六、黒雲は実在するようです
六
食事を終えたまどかは、ひとまず晴明のもとへ行くことにした。先日は皇子が急に倒れ、その関係で晴明は自分の屋敷に帰らず、この寝所に泊まったのだ。
「私、晴明さんのところに行ってきます」
皇子に一応の断りを入れて、まどかは膳を片付けながら、なんの気なしに皇子に言った。だが、意外にも皇子はその言葉に反応した。
「晴明は、この御殿に泊まったのか?」
「……? はい」
膳をよいしょと持ち上げて、まどかは皇子を見下ろす形で返事をする。
それが面白くなかったのか、皇子は立ち上がるとまどかを見下ろす形をとって、そうしてもう一度、
「俺も晴明のところに行く」
「そうですか。ご自由になさればいいじゃないですか」
「……オマエも行くのであろう? ならば、ともに行ってやらんこともない」
遠回しな言いかたに、まどかは再び首をかしげる。しかし、言い返したら言い返したで面倒なことになりそうだったので、ここは快くその申し出を受け入れることにした。
膳を片付けたまどかと皇子は、晴明のもとに足を向ける。その間、ふたりに会話はない。
寝所は広く、晴明のところに着くまでに大分時間がかかった。
「晴明さん、おはようございます」
「まどかどの。皇子さままで……」
皇子を見るや、晴明は上座を退き、そこを皇子に譲った。皇子はさも当たり前のように上座に座ると、晴明のほうをちらりと見やる。
「今日は『黒雲』は来ないのか?」
だしぬけに問う皇子に対し、晴明は皇子にこうべを垂れながら、
「もう間もなく参ります」
恭しく答えた。
そのやり取りをはたから見ていたまどかは、今日何回目かもわからぬ疑問を抱く。
『黒雲』
先日の餓鬼の件で、皇子が呟いていた言葉だ。昨日の件は皇子の謀であったわけだから、皇子の言葉はすべて嘘だとまどかは思っていたのだが、どうやら『黒雲』なる人物は実在するようだ。
「あのぅ」
恐る恐るまどかが口を開く。
「なんだ」
皇子は相変わらずの口調でまどかに答えた。
「『黒雲』さん……っていうのは、誰なんですか?」
まどかのそれに、だが皇子は上機嫌に答える。
「『黒雲』は、晴明の弟子だ」
「弟子……!」
「ええ。まどかどのの兄弟子に当たりますね」
「あ、兄弟子……!」
急にふわんとまどかの胸が高鳴った。兄弟子という言葉もそうだが、自分が晴明の弟子として認められたことが、どこか妙な気分にさせる。
あの平安最強と言われた安倍晴明の弟子。なんのとりえもない自分が、そのようなたいそうな役目を仰せつかったことが、正直に言えば嬉しかった。
「黒雲さんって、どんなかたなんですか?」
「はんっ、オマエなど到底及ばぬ優秀な――」
皇子がわがことのように説明し始めた時であった。
ビリリリっとまどかの体に電気が走る。正確には電気が走ったわけではないのだが、体中がしびれるような――静電気がはじけるような――そんな感覚がまどかに突き刺さった。
そのしびれの元凶を、まどかは振り返った。
御殿の庭先に、ひとりの少女が立っていたのだ。その装束は巫女のものであるが、まどかのものと違って上下を黒色に身を包んでいる。
少女は烏の羽のように黒々とした髪の毛を後ろでひとつにくり、前髪はきれいに眉の高さで切りそろえられている。
切れ長の目は長いまつげで縁どられ、小さな唇は、しかし熟れた木苺のように赤くあでやかだ。
ほうっと皇子が息を吐き出すのが分かった。
だが、まどかはそれどころではない。
この感覚を、まどかは知っている。この、ビリっと体に走る衝撃は、『霊力』そのものだ。
つまり、彼女が晴明の弟子、『黒雲』であると気づくのに、そう時間はかからなかった。
「腐っても巫女なのですね。アナタは」
黒雲の小さな口が動く。
よくよく見れば、年のころはまどかより幾分か下である。十六、七ほどの幼い少女が、自分の兄弟子になるとは思いもしなかった。
だからといって、その実力は、おそらく今のまどかなど及ばないほどに上であることは嫌でもわかる。
「私の『予言』を跳ね返すなんて、生まれてこのかた初めてです」
黒雲は御殿の階段――きざはしを一歩一歩、気品のある歩き方で上がってくる。
晴明は微笑を携え、皇子のほうは見とれているようだった。
やがて黒雲が御殿の寝殿まで上がってくると、黒雲はまどかの真ん前に立ち、
「私は黒雲。アナタを探し出した星読みです」
「探し出した……?」
まどかが晴明のほうを見ると、晴明は黒雲を制止するように右手を上げる。とたん、黒雲はおとなしくなり、下座――晴明の隣に腰を据えた。
そのしぐさはまるでやんごとなきという言葉が似合う、そんなんことをまどかは思った。
「黒雲は、星読みゆえに、皇子さまの呪いを解ける巫女を探し出せるのです」
「え、っと。それじゃあ、私がここに呼ばれたのは、意味があるってことですか?」
「もちろんです。九十九神の討伐は、まどかどのにしかできません」
晴明の言葉にまどかは再びなんとも言えない気持ちになるも、皇子のほうはそうでもなかったようだ。
眉間にしわを寄せて、まどかにじと目を向けている。
「いくら黒雲の予言だからって、俺はコイツを信用できない」
「……なら、なんで料理番なんて命じたのですか」
「それは……オマエは毒にすぐに気付いた。ゆえに毒に関しては一目置いているが、そのほかはてんであてにならん。昨日の様子を見れば一目瞭然だろう」
皇子の指摘はもっともで、まどかはぐうの音も出なかった。
しかし、意外にも助け舟を出したのは黒雲である。
「そうは言っても、皇子さま。先ほどこの巫女は、私の『予言』の力を跳ね返しました」
「それは本当なのか?」
皇子がまどかに確認する。しかし、まどかに思い当たる節はない。ふるふると顔を横に振ると、皇子は「ほらな」とため息をついた。
しかし、黒雲は真剣である。今一度まどかを向き直り、じっとりとした視線を寄越してくる。
ジリジリジリ、っと音がする。だが、その音はまどか以外には聞こえていないようだ。
その音はやがて静電気のようなバチバチとした音に変わり、まどかの体のなかから湧き上がる。
若干の痛みを感じ始めたところで、まどかは思わず身じろいだ。
「痛っ!」
バチン! っと『なにか』を振り払うように手を動かすと、そのバチバチはまどかから消える。
黒雲の口がきれいな弧を描く。
「ほらまた。私の星読みの力をはじいた。私には、この巫女の予言を見ることができません」
この、バチバチしたものが霊力やそのたぐいのものなのだと、まどかはこの時確信するに至った。