とある将軍夫妻の帰還 3
その日に辿り着いたのは、リスヴェルから程近い大きな宿場町であった。
セラフィナは夫の選んだ宿に大人しくついて入る。どうやら高級宿だったようで、玄関ホールには絨毯が敷かれ、立派なレンガ造りのカウンターの向こうに女性係員が常駐していた。
「いらっしゃいませ。お二人様でよろしいでしょうか」
「ああ。空いているか」
「本日は込み合っておりまして、こちらのお部屋のみ空室でございます。如何でしょうか?」
係員は笑顔で羊皮紙を指し示した。そこには部屋の案内が書かれていたようだが、セラフィナにはよく見えなかった。
「お願いしよう」
「ありがとうございます。では、ご案内いたします」
どこからかポーターが現れて、二人分の荷物を引き受けてくれた。
セラフィナは国民に顔が割れているので、ローブを被って大人しくしているように言い含められている。それをいいことに恐縮して小さくなっていたのだが、案内の女性が話し始めた内容には興味を惹かれずにはいられなかった。
「お部屋には当旅館自慢の露天風呂が備え付けられております」
「温泉? ここは温泉宿だったのか」
どうやらランドルフにも初耳だったらしい。
温泉。地下から湧き出るお湯をそのまま利用したそれは、様々な効用があって貴族や豪商の保養に人気だという。
噂を聞いたことがあっても、当然見たことも利用したこともないセラフィナは、思わず目を輝かせてしまった。
「この街は保養地として発展を遂げた、歴史ある温泉地なのです」
「それは楽しみだな」
「はい、どうぞごゆっくり。お夕食はどうなさいますか」
「もう食べて来たので必要ない。朝食だけ頼む」
「かしこまりました」
朝食はどんなものだとか、大浴場の位置だとか、そんな話をしながら階段を上っていく。物資不足の中でも客に不自由をさせないように、かなりの努力をしているようだ。
案内されたのは二階の南側に位置する部屋だった。落ち着いた色調で統一された室内は広く、繊細な意匠の家具が配置されており、そのどれもに清潔感がある。いくつかの扉があるので、恐らくあの中の一つに露天風呂とやらが鎮座しているのだろう。
重厚感あるカーテンに彩られた大きな窓の外、星々が瞬いている。遅い時間とはいえ未だ街には人が出歩いていたはずだが、不思議と喧騒は遠く聞こえた。
案内の女性とポーターが流れるような礼をして退室して行ったのを見送ると、セラフィナはようやくフードを脱いで息を吐いた。
「疲れたろう。少し休憩しようか」
「はい。……あの、ランドルフ様」
「ん?」
「こんな贅沢をしてしまって良いんでしょうか。こんなに遠くまで来ていただいたのも私のせいですのに」
倹約を重ねたとしても、二人がヴェーグラントまで行き着くには莫大な旅費がかかるだろう。セラフィナは申し訳なさに目を伏せたのだが、ランドルフが笑う気配を感じて、またすぐに顔を上げた。
「旅費のことなら、基本的に我が家は金が余っているから心配しなくて良い」
「ですが」
「色々と気にしすぎだ。何でもかんでも責任を背負いこもうとするのは良くないな。アルーディアに来たのはセラフィナのせいじゃない。そして私は大事な妻に出来うる限り不便をかけたくないと思っているから、このくらいの宿を取るのは当たり前のことなんだ」
セラフィナは赤くなると同時に言葉を詰まらせた。相も変わらず、彼は照れてしまうような事を何の臆面もなく言うのだから、こちらの心臓がもたない。
すっかり黙り込んでしまった妻を前に、ランドルフは冗談めかすように笑った。
「少しは理解していただけたかな」
「は、はい」
「よし、それなら良い」
言いつつ、ランドルフはジャケットを脱ぎ始めていた。セラフィナはそのジャケットを受け取ったのだが、その大きさと重みが愛おしくてつい目を細めてしまう。すると彼がどこか照れ臭そうに笑うので、どうしたのかと首を傾げた。
「いや、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのが、面映ゆくてな」
「え……! あ、その、喜んでいただけたのなら、良いのですけど」
セラフィナは赤くなる顔を誤魔化すように踵を返すと、歩調が乱れないように注意しながらクローゼットへと向かった。ジャケットをかけてからローブを脱ぎ、それもハンガーへと掛けていく。
駄目だ。思いを通じ合わせてからこっち、物凄い殺し文句が時と場合を問わずに降り注いでくるので、心臓が脈打ち過ぎて死んでしまいそうになる。こんな事で大丈夫なのだろうか、何せ今晩は——。
そこでセラフィナはようやく思い出した。
今日という日が楽しくて、すっかり忘れていたのだ。ポーターが上げてくれたトランクには、姉達が用意した「例の品々」が詰め込まれている。
やっぱり無理。セラフィナは咄嗟にそう思った。
そもそも誘惑をするだなんて彼女らに約束したわけではない。用意を整えてくれたことには感謝するけれど、多分に面白がられていたところもあったと思うのだ。
それに何よりも、怖い。
こんなに幸せでいいのかと不安になる。我儘を言って困らせたりしたらどう思われるのか。ちょっとしたことで愛想を尽かされはしないか。
今までの幸せは長くは続かなかった。この切ない程に愛おしい時間も、実は薄氷の上に成り立っているのでは……。
「そんなに皺を伸ばしてもキリが無いんじゃないか?」
遠くから不思議そうな声が上がって、セラフィナは肩を跳ねさせた。どうやら物思いの間中ジャケットを撫で付けていたようで、振り返ればランドルフがお茶の準備を整えているではないか。
「す、すみません! お茶の支度なんてして頂いて」
「それは構わないが、大丈夫か? 疲れたんだろう」
慌てて駆けつけた時には、無骨な手が繊細な茶器を持って茶を注いでいる所だった。あまりの失態に焦るしかないセラフィナだが、ランドルフは変だと思うまでには至らなかったようだ。
「セラフィナが淹れた茶には及ばないが、これでも飲んで休んでくれ」
そう言う彼もきっと疲れているだろうに、一体何をやっているのだろう。
セラフィナは羞恥と自己嫌悪に沈みかけたが、せっかく彼がお茶を淹れてくれたのに暗い顔をしていては駄目だと思い直した。
「すみません……。では、ありがたくいただきます」
テーブルを挟むようにソファが置かれていたので、二人は対面に腰掛けることになった。
彼の淹れた茶を飲むのは初めてだったが、苦味もなく上手に淹れてある。士官学校時代に身の回りのことは叩き込まれたと以前に聞いたことがあるが、お茶の淹れ方も指導の内だったのだろうか。
「ふふ」
「どうかしたのか?」
「ランドルフ様の淹れたお茶だなんて、貴重だと思ったんです。美味しいです、とても」
「それは良かった。そんなに喜んでくれるなら、これからはいくらでも淹れてあげよう」
こうして優しい時間を過ごしていると、未だに新しい一面が見えてくる。それも次々と。
そんな時、今まではよほどお互い遠慮しあっていたのだと思い知らされて、後悔が胸を重くする。
あるいはもっと素直に甘えてみれば、もっと沢山の質問をぶつければ、更なる一面を垣間見ることができるのか。
けれどセラフィナにはそれができない。今までの幸せは長く続かなかったという事実が、ふとした時、無意識に心へ歯止めをかける。
「ブリストルに帰るための旅だとは解っているのですけと、何だか楽しいですね。まるで旅行みたいで」
気を取り直すように放った言葉はいやに明るく響いた。暗い気分で居たくはなかった。心の奥底の恐怖心は拭えなくても、今この時が幸せなのは事実なのだから。
ランドルフは小さく微笑んで、急な話題転換を受け入れてくれたようだった。
「旅行?」
「はい。温泉にまで来れてしまいましたし、ようやくご領地にも行けるんですもの。以前どこかしらに連れて行くと言ってくださったこと、本当に嬉しかったんです。思わぬところで夢が叶ってしまいました」
セラフィナは素直な思いを述べてしまったのだが、ランドルフが何かに気付いたように目を見開いたので、己の言葉を反芻してハッとする。
「ご、ごめんなさい。能天気な事を言ってしまいました。忘れてください」
ランドルフは大怪我を負ったばかりであり、きっと早くブリストルへと帰りたい筈だ。領地とアルデリー要塞に顔を出す以外に道中の目的も楽しみもないだろうし、セラフィナを伴うことで足が遅くなる事をもどかしく思っているのかも。
「あの約束を、楽しみにしてくれていたのか…?」
しかし、彼の反応は思っていたものと違った。
金色の瞳を見開いたまま、セラフィナの言葉も耳に入っていない様子だ。困惑しつつもおずおずと頷くと、彼は嬉しそうな、しかしどこか申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「そう、だったのか。済まなかったな、どこにも連れて行ってやれなくて」
「いいえ、そんなこと!」
「この長い旅路を楽しい旅行と捉えるのも好ましいが、帰って落ち着いたら今度こそどこかへ行こう。約束する」
約束。それは何て幸せな響きなのだろう。
「……はい。約束、ですね」
こうして優しく気遣われる度に喜びで胸が溢れそうになるのを、きっと彼は知らないのだろう。
どこまでも穏やかな声で約束を告げる彼のことを、心の底から好きだと思う。
セラフィナは幸福だった。たとえブリストルに着いたら山のような仕事が待っていて、屋敷に缶詰になっても構わなかった。
この人とならどこに居たっていい。こうして二人でお茶を口にしながら、他愛のない話が出来たのなら、それが一番幸せな時間になり得るのだから。
その後もゆっくりと会話をして過ごした。
そうして夜も更けた頃、そろそろ温泉に入ろうということになったのである。