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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
番外編
78/79

とある将軍夫妻の帰還 8

 入浴を終えたセラフィナが使用人の女性によって案内された部屋は、当主夫妻の寝室だった。

 何でも花嫁の初の来訪を前に、婚約時から新しく整えてくれていたらしい。先程それを知ったセラフィナが感謝の気持ちを伝えると、彼らは嬉しそうに微笑んでくれたのだった。


「私はこれで失礼いたします。おやすみなさいませ、奥様」

「ありがとうございました。おやすみなさい」


 使用人が静かに扉を閉めるのを見送って、セラフィナは息を吐いた。

 やはりこの本邸も優しい人ばかりだ。自分だけで入浴すると言ったら受け入れてくれたし、短い髪を見ては悲しんでくれる。何だか申し訳ないくらいの歓待ぶりで、初めて足を踏み入れる場所であることも手伝って落ち着かない。

 しかし当然ながら、ランドルフにとっては人生で最も長い時間を過ごした場所だ。彼はすっかりリラックスした様子でベッドに腰掛けており、ランプを頼りに新聞を読んでいるところだった。


「何かめぼしい記事はありましたか?」


 彼はこの旅でよく新聞を読んでいる。隣国でこれだけの政変があったのだから当然だが、何か状況が動いてもすぐに把握できるようにしているのだろう。


「ヴェーグラントではあの革命について、どの程度認知されているのか知りたくてな。どうやら少し前から報道されていたようだ」

「そうでしたか。もしかして、ランドルフ様のことが載っていましたか?」

「それがな……まあ、読んだ方が早いか」


 セラフィナは彼の隣に腰掛けて、溜息と共に差し出された新聞を受け取った。目を通し始めてすぐに見出しが飛び込んできて、その派手派手しい内容に思わず瞬きをする。


 《アルーディアで市民革命か ヴェーグラントから革命派に援軍》


 読み進めて行くと「我が国きっての猛将アイゼンフート侯爵が多大なる働きをした」と記されている。事実ではあるものの、セラフィナはむしろその情報の正確さと速さに驚きを覚えた。


「何というか、ものすごくしっかり書いてありますね」

「ああ、やられたな。陛下だ」


 ランドルフは苦々しげに眉を寄せていた。活躍を報じられて困っている理由が解らず、セラフィナは首を傾げた。


「陛下が何をなさったのですか?」

「ルーカスの報告をそのまま新聞社に流したのだろう。アルーディアの政治が変わり、付き合いやすくなるであろうことを国民に知らしめるために」

「陛下は両国の関係回復を望んでおられるのですよね」

「ああ、明確なご意思をお持ちだ。しっかり援軍も送ったことを書いておけば、両国の関係回復への信憑性が増す。そのついでに名前を出されてしまったというわけだ」


 深いため息をついたランドルフは、明らかに決まりが悪そうな様子だった。


「それは、悪いことなのですか?」

「目立つことは好きではないんだ。それに何より、今回は国のためと志を持って動いたわけではない。私はただセラフィナをあの女王から救い出したいと、身勝手な理由で部下を巻き込んだ。それなのに活躍したなどと報じられるのは、居心地が悪い」


 セラフィナには、それはいかにも彼らしい心の在りように思えた。

 相変わらずの実直さと不器用さに思わず笑みがこぼれる。それにこの真面目な将軍閣下が、自分を助けたいなどという理由だけで動いてくれたことを思い知って、不謹慎とわかっていても嬉しかったのだ。


「私は良いことだと思います。皆が貴方のことを怖がらずに済むようになってくれたら、嬉しいですもの」

「そう言ってもらえるのは有難いがな。それよりも、私はセラフィナの事が書かれていないことにほっとしているんだ」


 言われてみれば、自身の話題は影も形も存在しない様だ。最後まで目を通してみても、誘拐された元第二王女のことは削り取られたかの様に書かれていない。


「陛下のご厚情だろうが、無闇やたらと書き立てられる様な事がなくて良かった。誘拐自体なかったことになるならそのほうがいい。好奇の視線に晒されるのは、辛いだろう」


 ランドルフはきっと、セラフィナの過去を慮って言ってくれているのだろう。アルーディアの王宮で嫌悪に晒された日々が、最も辛い記憶として心に刻まれているのを、彼はよく知っているから。


「色々言いはしたが私のことなどはいいんだ。お前が心安らかに過ごせるなら、それでいい」


 大きな手が頭を撫でてくれる。その思いやりと温かさに不意に込み上げてくるものがあって、セラフィナは瞬きをしてその衝動に耐えた。


「おいで、セラフィナ」


 それは短い一言だった。今この時に限って、ランドルフは自分から抱き寄せるような事はせず、右手を差し出して待ってくれている。

 この手を取ることには何の躊躇いもないはずだ。それなのに、何も望んではならないと自らを戒め続けた歳月が、一瞬だけ体をその場に縫い止める。

 恐る恐る硬い手の平に自らのそれを乗せると、柔い力で腕を引かれて、温かい腕の中に閉じ込められた。


「良かった。手を取ってくれないかもしれないと思っていたんだ」


 やっぱり彼は気がついている。セラフィナから抱きついたり、そういった愛情表現をすることがほとんどない事に。

 それは心と体の奥底に染み付いていて、ふとした時に顔を出す。人に頼るわけにはいかない、何かを望んではならないのだと。

 けれどセラフィナは、そんな考え方はもうやめにしたいと思っていた。


「そんなはずないです。だって、私は……」


 声が震えている。それでも勇気を出してその先を紡ぐのだ。そうでなければ、また彼に「先程のような事」を言わせてしまう。


「……私は、貴方のことが好きなのですから」


 噛まずに言うことができたが、流石に目を合わすことは叶わなかった。分厚い胸に顔を埋めたセラフィナは、ややあって頭上で深い溜息が吐き出される音を聞く。

 好きと言って溜息を返された事にショックを受けていると、ぐらりと体が傾ぐ感覚があった。

 そのまま前のめりに倒れ込み、鈍い衝撃に思わず目を瞑る。気付いた時には、セラフィナは仰向けにベッドに横たわる夫の上に寝そべっていたのだった。


「あ、あの……!?」


 慌てて身を起こそうとしたものの、強靭な腕に抱きしめられていて身動きが取れない。


「……よしてくれ。そんなに可愛らしいことを言われると、我慢が効かなくなる」


 弱り切ったような声が聞こえて来たので、セラフィナはせめてと首を巡らせて、彼の表情を視界に収めようとした。しかし彼は片手で顔を覆い尽くしていて、何を考えているのか判然としない。

 我慢とは、一体何を? 疑問が浮かんだが、その答えには案外すぐに辿り着いた。


「あ……」


 ピンとくるものがあって、セラフィナは頬に朱を走らせた。妻が言葉の意味を理解したことを察してか、ランドルフは低く苦笑したようだった。彼は両腕で華奢な身体を抱きしめ直して、視線を交わらせないまま話し始める。


「あのギーゼラ叔母に付き合って話を聞いてくれたのだから、疲れただろう」

「そんな。ギーゼラ様は楽しい方ですから、私もすごく楽しかったです」

「そうか、ありがとう。皆そんなお前だから、ここに来てくれたことを喜んでいた。……さあ、今日はもう寝よう。万が一体調を崩しでもしたら、後悔してもしきれないからな」


 労わり深い言葉と、髪を梳く大きな手の温もり。その端々に愛情を感じて胸が詰まった。

 この優しい夫はまたしても待ってくれるつもりでいる。それは夕食時の会話が原因になっていることを、セラフィナはよく理解していた。


「……私、先程はとても、嬉しかったです」

「ん? なんの事だ」

「夕食の時の事です。お子の話題になった時、庇ってくださったでしょう?」


 頬のすぐ側で彼の心臓が脈打つのを感じた。けれどそれには気付かない振りをして、セラフィナは話を続ける。


「ですが、同じくらい……悲しかったのです。私が未だに戸惑っているせいで、貴方はこの大事な話を避けて下さいます。それがとても、情けなくて」


 少し上半身を動かしてみると、抱きしめる腕の力が緩んでいることが解った。セラフィナはゆっくりと身を起こして、ベッドの真ん中に正座する。

 ランドルフもまた起き上がって、セラフィナの正面に胡座をかいて座り込んだ。彼は妻が何を言わんとしているのか察しがついていない様子で、いつになく呆けたような顔をしていた。


「確かに私、戸惑っています。幸せ過ぎることが怖くて、時に二の足を踏んでしまいます。ですが……ですが、私は」


 徐々に感情が高ぶってきて、つい声が震えてしまう。自分の気持ちを言葉にするのはとんでもなく勇気がいる事なのだと、この人のお陰で知ることができた。


「どれほど怖いと思っても、乗り越えなければと思える程に、貴方のことが好きなんです……!」


 言い切ると同時に金色の瞳が見開かれるのを見て取って、セラフィナは今更のように頭が真っ白になった。

 中々に物凄いことを言ってしまったような気がする。しかし、すべて本心なのだから撤回する気は無い。


「あ、あの、つまり、ですね……。ランドルフ様こそ、私に対して、そんなに気を遣わないで頂きたいと、お伝えしたくて」


 しどろもどろになりながら発言の意図を説明する。だいぶ前後がめちゃくちゃだが、これで本当に伝わっているのだろうか。


「私、これからはもっと、あらゆる事に慣れるように頑張りますから。無理はしないように気をつけます。怖くなったら、不安になったら、素直に伝えます」


 ランドルフは動かない。辛抱強く聞いてくれているように見えるが、反応が無いと些か心配になってくる。


「貴方との子供が欲しいって、ちゃんと言えなくて、ごめんなさい。ですが……本当に、そう思っていますから。義務や仕事ではなく、心からそう思えるんです」


 これで言いたいことは言うことができた。満足の溜息を吐いて最後に微笑んだセラフィナは、いつの間にか夫が大きな手で顔を覆っている事に気付いた。

 再びの姿勢に首をかしげる。これは一体どう言う反応なのだろうか?

 セラフィナは解っていなかった。一途に妻を想うこの男にとって、全ての告白がどれほどの歓喜をもたらすものだったのかを。そして、控えめで優しい妖精姫を怖がらせないように、黒獅子がどれほどの自制を重ねて来たのかを。

 ほんの少しの間を置いて、ランドルフはゆらりと顔を上げた。

 彼は見たことのない表情をしていた。それは詰まる所「獲物を目の前にした獅子の顔」だったのだが、セラフィナの経験値ではそんな例えを導き出すことはできなかった。


「すまない。冗談抜きで限界だ」

「え……あの?」

「愛おしすぎて頭がおかしくなりそうなんだ。最初に言っておくが優しくできない。許せ」


 早口で告げられた言葉の意味を理解する前に、乱暴とも言える性急さで唇を奪われていた。

 深く深く口付けられながら、背中からベッドへと倒される。その激しさとは裏腹に手つきは優しくて、少しの衝撃も感じない。

 状況の意味すらいまいち理解できないまま、セラフィナは熱に浮かされた頭の片隅で考える。

 必死で告げた想いの数々が伝わったのなら本当に嬉しい、と。

 しかしそんな健気な喜びも、与えられる熱の狭間に掻き消えていくのだった。


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