看病と嫉妬心 2
馬車で別れて以来消息を絶った元護衛騎士のことを、セラフィナはずっと案じていた。
裏切られても、傷付けられても、最後に見た優しい笑みがエミールの本心のような気がしてならなかった。それを本人に伝えたらきっと馬鹿にされるのだろうけれど。
しかし、彼の安否を誰に尋ねたら良いのか分からない。
エミールは表向きは王党派の人間で、裏では「アルーディアの転覆を望む」危険思想の持ち主である。だから革命派の面々に尋ねる訳にはいかなかったし、一番知っていそうなジスランは檻の中だ。
そこで怪我をした兵士たちの手当てついでにそれとなく尋ねてみると、意外にも多数の目撃証言が上がってくるではないか。
どうやらエミールは革命派の手助けをしてくれたらしい。
それを聞いて一度は安堵したものの、なぜ彼がその行動に至ったのかまるで解らず、しかも安否は不明なまま。拭いきれない不安を抱えることになったセラフィナは、結果的にランドルフに尋ねる決心をしたのだった。
「奴の安否については私も詳しくない。革命軍と国王軍との戦闘にそれらしい人物が紛れ込んでいたと、そんな報告があったくらいか」
「そうですか……やはり…」
ランドルフの答えは簡潔で、セラフィナが知る以上のことは何もなかった。少々落胆したところで何だか彼の声がいつもより低いような気がしたが、続く言葉に全ての意識を持っていかれてしまった。
「だが奴はハイルング人の末裔で、しかも極端に力が強い。おそらく何処へなりと生き延びているだろうな」
その時、セラフィナは頭を殴りつけられたような衝撃を覚えていた。
エミールがハイルング人の末裔? そんな話は初めて聞く。
そもそも、どうしてランドルフがエミールのことをそんなに良く知っているのか。まるで顔見知りのように語るのは何故なのか。多くの疑問が脳内で渦を巻いて、つい呆然としてしまう。
そこでようやく彼の瞳が隠しきれない憤りを映している事に気付いて、セラフィナは息を呑んだ。
「……お前を傷つけ、裏切り、拐かした男の事がそんなに心配か?」
低く紡ぎ出された声は、明らかな怒気を纏っていた。
ランドルフはエミールの行いを知っていて、おそらく一度は顔を合わせたことがあるのだろう。そうでなければ名前を聞いただけでこんなに怒るはずがない。
「よりにもよってお前がその名前を口にするのか。奴のおかげでどんな目にあったか、忘れたわけではないだろうに」
エミールのせいでこの将軍閣下がどれほどの迷惑を被ったか、考えてみれば怒るのも当たり前である。けれどセラフィナは、彼に自分の考えを聞いてもらいたくて必死だった。
「違うんです……! エミール様は、きっと、譲れないものを抱えておられたのです!」
彼はハイルング人の末裔だった。それだけで、彼が抱える闇の一端が垣間見えるような気がした。
アルーディアという国はハイルングの落とし子への差別意識が強い。きっと彼は迫害されながらも生きてきたのだ。そう、国ごと滅んでしまえばいいと思うほどに。
ランドルフに同胞の境遇を理解して欲しい。そして、彼が怒っていることが悲しい。そんな想いに駆られたセラフィナは、つい目の前の人物へ気を配ることを忘れてしまった。
「思えば、あの方はずっと優しかったのです。アルーディアにいた頃もよく気にかけてくださいました。連れ去られてからも脅されはしましたけど、それも大人しくしておけという忠告の———」
「脅された?」
セラフィナの必死の説明を遮って落とされた言葉は、ほとんど唸り声のようだった。
どうやら火に油を注いだらしいと察したものの、時すでに遅し。未だかつてこの優しい夫から怒りの感情など向けられたことがなかったセラフィナは、すぐに反応を返せないまま顔を蒼褪めさせた。
「あの男に何を言われた。いや、何をされたんだ」
「そんな、何も」
「何も、か。先程からあの男を庇ってばかりだな。そんなに奴のことが大事か」
「……大事?」
そこで妙な方向へと話が転がり始めているのに気付いて、思わず鸚鵡返しをしてしまう。
エミールのことが大事とかそうじゃないとか、果たして今はそんな流れだっただろうか。そんな事よりも彼は個人的に被った迷惑のせいで、あの美しいスパイのことを敵視しているのではなかったか。
夫の考えている事が読めずに戸惑っていると、焦れたように伸びてきた無骨な手に二の腕を掴まれた。怪我人とはいえその圧倒的な腕力に抗う術はなく、一瞬にして身体ごと引き寄せられてしまう。
気付いた時には殆どベッドに乗り上げるような状態になっていて、至近距離に燃える金色の双眸があった。ベッドボードに背を預けたランドルフにもたれ掛かかるというとんでもない体勢で、しかも腰には力強い腕が回されている。
突然の接近に、セラフィナは自身の心臓が荒れ狂う音を聞いた。緊張と混乱で何も言えなくなっている内に、状況に不釣り合いなほどの優しさを伴った手が頬に添えられて、射抜くような視線から逃れられなくなる。
「目を覚ましてからずっと元気そうだったから、酷いことはされなかったのだろうと思っていた。本当に、自分の甘さが嫌になる……!」
絞り出すような声に悲痛な色が混じる。細められた瞳に怒りが滾っているのは相変わらずだったが、同時に後悔が覆い尽くしているのが見て取れた。
「無理をしていたのか? それとも、あの男ならば、何をされてもいいとでも?」
「待って下さい! 私、本当に何もされていません!」
あまりにも近い距離感に顔を赤らめながら、セラフィナは衝動的に叫んでいた。
「ランドルフ様がご自分を責められるようなことは、何もないのです! エミール様は、私を痛めつけるようなことはなさいませんでした!」
そう、ここ数日で感じていたことではあるのだが、どうやらランドルフはこの一連の騒動でセラフィナが受けた難事を、全て自分のせいだと思っているらしいのだ。そんな風に考えて欲しくなど無いのに。
「本当です。他の誰にも暴力なんて振るわれていません。信じて下さい……!」
妻の懸命な訴えに思うところがあったようだ。彼は何かに気付いたように息を呑むと、滑らかな頬に添えていた手を離して、今度は自分の目元を覆って長い溜息を吐く。
ややあって大きな手の下から漏れ聞こえてきた声は、わかりやすく沈み込んでいた。
「すまない。大人気ないことを言った」
「大人気ない、ですか?」
今の話のどこに大人気なさがあっただろうか。どうやら冷静を取り戻してくれたらしい事に安堵しつつ、セラフィナは問いかける。
「年甲斐もなく嫉妬した。あの男を気にかけるような事を言うから」
「え……」
直ぐには言われた意味を理解できずに間の抜けた声を出してしまった。しかし徐々にその言葉が浸透してくるにつれ、顔に熱が集中していく。
嫉妬。今この方はそう言ったのか。
「な、何をおっしゃるんです…!?」
「ああ、本当にな。そのせいでお前に苛立ちを向けてしまうとは、情けなくて顔向けできん」
よく見るとランドルフは耳を赤くしていた。相変わらず顔を手で覆い尽くしているので表情を伺う事はできないが、どうやら冗談を言っている訳ではなさそうである。
いけない。今、少しだけ可愛いと思ってしまった。こんな大きな体をして、強くて格好いい人なのに。国の危機を救ってきた英雄相手に抱いていい感情ではないのに。
セラフィナは首を横に振って自らの不謹慎な考えを追い出そうとしたが、どうにも笑みくずれてしまうのを止める事ができなかった。
好きな人にそんな事を言われたら嬉しいに決まっている。嬉しすぎて、いまいち実感が湧かないくらいだ。
「何を笑っているんだ」
どうやらセラフィナが挙動不審になっているのに気付いたらしく、ランドルフは顔から手を退けてこちらを見つめていた。その表情は見たことがないほど憮然としているようだ。
「……まあいい。それで、脅されたとはどういう事なんだ」
「あの、話が戻っていませんか?」
「私は開き直ったんだ。答えるまで離す気はない」
今度は両腕で腰を抱き寄せられてしまい、セラフィナは更に顔を赤くした。
先程のような怒りは無いものの、金の瞳は心配を含んで揺らめいている。これ以上の心配をかけないためには嘘を答えたほうがいいのかもしれないが、彼を裏切るような事はしたくなかった。だから言葉を選びつつ、本当のことを話すことにする。
「ええと……その。今思えば多分、あの方は最初から脅すだけのつもりだったのでしょうから、大した事ではないのです」
「ああ。それで?」
「はい。ちょっと、押し倒されたと申しますか……国民を扇動する檄文を読めと言われて、押し問答、を」
セラフィナは唐突に言葉を切った。何故なら、床に伏しているはずの男から不穏な気配が噴出し始めていたから。
「ああ。それで?」
先程と全く同じ台詞なのに、地を這うような声になっている。
やっぱり言わない方が良かったかもしれない。後悔が脳裏をよぎったが、今更取り消せるものでもなかった。
「それだけ、ですよ……?」
恐る恐るといった調子で彼の反応を伺っていると、腰に回された両腕に力が入ったのがわかった。
「それだけなら良かった……などとは、とても思えそうに無いな」
金色が妖しく光っている。常に無いその輝きを、セラフィナは困惑と羞恥で受け止め切ることができなかった。
「その時、どこを触られた?」
「ど、どこも触られてません!」
本当は少しばかり服を脱がされたのだが、これはもうそんな事を伝えていい流れではない。触られたわけではないので嘘は言っていない、ということにしよう。
しかしセラフィナの思考を読んだように、今度は大きな掌が首筋に添えられた。誰かにそんな場所を触られるのは初めてで、露骨に体を強張らせてしまう。
「確かに、嘘ではないのだろうな。反応が余りにも初過ぎる」
「ひゃ……!?」
鎖骨のあたりに唇を押し当てられ、つい色気のない声をあげてしまった。その可愛げのない声に反比例するように、触れられた箇所が熱を持って脈打っている。
こんな彼は知らない。どうしたら。
セラフィナは頭に血が上りすぎて訳がわからなくなっていた。熱に浮かされたようにふわふわして、同時に激しい焦燥を感じるのは何故か。
そろそろ本格的に気絶するかもしれない。頬への口付けを受けながら目を回していた時、唐突にそれは訪れた。
派手な音を立てて扉が開かれる。二人は離れる時間も得られないまま、同時にその闖入者へと振り返った。
「よーお将軍サマ! ついに食えるようになったって? 近所から春野菜を分けてもらったんで、もって、き……」
突風のような勢いで扉を開けたのは、革命軍指揮官のオディロンであった。彼は登場の晴れやかさは何処へやら、徐々に尻すぼみになる台詞を言い終えないまま、最終的には押し黙ってしまった。
静寂が客間を満たす。
セラフィナはランドルフに抱き寄せられたままオディロンを見つめ、あまりの事に涙目で震えていた。
「あー……」
オディロンは頬をかいている。次に満面の笑みを浮かべると、春野菜を詰め込んだ籠を降ろして、機敏な動作で右手を挙げてみせた。
「すまん、邪魔したわ! 気にせず続けてくれ。じゃあな!」
そして来たときよりも勢いのある突風になったオディロンは、瞬時に客間を飛び出して行った。
またしても二人の間に沈黙が落ちる。しかしすぐに我に帰ったセラフィナは、弾かれたように夫から離れたのだった。
「あ、あの、私、仕事があった気がして。そう、たしか、姉上が畑を手伝って欲しいと!」
ベルティーユに誘われたのは嘘では無いが、興味があるなら暇な時に来たら良いと言われただけである。咄嗟の言い訳としては支離滅裂にも程があるのだが、そんなことを気にする余裕はない。
セラフィナは夫の顔を見る事もできないまま、林檎のように赤く熟れた顔を俯けて後ずさっていく。
「ですので、その……失礼しますっ!」
できることなら床を転げ回って、穴に潜り込みたい気分だった。取り急ぎの逃亡を決めたセラフィナは、踵を返してそのまま部屋を走り出たのだった。
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深い自己嫌悪に襲われたランドルフは、ベッドに仰向けに倒れこんで意味もなく天井を眺めていた。
視線をずらせば空になった食器がそのままになっていて、彼女が酷く狼狽していたことを暗に伝えている。
せっかく看病に来てくれていたのに悪いことをしてしまった。追いかけて謝りたいのに今の体ではそれも不可能だ。
なんて忌まわしい。本当に情けなさすぎて嫌になる。
嫉妬に駆られて詰め寄った挙句、妻のあまりの可愛さに思わず我を失ってしまうとは。
正直、オディロンが来てくれて助かった。そうでなければ何をしでかしていたかわからない。
「そろそろ限界だ……」
その呟きは広い天井へと消え、聞き咎める者は誰もいなかった。
お付き合いいただきありがとうございました。
次回から本編終了後のお話を始めます。