第一話⑥
私は喜友名くんの怪我の手当を続ける。
ようやく血が止まった。
ちゃんとした処置の仕方は分からないのだけれど、とにかく絆創膏を貼ってその上から包帯を巻いていく。
「んっと、応急処置ってこれでいいのかしら……」
「……ふふ。大袈裟ですよ、先輩。そこまで丁寧にしてくれなくても軽い切り傷だけなんですから」
「だ、だって心配だし……」
手当を終えたところで、シュノーケリングツアーを案内していた夏海さんが、ご家族連れと一緒に戻ってきた。
親指の付け根に包帯を巻かれた彼に気付く。
「み、湊人、どうしたの⁉︎」
「ゴマモンガラがいたんだ。60〜70センチくらいのかなり大きなやつ。そいつにやられた。と言っても怪我は大したことないから心配しないでいい」
夏海さんが私に顔を向ける。
「お姉さんは大丈夫でしたか⁉︎」
「私? 私は大丈夫。……喜友名くんがちゃんと守ってくれたから」
慌てていた夏海さんが、安堵の息を吐いた。
「ふぅ……。だったら良かったです。でもゴマモンガラが出ちゃったかぁ。あちゃー、この辺りはしばらくツアー禁止ですね。ほかの業者さんにも情報回しておかないとなぁ」
「あの魚ってそんなに危険なの?」
「危険ですよー! ダイバーによっては鮫より怖いって言ったりしますし」
「……ひぇぇ」
喜友名くんってば、そんな恐ろしい魚と戦ってくれたのか。
なんでも夏海さんが言うには横方向にしか縄張り意識を持たない多くの魚と異なり、ゴマモンガラは縦にも縄張りを広げるらしい。
だからシュノーケリングで水面付近を泳いでいるだけでも、産卵期のゴマモンガラの巣に差し掛かると海底から打ち上げロケットみたいに突進してくるとのこと。
強靭な歯で指や耳を齧られたなんて話もあるとか。
でもきっと向こうも必死なんだろう。
ともかく喜友名くんの怪我が軽くて良かった。
◇
少し休憩をしてから、夏海さんがあちらのご家族と私に向けて話しかけてきた。
「皆さん石垣島の海は楽しめたでしょうか? 体験ダイビングのほうでちょっとトラブルがあったようですが、今回のツアーが皆さんの旅の良い思い出になってくれたら嬉しいです」
うん。
とても楽しかった。
東京から石垣島にやってきた初日から、さっそくこんな良い思い出が作れるとは考えていなかった。
それもこれも喜友名くんのおかげだと思う。
私はちらりと彼を流し見る。
「また機会がありましたら、与那覇マリンスクールをどうぞご贔屓に。それでは陸に戻りましょう!」
最後に少し微笑ましくも商魂のたくましいところを見せた夏海さんは、にっこり私たちに笑いかけてから小型ボートの操縦席に向かった。
◇
行きと同じように、帰りも彼と対面した位置でボートの縁に腰掛けながら、考える。
このまま何もせず陸に戻れば、喜友名くんとはそれっきりお別れになるに違いない。
でもそんなのは寂しい。
もし今ここで、私が彼に直接明日のツアーも案内して欲しいと申し込めば、また会えるのだろうか。
尋ねてみよう。
「ね、ねえ、喜友名くん。もしもだよ? もしも明日も喜友名くんにツアーをお願いしたいって言ったら、案内してくれるのかな?」
ちょっと緊張しながら返事を待つ。
「いや、それは無理です」
即答だった。
目の前が暗くなっていく。
自分でも予想していなかったほど大きなショックを受けてしまい、私はそのことにますます動揺を募らせる。
「……先輩? どうしたんですか、先輩? もしかしてボートに酔いました?」
喜友名くんが私の目の前で手を振っていた。
意識を引き戻される。
少し呆然としていたようだ。
「……あ、ご、ごめんなさい。……大丈夫、私は大丈夫だから……!」
私はなにが大丈夫なのかも分からないまま、いつもみたいに虚勢を張った。
これは私の悪い癖だ。
「船酔いじゃないなら良かったです。それでいまの話なんだけど、実は俺、ここの正式なインストラクターって訳じゃないんですよ。普段は別の仕事をしていて――」
喜友名くんが自分の荷物を手繰り寄せ、そこから名刺入れを取り出した。
「今日は夏海のやつに呼ばれて手伝いに来たけど、いつもは俺、こっちにいます」
ああ、そういうことだったのか。
今日の彼は、私が直前に予約を入れたせいで急遽ヘルプで呼ばれたのだろう。
明日はここでインストラクターはしていないから案内は無理なのだ。
私に会いたくないとか、そんなことじゃない。
私はホッと胸を撫で下ろしながら、受け取った名刺を眺める。
そこには『BAR南風』と書かれてあった。
「……みなみかぜ?」
「いや、それで『ぱいかじ』って読みます。沖縄の言葉なんですけどね。こっちだと南から吹く風は幸運を連れてくるって言い伝えがあるから、それにあやかった店名です」
手にした名刺に引き続き目を落とし、書かれた文字を読んでいく。
へぇ、喜友名くんバーで働いてるのか。
営業時間は18時から23時。
水曜日の今日は定休日みたいだけど、明日は営業している。
なら明日このお店にいけば、また彼に会えるのだ。
……良かった。
これっきりじゃない。
私は受け取った名刺を大切にしまい、バッグを元の場所に戻そうと立ち上がる。
するとちょうどその時、南の方角から強い風が吹いた。
「きゃっ」
「……っと」
よろめいた私を喜友名くんが咄嗟に支えてくれる。
「あ、ありがとう」
「ちょうどいまのが『南風』です。この風が、先輩に幸せを運んできてくれますように」
私は肩を支えられながら、思う。
南風の言い伝えは本当かも知れない。
だって今も心臓がドキドキして、胸がこんなにも暖かいんだから……。
喜友名くんが私を見つめながらクスリと笑った。
「……ふふ。なんだか俺、今日は先輩を支えてばっかりだ。でも嬉しいです」
彼が私から目を逸らしつつはにかむ。
「だって、少し意味合いは違うけど、以前東京で一緒に働いてた頃から、俺、先輩の支えになりたいってずっと思ってたから……」
喜友名くんがもう一度私を見つめた。
熱のこもった吐息をはいてから、ぽつりと呟く。
「……先輩、俺、待ってます」