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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
番外編
76/79

とある将軍夫妻の帰還 6

 どうやら自分はほとほと欲深い性質だったらしい。

 先程からの発言を振り返るとため息をつきそうになったので、ランドルフは無心になって目の前に佇む妻を見つめる事にした。

 セラフィナは大きな瞳を溢れ落ちそうな程に見開いていた。白と青を組み合わせた美しいネグリジェを身に纏っていて、いつもより体の線を拾うデザインが男の欲望を刺激する。湯上りの彼女を見た時は、動揺のあまりに脱衣所で足の小指をぶつけた程だ。

 痛みにうずくまったランドルフは、しかし同時にこうも思っていた。

 夜空へ飛んで行ってしまいそうだ、と。

 普段ならありえない詩人のような発想は、胸の内に巣食う不安のせいだということは理解している。

 回復と同時にヴェーグラントへ帰還することにしたのは、一刻も早く連れ帰ってしまわなければ、いろんな意味で心配で仕方がないという男のエゴでもあった。

 甲斐甲斐しく看病してくれるセラフィナに部屋を出るよう勧めたのも、怪我が治り次第すぐに帰るつもりでいたからだ。

 彼女だってもう少し敬愛する姉と過ごしたかっただろうに。オディロン達家族やレオナールを筆頭としたベルティーユ派の元貴族達と友好を深めたり、もっとゆっくり挨拶回りをして、別れを惜しみたがっていたのかも。

 しかしそれを分かっていて、暴走しそうになる独占欲を制御しきれない。セラフィナを愛おしく思う気持ちと同時に、こんな奇跡はいつ覆ってもおかしくないという不安を拭い去ることができないのだ。


「私の言っている意味が、解るか」


 自分でも笑い出しそうになるほどに、その声は欲望に掠れていた。

 セラフィナは微かに唇を開いたが、結局のところそのまま閉じてしまった。月明かりに照らされた白い胸元が目に毒で、対をなすように真っ赤に染まった顔が愛おしい。


「……あのっ!」


 そう切り出したセラフィナは、やっとの思いといった風情だった。そうしないと会話ができないとでも言うように、顔を俯けてから話し始める。


「私、ずっと、不安で……お尋ねしようと思っていたんです。そ、その……ど、どうしてっ……」


 いつもの澄んだ声は、今に限っては小さくか細くなって、聞き取りにくいほどだった。そこまで言ってしばし口を閉ざしたセラフィナは、俯いたまま胸の前で手を握り合わせる。


「どうして、な、何もして下さらないのかと」


 一息に告げられた言葉に、ランドルフはこの激動の数ヶ月でも屈指の衝撃を受けていた。

 渇望する余りに幻聴を聞いたのだろうか。だとしたら末期的症状だが、髪の間から覗く彼女の耳が、真っ赤になっていることは間違いない。


「私には、魅力がないのかもしれないと、思っていたんです。ですが——っひゃあ!」


 頭より先に体が動いていた。急に抱き上げられたセラフィナは当然ながら驚いた様で、可愛らしい悲鳴を上げている。

 か細い手が思わずといった様子で縋り付いて来た。その儚げな感触が、押し込めていた獣を揺り起こしていく。

 セラフィナはようやく顔を上げてくれた。潤んだ瞳がまるで誘う様だったが、きっと全てが無意識なのだろう。


「ランドルフ様、何を?」

「いいから」

「そんな。子供達より、私はよっぽど重いのです……!」

「重くない。猫のようなものだ」


 華奢な体は大人しく腕の中に収まっているものの、実際のところは戸惑いばかりが先立って、まったく状況を掴めていないらしい。

 ランドルフは困惑の眼差しに気付かないふりをして歩き出した。風呂場とは正反対の壁に備え付けられた扉を、塞がった両手で器用に開けて中へと入る。

 そこは清潔感のある寝室だった。ランプが灯っていなくとも、満月の輝きだけで困らない程度には明るい。

 青白く照らされた室内を迷い無く横切ったランドルフは、羽根のように軽い体を壊してしまわないように、できうる限りの丁寧さでベッドへと横たえた。


「どうして、と言ったな。それこそが私の守るべきものだったからだ。全てを守り通したまま、手放してやるのが最善なのだと信じていたからだ」


 小さく息を呑む音が聞こえた。どこまでも青く透明な丸い瞳が、こちらをはっきりと見上げている。

 ランドルフは今更ながらに美しい瞳だと思った。清廉で、透き通っていて、一点の曇りもない。


「だが、そんな考えはとうに捨てた。私はどうやら自分で思っているよりも自制が効かないし、愚かで哀れな男だったらしい。惚れた相手の思わせぶりな一言で、こうして付け上がっているのだからな」


 どうやら絶句しているらしいセラフィナに、断りを入れて足に触れた。その途端に細い体がびくりと震えたのも無視して、靴を取り去ってベッドの下に置く。自分のそれは足元も見ずに適当に脱ぎ散らかした。

 木の軋む音が静かな室内に響き、それはセラフィナの鼓膜にも届いたらしい。彼女はハッとしたように瞳を揺らして上半身を起こそうとしたが、男の硬く太い二本の腕が、顔を挟むようにしてそびえ立つ方が早かった。


「嫌か」


 セラフィナはその問いを直ぐには理解できなかったようだ。答えが返ってこないことにもどかしさを覚え 、ランドルフは付いた両手に力を込めた。


「私は愚かで哀れなだけでなく、戦う以外に脳がない野蛮な男なんだ。嫌ならはっきり言ってくれなければ、解らない」


 物分かりの良いふりをするのは簡単ではなかった。

 金の髪がシーツの上に散らばって輝いている。露わになった首筋や透ける袖から覗く腕は細く、ほんの小さな力を掛けるだけで簡単に押さえつけられるであろうことは想像に難くない。

 しかしそれでも、ランドルフは最愛の妻を泣かせる事だけはしたくなかった。世界で一番幸せにしてやりたかった。もう二度と、痛ましい泣き方をする彼女を見たくない。心も、笑顔も、何もかもを手に入れたいのだから。



「……じゃ……です」


 セラフィナは囁くように言った。あまりにも小さな声だったので良く聞き取れず、ランドルフは眉を寄せた。


「何だ?」

「……っい、嫌ではありません!」


 今度の答えは明瞭だった。意を決したように合わせられた瞳は、少し滲んでいるように見える。

 望む返事を得たという事実を噛み砕きながら、しばし見つめ合ったまま時を過ごした。徐々に浸透する実感を受け止めようとするも、浮き足立った心がどうにも戻ってこない。

 ランドルフは確かめるように、薄桃色に艶めく唇に自らのそれをそっと重ねた。組み敷いた身体は一切抵抗することはなかったが、小刻みに震えているのが直に伝わってくる。

 名残惜しい気持ちを押し殺して顔を上げた。肘までベッドに密着させているので、花の顔は未だ至近距離にある。


「ならば、怖いか?」


 今度の問いには確信があった。しかしセラフィナならば我慢をして、そんなことはないと言いそうだ。


「……怖い、です」


 予想と正反対の返事が返ってきたことに、ランドルフは少々面食らってしまった。

 素直な気持ちを吐露してくれたことが嬉しい。少しは頼られていると思っても良いのだろうか。それとも、嫌ではないけど直ぐには無理だという意思表示だと受け止めるべきだろうか。


「ですので、その……頑張ります!」


 しかし反応を返すよりも、セラフィナが妙な力強さで意気込む方が早かった。

 そう言いながらも声を震わせているくせに。恐怖心と恥じらいを押し殺して、気丈に振る舞っているのが見え見えだというのに。


「……まったく。本当に、どうしてこんなに可愛いんだろうな」


 ランドルフは堪えきれずに笑い声をこぼしていた。

 そうだ、セラフィナとはこういう人だった。儚げに見えるが芯が強く、いつも一生懸命なお人好し。そんな彼女だからこそ、こんなにも愛おしいと思う。


「何を笑っておられるのですか?」


 セラフィナが本気で解らないという顔をしていたので、額に口付けを落としてみる。それだけで更に赤くなる様がいじらしかったが、もはや逃してやる気は毛頭無かった。


「そうか。解らないと言うのなら、私の妻がどれほど可愛らしく魅力的か、教えてあげよう」


 今度は性急な動きで唇を奪った。痺れるような甘さを存分に味わっていると、セラフィナが苦しそうにしだしたので一度解放する。見下ろした彼女は息を荒くしていて、真っ赤に染まった頬を隠すように両手で覆った所だった。


「愛している」


 何度言っても言い足りない。溢れんばかりの想いを伝えることの、なんと難しいことだろう。


「私も、愛しています……」


 その時のセラフィナのはにかみ様は、狂おしいほどに愛らしかった。

 白磁の肌に口付けの雨を降らせながら、その甘さに溺れていく。強張る身体は次第に柔らかく溶け始め、誘うように色付いている。

 不意に華奢な腕が伸びてきて、遠慮がちに首へと回された。

 透き通った泉のような青が、こちらを物憂げに伺っている。ランドルフは苦笑して、珍しく甘えてきた最愛の人を安心させるように、優しく抱きしめた。





 ***


 その日、セラフィナは夢を見なかった。

 絶対的な安堵感だけがそこにはあった。温かな眠りの深淵で、この世の全てから守る様に誰かがずっと抱きしめてくれている。

 それが誰なのかはわかっていた。彼が側に居てくれるのなら、何があっても大丈夫だということも。

 大好きな体温にそっと頬を寄せる。その途端にピクリと反応が返ってきた気がしたが、何故だか眠くて眠くて、眼を覚ますことができなかった。


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