君を一途に想いつづけている
胡蝶蘭『幸福が飛んでくる』
動悸がする。
忘れもしないその声。私はついに幻聴がするくらいになってしまったのか。
振りかえれない。
「しゃ、社長。どうしてここに」
「ああ、たまには人事にも顔を出さなくては。大事な社員を選ぶのだから」
面接官の男と軽口をたたく声が後ろから聞こえる。カツカツと靴音が後ろから近づいてきて呼吸が止まりそうになる。
横を通り過ぎるときにふわりと香水の香りが香った。ウッディーなムスクの香り。
音を立てずに面接官の隣の席について彼のまっすぐな黒い瞳が私を見据える。
その真摯な瞳は変わらない。
見た目はすっかり変わってしまったけれど。
記憶より鋭い瞳、記憶より皺の深くなった眉間、記憶より大人びた横顔、私の記憶が塗り替えられる。あのときのあどけない表情はなりを潜め、ただ頂点に立つものの風格だけが漂う。
ああ、彼は変わってしまった。
夢物語の戦術指南なんてもう語ってもくれないだろう。お父様と同じ経営者の瞳。私にもよくわかる、だって私もそちら側だったもの。私が彼に惹かれたのは自分にないフレッシュさを彼がもっていたからだったのかもしれない。商品を売りたくて売りたくてしょうがなかった私に、淡い夢物語をきかせてくれたからかもしれないし、花園を舞う蝶々に目を細めていた姿がとても優しかったからかもしれない。私が常日頃押しとどめていた自由を彼が見せてくれたからかもしれない。彼はもうこちら側。
その切れ味のよい据わった瞳は選び取るものの目。私が忌諱していた、そうなりたくなかった未来の自分の姿。
時間が戻ればよかったのに。
私は喜んであなたと駆け落ちしてあのときの純粋な気持ちでほそぼそと小さな幸せを噛みしめて生きてゆけたでしょう。
「明日から仕事に来るように。フリージア・アーカス殿」
顔色一つ変えない。
以前の貴方ならばきっと目を見開いて喉仏を上下させては飲み物に手を伸ばすであろう場面で、貴方はまばたきひとつしない。
そう、時間って残酷ね。
私は家を飛び出せば貴方に会えるかもしれないと少しは期待していたみたい。あのころの貴方に会えるだなんて、そんな保証どこにもないのに。
…………
忙しい毎日に忙殺されて摩耗していく心。私は何か忘れているんじゃないか。不安でならなかったのは君の存在に対してだったのだと。
面接室から聞こえてくる声に心臓は高鳴り。忘れかけていたことが鮮やかに思い出される。
まさかこの異国の地にて再びあいまみえることになるだとは。せめて私のほうから迎えに行きたかったし、こんな形で出会いたくなどなかった。
でも飛び込んできた君を手放すこともできない。
どうして私はいつからここまで愚かになったのだろう。一度は自由にした君のことを性懲りもなく囲い込もうとしている。君を自由にさせてあげたかった。だからこそこの手を離したのだというのに。
運命のいたずらか。私の心を試しているのか、神よ。
身一つで私の会社に飛びこんでくる君のことをどうして愛さずにいられようか。あれほどの大企業になったアーカス商会を捨てていち従業員となってまで私に会いに来てくれたなどと思いあがってもいいのだろうか。
好きだ。好きだ、フリージア。
もうずっとずっと前から。
ずっと好きでいる。
君を一途に想いつづけている。
…………
めまぐるしく変わる環境。情報の大渋滞。光陰矢のごとし。今日も一日を終えて。気がつけば終業の鐘がなる。ほっと息着く瞬間に一日がまた過ぎ去る。
「順調か?」
時折様子を見に来る社長に、一気に色めき立つ社員。カツカツと歩く姿は気品と威厳に溢れ、馴染むスーツは仕立てのよい上質なもの。整えられた髪はかちりとして隙がない。ぎらりと光る黒曜の瞳に濡れ羽色の髪。コクのあるバリトンボイス。にじみ出る風格。
殺風景なデスクが並ぶこの会議室で、企画係はプレゼンテーション中。ボードに張り付けた様々な案が仕分けされては流される。生まれおちては消えていくアイディアたち。
「期間限定商品の案だからといってあまりにも奇抜なものでは食指もうごくまい」
ロイド様のするどい視線がボードを一瞥する。長い指がボードに留められた一枚の企画書を攫った。
「胡蝶蘭の香りーーか」
ふっと緩めた口元に心臓が冷える。誰が書いた企画書かなんて一目瞭然だろう。心臓が不整脈を刻み、目の前がぐるぐるする。
「いいんじゃないか?」
濡れ羽色の瞳がこちらを向く。射貫くような鋭さ。
「発案者が責任をもって取り組むように」
…………
近くて遠いフリージア。手を伸ばせば届く距離なのに。私と君の心は分厚いガラスの壁に阻まれる。交わらない心。今更何を伝えたらいいというのだろう。君をこの手に抱きたいなんて。
迎えに行きたかった。
君が来てしまって迎えに行けなくなった。
君が欲しいなんて。どんな顔で言えばいいというのだろう。
いまや大企業に名を轟かせるアーカス商会の一人娘である君を、ベンチャー企業の社長である私が掛け値なしで愛しているだなんてどうして信じてもらえるだろうか。
私はなにか間違えたのか。
まだ君の家の商会が小さいうちに君を攫っておけばよかったのか。
いまさら後悔しても……もう遅い。
私は私にできることをただ毎日こなしていくだけだ。
今日も夢に出るあの婚約破棄の日。もし時間を戻せたならば有無を言わさず君を攫ってしまえただろうか。私には君が必要なのだと。何もかもかなぐり捨てて熱い気持ちを伝えられただろうか。君の為だなんて言い訳をして、結局私は自分が傷つきたくなかっただけだ。君が生贄のように嫁いでくることに私のそびえ立つプライドが許せなかっただけだ。
君に選んでほしかった。
仕方がないみたいに君に一緒になってもらいたくはなかった。
私が幸せにしたかった。
君が私を幸せにするのではなく。
どうしようもない。
ほんとうにどうしようもない。
この傲慢な私の我儘が、君を求めている……。