とある将軍夫妻の帰還 1
ここからは完結後のエピソードです。王宮を発つ少し前から始まります。
こじらせまくった二人がついに…!な話です。
苦手な方はご注意下さい。
それはアルーディアに滞在して少しの時が過ぎた頃のこと。親しみ深い声に名を呼ばれたセラフィナは、廊下を歩く足を止めて後ろを振り返った。
「姉上。お仕事の調子はいかがですか」
「そこそこね。ようやく休憩よ」
ベルティーユはやれやれとばかりに肩をすくめて見せたが、その表情に充実感が浮かんでいるのは明らかだった。
母を目の前で失った彼女が、きっと見た目よりも多くのことを背負い、複雑な感情を抱え込んでいることは間違いない。どれだけ冷え切った関係だとしても、この優しい姉が実の母を死に追いやってしまったことに何の後悔も抱かないはずがないのだから。
しかし今のところ、ベルティーユは実に自然に振舞っているように見える。大切な人が重体に陥ったことから周囲への気配りを忘れた自分とは大違いだ。
「随分お忙しそうですね。私に何か手伝うことはありませんか?」
「前にも言ったはずよ。セラフィナは我が国の賓客なのだから、対外的にもあなたに仕事なんてさせるわけにいかないわ」
「ですが何もできないなんて、もどかしくて」
「気持ちだけ貰っておくわ。いいから、あなたは旦那様の看病に徹してなさい。少しでも側にいて差し上げた方が、傷が早く良くなるのでしょう?」
「はい、ですので私もなるべくお側にと思っていたのですが……」
ランドルフの居る客間で殆どの時間を過ごすセラフィナに、彼は有難いことだがと前置きした上で、こう言ったのだ。
「せっかく故郷に滞在しているのだから、もっと出歩いてはどうかと。姉君を始めとした恩人の方々と過ごす時間を大切にすべきで、怪我のことなら痛みも引いたし不自然なほど早く治っているから気にするなと、そう仰られましたので」
そうして、セラフィナは後ろ髪を引かれるような思いで客間を後にしたのだった。
しかしそんな妹夫婦のやり取りをどう思ったのか。ベルティーユは一瞬無防備に目を見開くと、次には実に楽しそうな笑みを浮かべた。
「あら、いやだわ。惚気られちゃった」
「そんな、私はそんなつもりでは」
「良いじゃない。随分信頼し合ってるみたいで、安心したわ」
「ですから…!」
ベルティーユは意地の悪い、しかし温かみのある目をして微笑んでいる。そうしていると若くして重圧を担う彼女の立場からしばし解放されているように見えて、セラフィナはからかわれつつも安堵の思いを抱いた。
「ねえ、結婚するってどんな感じ?」
「え…どう、とは」
「そのままの意味よ。私ってこの歳だけど未婚でしょ、だから人並み以上に興味があるのよ。夫婦で暮らすってどういう感じなの? ねえ、久しぶりに会った姉と恋の話をしたって、バチは当たらないと思わない?」
好奇心に目を輝かせる姉姫に、セラフィナは言葉を詰まらせてしまった。
結婚生活がどういうものかなんて、正直に言ってこちらが聞きたいくらいなのだ。
セラフィナが眠りから回復したあの日、ランドルフと話し合った結果わかったことといえば、どうやら二人はお互い遠慮し合っていたということ。ましてや国の陰謀やら出自の秘密やらを意識して、離縁を前提とした結婚生活が人並みであるはずもない。
そして何より重大な懸案事項が一つ、心の隅に居座っているのだ。
「えっと……そう、ですね。幸せですよ、すごく」
律儀にも答えようとした妹の、態度の不自然さにはすぐに気付いたらしい。ベルティーユは訝しげに目を細めると、先程までとは打って変わってゆっくりと口を開いた。
「どうしてそこで目が泳ぐのよ。何か気になることでもあるの?」
「いいえ、そんなこと」
「あなたって昔からわかりにくいようでわかりやすいのよ。ねえ、もしかして」
ベルティーユはそこで言葉を切ると、まっすぐな視線に炎を宿して詰め寄ってきた。
「浮気でもされたんじゃないでしょうね?」
「……え?」
「だとしたら許せないわ! こんなに可愛くて健気な子を差し置いて、どうして他の女に目移りできるっていうの? 信じられない!」
この興奮ぶりでも小声に押しとどめているあたり、彼女は立場のある人間としての自覚をきちんと持っているらしい。しかし怒りが頂点に達している事は間違いなく、セラフィナは何とか宥めようと焦って口を開いた。
「姉上、落ち着いてください。そのような事はありません!」
「じゃあどうしてそんな困った顔するのよ!?」
「それは……! つまり、その」
こんなこと他の誰にも相談できないと思っていたのに。
姉の剣幕に押されるようにして、セラフィナはついにその悩みを口にすることにした。この四ヶ月ほど心の片隅に居座り続けたあの悩みを。
ベルティーユの耳元に唇を寄せ、小声でその事実を囁いた。顔から火が出る程恥ずかしかったが、あのまま元第一王女の大噴火を見過ごすわけにもいかない。
姉姫はしばし処理しきれないと言った表情で完全に動きを停止していた。しかしやがて壊れた人形のような動きで顔をこちらに向けると、自身が噛みしめるかのようにゆっくりと、今聞いたことを復唱する。
「未だに経験がないし結婚生活がどういうものなのかそれも含めてわからない? 本当なの、それ」
「う……は、はい。ほんとう、です」
「何でそうなるのよ」
「わかりません……姉上はどう思われますか?」
「そ、そんなこと私に分かるわけないじゃない! 未婚だし当然そっちも未経験なんだから!」
相変わらず小声のままベルティーユは叫ぶ。顔を赤くして深呼吸を繰り返した彼女はややあってこう結論付けた。
「私の手には負えないわ。ここは先輩の意見を伺いましょう」
「ええっ! それ、本当ですかぁ!?」
クロエの素っ頓狂な叫びを受け、セラフィナは居た堪れずに身を縮めた。
恥ずかしい。消えてしまいたいほど恥ずかしい。
ベルティーユの提案によって、もっとも身近な既婚者であるクロエに話を聞こうということになったのである。セラフィナとしてはこの話を打ち明けるのに強い抵抗を感じていたのだが、誰かしらに助言を貰いたかったのも事実。
こうして三人は麗らかな昼下がり、ベルティーユの私室にてお茶会に興じていたのだった。
「何ですかそれ! もはや奇跡の存在じゃないですか! セラフィナ様が神々し過ぎて、私目が潰れそうです!」
クロエの膝にはイネスが鎮座しているのだが、彼女は母親の大声にも驚いた様子はない。むしろ「あい!」と言いながら同意するように手を挙げているのだから、もしかすると大物なのかもしれなかった。
「私もそう思うわ。もしかして、清らか過ぎて手を出しあぐねているのかしら?」
「普通の娘さん相手ならあり得ませんが、ことセラフィナ様に関してはあり得るかも知れませんね!」
クロエは興奮気味にまくし立ててから紅茶を飲み干すと、ぶは、と豪快に息を吐いた。
「これは、私が思うにですけど。ご事情はわかりませんが、侯爵様は離縁を考えておられたのですよね? 多分そのせいじゃないでしょうか」
今までの経緯は機密事項を除いて説明してある。そんなことを話すのは恥ずかしかったが、ここまで打ち明けたのだから腹を括る事にしたのだ。
「どういうことですか? クロエ」
クロエが自信満々で頷くので、セラフィナは固唾を飲んで彼女の言葉を待った。
「要は、離縁を予定する奥さんに手を出すなんて不実だ、と考えていらっしゃったのではという事です」
それはセラフィナにとって晴天の霹靂とでも言うべき答えだった。
「まあ、そうでなければイン」
「下品よクロエ。控えなさい」
二人のやり取りも耳に入らず、必死でクロエの言葉を理解しようとする。
セラフィナはずっと、自分に魅力がないせいだと思っていたのだ。そんなことがあるのだろうか。だってそれは、つまり——。
「なるほどね。だとしたら侯爵様は、本当に必至でセラフィナのことを守っていたのね」
ベルティーユが納得とばかりに手を打つ横で、セラフィナはただでさえ赤かった顔を夕日に当てられたように染め上げてしまった。
守られていた? 知らず知らずのうちに?
「ね、ほら! もしそうなら一番素敵でしょう? とっても優しい、素敵な愛情です」
「クロエ、あなたって流石だわ! 頼りないように見えてやっぱり既婚者は違うのね」
「いやいや、それほどでも」
完全に動きを止めたセラフィナを他所に、完全に乙女モードに入った二人は楽しそうにお喋りを続けている。
彼女達はすっかりこの説を信じきっているようだが、この胸の内に巣食う不安は、他者の優しい言葉によって取り払われるものではない。
「いえでも、もっと他に考えられることがありますよね? ほらその、私の見た目が好みじゃない、とか」
確かにここ最近は触れてくれる事が増えたけれど、だからといって今まで何もなかったという事実が消え去るわけではないのだ。
「それはないわね」
「それはありませんね」
即答だった。余りにもさっぱりとした返事にセラフィナは続く言葉を失ったのだが、二人はすでに話を先に進めているではないか。
「もうこうなったら、侯爵様を誘惑しちゃいましょう、誘惑! 今の時代、女から仕掛けるのもまた一興!」
「きゃああ、やだあ! どうすれば良いの、先生?」
「あーう!」
いつのまにかクロエが先生に格上げされている。というか、気高い一の王女が完全に年頃の乙女と化している。
あともう一つ気になることがあるとすれば、イネスに聞かせるべき話では無いということだろうか。ただしこの赤ん坊は楽しげに手を振り回していて、まるでベルティーユと一緒に話の続きを待ち望んでいる様にすら見えるのだが。
「難しいことは一つもありません。夜になったらぴとっとくっつけば良いのですよ! もうこれだけで大丈夫!」
「きゃあ! 先生、大人!」
「ひゃーっ! あう!」
だめだ。この二人……いや、この三人は、もう何を言っても聞きそうにない。
幸いなのはここがベルティーユの部屋であると言うことか。人の立ち入らない奥まった私室なら、このとんでもない話を誰に聞かれることもないだろう。
「随分楽しそうですね、奥様」
しかしその安堵はあっけなく裏切られた。ぎこちない動きで後ろを振り返ったセラフィナは、そこに水のボトルを抱えたエルマを見つけたのだった。
「侍女様から仰せつかり、お水をお持ちしました。お茶もご用意できますが」
「ありがとう。いいのよ、茶葉一つ取っても今は節約しないとね。……あら。あなたは確か、エルマといったかしら」
「はい。奥様には大変お世話になっております」
落ち着いた笑みを浮かべるエルマに、ベルティーユは何かを思いついたという顔をした。その面白げな表情に嫌な予感を覚えたセラフィナは、その後すぐに間違いではなかった事を知ることになる。
「ねえねえ、あなたなら侯爵様のお好みが解るかしら?」
「旦那様のお好み、でございますか?」
「セラフィナ様が侯爵様を誘惑するんですよぉ、エルマさん! どんな服装とか、香りとか、ご存知ありませんか?」
「姉上、クロエさん!」
セラフィナにしては珍しく咎める声を出した時にはもう遅かった。どうやらこちらも乙女モードを発動したらしいエルマは、涼しげな笑みを一瞬にしてニヤニヤ笑いに取って変えたのだった。
「それは素敵な計画ですね! 奥様ったら全然その手の相談をしてくださらないので、寂しかったんですよ」
「この子超の付く奥手だものね。それで、侯爵様について何でもいいから教えて欲しいのよ」
セラフィナは今度こそ諦めることにした。年頃の女子が集うと無敵になるというのは、貴族の奥様方の茶会に参加したことからよく知っている。
「いえ、残念ながら。奥様ですらご存じないことを、私が存じ上げているということも無いでしょう。ただ」
「ただ、何かしら?」
「個人的観点から語らせて頂くとするならば、奥様にお似合いになるのは白と青、ですね」
ごく真剣に語るエルマに、ベルティーユとクロエも何かを感じ取ったらしい。二人とも神妙な面持ちになると、顔を見合わせて呟いている。
「この人、できるわ……!」
「ええ! 強力な助っ人現る、ですね!」
三人は固い握手を交わすと、一斉に拳を振り上げた。
「この物資不足の中、私たちで最高の支度をするのよ! 頑張りましょう!」
「あい!」
ベルティーユの気合いに対して、一番最初に勇ましく返事をしたのはイネスだった。華やかな笑い声の後に気勢が上がるのを尻目に、セラフィナは何とも気恥ずかしい思いを抱えたまま紅茶を啜るのだった。