する程の刹那だった。
…はぁ?何でだよ?
さっきまであそこに居たじゃん。
何でもうここに居んの?
速くない?
あのデカさで?
はっ、違う。今はそんな事どうでもいい!とにかくコイツから逃げないと...ヤバい。
俺はすぐさま逃げようと背を向けた。直後だった。
背筋から強烈な電撃が走り瞬時に脳天まで突き抜けた。
「ぐはぁ」
巨体山爺の拳が焔の背中を撃ち抜いてきたのだ、人頭くらいのサイズはあろうかという大きな拳で。
そして焔は裕に数メートル程は飛ばされただろう。
着地の時に地面に叩きつけられた焔はアスファルトに頭を強く打ちつけた。
「ブホァ…はぁ、はぁ。こ、こんなのって...」
(何だよこれ。本能で攻撃して来るような……まるで、肉食動物が…草食動物を狩る、みたいな…。人を殺すことに躊躇が、全くなかった...)んぐっ………。
頭を強打した衝撃で意識が薄れ始める。少し遠目に巨体山爺が何か言っているのが聞こえてくる。
「俺ァ弁角ダ。ヲ前、逃ゲルナヨ……ソシテ内蔵喰ワセロ。ヴェ、喰イタクナイヨ。イイヤ、喰イタイヨォ。ヴェ、ヤ…ヤッパリ喰イタクナイヨォ」
全てが支離滅裂だった。
「く…そ。ば、ばあちゃん……ご、め、ん」
そして俺は意識を失った。
意識を失ってしまった炎。果たしてこのまま山爺の餌食となってしまうのか?
次回へ続く。