十五、天皇陛下の朝ごはん
十五
豆腐がこの時代に存在するのはありがたい限りである。
この豆腐が精進料理として活用されるには、あと少しだけ時間がかかるが、それでも、まどかにしてみればこれは大いに役立つ情報である。
加えて、平安の貴族は夏に冷やした甘酒を飲むというから、調味料としての砂糖やみりんの代用品としては、濁り酒よりも重宝するだろう。
さらにいえば、甘酒が存在するということは、米麹も存在するということになる。
だからまどかは、早速大量の大豆を水に浸水した。
「未熟な大豆を使って、なにを作る?」
天皇陛下のくりで、大豆を浸水したあと、まどかは早速朝食――十一時の食事――の準備に取りかかっていた。
康仁のくりにはすでにゆで上がった大豆を用意してあったが、天皇陛下のくりにはそれがない。
大豆で呉汁を作るにも、大豆は調理前の浸水が必要になるため、今日は手がつけられない。
代わりに、城下町で未熟な状態の青い大豆をもらってきた。
「枝豆の呉汁にします」
「えだまめ……?」
「はい。未熟な大豆をゆでたものです。大豆にはない風味があります」
食べ過ぎれば糖質過多になるが、適量ならば枝豆は十分にビタミンB1源になりうる。
枝豆を塩ゆでして、すりばちで潰して水を加える。ひしおで味付けをすれば、枝豆の呉汁の完成である。
「かぐわしいにおいだな」
くりでせわしなく動くまどかに対し、康仁ははんなりとまどかを目でおい、それどころか出来上がった料理をつまみ食いする有り様である。
しかしまどかは、料理に夢中で康仁などそっちのけだ。
「甘酒も仕込まなきゃ」
餅米で粥を炊いて、六十度に冷ましたら、そこに米麹を混ぜ合わせる。あとはタオルにくるんでお湯を張った保温性のある発泡スチロールに入れておけば、半日で甘酒が完成する。
平安時代にタオルはないので、いらない衣でくるんで、湯を張った桶に入れた。
「甘酒をなにに使うのだ?」
「これは貴重な甘味料です。調味料に使います」
「陛下には飲ませないのか?」
「これは飲水病には禁忌ですね。あと唐菓子も……」
炭水化物、糖質を制限した食事は必須だろう。
カロリーは十五単位――千二百キロカロリーで計算するとして、炭水化物を五十パーセント、たんぱく質を二十五パーセント、脂質を二十パーセントといったところだろうか。
頭のなかで計算する。PFC比率はあくまで理想であるため、そこまで厳しく守る必要はない。とはいえ、天皇陛下の体調を見るに、血糖値のコントロールとビタミンの欠乏は最優先に考えるべき項目だ。最悪命にかかわる。
今性急に対処すべきは、糖質コントロールとビタミンの摂取だ。
「明日、晴明さんと黒雲さんも呼べないでしょうか」
「人手がいるのか?」
「はい。味噌を仕込もうと思います」
手早く大豆を摂取でき、なおかつ発酵食品は体の調子を整える。
もちろん、塩分過多には注意が必要だが、味噌が出来上がれば、食生活はがらりと変わるだろう。
「オマエは味噌も作れるのか」
康仁がうなる。
「味噌は貴重な給料ゆえに、貴族でも限られた人間しか食せないからな」
「あ、一応味噌はあるんですね」
まどかはほっとしたように言う。味噌が存在するなら、まどかが味噌を作っても、なんら白い目で見られることはないだろう。
もっとも、平安時代の味噌は粒状で、未来のペースト状の味噌とは少し違うのだが。
「オマエはこのまま料理をしてろ。俺が晴明に話をつけにいく」
言い残し、康仁は一旦天皇陛下の御殿をあとにする。
そうして戻ってきたときには、すでにまどかは朝食の支度を終えていた。
豆腐入りの呉汁に猪肉の甘酢あんかけにおひたし、固粥はいつもの半分もない。
猪肉は葛粉を絡んで焼き上げ、酢と甘酒で味付けし、葛粉でとろみをつけた。
新鮮な野菜はあるにはあったが、まどかの時代にはあまり見ないものが多かった。たとえるなら、春の七草のような野草が主である。
「これはなんだ?」
帰ってきた康仁が興味を引かれたのはおひたしである。
朝廷には献上物として昆布がふんだんにあった。
野草のいいところは、香りの豊かさだ。ならば、香りをいかす味付けとして、濃いめのだしと少しのひしおで味付けた、おひたしを出すことにした。
それを、康仁は手でつまみ、はくっと口に運んだ。
「……! なんだこの、味の深みは」
「皇子さまはさすが、味がわかるんですね」
まどかは嬉々とした表情で、
「だしを昆布と干し椎茸のふたつから取りました。味の相乗効果といって、二種以上の旨味をかけあわせると、1+1が二倍以上にもおいしくなるんです」
しかし康仁にはまどかの説明はてんでわからない。わからないのだが、まどかは料理を『経験』だけでなく、『知識』と掛け合わせていることだけはわかった。
未来では、どんなに美味い料理を食べていたのだろうか。
「天皇陛下に、こちらを運んで大丈夫でしょうか」
「ああ、きっと気に入ると思う」
「だといいんですけど」
苦笑気味のまどかだが、それも致し方ない。なにしろ、まどかが料理する傍らで、従者や家臣たちが信じられないものを見るような、冷たい視線を寄越していたからだ。
康仁とふたりで、膳を天皇陛下の部屋に運ぶ。
しかして、やはりといったところか、天皇陛下はまどかの料理を見て顔をしかめた。
「肉食は仏教の教えに反する」
「ですが天皇陛下。これは薬です」
「薬……?」
「はい。中国……唐では『医食同源』という言葉があります。食は医、医は食から。日々の食事が健康に繋がるという意味です」
まどかの言葉には妙な説得力がある。
天皇陛下は渋い顔をしながらも、
「では、鬼食いをせよ」
家臣にそれを命じる。
鬼食いは膳の前に座る。そして箸を手に持つと、震える手で恐る恐る料理を口に運んでいく。
しかし、鬼食いの箸を運ぶ手は止まらなくなる。うまいのだ。どれも今まで食べたことがないほどに、箸が進む。
ぱあっと明るくなった鬼食いの様子に、天皇陛下も釘付けである。
ほうっと息を吐き出す鬼食いに、天皇陛下は前のめりに聞いた。
「毒は?」
「大丈夫です……しかしこれは……」
鬼食いは今まで天皇陛下に出されるあらゆる料理を口にしてきた。ときに客をもてなす豪華なものも、天皇陛下を祝う特別なものも。
しかし、今まで食べたどれよりも、まどかの料理は鬼食いを満たした。舌が幸福でバカになりそうだ。
「では、わたしも食べるとしよう」
はやる気持ちを押さえきれず、天皇陛下もまどかの料理に箸をつけた。
無言である。しかしその目はかっと見開かれ、内心では頬が落ちるのではというほどに至福を感じていた。
はく、ばく。
天皇陛下は次々にまどかの料理を口にして、ものの数分ですべてを平らげてしまう。
まどかの顔がにやけている。料理人としてこれほどの栄誉はない。
自分の料理が誰かを幸せにし、やがて体調をも変えられるのならば、料理人冥利につきるというものである。