愛ゆえの婚約破棄
フリージアの花言葉『あどけなさ』
「フリージア、……婚約を破棄してくれないか」
私をまっすぐに見つめる真摯な瞳には嘘偽りなく。ロイド・クリスタル伯爵はいつもの硬派な雰囲気を纏っていた。彼の漆黒の美しい髪は風にそよぎ、黒曜石の欠片のようにきりりとしたアーモンドアイは私をしっかりと見つめていた。
そこには何一つ恥じない潔さと、決して撤回しないという強い意思が宿っていた。
初夏の気持ちよい涼しい風がオープンガーデンでのお茶会を吹き抜ける。風に乗って頭上の藤の香りが鼻先をくすぐる。アーチ状に作られた藤棚はこのガーデンチェアとテーブル専用の一品。直射日光を遮り心地よい。お母様ご自慢の庭園でのティーサロンの目玉。私と婚約者であるロイド様の月一のお茶会の定番。
テーブルの上のティーカップには木苺のフレーバーティ。まだ熱いくらいの温度。淹れたてほやほや。のどがカラカラになってしまったが口をつけるにはまだ熱すぎる温度だ。
まだ着席して五分もたっていない。
私は行き場のない両手でティーカップを持ち上げた。熱い。火傷してしまいそうだ。ダージリンの芳香な香りと木苺の甘酸っぱい香りのマリアージュ。現実を逃避するにはいささかスパイスに欠ける。
「理由をお伺いしても……?」
私の黒い鴉のような髪色は地味だし、同色の黒い瞳はたれ目で気の弱い印象を与える。身に着けているベージュのドレスも地味だし……ロイド伯爵の好みではなかったのかもしれない。まだ顔合わせは二回目だというのに。
「君の問題ではない。すべて私の不徳の致すところだ」
ロイド様と話すのはこれで二回目だ。一回目の顔みせで判断されたのかもしれない。彼の不器用な言葉選びはいままで誤解を生んで仕方がなかっただろう。
「私の一存では決めかねます……」
家同士の婚約だ。理由もぼんやりしているというのにどうして両親に切り出せようか。
「気にするな。もう君の父君には話はつけてある」
どうやら事後報告だったようだ。これは決定事項。もはや覆水盆に返ることすらなく。私の視線はロイド様の顔からその頭上に向いた。
白い藤がとても綺麗に咲いていてまさに今が盛り。この時期を逃せばもうこの光景は見られないだろう。ひとときの儚さがなんと美しいものか。
「すまない、フリージア。君の情が移る前に切らせてくれ」
「はい、……仰せのままに」
私の家は子爵家。ロイド様の家よりも格が一段下がる。決定権はすべてあちらにある。もともとは我が家の事業と彼の家の事業の提携から来る婚約だったのだが、気でも変わったのだろう。私も彼も巻き込まれた被害者だ。この二回分のお茶会の時間で読みかけの本でも読めていたらどんなにか有意義な時間を過ごせたかもしれない。
婚約を破棄した方のロイド様は堂々たるものだ。お茶会を今すぐ切り上げてもよさそうなくらいなのにゆっくりとティーカップを口に運び、その香りを堪能している。婚約を破棄された方の私も無言でお茶菓子に手を伸ばした。ご令嬢ならここで泣き落としの一つでもやってみせるのだろうが、無駄な労力は使わない主義だ。大いなる運命の風に翻弄されるのならば流されるところまで流されてみたいもの。それが人生の醍醐味というもの。
「フリージア、……茶を飲んだら庭園を案内してくれ」
「ええ。承りました」
お母さまが庭園の景観を損なわないようにと低木の隙間に隠した音楽機材からはクラシックの甘い旋律がゆったりと流れている。初々しい二人の雰囲気を良くしようというお母様の打算が透けて見える。ご期待に沿えず申し訳ない。顔合わせ二回目にしてもう破談ですの。
お茶を飲んだら、というものだからこちらは一口で飲み切ったというのに、ロイド様はゆっくりと味わうように舌の上で転がすようにして含んでいる。
茶葉が質のいいものを使ってるのに気がついたのだろうか。普段うちでは決して口にすることのない来客用の高級な茶葉。薫り高い至極の一品。この一杯で相当な値が張りますの。
「……良い茶葉だな」
「無農薬栽培、手摘みの品でございますわ」
さりげなく自社製品をアピールするのも忘れない。商家の娘ですもの。婚約が破談になろうとも商品は売り込む。当然ですよね。
ロイド様の言葉が一瞬つまり喉ぼとけが上下する。眉間に寄った皺に私の心にさざ波が立った。今の会話のどこにいったい地雷があったとでもいうのだろうか。
初めての顔合わせのときもそうだった。本心を決して透かさないぶっきらぼうな言葉選びに、気難しい表情。硬派だといえば聞こえはいいが朴念仁。
「そうだ、君の好きなことは何かきいていなかったな」
まるでお見合いの定番のフレーズだ。彼は破談になった婚約をまるで初めからなかったかのようにふるまっている。
私はその流れに乗った。川に流れる木の葉のように軽やかに。
「ええ。私は最近は読書を嗜んでいます。知識が増えるのは良いことですから」
「ああ、向上心があってとても良いことだ。私も最近は『仁の陣術』という戦術書を嗜んでいる」
「ああ。あの古今東西武術の誉れ高き名君の戦術書ですね。昨今では定石をあえて外すのが流行っているだとか」
「そうだ。すでに知られている型を使うのが一番悪手だ。先を読まれるにもほどがある。これは応用を身に着けるための基礎を養うものだな。このまま流用するものは莫迦の烙印を押されても致し方ない」
「まあ、誉れ高きクリスタル商会のお方は武にも高き思想をお持ちのようで」
「ん、まあこれは趣味だな。私の槍術と同義だ。趣味の範疇を出ない。……私は商家の跡取りだから」
そこでロイド様は言葉を切って、思いのほか弾んだ会話に終止符を打つ。彼は一息で冷めきった紅茶を飲みこむと席を立った。
「そうだ。庭園を案内してもらおう」
「ええ、喜んで」
私の心は弾んでいた。
こんなことがあってはならないのだというのに。婚約を破棄された後になって彼に興味が沸くだなんて。
「これは胡蝶蘭。育てるのはなかなか難しく、この季節は湿度を下げる必要があります。この温室の室温湿度は徹底的に管理されていますからこのように花が綺麗に咲くのです。上手に育てればあと五十年は長生きするでしょう」
「香りが強いな。これは香水でも作れば高く売れそうだ」
「素晴らしい着眼点ですね。私なら紅茶に香りを含ませて期間限定商品として売り出しますが、香水ならより高値で売りだせる上に、客層も広そうです」
「花の姿も気品あふれる白だな。全体的に白い花が多いな。こういったのが好みなのか?」
「ええ。お母様の趣味ですわ。庭園全体を光で満ち溢れたように彩りたいのだということです」
胡蝶蘭の周りを藤紫の蝶々が舞う。私の視線が留まる。アオスジアゲハの亜種だわ。とても珍しい。物好きな蒐集家に高く売れるだろう。だが客人を前に網を持って振り回すわけにもいかない。
「アオスジアゲハの亜種か。吉兆の兆しだな」
さらりと言葉を紡ぐロイド様の言葉に心臓が跳ねた。さすがは知識人。亜種まで網羅しているとは。この蝶々は時価で取引される代物ですことよ。
「ええ、珍しいですよね。この広い温室ならば羽を広げて自由に飛び回れることでしょう」
ドレスの裾の埃が気になる風を装いながら手で足元のドレスを引き上げる。赤のパンプスに足首のアンクレットがきらりと空色の光を反射した。
「ん? 泥でもついたのか?」
「ええ。そろそろお暇しなくては」
温室の中に時計は存在しない。時間を忘れてくつろぎたいというお母様の信念によるものだ。これではいつまで滞在していいかわからない。
客人には非常に不親切な設計だ。きりの良いところで区切るのがホストの役目だろう。
「いくな。フリージア」
唐突にかけられた言葉に思わず顔を向ける。
ロイド様の顔は私と同じくらい驚愕していた。
「……いや、なんでもない。邪魔したな。帰ろう」