断片:矢印
通路を歩く男女のはなし
町は無数の矢印で満ち溢れていた。
それはもう、矢印の氾濫と言ってもいいくらいだった。
巨大な町のどこを見ても、どこに行っても、矢印が目に入らない瞬間はない。
そして、町に、ひしめくようにして住んでいる人々も、みんな矢印に従って動いている。
それは一方通行や通路のどちら側を歩くかの矢印に始まり、おすすめの商品、果てはパソコンのマウスにまで、矢印は浸透し始めていた。
今も、僕は矢印に従って地下通路の左側を歩いている。
通路は人でごったがえしていた。
あまりに混み合っているために、僕たちはペンギンのようにヨチヨチとしか前に進めない。
ふと、右側を見れば、そこはガラガラだった。
通路の右側は反対向きに歩く人が通る。
床に描かれた矢印が、そう指し示している。
右側を歩いてしまえば、スタスタ進めるなぁ
そんな考えが頭をよぎる。
僕と同じようなことを考えたのだろう。
すぐ前を歩く、若い男が通路の右側に出て矢印とは逆走して歩きはじめる。
彼はスタスタ歩いて、すぐに見えなくなってしまった。
「僕たちも、右側を歩いてみようか?」
僕は隣でヨチヨチ歩く連れに話しかけてみる。
連れは髪をセミロングにした、どこか柔らかな雰囲気のある女性だ。
「ダメだよ。」
彼女は首を振る。
「矢印には従わないと。」
ふぅ、と息をついて、僕たちはまたヨチヨチとペンギンのように行列を続ける。
しばらく歩いたところで、先ほどの若い男が、係員らしき制服を着た男と口論していた。
どうやら、若い男は逆走していたところを呼びとめられたらしい。
「なんで、こっち側を歩いちゃいけねぇんだよ!そんなこと決めた法律なんかねぇだろうが!」
「ですが、矢印には従って貰わないと。この先に進みたいなら、一度矢印に従って戻って貰って、それから列に並び直してもらうことになります。」
「なんだそれ、ふざけんな!」
若い男はかなり熱くなっているようだった。
係員の言う通りにするならば、もう一度最初からこの行列に並び直して、ペンギン歩きを始めなければならない。
「ほらね、やっぱり矢印に従わないとダメなのよ。」
やりとりを見ていた連れがこっそりと耳打ちする。
したり顔の連れの顔を見ながら、僕はふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「そう言えば、僕たちはどこに向かっているんだっけ?」
「さあ?私たちは矢印に従ってここまで来たのよ。これからも矢印の方へ進むだけだわ。」
「そうか・・・、そうだね。」
そう言って、僕たちはまたヨチヨチとペンギン歩きを始める。