断片:井戸
深い井戸に入った若者のはなし
井戸があった。
井戸は果てしなく深く、そして、深い闇を抱いていた。
皆、そこに井戸があるのは知っていたが、誰も、その底がどうなっているのかは知らなかった。
ある若者が言う。
「俺が行って見てこよう」
若者は、長い長い、とても長い縄を用意した。
それを深い深い井戸に垂らすと、ゆっくりゆっくり、井戸を下りていく。
井戸は果てしなく続き、闇はどんどん深くなり、若者を包み込む。
闇はどんどん近づいてきて、若者の肌に触れるほどだった。
もう自分の鼻先さえ見えない。
若者に感じられるのは、手のひらで縄を握る感覚と、ジメジメして冷たい井戸の空気が肌に触れる感覚だけだった。
若者は、ひたすら、井戸を下りていく。
ずっと、ずっと、井戸を下りて行くと、下のほうが、なにやら明るい。
更に下りていくと、井戸は突然終わっていた。
若者の下には雲が見える。
その更に、ずっとずっと下には、山や川や村が、小さく小さく見えた。
強い風がびゅうびゅうと若者と縄をゆらゆら揺らす。
ゆらゆら揺れて、若者は振り落とされそうになる。
「こりゃ、いけない。」
若者は、縄を登って、戻ろうとする。
そこで、つるりと、手がすべる。
「あっ、」
一声あげると、若者は空へ落ちていく。
ずっとずっと落ちていって、そして、どんどん地面が迫ってくる
地面がどんどん大きくなって、家や道やそこにいる人の姿も見えてくる。
人影は、見覚えのある人影だった。
若者の家の隣に住んでいる、女だった。
その間にも地面はどんどん迫ってくる。
井戸が真下に見えた。
若者が入った井戸だった。
若者はそのままの勢いで井戸に吸い込まれる。
暗い暗い井戸の中を、若者はひたすら落ちていく。
落ちていって、また空に出る。
空を落ちて、また井戸の中に落ちていく。
そうやって、若者はひたすら、落下しつづけた。
落下の速度は次第に増していく。
空気と若者との間に、生まれた摩擦が熱を生み、熱はどんどん高くなって、そして若者の体は炎に包まれる。
若者の体はどんどん燃えて、そして、骨も残らず燃え尽きた。
空から、井戸へ、一条の炎が真っ直ぐ下りて、空に赤い線を一本引いた。
そしてそれも、すぐに、風にのまれて消えて行った。