とある将軍夫妻の帰還 7
両国の首都のちょうど中間。ヴェーグラントの東の国境に、アイゼンフート侯爵家は広大な領地を有している。
統治の拠点として街道沿いに城壁都市を構えており、そのすぐ側の小高い丘の上に建っているのが、そろそろ築二百年になろうかという堅牢な屋敷だ。
二人が長い旅路を経てヴェーグラントに入ったのは、まさしく今日のことだった。陽のあるうちに到着できた事に安堵しつつ、ランドルフはその威容を見上げる。
領地内から取れる硬質な灰色の石で形造られた屋敷は、相変わらず飾り気がなかったが、自身にとっては子供の頃から慣れ親しんだ実家だ。
「大きなお屋敷ですね。ここにルーカス様お一人で?」
「ああ。気楽に暮らしているようだな、あいつは」
ランドルフは言葉を返しつつ、はしゃいだ様子の妻に相好を崩した。
なんだかもう本当に可愛い。例えようもないほど可愛い。
ようやく、ようやく本当の意味で手に入れた妻。その輝きが日毎に増していくように見えるのは、加速度的に大きくなる自らの想いのせいなのか、それとも頭がおかしくなってしまったからか。
ーーまあ何でもいいか。セラフィナが可愛いのは今に始まったことではないのだから。
完全に崩壊した思考回路を正す気すら起きず、ランドルフはやにさがった顔もそのままに歩き始めた。
「ともかく入ろう。先触れは出してあるから、皆今か今かと待っているはずだ」
少々緊張した面持ちのセラフィナを促して、玄関へと向かおうとした時のことだった。重厚な造りの扉が勿体ぶったように開き始め、その先には見知った人物が立っていた。
「お待ちしておりましたのよ! ああ、本当に心配したわ!」
そこにいたのはギーゼラ叔母であった。
彼女は恰幅のいいドレス姿で走ってきたと思ったら、ふくよかな手でランドルフのそれを握り込んで上下に振り回した。相変わらず豪快な御仁である。
「隣国で戦闘があったようね。よくご無事でお戻りになって」
「ええお陰様で、叔母上。あなたも御息災のようで何よりです」
「もう、相変わらず硬いのね。それにしてもしばらく見ないうちに男前になったこと!」
ギーゼラは高らかに笑って、泣く子も黙る黒獅子将軍の腕をバシバシと叩いた。彼女の分け隔てのない性分は兄譲りで、ランドルフは叔母と会うと父を思い出して懐かしくなってしまう。
「結婚式にも行かないでごめんなさいね、本当に行きたかったのだけど。それで、噂の奥方様はどちら、に…」
そこでようやくギーゼラはセラフィナの存在に気付いたらしかった。その美しい立ち姿に視線を縫い取られたように動かなくなった叔母は、一拍おいて今度は白磁の手を握り込んでいたのだった。
「まあまあまあまあ! なんって可愛らしい方なんでしょう! 本当に信じられないわ、こんなに綺麗な女の子が、あの無愛想なランディ坊やのお嫁さんになってくれただなんて!」
「幼少の頃の渾名で呼ぶのはやめて頂きたいと以前から申しているでしょう、叔母上」
言っていることには全面的に同意するが、その呼び方は流石に恥ずかしいのでやめて欲しい。
「あらあら、ごめんなさいね、侯爵様。そして奥様、私はギーゼラ・バッヘムよ! 前アイゼンフート侯爵の妹に当たるわ。バッヘム伯爵家に嫁いでいるのだけど、今日はあなたたたちが来ると聞いてお邪魔していたの。どうぞよろしくね」
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。セラフィナと申します。お会いできて光栄です、ギーゼラ様」
この叔母の登場以降、セラフィナはといえば完全に気圧された様子だったのだが、自己紹介を受けて気を持ち直したらしい。流石の気丈さに感心して目を細めていたのだが、それでもギーゼラの勢いは増すばかりだった。
「まあっ、お声も可愛らしいのねえ! さあさあセラフィナ様、侯爵様も、早く行きましょ! 私、あなた達とゆっくりお話がしたいのよ」
どうやらセラフィナは、このお節介焼きの叔母上にすっかり気に入られてしまったらしい。手を引かれて屋敷へと導かれていく華奢な後ろ姿を見送りながら、ランドルフもまたその後を追うのだった。
使用人達の歓待を受けた後のこと。三人は食堂に腰を落ち着けて、すぐに夕食を取ることになった。
久しぶりの主人の帰還に用意された手の込んだ料理を楽しみつつ、ランドルフは気になった事を問う事にする。
「ところで叔母上、ルーカスは帰っていないようですね」
「ええ、そうね。もう一月以上、一度も帰っていらっしゃらないようよ」
当然だがアルーディアで別れて以来、ルーカスとは一切連絡を取っていない。仕事に行くと言ってはいたが一体どこを渡り歩いているのやら。
「ルディ坊やったら大丈夫なのかしら? あの方もいい加減良いお年なのよ、侯爵様からもそろそろ身を固めるように進言なさって」
「ですから、幼少の頃の渾名は勘弁してやって下さい。ルーカスに関してはとりあえずは静観の構えです。私もこの歳まで結婚しなかったのですから、人のことをとやかく言えたものではないんですよ」
それに、どうやらルーカスには想い人がいるらしい。色々と難しそうな相手ではあるが、ランドルフとしては上手く行ったらいいと思っているので、当面こちらから何かを言うつもりはないのだ。
しかしギーゼラは不満顔だった。この叔母はお節介焼きでおしゃべりすぎるきらいがあるが、根本的にはいつも本家の兄弟を気にかけてくれている。
「そんな事を仰って、私がどれほど心配しているかご存知? ねえセラフィナ様、ご兄弟揃って悠長なものよねえ。ランディ坊やは見た目、ルディ坊やは性格がお父上に似たとはよく言われていたけれど、結婚への意識は似なかったみたい」
「ギーゼラ様、結婚への意識、というのは?」
「兄は舞踏会で出会った義姉上と結婚したの。それはもうぞっこんで、猛烈な勢いで求婚しに行ったのよ」
セラフィナの瞳が楽しそうに輝き始める。話の先を期待するときの彼女はわかりやすく、子供のようにワクワクする様が可愛らしい。
「そうなのですね。そのお話は初めてお伺いします」
「あら、それなら聞いてくださいな。前侯爵ーー私の兄は、よく言えばおおらかで明るい、悪く言えば八方美人なお方だったのです。社交界デビューしてからも悠々自適に過ごしておられたのだけれど、ある日義姉上に出会ったのね。一目惚れだったそうよ」
「まあ、素敵ですね!」
「そうでしょう? 憧れてしまいますわよね」
セラフィナは相槌を打ちながら熱心に聞いていたが、ふと息を呑んでこちらを見遣る。どうやら聞いていい話なのか気になったらしい。なんら問題はないので頷いて見せると、彼女は安堵したように微笑んでギーゼラへと向き直った。
「それでは、侯爵夫人も一目惚れだったのでしょうか?」
「いいえ、最初は本気だと思ってもらえなかったのですって。だから兄は物凄く頑張って口説き落としたそうよ。だから初めてお義姉様をこの屋敷に連れてきた時も、結婚式の時も……そしてランディ坊やが産まれた時も。それはそれは、お幸せそうだった」
ギーゼラが懐かしそうに目を細める。ランドルフは自身の呼び名を訂正する気も起きず、今はほんの朧げになった母の記憶を呼び起こしていた。
元気な人だった。いつも幸せそうに微笑んでいた。やつれた顔で病床に伏していたその間すらも。
そしてその傍らには、常に父の姿があった。
「兄上は先の戦争で逝ってしまわれたけど、覚悟はできていたと思うわ。いいえむしろ、ようやくお義姉様に会えると思って、ホッとしたかもしれませんわね。二人の息子もこんなに立派に育ったんだもの、きっと後悔なんて無かったはずよ」
ギーゼラは静かにワインを口にして話を締めくくった。セラフィナは何も言わなかったが、青い瞳は微かに滲んでいて、小さく微笑むその表情が何よりの答えだった。
「お墓には明日行くのかしら?」
「ええ。私は随分な親不孝者です」
ここ最近忙しくしていたので実に一年ぶりになるだろうか。墓守りも弟に任せきりなのだから、ひどい長男だなとつくづく思う。
しかしギーゼラはからからと笑って、大丈夫よ、と頷いてくれた。
「解ってくださるわよ、お役目なんですもの。それに今回は奥様をご紹介できるのだから、お二人の長年の心配も一つ解消されるというものだわ」
ランドルフは叔母の優しさに救われる思いだった。
そうだ、明日は両親にセラフィナを紹介しよう。そしてこの地に眠る先祖全てに感謝を伝えなければ。
そんな事を考えていたのですっかり油断していた。このお節介焼きでお喋りな叔母上の性格を考えれば、この後の話題がどんなものであるかは大体予想がつくはずだったのに。
「後はお子がお産まれになったら安心ですわ。ああ、楽しみねえ」
「……!? っぐ……!」
危うくワインが気管に入るところだった。眉間にしわを寄せてじっくりと口の中のものを飲み下してから、慌ててセラフィナの様子を確認すると、案の定真っ赤になって俯いている。
ギーゼラに悪気がないことはわかっていたが、その話題は少々タイミングが悪い。
なにせ二人はつい最近になって「本当の夫婦」になったばかりで、今のところは子供について話し合ったことはない。きっとセラフィナにとってはまだまだ現実感のない話だろう。
アルーディア出立の日、セラフィナが赤ん坊を抱いていたことを思い出す。頬を緩めて赤ん坊を見つめる彼女は、とても優しくて可愛らしくて、つい目を奪われてしまったものだ。
セラフィナに似た子供が産まれたら、それこそ目に入れても痛くないほど可愛いだろうと思う。しかし、彼女にはそれを義務だとは思って欲しくない。どんな苦しみも焦りも、抱かないようにしてやりたいのだ。
「叔母上。子は授かりものゆえに焦る気は無いのです。私はただセラフィナを大事にしたい。それだけですから」
セラフィナが俄かに顔を上げる。未だその顔は赤みを増し続けているように見えたが、それでも何か言おうとして口を開き、結局閉じる。そしてもう一度開きかけたところで、甥の発言に静止していたギーゼラが喜色満面で両手を打った。
「あらぁ! まあまあまあ! あのランディ坊やからそんな言葉が出るなんて、感激も感激、セラフィナ様に大感謝ですわ。本当にあなた達は仲がよろしいのね」
「だからその呼び方はやめて下さいと」
「あらあら、ごめんなさいね侯爵様、もう私は嬉しくって。だってあなた覚えていらっしゃる? あれはお兄様の喪が明けた頃のことだったかしら。せっかく首都までお見合い話を持って行ったのに、もう面倒だから紹介は受けないって宣言したのよ。あの時は本当にどうしようかとーー」
自主的に話題を提供してくれたギーゼラに、ランドルフは内心息を吐いた。
そして同時に反省する。セラフィナの先程の反応を見るに、少々一方的に気持ちを押し付け過ぎたのかもしれない。やはりまだ彼女は戸惑っているのだ。
過去を暴露されるのはあまり気が進まないが、セラフィナがいつもの落ち着きを取り戻して楽しそうにしているから、結果良しとしよう。
賑やかな時間はすぐに過ぎ去り、お開きになったのは夜も更けた頃合いだった。