八、忌み名と三人の会話です
八
沈む、沈む。
まどかの意識は静かにおりていく。真っ暗なようで真っ白なような、無意識のなかに溶け込んでいく。
しかし、その耳は体は、外界の音をこぼさずまどかに届ける。
まどかに目覚めた霊力は、まどかの五感を研ぎ澄ました。
「黒雲。なぜあのようなことを言ったのです」
そうきりだしたのは晴明である。
まどかを寝所の布団に横たわらせ、その傍らで三人での話し合いが持たれた。
黒雲は少しだけ唇を尖らせている。年相応の反応に、まどかはわすかばかり驚いた。
「晴明さまが、あの巫女を特別扱いするゆえ、巫女として自覚させるべきと思いました」
「黒雲。そなたもわかっていると思いますが、まどかどのの世界には霊力はおろか、九十九神すらいません」
「だから、甘やかすのですか」
やはり、まどかの住む世界――未来では、霊力などは存在していなかったようだ。だからこそ、まどかは自分が巫女だという確信を持てなかった。
あの、暴走をみるまでは。
まどか自身も半信半疑であった。なぜまどかが巫女なのか、この世界にはなぜ九十九神や霊力が存在するのか。
「うらを返せば、まどかどのの世界に霊力がないということは、この時代……あるいはもう少しあとの時代で、巫女が呪いを解いたということになります」
晴明の言葉に、黒雲はぐっと黙りこんだ。認めたくないのだろう、その事実から目を背けるように、反論する。
「でも、それがあの巫女とは限らないでしょう?」
「黒雲。自分の予言を覆すのかい? そなたは先ほど、『皇子の呪いは解ける』そう言いましたね?」
墓穴を掘った。
しかし、確かに黒雲はみた。誰がなにをしたのかまでははっきりとは見えなかったものの、皇子が呪いから解き放たれて、長く長い生をまっとうする予言だ。
しかし、その予言にまどかが関わる以上、まどかに関する部分はまったく見えない。まどかの潜在的な霊力は黒雲をはるかにしのぐ。ゆえに、黒雲の予言では干渉できない。
それでも、少ない情報からでも黒雲にはわかった。まどかがこの呪いを終わらせるのだと。
「私は反対です。あの巫女は頼りない。聞けば、次の新月には帰るのでしょう?」
いつもは従順な黒雲が、食い下がることに晴明は少しばかり目をみはった。
黒雲は自主的に動くことがない、控えめで流動的な少女だと、晴明は感じていた。しかしどうだ。まどかがこの世界に来てから、黒雲は自分から星読みをし、それどころか晴明を言い負かせようとしてくる。
「俺も、あの巫女は信用ならん。見たか? まるで力を制御できてなかった」
はっと鼻で笑う皇子は、黒雲を後援するかのようだ。
皇子の黒雲に対する気持ちに、まどかはなんとなく気づいていたが、どうやら皇子は黒雲に特別な感情を抱いている。
それが崇拝なのか恋慕かはさておいて、どうにもまどかの居場所はないようだ。
「それに。晴明さまの『諱』の支配がなければ、あの巫女は今ごろ都ごと消しとんでいましたよ?」
いみな、とはなんであろうか。
眠りながら、まどかは頭を回転させる。
いみな。忌み名。なにか、霊的なものと関係がありそうな名前だ。
「そうですね。しかし、諱は、相手より霊力が高くなければ、その名を呼んで支配することは不可能です」
「なれば。晴明さま。晴明さまはなぜ、あの巫女に諱を教えたのですか」
諱、つまり安部晴明という名前が、その諱というものらしい。
となれば、黒雲という名前は、諱ではないことを示している。
そこから察するに、平安の人間には諱と呼び名、ふたつの名前が存在するようだ。
「諱を知られることは、相手に支配されること。いくら晴明さまとはいえ、あのような素性の知れぬひとに諱を教えるなんて……」
「それは俺も賛成だな。晴明、オマエは俺にとっても頼みの綱だ。なにかあったらどうする?」
悪用する前提の話しぶりに、まどかは自分が歓迎されていないことを悟った。ならば、それならば、次の新月で未来に帰ったって、誰も困らないはず。誰もまどかを引き留めないはず。
「まどかどのが、そういうかたに見えますか?」
晴明の声はいつだって穏やかだ。この声で名前を呼ばれると、まどかはどうにも逆らえない。それが『いみな』の支配なのだとしても、別にそれで構わないとさえ思う。
「まどかどのが霊力を悪用し、わたしを、皇子さまを黒雲を。まわりの人間を陥れるように見えますか」
皇子も黒雲も黙り混む。
もしまどかが本気でそうしようとしたのならば、皇子の料理にまどかしか知り得ない未来の知識の毒を盛れただろうし、それに、餓鬼の件だってそうだ。
自分をかえりみず餓鬼に向かい結界から走り出たと黒雲も聞いている。
単なるお人好しだとしても、その心根は、まさしく『慈愛』に溢れたひとだと、誰もが思ったに違いない。
「……アイツは、目覚めるんだろうな?」
皇子が帳の向こう側に眠るまどかに視線を寄越す。晴明はふっと笑い、「大丈夫です」と答える。
黒雲は不満げに晴明を見ていたが、確かにまどかには邪気を感じ取れなかった。微塵も。
普通、人間には多少なりともなりともよこしまな気持ちが存在するものだ。しかしまどかからは、そういったものは一切感じられなかった。
信じられない話ではあるが、まどかは生粋の巫女なのだ。巫女は身も心も清い人間が選ばれる。そう、黒雲とは違って、純粋無垢な人間が。