とある将軍夫妻の帰還 5
セラフィナはやたらとそわそわしていた。
無意味にソファに座っていても落ち着かないので、ランドルフの真似をして新聞を広げてみる。しかしどう頑張っても字が脳内を素通りしていくので諦めざるを得なかった。
すぐに新聞を元の場所へと戻し、観念して窓からの景色を眺めることにする。室内を見ているより余程気が紛れるに違いない。
窓を半分程開けて夜風を浴びる。自分でも気がつかないうちに頬が火照っていたようで、程よく冷えた空気が心地良かった。
先程は賑やかだったはずの通りも既に人気がなくなっている。斜向かいの酒場は相変わらず煌々としていたが、店内の喧騒は微かに漏れ聞こえる程度だ。時折狼が遠吠えをする声が聞こえるのは、既に本格的な山道に近付いている証だろう。
見上げれば、相変わらず雲一つない星空が広がっていた。中でも満月の輝きは美しく、街全体が青白く浮かび上がるようだ。
いっそのこと雨が降ればいいのに、と不毛なことを考える。そうすれば雨音で少しは気が紛れるのに。天気の話を入り口にして、どんな話題だって切り出すことができるかもしれないのに。
セラフィナはゆるゆると首を振った。
どうしてこんなに意気地なしなのだろうか。聞くと決めたのだから、もうこの考えを覆したくはない。それなのに——。
その時のことだった。背後から微かな物音が発して、セラフィナはざわめく胸の内を押さえつけてゆっくりと振り返った。
そこには当然ながらランドルフが佇んでいる。青白く輝く街の風景とは違い、彼の姿はオレンジ色の灯火で浮かび上がって見えた。シャツとトラウザーズを身につけて、髪は全て下ろして前髪を無造作に遊ばせているのは、彼が眠る時のいつもの格好だ。
「温泉なんて久し振りに入ったが、確かにここは良かった。屋敷に欲しいくらいだ」
「それは良いですね。ある日突然湧き出したりはしないのでしょうか?」
「掘ってみるか。案外出てくるかもしれん」
冗談を交わしつつ、彼はゆっくりと歩み寄ってきて、セラフィナの隣に立ち並んだ。
「何を見ていたんだ?」
「月を、見ていたんです」
とはいっても気を紛らわせるためなのだが、そんな事を正直に言うわけにはいかない。ランドルフは導かれるようにして顔を上げ、ああ、と溜息ともつかない声をもらした。
「満月だな。綺麗だ」
ランプから離れてしまえば頼れるものは月明かりしか無いが、それでも彼が淡く微笑んでいるのが見て取れた。
精悍な横顔を見つめながら、セラフィナはこの黒獅子将軍と初めて会った時のことを思い出す。
今思えば、あの時の彼は精一杯に婚約者を怖がらせないようにしてくれていた。それでも並んで歩きながら横顔を盗み見て、あまりにも立派な佇まいに気後れしたのを覚えている。
今は気後れというほどの思いはなくなって、代わりに戸惑いと幸せと切なさが入り混じったような、深い愛情を抱くようになった。
不思議だ。あの頃はこんなに幸せな気持ちになれるだなんて、夢にも思わなかった。
「そういえば、以前は月夜の妖精と呼ばれていたのだったか」
それは月から派生した話題だったのだろうが、セラフィナはよく意味がわからずに首を傾げた。
「それは、誰のことですか?」
「お前のことに決まっているだろう。……まさか、知らなかったのか?」
ランドルフはこちらをまじまじと見つめている。それは本当に信じ難いものを見る視線だった。
「初耳です。宮殿にいた頃は、殆ど自室から出ないようにしていましたし」
「有名な噂だぞ。かの姫君は滅多に姿を現さないが、月夜の妖精のような美貌の持ち主だ。もしかすると本当に妖精なのでは、とな」
それは本当に聞いた事がない話だったので、セラフィナは青い瞳を丸く見開いた。そんな噂が立っていたのを知らずに過ごしていたとは、どうやら自分は余程の世間知らずらしい。
「その噂、ランドルフ様のお耳にも?」
「ああ、私ですら知っていたな。会う前には緊張したものだ」
その返答を聞いた瞬間、セラフィナは床に手を着きたい衝動に駆られた。
それならばさぞ期待していた事だろう。自らの妻となる姫君は、どれほど美しい人なのだろうと。
実際にやってきたのは、日陰育ちでおしゃれについて悩んだこともないような、パッとしない女だった。その時の彼の心境を考えると、何ともいたたまれない気持ちになる。
「あの、それは、なんというか……」
セラフィナは気まずくなって俯いたのだが、ランドルフはその反応を違う意味に捉えたらしい。彼が浮かべた苦笑は、過ぎ去った過去への懐かしさに満ちていた。
「情けない話だろう? しかも実際に会ったら想像以上に綺麗だったから、内心ものすごく動揺してな」
セラフィナは耳を疑った。
お世辞だろうか。それとも冗談? いやでも、彼はこういったことで冗談や世辞を口にする人ではない。
それなら。そう思ってくれていたのなら、どうして自分は妻としての務めも果たさないまま過ごすことになったのだろうか。
これはもしかして、先程決意したばかりのこの質問をぶつける、絶好のタイミングなのではないか。
セラフィナは握った拳に力を込める。もう逃げたくないと思った。彼ならどんな不安も受け止めてくれると信じたかった。
しかし口を開きかけたところで、無骨な手が伸びてきて頬に触れるものだから、タイミングを見失ってしまった。
「今夜は一際綺麗だ。月に照らされるお前は儚げで……消えてしまいそうに見える」
月光が男の輪郭を撫で、暗闇に確かな線を描いていく。窓から入り込んだ夜風が互いの髪を優しく揺らしたが、頬の熱を冷ますには至らない。
「ランドルフ様……?」
名前を呼ぶ声が震えてしまったことに、彼は気がついただろうか。
返事の代わりに返って来たのは優しい微笑みだった。しかし今や見慣れたその表情に、セラフィナは何故か緊張を覚えた。
「私、もうどこにも消えたりしません」
「ああ、解っている。妖精殿に愛想を尽かされないよう、私が努力すれば良いだけの話だ」
冗談めいた台詞とは裏腹に、彼の目は真摯な輝きを湛えて輝いている。月とは違って複雑な色を内包したそれを見つめてるうちに、いつしか唇を塞がれていた。
反射的に目を瞑れば、月光は瞼の裏側まで追ってくることは無かった。頬に添えられた手は一切の力を加えることはなく、暗く閉ざされた視界の中、彼の唇の熱だけが鮮烈な印象を焼き付けていく。
キスをする時、どうやって息をすればいいのか未だによく判らない。緊張と酸欠で思考が麻痺し、強張った身体はそのままに何もできなくなる。
ほんの僅かな時間の後に唇から熱が離れていったので、セラフィナはゆるゆると瞼を押し上げた。同時に頬に触れる硬い手のひらも降ろされて、少しの寂しさを感じる。
潤む視線の先に待っていたのは、幸せそうな、けれどどこか切なそうな、胸が締め付けられるような微笑みだった。
「……これだけで、こんなに身体を硬くしているんだ。これ以上はまだ望むべきではないんだろうな」
早鐘を打つ心臓の音と、未だに動こうとしない思考回路のせいで、何を言われているのか理解することができない。
「私はお前が嫌がるようなことはしたくない。傷一つ付かないよう守って、甘やかしてやりたいと思う。だが」
そこでランドルフは葛藤を滲ませた瞳を伏せ、喉を詰まらせたように言い淀んだ。
彼が一体どうしてそんなに苦しそうにしているのか知りたいのに、問いかける言葉が出てこない。再び真っ直ぐな瞳を向けられても、セラフィナはただ呆然と見返すことしかできなかった。
「それと同じくらい、全てを奪い去ってしまいたいとも……思っている」
それは囁くようでいて、苦悩と渇望に満ちた告白だった。
相変わらず頭の中は飽和しきっていたが、見たこともない程に熱を帯びた瞳を見つめているうちに、言われた言葉が徐々に浸透し始める。
ひときわ強い風が吹いて、金糸の幕が視界を覆った。
セラフィナがなびく髪を手で押さえるのと同時、窓を閉めたのはランドルフだった。途端に外の世界のかすかな騒めきが遮断されて、自らの心臓の音が主張を始める。
「お前と共に眠る時、私がどれほどの忍耐を自らに強いたか、解らないだろうな。無理にでも自分のものにしてしまおうと、何度思ったことか。きっと、知らないんだろう」
ゆっくりと吐き出されるようにして耳朶を打つ言葉の数々。大きな手がセラフィナの顔にかかった髪の毛をよけて、またしても紅潮しきった頬が晒された。
「全ては私の勝手だ。守りたいと思うのも、欲しいと思うのも。……愛しているんだ。どうしようもない程に」
あまりのことに眩暈がする。
泣きそうになったのは、切ないほどに愛する夫の隠された想いが、すんなりと受け止めるには余りにも予想外だったから。
そして暗闇の中で燃えるように輝く金色の瞳が、自分しか映していないことを理解して。
「嬉しい」などと、思ってしまったからだった。