第一話②
石垣島へと向かう飛行機のなかでうとうとしていた私は、間もなく到着との機内アナウンスで目を覚ました。
なんだか嫌な夢をみていた気がする。
あの上司や同僚たちの夢だ。
けれども退職してしばしの自由を満喫できる身になったのを機に、せっかく石垣島で羽を伸ばすことにしたのである。
もう私とは無関係になったあんな人たちのことなんて気にしていては勿体ない。
私はこの旅行でしっかり遊んで、気持ちを切り替えてから、次の仕事探しに励むつもりだった。
「……ん、んんー。……ふわぁ……」
軽く伸びをしてから控えめに欠伸をする。
まだぼーっとする頭を振って、脳裏にこびりついた嫌な思い出を振り払う。
するとその拍子に思い出したことがあった。
「っと、そう言えば喜友名くんっていたなぁ。あの子、たしか沖縄の出身だって言ってたわよね……」
喜友名湊人。
彼は私よりも三年遅れであの住宅メーカーに入社し、営業部に配属されてきた新卒の社員だった。
上背があってぱっと見では少し素っ気ないけど、細やかな心配りの出来る男の子だったと記憶している。
男性について良い思い出がないあそこで、唯一喜友名くんにだけは嫌な記憶がない。
「……でも、振っちゃったんだよねぇ」
実は喜友名くんは、以前私に告白をしてきたことがある。
たしか無理をしている私を見ていられないとか、支えになりたいとか、そんな風に言ってくれていたと思う。
でも当時、男性に対して意固地になっていた私は、彼からの交際の申し出を反射的にお断りしてしまったのだ。
「うー。あれは勿体なかった気がするぞ……」
思い返せば返すほど失敗したような気がする。
だって喜友名くんはいわゆるイケメンだ。
事務の女の子たちが騒いでたのだって知っている。
それなのに彼には気取ったところはなく、いつも自然体で優しい。
そんな男の子だったのだ。
加えて三歳年下。
これは働き尽くめでいつの間にかアラサー女子となってしまっていた、どちらかと言えば年下好みな私にとってかなりポイントの高い要素である。
「……はぁぁ、やっぱり勿体なかったな……」
交際を断ると、喜友名くんはすぐに会社を退職して沖縄に帰ってしまった。
なんでも彼は、都会を知りたくて上京してきたはいいけど、喧騒に塗れた時間に追われる日常に馴染めず、またあんな会社にも未練はなかったらしい。
「ふふっ。もしかして旅先で喜友名くんに会っちゃったりして……」
そうだとちょっと嬉しい。
けどまさかそんな偶然もあるまいか。
楽しい妄想を膨らませていると、また機内アナウンスが流れてきた。
『――当機は、もう間もなく新石垣空港に着陸致します。着陸に備えまして、皆さまお手元の荷物は棚などにしっかりと固定し――』
倒していた座席を起こし、シートベルトを閉めて飛行機のまどから眼下を見下ろす。
そこに広がる美しい島と海の風景に、私は胸を躍らせた。
◇
飛行機を降りた私は、ベルトコンベアから流れてきたトランクケースを受け取り、新しくなった空港を見て回る。
2013年に開港してから十年経っていない新石垣島空港はまだ真新しい。
到着ロビーを抜けたすぐ先には、飲食店や土産もの屋さんが所狭しと並んでいた。
「あ……。この音楽……」
どこからか、琉球民謡の風情あるBGMが聴こえてきた。
思わず足を止めて、耳を傾ける。
三線の弦から奏でられたベンベンと鳴る独特な響き……。
沖縄を感じさせる音色だ。
癒しの音楽がゆっくりと流れるのを聴いていると、少し気分が上がってきた。
うずうずしてしまう。
なんだかこう、一刻も早く石垣島の空気を直接この肌に感じたい。
私はエントランスに集まったたくさんの観光客の合間を縫って急ぎ足で歩き、空港の外に出た。
その途端――
「…………んっ」
太陽の光が燦々と降り注ぐ。
私は軽く声を漏らし、手のひらを頭上に翳した。
手の甲まで赤く透けて見えるような強い日差し。
どこからか潮風が吹いてきた。
かと思うと真夏の石垣島にふさわしい強烈な熱気が足もとから這い上がってきて、空調で冷えた身体に容赦なく襲い掛かってくる。
でもそれがとても心地よい。
私はしばらくの間、久しぶりに訪れた石垣島の空気を肌で堪能してから、細めていた目を元通りに開き背後を振り返った。
今しがた出てきた空港に視線を向けると飾られていたシーサーと目が合った。
満面の笑顔でこちらを見返すシーサーが、快く私を迎えてくれた気がした。
◇
空港発のバスに乗り、三十分ほど掛けて『離島ターミナル』へと向かう。
ここ八重山諸島は石垣島を中心に、竹富島、黒島、小浜島、西表島などの離島の集まりなのだけれど、どの島に渡るにも通常、高速船を使うことになる。
だからその船の発着地で各島への玄関口となる離島ターミナルの周辺には人が集まり栄えているのだ。
私が宿泊する予定のホテルは、ターミナルを中心とした市街地の端っこにあった。
ホテル付近にバス停はないから、市街でバスを降りたあとはタクシーに乗り継ぐ必要があるだろう。
◇
目的地の離島ターミナルに到着した。
現在時刻は13時を少し回ったところ。
そろそろお腹の空く頃合いである。
ホテルに向かう前に食事を済ませておこう。
バスを降りた私は、キョロキョロと辺りを見回す。
たしかこの辺りにも食堂があったと思うのだけど……。
大学時代に友人たちと訪れた際の朧げな記憶を頼りに、陽の光が照り返すアスファルト舗装の歩道を歩いて行く。
するとすぐに一軒の食堂が見えてきた。
「……ごめんくださぁーい」
控えめに声を掛けてから暖簾をくぐり、冷房の効いた店内にお邪魔する。
すぐに店員さんらしき女性が寄ってきた。
二十代半ばくらいで、沖縄のひとらしく目鼻立ちのはっきりとした可愛らしい女性だ。
「いらっしゃいませー! お一人様ですか?」
「はい。そうです」
「では、こちらのお席どうぞー」
2名用テーブル席に案内される。
腰をおろした私は店内を見回した。
地元民と思わしき方々や旅行客で半分くらい席が埋まっている。
昼時を微妙に過ぎた時間でこの客入りなのだから、人気店なのかもしれない。
そんな風に思いながら、私はさっそくラミネート加工された手書きの可愛らしいお品書きに手を伸ばした。
右から左に目を動かしながら、メニューを吟味する。
ゴーヤーチャンプルー定食。
ソーメンチャンプルー定食。
ラフテー定食。
タコライス。
どれも実に沖縄らしくて魅力的だ。
中でも一際私の目を引いたメニューは『八重山そば』だった。
以前旅行に来たときも、私はこのおそばが気に入って滞在中何度も食べた思い出が蘇る。
よし、これにしよう。
「すみませーん。注文をお願いしますー」
手をあげてさっきの店員さんを呼び、オーダーを通す。
程なくすると八重山そばが運ばれてきた。
淡く琥珀色に透き通ったスープがお椀の中でキラキラと輝いている。
湯気と一緒に香ってくる鰹だしの風味を堪能しつつ、私はお箸を手に取った。
「これこれ。いい香り。頂きまぁす」
割ったお箸をスープに沈め、軽く麺をほぐす。
そのまま姿勢を前に傾けた私は、ハラリと落ちてきた髪を左手の薬指で耳にかけ、ふぅふぅと吐息を吹きかけてから、まずはレンゲで掬ったスープを啜った。
熱いスープがするすると口内に入ってきて、舌に染みる。
「……んっ」
小さく声が漏れた。
それと同時に熱々のスープが舌から口いっぱいに広がっていく。
この味は、鰹以外に豚骨でも出汁をとっているのだろうか。
八重山そばのスープの味わいは、さっぱりしながらも何とも複雑だ。
刻んだ紅生姜も良い刺激になっている。
私はたっぷりとスープの旨みを堪能してから、今度は麺を掬い上げてずずっと啜った。
もぐもぐと咀嚼する。
奥歯にもちもちとした食感を覚えながら噛み締める。
すると弾力のある麺がぷつんっと千切れる気味の良い歯触りがしたかと思うと、小麦粉の風味がふわっと口内にひろがった。
鼻からすっと抜けていく。
これはうどんと中華麺のいいとこ取りをしたような麺だ。
こんなもの美味しいに決まっている。
次は麺とお肉を一緒に食べてみよう。
八重山そばに添えられたソーキ肉は、沖縄そばのそれと違って細切りにされている。
好みの問題ではあると思うが、私はこっちの方が食べやすくて好きだ。
お肉と麺をまとめて口に放り込む。
砂糖醤油で甘辛く煮付けられた蕩けるように柔らかな豚肉から噛むほどに味が染み出し、薄味のスープや麺の素朴な小麦粉の味わいに馴染んでいく。
口の中で一緒くたになったそれらの旨みに得もいわれぬ満足感を覚える。
夢中になって食べていると、あっという間に完食してしまっていた。
◇
「ふぅー、美味しかったぁ!」
箸を置き、くちくなったお腹をひっそりとさする。
いわゆるジャスミンティーの沖縄的な呼び名である『さんぴん茶』で口に残った後味を洗い流すと、メニュー表にチラッと見えた『オリオンビール』の文字にお酒女子としての欲求を刺激されるも、ここは我慢我慢。
楽しみは夜まで取っておくから良いのだ。
私は伝票を手にして席を立った。
「ごちそうさまです。お会計お願いします」
「はぁい、ありがとうございますー! お姉さん、お一人でご旅行ですか?」
さっきの元気な店員の女性が、レジを打ちながら話しかけてきた。
「ええ。さっきついたばかりなんです」
「石垣島は初めて?」
「いいえ。学生の頃に来たことがあるからこれで2度目なの」
「そうなんですか。じゃあ今回も楽しんで行ってくださいね! お会計、こちらになります」
にこりと可愛い笑顔が向けられてきた。
私も微笑み返してから、お代を支払ってお財布をバッグに戻す。
店の玄関に手を掛けたところで、さっきの店員さんと年配の女将さんが話す声が聞こえてきた。
「夏海ちゃん、夏海ちゃん」
この可愛らしい店員さんは夏海さんというのか。
「お昼の忙しい時間も過ぎたし、もう上がってええよ。午後も他の仕事が詰まっとるんやろ?」
「あ、はい。じゃあお言葉に甘えて!」
背中越しに二人の会話を聞き流す。
私はそのままガラガラと玄関を開け、再び真夏の南の島へと足を踏み出した。