アリスの娘
久しぶりに書いたのがこんなんでホントにごめんなさい。
思った以上にめっちゃきもい話になりました。
ここね――佐々木心音と初めて出逢ったのは、二十一の夏。
あれは忘れもしない、当時同居していた爺さんの葬式があった日だ。
遠方に住んでいた六つ上の従兄・孝春兄ちゃんの腕に抱かれ、連れてこられた一人娘――それが、『ここね』だった。
頭に黒いカチューシャを付け、控えめにフリルが入った黒いワンピースに身を包んだ当時四歳のここねは、もっちりとしていそうな張りのある肌の白さも相まって、それはそれは愛らしかった。
まさに人形のような、という比喩表現がよく似合う。
まさかそんな比喩表現を生まれてこのかた使う日が来るとは思わなかったが、それ以外の上手い言葉が見つからなかったのだ。語彙が欲しい、とこの時ほど強く思ったことはない。
俺たちの前では堅物だったあの爺さんすらも、ひ孫にあたるここねのことをかなり溺愛していたらしい。当時親戚筋に幼い子供が少なかったこともあり、その日も周りから可愛がられ、ちやほやされていたことをよく覚えている。
――そうだ、あのころから彼女は話題の中心だった。
この葬式の主役であったはずの、爺さんの影すらも薄くなってしまうほど。
……もっとも、ここねをひどく溺愛していたという爺さんのことだから、主役を彼女に取られたとしてもそれは逆に本望だったかもしれないが。
孝春兄ちゃんの奥さんは有朱さんといって、孝春兄ちゃんより一つ年下だった。元々同じ高校の先輩後輩で、その頃からの関係だという。
有朱さんは爺さんの葬式の日、身ごもっている二人目の子供がそろそろ出産を迎えるということで、臨月のため身体に障るといけないからと顔を出さなかった。だからその日葬儀場にいたのは、孝春兄ちゃんとここねだけだ。
二人目は男の子なんだ、爺さんにも会わせてやりたかったな……と孝春兄ちゃんが嬉しそうに、けれどちょっと残念そうに話していたが、正直どうでもいい。
そんな有朱さんは、昔から自分と同じ名前の女の子が主人公である『不思議の国のアリス』という物語を好んでいた。思えば俺が高校生の時に招待された二人の結婚式も、あちこちにアリスのモチーフがちりばめられていたと記憶している。
金髪に黒いカチューシャ、青いワンピースに白いフリルのエプロン姿をした、主人公であるアリスという名の少女。
白兎や懐中時計、チェシャ猫、ティーカップ、金色のティースプーン、エトセトラ。
有朱さんは娘であるここねにも、そんな装いをさせたがっていたらしい。爺さんの部屋に大切にしまわれていたというここねの幼い頃の写真には、アリスに似た格好の彼女が多く写っていたし、ここね自身もアリスモチーフの持ち物を普段から好んで身に着けているようだった。
――葬式の日につけていた、あの黒いカチューシャもそうだ。
それらはここねの可愛らしさを邪魔するようなものではなくて、むしろもとより愛らしいここねの魅力を最大限に引き出しており、非常によく似合っていた。
アリスというキャラクターは、この少女のために生み出されたのではないか、などとありもしない錯覚を抱いてしまいそうなほどに。
親戚の集まりでたまたま出逢っただけの、幼く愛らしい少女。
その時はただ、それだけだった。
親戚の集まりがあれば、今後も何度か顔を合わせることがあるだろう。とはいえそんなに頻繁に会うわけでもなくなるし、実際この時孝春兄ちゃんに会ったのだって本当に数年ぶりだ。だから爺さんの一周忌が終わればこれからも、年単位で会わないなんてことはざらのはずで。
その後に会うのは数年後で、その時の俺は『あぁ、あの時孝春兄ちゃんに抱かれてた女の子か。大きくなったんだなぁ』と思うだけ。特別なドラマが起きるわけでもなく。そう、実際はそんなもんだ。
それだけで、俺たちの縁は終わりを告げるはずだった。
――そう、本来なら。
けれど、そうならなかった。
何故ならこの出逢いは互いにとって運命であり、きっと必然だったのだから。
ここねが俺に初めて話しかけてくれた、あの瞬間こそが今思えば最初の運命だったのだと思う。
神様が俺とここねを引き合わせてくれた、運命の瞬間。
興味津々に、きらきらと丸い目を輝かせながら、孝春兄ちゃんの腕の中から身を捩るようにして俺へと手を伸ばし、ここねは無邪気に尋ねた。
「お兄ちゃん、だあれ? パパのおともだち?」
突然話しかけられ内心ひどく緊張していた俺は、口の中がカラカラになるのを感じながらも、彼女の言う『お兄さん』としての責務を全うせねばと、頑張って平気そうな顔を取り繕い答えた。
「うん、まぁ……そうだよ」
今思えば、その時の俺の顔は目も当てられないほど上気していただろうし、声だってかなり震えて上ずってすらいたかもしれない。
「パパの、いとこなんだ」
「イトコ?」
イトコってなぁに? ときょとんとしながら目をぱちくりとさせる、そんな行動すらとても可憐で。
ごくり、と思わず物欲しげに生唾を飲み込んだことに、孝春兄ちゃんは気づいただろうか。
「イトコっていうのはね……うーんと。パパのパパ、つまり心音のおじいちゃんの、兄弟の子供のことだよ……なんて」
そんな俺の内心など知ってか知らずか、ふは、と可笑しそうに孝春兄ちゃんは笑った。
「心音には難しくてまだ分かんないなぁ?」
俺だって説明上手くできないのにさ、と。
そんな孝春兄ちゃんの全てを見透かしたような反応に、当時の俺はまだまだガキだと思い知らされて、少し恥ずかしくなってしまったことを。
ここねのさらさらとした細い髪を躊躇なく撫でる孝春兄ちゃんの大きな手を、ひどく妬ましく、そして疎ましく思ってしまったことを。
そして……そんな孝春兄ちゃんにつられるようにきゃらきゃらと笑う、ここねの眩しい笑顔を。
そんな些細なことすら、まるで昨日のことのように、よく覚えている。
――そう。
それほどまでに俺は、ここねという少女に心を奪われてしまっていた。
◆◆◆
あれから、もうすぐ十二年の月日が経とうとしている。
それまでに爺さんの法要などでここねと会うことは何度かあった。しかし彼女はあの時有朱さんのお腹に宿っていた自分の弟や、他にもたくさん増えた親戚の子供たちと一緒にいることの方が増えて、俺の存在には見向きもしない。
きっと、俺のことなんてほんの少しも覚えていないだろう。
それでも構わない。これからいくらだって、互いを知るだけの時間はたっぷりあるのだから。
ここねは今年高校生になり、ますます美しい少女へと成長した。
さらりとした黒髪は母親である有朱さん譲りで、日を追うごとに艶を纏い、周りの虫たち――もとい、虫けらのような男たちの視線を、毎日のように奪っている。
きっと近づけば、いい匂いがするのだろう。実際に堪能できる日が楽しみだ。
ここねは高校で吹奏楽部に入り、クラリネットを担当している。毎日部活で夜遅くなることが増えているので、変な奴に襲われないか心配だ。
まぁ、そうならないように俺が毎日見守っているのだけれど。
相変わらずアリスが好きなようで、私服の雰囲気もロリータ調に近いものが多い。最近持ち始めたスマートフォンのケースや、壁紙にさえもアリスモチーフを取り入れているようだ。
最近では、自らのお小遣いで少し値の張るアンティークな雰囲気の、可愛らしいデザインの懐中時計を買っていた。初めて自分で買ったという特別度もあってかなり気に入っているようで、遊びに行く時は欠かさず身に着けているし、学校にも鞄の中へこっそり忍ばせて登校している。
ここねの誕生日が近づいてきたある日、彼女の自宅に匿名で白兎のぬいぐるみを送った。ここね好みのデザインなので、きっと気に入ってもらえるだろう。
腹の中には、ここねの指にぴったり嵌まるサイズの婚約指輪を忍ばせてある。
いわばこれは、ここね本人と孝春兄ちゃんたちに対する予告のようなもので、近いうちに迎えに行くという俺なりのメッセージを込めていた。
きっと気づいてくれるはずだ。認めて、くれるはずだ。
ここねが十六歳になる、その日に。
俺は、ここねを俺だけのものにすると決めていた。
彼女が好きなアリスの筋書きのように、白兎を使っておびき寄せて……なんてことを考えてみたりもしたが、思惑通りここねが着いてくる保証もない。それに、そんな巧妙な罠を張り巡らしたとして、ここね以外の人間が引っかかってしまったり……それなら帰せばいいだけなのでまだマシだが。
最悪不審に思った他の誰かに、通報されてしまったりでもしたら。俺はここねといよいよ本格的に引き裂かれてしまう。それだけは、どうしたって避けなければならない。
いや、むしろどうして運命の二人が十二年ぶりに再会するというだけなのに……どうして俺はこんなにも頭を悩ませ、こそこそと一人で計画を立てる羽目になっているのだろう。
俺は未来の妻を、迎えに行くだけだ。正当に認められて然るべきのはずである。
……いや、とりあえず今はそんなことどうでもいい。
ところでやはり俺個人としては、不思議の国のアリスより源氏物語の方が好みだ。
源氏物語の五十四帖ある話のうち、第五帖にあたる『若紫』という巻を知っているだろうか。
初恋の人に似た面影を持つ、何も知らない幼い少女を自らの元へ連れ帰り、将来の妻として自分好みの女性へと育て上げる――ほら、ロマン以外の何物でもないではないか。考えるだけでうっとりして、思わず深いため息が出てしまう。
ならばここねが四歳だったあの日に連れ去ってしまえばよかったのだが、爺さんの葬儀という場で人目もあったし、俺もそこまで考えが及ぶほど大人ではなかった。
あの時点で、孝春兄ちゃんたちを不用意に悲しませたくなかったというのもある。
第一、あのころの俺はまだ大学生だった。
親が資産家だったため働かなくてもある程度の食い扶持はあったといえど、当時の俺には子供を一人養うぐらいの甲斐性も、財力もなかったのだ。
けれど今の俺は違う。
親から分け与えられた財産があるから金には困らないし、働かなくたってずっと二人で一緒に居られる。今住んでいるマンションは、二人で暮らしても不自由ないほど広い。
ここねの成長写真を全て貼り付けたこの部屋を片付けて、二人の寝室にしよう。彼女が望むなら、アリスグッズをたくさん買い与えて、ここに置いてやればいい。
これならきっと、ここねだって喜んでくれるはずだ。
昔から兄弟のいなかった俺とよく遊んでくれていて、ずっと慕っていたとはいえ、孝春兄ちゃんに特別執着していたわけではない。その奥さんである有朱さんは、確かにはっきりした目鼻立ちがここねによく似ているけれど、ここねを有朱さんに見立てたことだって一度もない。
確かに孝春兄ちゃんのことは昔から大好きだし、有朱さんのことを初めて会った時に美しい女性だなぁと眺め見ていたことは否定しない。二人の結婚式の日に見たアリスモチーフの会場が印象に残っていたことは認めるけれど、それがここねに執着するようになった直接の原因だったのかと言われると、はっきりと明言できないのが不思議なところだ。
どうしてこんなに恋焦がれているのか、自分でも分からない。
けれど俺は、あの日に――ここねに初めて出逢った、その日に感じてしまったのだ。
頭のおかしいことを考えているのは、重々承知している。
それでも俺は、確信していた。
佐々木心音は――孝春兄ちゃんと有朱さんが手塩にかけて育てた、あの娘は。
ここねは、俺の女だ。
俺は何一つ、やましいことをしているつもりはなかった。
ただ、突き動かされるどうしようもない衝動に、従っただけのこと。
この十二年間、一人の女性を強く想い、手に入れたいと願い続けた。ただ、それだけだ。
準備は整った。
あとはここね本人をこの部屋に連れてきて、用意した婚姻届にサインをさせるだけ。
逸る気持ちを押さえながら、迫りくるその日に備えて眠りについた。
そうして、運命の日がようやくやってきた。
俺がここねを娶ると決めた、彼女の十六歳の誕生日だ。
――あぁ、長かった。
ついに、ついにこの時が!
ごくりと生唾を飲み込み、ばくばくと心臓を大きく高鳴らせながら。
俺は暗がりに身を隠しながら、そっと足音を立てないように、気づかれないように、下校中のここねの背後へと近づく。
ここねの行動パターンも、この日のためにしっかりリサーチ済みだ。
部活で遅くなった日は、危ないから友達と近くの駅まで一緒に歩いて帰る。
その後一人になると、街灯も人気も少ないこの場所を突っ切って近道するのだ。
徒歩数分もないこの暗く細い道を過ぎると、家のすぐ目の前に出るから、ここね自身危ない目に遭うわけがないと油断しきっていることも知っている。
そこを狙って俺は、ここねを――……。
何せ俺は、今日まで十二年も待ったのだ。
ここねが十六歳になる、この日を。
俺はずっと、ずっと。
何もかもを我慢して、今か今かと待ち続けていたのだから!
――迎えに来たよ、ここね。
これからは、俺と二人きりで、いつまでも暮らそうね。
「ここね、久しぶり」
俺の声はあの日のように、震えて上ずってしまったかもしれない。
緊張ももちろんあるけれど、ようやく彼女を迎えに来れたという、達成感と高揚感の方が強い。
「――え?」
鳥のさえずりかと紛うほどに、美しい声を出し。
ぴたりと足を止め、振り返ろうとするここねを――愛おしい、俺だけの女を。
俺は後ろから、羽交い絞めにする勢いで強く抱きしめたのだった。