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通じ合う二人の想い

ここに出てくる「キムワイプ」は水に溶けない魔法のティッシュ!


 胡蝶蘭のフレーバーティ―。



 茶葉に香りのエッセンスを吹き付けて乾燥させることによって香りづけをする。乾燥させた果物や花びらを混ぜておけば目でも楽しめる。そもそも紅茶には本来の香気成分が含まれ豊かな香りがある。しかしながら産地やブレンドの違いだけだとその香味に限界がある。



 この北方のサンカサドラン国の紅茶はもともと香りが弱いタイプの茶葉だ。



 本来なら売りにくいが、特徴が弱いというのは白いキャンバスのようなものだ。胡蝶蘭の香気を閉じ込めた精油エッセンシャルオイルに調香の魔術を重ね掛けして試行錯誤を繰り返す。



 新鮮な花、果実、果皮などの天然フレーバー原料から作り上げた天然香料。



 人間が安全に摂取している食品中に存在するものと同一のもの。口に入れるものだからこそ安全性にもこだわりたい。



 乾燥させたチップを直接茶葉に混ぜるのも適切な量をはかるのが問題だ。味見を繰り返してだんだん舌がばかになってくるし鼻も麻痺してくる。リセットしたい。リセットしたい感覚器官。



「フリージア? まだ残っていたのか」



 ホワイト企業であるこの職場において、終業の鐘がなるとともに我先にと帰っていくのが多数だ。まるでチキンレースのように最後まで粘る社員なんていない、……私を除いて。ひとけのないほうが仕事がはかどる。とくに研究施設を借りているときは。手元をまじまじと見られるのは得意ではないから。ほとんど明かりの消えた会社の中はがらんとして、研究室だけあかあかと明かりが灯る。



 小さなフラスコと小さなビーカーが乱雑に台の上に散らかり、私は羞恥で顔が赤くなった。部屋が汚い女にでも思われただろうか。



「これは試作品か? 私も一口いいだろうか」



 飲みかけの小さなカップに目を留めてロイド様は何とはなしに口を開いた。私はカップに口紅がついていたのに気づき、あわててティッシュでぬぐう。



「実験用のキムワイプ(ティッシュ)のほうを使うのか……いや、気にしない、私は……」



 言いよどむようにロイド様が口元をおさえる。実験用のティッシュを使うのがそんなに気になるとは。ビーカーで直に飲んでなくて良かった。もっと引かれるところだった。



 二人きりの実験室。



 時計の針の音が大きく聞こえる。



「ん、香りが強すぎないか、これは。酔いそうだ」



 やはり私の鼻が麻痺していたようだ。感覚器官が麻痺すると味もうまく感じられない。



「もう少し香料を減らしてみますね」



 髪が触れ合うほどの距離で手元をまじまじと見つめてくるロイド様。帰らないのだろうか。もしかして戸締りをするのに私がいつまでも帰らないから困っているのだろうか。



「フリージア。あまり遅くなると家のものが心配しないか?」


「いえ、大丈夫ですわ。一人暮らしですから」



 私の言葉にロイド様の目が大きく見開かれる。国境沿いとはいえ隣国だ。どうして家から通えるとでもおもったのだろう。



「送ろう」



 こちらに有無を言わせない口調で彼は言った。そのまっすぐな視線はこちらを見据えている。いつぞやかの思い出が鮮やかに浮かび上がるかのようだ。



 やはり、私はまだ。



 この空気感を心地よいと思っているみたいだ。以前の面影が透けて見えるだけでこんなにも胸に響くのだから。





 きりのいいところで切り上げてロイド様の馬車に送られて夜の外灯のみの薄暗い小道を帰る。通り過ぎる民家の明かりもほとんど消えている。就寝の気配だけが夜の闇に溶ける。



「フリージアは……どうしてうちの会社に決めたんだ?」



 言いよどむようなものいいに私の心は跳ねた。まだ私の知っているロイド様であるかのような錯覚。



「求人を見て。仕事内容と理念がよかったからですわ」



 新入社員の模範解答のような言葉だったがロイド様の瞳は冷えた。



「そうか」



 色の消えた瞳に一段落ちた声のトーン。すん、と窓の外に視線をやってどこか不機嫌そうでもある。



 広がる沈黙。



 徐々に下宿が近づき私は御者に声を掛けた。


 

「すみません、ここです。降ります」



 住宅街の片隅の小さな下宿の前で馬車が停まる。降りようとした私の腕をロイド様がつかんだ。



「フリージア、ああ、なんてことだ。どうしてこんなことに」



 今や隆盛の極みアーカス商会の一人娘がこのような小さな下宿で一人暮らししているなどとは考えもしていなかったらしい。もしかして婚約破棄が原因で追放されたのではないかと深読みするロイド様に私は首を横にふった。



「いいえ。私の方が飛び出したのですわ」



 ロイド様の目が一層見開き、鋭い漆黒の瞳に光が差す。右手で口元を覆っては固まっている。



「フリージア……君は」



 言葉を呑み込んで、ロイド様の喉仏が上下する。



「君はーー」



 くっと唇を食んでロイド様が首を振った。



「こんなところに住んでいいはずがない」




 ……一体、何を言い出すのだろう。



 私は目の前のロイド様を茫然と見つめた。



 彼は初めて出会ったときのように瞳を揺らし、その面影に思わず胸が熱くなる。



 ずっと、ずっと好きでいた。



 あの些細なとりとめもない会話に救われた私の心。どうしてこんなにいつまでも心の中から消えて行ってくれないのだろう。私は利益を追求する商家の娘なのに。実にならない想いばかり大事に引きずっている。



「うちに来ればいい。フリージア。婚約をーーもとに戻そう」



 私はついに幻聴まで聞こえるようになってしまった。



 とうとう狂ってしまった。



 いつまでもいつまでも捨てきれないでいるから。



「同情などいりません」


「同情などでは……くそっ」



 ロイド様は顔を覆った。天をあおぐように。私も馬車の天井を見た。天井を見ながらふと、今の私ならばなりふり構わず縋れるのではないかと思った。ロイド様が大企業に発展したうちの後ろ盾を目的としていたっていいじゃないか。私が転落したのを哀れに思われていたっていい。私のこの今の気持ちさえ確かなものであるのならばそれでいい。



「私ーー私、ロイド様のことを」



 言葉が詰まる。告白なんて初めてする。怖い。いつも一歩引いて見てたから。いざぶつかるなんてとても怖い。声が震える。



「初めてお会いした時からーーお慕い申し上げておりました」



 消え入る語尾に力を込めてひっそりと言った。顔が見れない。足元ばかり見つめる私はどう見えたのだろう。恥ずかしい。消えてしまいたい。立場が変わったからとすり寄ってきたあさましい女に思われるくらいならいっそここで飛びだして身を投げてしまいたい。




 息が詰まるような抱擁に私は意識を飛ばした。



 締め付けるような腕は振り払えないほど強く。力の差というものをまじまじと見せつけられる。



「フリージア。ああ、フリージア」



 言葉にならないようにロイド様は繰り返した。私の頬を涙が伝う。私も言葉になりそうにない。この抱擁だけで十分に伝わった。



 受け止められたのだと。



 私の想いは確かに受け止められた。



「フリージア……私も、君をずっとずっと好きでいた」




 差し込むような低い声、消え入りそうだった。



 涙が止まらない。








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