第一話④
ダイビング用のスーツに着替えた私は、マリンスクール与那覇のロゴが描かれたボートに乗って沖に向かっていた。
モーター音を響かせながら高速で進むボートが、時折り波に乗り上げては、直後にドスンと海面に落ちる衝撃をお尻に伝えてくる。
なんだか遊園地のアトラクションみたいで、ちょっと楽しい。
私はボートの縁に腰掛け、吹き付けてくる風に髪を押さえながら景色を見渡す。
遮蔽物なんて何もなく、視界いっぱい見渡す限りパノラマに広がった綺麗な海。
空から降り注ぐ真夏の日差しが、波打つ水面にキラキラと反射している。
なんとも幻想的な風景だ。
沖縄の海は実際に近くで眺めると実はエメラルドグリーン一色という訳ではなく、ところどころ青色だったり新緑色だったりと様々な色合いで目を楽しませてくれる。
この色の変化はなんでも水深や海底の砂や水温なんかの違いによるものらしい。
私は自分を誤魔化すみたいにそんな雑学を思い起こしながら、遠くの美しい景色を眺め続ける。
というか近くが見れない。
だって私の対面のすぐそこに、喜友名くんが座っているものだから、前を見ることが出来ないのだ。
胸がドキドキする。
さっきからずっと頬が赤くなったままなのが自覚できる。
でも仕方ないと思う。
それもこれも、すべて喜友名くんのせいなのだ。
私は今しがた、彼にキスされそうになったことを思い返す。
……びっくりした、本当に。
いまだに心臓がうるさいくらいにバクバクしているほどだ。
とはいえ嫌ではなかった。
だって喜友名くんは年下だけどかっこいいし、抱擁力とかもありそうだし、けれども年相応に狼狽える姿はなんだか可愛いし。
私は海を眺めるフリをしながら、私と同じく遠くに視線を向けている彼をチラリと横目で見る。
風に靡く自然な色合いの黒髪。
キリッとして格好の良い横顔。
けれども彼の褐色に焼けた頬も少し赤みを帯びている気がするから、もしかすると喜友名くんも照れてるのかも知れない。
そう思うとまた胸がドキドキしてきた。
こんなときめき、いつ以来だろう。
私はひっそりと心臓に手をあてて、早鐘を打つ鼓動を抑える。
「……先輩」
ようやく落ち着いてきたところで、声を掛けられた。
いつの間にか喜友名くんが私を見ていた。
「――っ⁉︎ ひゃ、ひゃい!」
うわっ、最悪だ。
いま思いっ切り声がひっくり返った!
カァッと顔が赤くなる。
「……その髪、どうしたんですか?」
「あ、ああこれ? 切ったの!」
短く受け答えする。
私は退職を機に、あの会社での嫌な思い出を振り払うように伸ばしていた髪をばっさりと切っていた。
「ど、どうかな? 気分を変えてレイヤーボブにして色も明るくしてみたんだけど。へ、変かな?」
喜友名くんがまた視線を逸らし、照れ隠しのように鼻の頭を指でかく。
「変じゃないですよ。……その、なんというか、前のも良かったけど、先輩は綺麗だけど可愛いから、こっちの髪型も似合ってる」
「ふぇ⁉︎」
か、可愛いって言われた⁉︎
それに綺麗って!
聞き間違いじゃないよね?
◇
あまりにもドキドキし過ぎて返す言葉に詰まっていると、沖の手前でモーター音が鳴り止んだ。
ボートを停泊させた夏海さんが、操縦席からやってくる。
かと思うと喜友名くんに食って掛かった。
「あー! また湊人がお姉さんに色目を使ってる!」
「はぁ? 色目っていきなり何なんだお前は」
「だっていま、お姉さんのこと口説こうとしてたじゃない。お客さんにそんなことするなんて、うちのお店の信用も考えてよね!」
夏海さんは怒りながらも、喜友名くんと随分親しげな様子だ。
二人は一体どういう関係なんだろう。
年も同じくらいみたいだし、もしかすると恋人同士だったりするのだろうか。
なぜか一抹の寂しさを感じる。
「湊人ってば、いままでナンパなんて一度もしたことなかったのに、急にどうしたのさー? ま、まさか一目惚れなんて言わないでよね。だって湊人にはあたしが――」
「……宵町先輩は、前に俺が東京で働いてたときの会社の先輩なんだよ」
「はえ? え、そうなの?」
「ああ、そうなの。ほら、わかったらお前はあっち行け。シュノーケルのお客さんが待ってるだろ。放っておいていいのか?」
「あっ、そうだった!」
狭いボートの上を夏海さんがバタバタと移動していった。
私はその後ろ姿を見送る。
「夏海さん、元気で可愛いひとだね。もしかして喜友名くんの彼女?」
「……そんなんじゃないですよ」
思い違いかも知れないけれども、いま喜友名くんがムッとした気がする。
あまり聞いてはいけない話題なのだろうか。
「そんなことより先輩、体験ダイビングの説明をしますよ」
「あ、うん。お願いします。というか体験ダイビングってここでやるんだ? 私、もっと沖まで出るのかと思ってた」
「沖のほうは水深があって危ないですからね。ここは深さ五メートルくらいだけど、初めてのひとにはこれくらいが丁度いいんです」
なんでも喜友名くんが言うには、ライセンスなしの体験ダイビングで潜ることのできる水深は十二メートルまでと定められているらしい。
とは言っても初心者がいきなり最大深度まで潜るのは無謀で、万一のトラブルを想定しても五メートルくらいが良いとのこと。
「でもがっかりしないで下さい。五メートルでも実際に潜ると思ったより深く感じるものだし、これくらいの水深だと珊瑚も多くて綺麗だから」
引き続き、器材の説明や耳抜きのやり方、水中での意思疎通に使うハンドサインのレクチャーを受ける。
喜友名くんは特にトラブルがあった際の説明を念入りにしてきた。
「水中で少しでも異変を感じたら、すぐに伝えて下さい。俺がずっとそばにいます。絶対に先輩を危険な目に合わせたりしませんから」
「う、うん。ありがとう」
熱のこもったセリフに、ダイビングでの話だとわかっていてもドキドキしてしまう。
きっと顔も赤くなってる。
私ってこんな赤面症だったかなぁ。
「さあ、それじゃあ潜る前に練習です。ボートから海に降りて、はしごを掴みながら水面に顔を……」
喜友名くんが言葉を区切った。
なぜか言い直す。
「……潜る前に練習です。海に降りたら手を伸ばして下さい。俺がここで先輩の手を握ってるから、ゆっくりと水面に顔をつけてみましょう」
「え? て、手を握るの⁉︎」
というか、いまはしごを掴んでって言いかけたよね?
「……はい。その方が安全だし、俺は先輩の手を絶対に離さないから」
なぜだろう。
これは体験ダイビングの説明だと言うのに、なぜか喜友名くんに口説かれているような気分になってしまう。
まるで愛の言葉でも囁かれているみたいな……。
って違う違う。
これはレクチャーだ。
きっと彼の言う通り、より安全なようにとの配慮なのだ。
私はふるふると首を振って、頭に浮かびかけた淡い想いを振り払う。
「……先輩? 水に浸かって」
「は、はい……」
言われた通り、水面にそっと爪先をつける。
そのままトポンと海に降りた。
さっきから火照りっぱなしの身体に、冷たい海水が心地よい。
「さぁ、先輩。手を出して」
おっかなびっくり手を差し出す。
すると喜友名くんは、大きく熱い手のひらでギュッと私の手を握った。