雨に濡れる恋心
色変わりしない西洋紫陽花の花言葉は『変わらぬ心』
写真は外出先で撮りました。綺麗な白。
「やあ、白い紫陽花とはやはり趣向が凝らされているな」
ロイド様は前回会ったときと何一つ変わりなく。こちらのメイドの給仕の冷たい視線にも動じない。一か月ぶりに会ったというのに空気感が心地よい。
私の心は私にもどうにもならない。
どうしてこんなにも穏やかな気持ちでいられるのだろうか。目の前にいるのは婚約の破棄をいいだした当の本人だというのに。まだ正式な破棄は成立していないがもう時間の問題だろう。
「ええ、この品種はハイドランジア(西洋アジサイ)。品種改良を重ねて花弁の数を大幅に増やしたものですわ。輸入して挿し木をしたものですの。剪定が悪いと花が咲かない困った子ですわ。これだけ綺麗に咲くのは庭師の努力の賜物ですわね」
一段、ランクを落とされたティーカップと茶葉に、お母様がこの茶会をもう捨て鉢にしようとしているのが透けて見える。
ロイド様が気を悪くしなければいいのだけれども。どうか気づかないでいてほしい。私のためにも。
「やはりここの紅茶は美味しいな」
口に含み目を閉じるロイド様に私の喉が詰まる。美味しいですって。この普段使いの紅茶。前回の高級な茶葉とは雲泥の差。手のひらをかえすような冷遇ぶりに私の方が涙が出そうだわ。
「ええ。丁寧に加工していますから……」
ぐっと目頭に力を籠める。私は商家の娘。この程度で涙をこぼすようなやわには育てられていないのです。
「紅茶の件だが」
「ええ」
「すまないが買い取れそうにもない。我がクリスタル商会は自己破産をしたから。今日ここに私が来たのもただの私のわがままだ。最後に一目見て君に自分の口から告げたい。ただそれだけのことで手間をかかせてすまないな」
「え?」
ロイド様の姿は以前とかわりなく。
温室の照明に照らされて濡れ羽色の髪の艶は煌めき、その真摯な漆黒の瞳はまっすぐにこちらをみつめている。まるで初めて会ったときみたいに恥じないその態度で、彼は言った。
「フリージア、婚約を破棄してくれ」
私たちをわずかにつなぎ留めていた細い婚約はかくも頼りないものだった。
私に持ち込まれていた釣書の山はまたたくまに予約待ちのお見合いにかわりスケジューリングは来月まで埋まっている。彼にこだわる理由などどこにもない。どこにもないのに……。
「はい、……承知しました」
断れと事前に念を押されていた今日。
お母様の嗅覚は鋭い。情報戦では頭一つ抜ける我が商家は小さな数字の動きも見逃さない。今後伸びるであろう企業にしか尾を振らない。
でも、私はーー。
私はーーそうなりたくはなかった……。
「お邪魔したな。お暇する」
お茶会開始五分で用件をこなし席を立つロイド様。見送りに立とうとする私にメイドが耳元で囁く。
「見送りになんていかなくてもいいですよ」
どうかロイド様の耳に届いていませんようにと私は祈った。メイドを小さく手で制して私は馬車までの道を歩く。これが最後の別れの言葉になるかもしれないのに粋な言葉なんて何一つ見つかるはずもなく。
ただ自分の息をする音だけが聞こえる。
「そうだ、最後のわがままだが」
ロイド様は言葉を切ってこちらを振り向くと、穏やかな顔つきで言った。
「あの薔薇の葉を一枚頂いて帰ってもいいだろうか」
出入り口の門の付近に小さくある生垣。ひっそりとたたずむように隠れている花のつかない薔薇は私が小さいときに自分で植えて失敗したものだ。もう花がつくことは永遠にないだろう。
「ええ、どうぞ」
私はなにか一つでも渡せるものがあってほっとした。
薔薇の葉っぱの花言葉は、
『諦めないで』
私の気持ちを代弁してくれるいい言葉だ。
ぱらぱらと降る小雨に小さく濡れながら手折ると私の手を包み込むようにしてロイド様は受け取った。
「ありがとう。大切にする」
ぱらぱらと零れ落ちるような小雨がロイド様の濡れ羽色の髪を濡らす。その水滴の粒さえも光り輝いて見えて私は自分の愚かさに身震いがした。ここでなりふりかまわずに後を追っていけたらどんなにかよかっただろうか。でも私は商家の跡取りだから。
「……お気をつけて」
形式通りの挨拶がこんなにも冷たく聞こえる。私はなんて冷たい女なのだろう。結局のところ私の中には冷たい血が流れているのだろうか。縋りついて駆け落ちしたい気持ちを理性が押しとどめる。私の両肩には重い重い鉛のような重責がのっていて、それを簡単に捨て去れるほど正気を失っているわけでもない。
理性を保ったまま淡く惹かれてしまった。
ただそれだけ。
お母様に話してもどうせ可愛い初恋ねと笑ってすまされてしまうだろうことは容易に想像がついた。
私はきっとこの想いを引きずる。
この心だけはどうにも御せない。
…………
昇り詰めるまでは困難ではあるが転落するのは一瞬だ。
国内最大手の一角に名をそびえる我がクリスタル商会を自らの手で地に引きずりおとした私はなんと罪深いものか。
こんな闇深い私がはたして君の目に映って良いものか。でも会いたかった。会いたかったんだ。せめて君にお別れを言ってほしかった。君の記憶に残りたかった。君の思い出が欲しかった。
私の気持ちは日々積み重なるばかりだ。こんなにも君のことを寝ても覚めても考えてしまうとは。恋煩いとは実におそろしいものだとは。
自分で植えた薔薇の花が咲かないと嘆く小さな君に幼い浅はかな私は君の家の物を君にプレゼントした。なにかあげたかったんだ。純粋な気持ちだった。後になって薔薇の葉っぱにも花言葉があるのだと知った。私は確かに君に『諦めないで』と伝えたかった。
咲かない花があってもいいじゃないか。君が植えた薔薇ならば葉っぱから根っこまで愛する。
手の中には小さな枝付きの薔薇の葉が小さくおさまっている。枝ごと落としたのか。実に君らしいな。自嘲気味に引きあがった唇に自分でも嫌気がさす。家を必死に守ろうとする君に私は一体どう映っただろうか。いずれうちの悪評もセンセーショナルなニュースとなって君の耳に届くことだろう。
いいんだ。フリージア。
君は自由になってくれ。
君の幸せが私の幸せなのだから。




