第一話①
蝉が忙しなく鳴いていた。
今年の夏も連日茹だるような猛暑続きだ。
ガラス窓の向こうから差し込んでくる眩い朝陽に目を細める。
抜けるように高い空を背にしてもくもくと大きく育った入道雲が、色鮮やかな紺碧によく映える。
部屋の中から窓越しにそれを見上げていた私こと宵町詩は、しばらくその夏めいた朝の景色を堪能してから、視線を手もとに戻した。
スマートフォンの着信メッセージを眺めると、昔馴染みの友人である垂井乃江の名前が表示されている。
『おはよー、詩。飛行機、朝の便だっけ? あーん、沖縄羨ましい! 仕事の休みさえ取れれば一緒に行きたかったなぁ……。あたしのぶんまで楽しんで来なさいよ!』
朝から元気いっぱいな文面にくすりと微笑む。
いまから楽しみにしていた旅行だ。
行き先は夏真っ盛りの沖縄県は八重山地方、石垣島。
乃江ちゃんはこうして私が一人旅を計画するに至った経緯を知っているから、気を使ってメッセージをくれたのだろう。
相変わらず友だち甲斐のある良い子である。
『うん。乃江ちゃんのぶんまで楽しんで、しっかり気分転換してくる! お土産買ってくるから楽しみにしててね』
返事を打ってから旅支度を再開する。
うちの冷房は、年式が古くなっていまいち効きが悪い。
私は大きく開いたトランクケースの中身を点検しながら、額にじんわりと浮かんだ汗を拭う。
「……ふぅ。えっと日焼け止めはさっき入れたよね。アームカバーも帽子もサングラスも準備したし、紫外線対策はこれでオッケーとして、あとは――」
丁寧にひとつずつ指差しながら荷物を確認していく。
「よし! 忘れ物はなし」
確認を終えた私は、最後にガスの元栓や戸締りを確認し、電気のブレーカーを落とした。
さぁ出発だ。
三泊分の荷物が詰め込まれた少し重たいトランクケースを引きずりつつ玄関に向かう。
鉄製の重いドアを開けると、途端に外からむわっと熱気が押し寄せてきた。
「うわー、あっつい!」
思わず顔を顰める。
「ホント、朝から嫌んなるくらい暑いなぁ……」
また汗が滲んできた。
せっかく綺麗に塗ったばかりのファンデーションがもう崩れてしまうのは勘弁だ。
細心の注意を払いつつ額を拭う。
「はぁ、暑い。……でもまぁそれが夏なんだし、愚痴ってても仕方ないわよね」
だってきっと沖縄はもっと暑いのだし。
そういえばあっちの方はここ東京みたいな都会と違って空気がカラッと乾燥しているから、体感温度としてはむしろ涼しいとよく聞く。
まぁ実際にはこの話は誤りで、亜熱帯に属する沖縄の湿度はむしろ東京より断然高い。
とは言え体感では向こうのほうが過ごしやすいのはたしかなのだ。
以前、大学の夏休みに友人たちと石垣島を訪れたことのある私はそのことを知っていた。
もしかすると涼しく感じるのは、あの視界いっぱいに開けた爽快なパノラマ風景や、エメラルドグリーンの綺麗な海からそよいで来る優しい潮風のおかげだろうか。
そんな風に旅先に想いを馳せながら、これから始まる旅行への期待に胸を膨らませる。
私はトランクケースを引きながら、マンションのエントランスから通りに出て空港に向かった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
私はつい先日、勤めていた会社を自主退職した。
新卒だった頃から二十八歳の現在まで六年間。
身を粉にして働いてきたその会社を辞めた理由は、男性の上司や同僚たちの女性軽視だった。
退職した勤め先は中堅どころの住宅メーカーで、私はそこで営業の仕事をしていた。
自分で言うのも何だけど、入社して割合すぐに仕事を覚えた私は、シビアな営業ノルマもしっかりとこなし、残業も苦にせず真面目に働き続けてきた。
評価に値する働きぶりだったと思う。
けれども出世するのは男性ばかりだった。
同期入社の男性社員はもちろん後から入社してきた後輩までもが、ただ男性であるという理由だけで私よりも早く出世していく。
営業成績はこちらの方が良いにも関わらずだ。
溜まりかねた私は大学時代の女友達に愚痴をこぼしたこともある。
するとその友人たちからは転職を勧められたけれども、それでも私はがんばった。
きっと意地になっていたんだと思う。
いまの世の中、女性だって真面目に働いていれば、きっと認められる。
だからそれまで頑張ってみせる、なんて考えていた。
けれども私は聞いてしまったのだ。
上司や同僚たち、男性社員たちの本音を――
◇
その日、私は仕事帰りにいきつけの居酒屋に立ち寄っていた。
そのお店は居酒屋ではあるけれども小綺麗にしていてアットホームな雰囲気があり、お一人様の女性客も珍しくないようなお店だ。
割とお酒を好む私は、いつの頃からかそこで美味しい肴を摘みお酒を嗜みながら日々の疲れを癒すようになっていた。
けど、その日はタイミングが悪かった。
私がカウンターの端っこの目立たない席で、一人ちみちみとお酒を楽しんでいると、上司や同僚たちが後からお店にやってきたのである。
私は自分が一人で飲んでいる姿を見られることに抵抗を感じて、顔を伏せた。
上司たちは私には気付かず、カウンターから少し離れたテーブル席に陣取った。
ついさっきまで仕事をしていた私と違って、もう二軒目らしい彼らはすでに酔っ払っている。
必要以上に声が大きい。
カウンター席まで楽に届く大声でオーダーを通した上司たちは、さほど声のボリュームも落とさずに雑談に興じ始める。
話の内容は、私についてだった。
「で、さっきの話の続きなんですけどね。宵町のやつは何というかとっつき難いんですよ!」
「そうそう。女の癖に偉そうっていうか」
「わかるわかる! 男に対する態度ってのがなってないよなぁ」
同僚の男性たちが私のことを悪様に言いながら笑っている。
けれども私には思い当たる節がない。
それもそのはずだ。
だって私はいつでも誰にでも柔らかな物腰で接するよう、気をつけてきた。
この同僚たちの言い分はただの難癖に思える。
「ったく、事務の子たちは可愛いのになぁ。宵町はダメだ。女らしさがないよ」
「あいつ調子に乗ってるんじゃないっすかねー? ちょっと俺たちより営業成績が良いからって!」
この言葉に同僚たちの本音が集約されていた。
つまり彼らは単純に自分より成果を上げている営業職の女性に嫉妬しているだけなのだ。
私は飲みかけのグラスをそっとテーブルに置いた。
ただ頑張って働いてきただけなのに、裏ではこんな風に言われていただなんて……。
俯き、力なく項垂れる。
そんな私の存在にも気付かず、男性社員たちの悪口はエスカレートしていく。
「あいつ、もしかして身体でも使って仕事を取ってきてるんじゃないですかね? 生意気だけど顔だけはまぁまぁだし」
「ははは! あり得るな!」
泣きそうになった。
自分はこんな会社で、一体なんのために今まで頑張って来たんだろう。
わからない……。
心が急速に冷え込んでいく。
「こら、お前ら。騒ぎすぎだぞ」
騒ぐ同僚たちを上司が諌めた。
けれども同じく男性である上司も、彼らと変わりはしない。
いやむしろ酷くすらあった。
「お前らが宵町のことを良く思っていないのは、よくわかった。……実はな、俺も同じことを思っていた。この住宅業界ってのはな、言わば男の業界だ。女なんかがズケズケと土足で入り込んでいい世界じゃない。だがこれは女性差別じゃない。区別だ。わかるか?」
男性社員たちは上司の言葉に耳を傾け、うんうんと頷いている。
上司の話は続く。
「だからな、俺は今まで宵町がいくら良い成績を上げても昇進させなかった。これからもそのつもりはない。最初から女には期待していないからな。だがその分、お前ら男どもにはしっかりと働いてもらうぞ? さぁわかったら今日はじゃんじゃん飲め! 俺の奢りだ!」
同僚たちから拍手喝采が巻き起こった。
彼らが楽しそうに笑う声を聞きながら、俯いたままの私の頬を幾筋もの涙が伝う。
張り詰めていた心は、すでにぽっきりと折れてしまっていた。
そうして翌日、私は上司に辞表を提出したのだった。