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セラフィナはノックの音に顔を上げた。時計を見れば時刻は昼の二時半。自室で机に向かい始めてから、既に一時間半が経過したことになる。
少しだけ伸びをして肩の抗議の声を聞きつつ返事をすれば、姿を現したのはディルクだった。
「ディルクさん。どうしましたか」
「セラフィナ様、どうかディルクとお呼び捨てくださいませ」
「あ……」
ディルクは困ったように苦笑して、ごく控えめにそう言った。
元王族のセラフィナだが、育った環境から歳上の人物に対して呼び捨てにするという習慣がない。つい敬称をつけて呼んでしまって控えめに訂正されたのは、ここへ来てすぐの事だった。
「申し訳ありません、どうしても慣れなくて……」
「いいえ、何も焦ることはございません。習慣を崩すのはさぞ難しいでしょうから」
ディルクは気にするなと言わんばかりに微笑んでくれた。
この屋敷の使用人達は、セラフィナに対して極めて親切だった。皆が当主の婚約者を気遣い、不便はないか、欲しいものはないかと何かにつけて声をかけてくれるのだ。足りないものなど一つもないので何かを頼んだことはないのだが、何故か彼らはその度に少し肩を落としているようにも見えた。
「して、セラフィナ様。今日も勉強をされていたのですかな?」
「ええ、今日はアイゼンフート家の御領地について学んでおりました。産業や気候については知ることができたのですが、地名の綴りが難しくて、少し困ったところが——」
本を開いてディルクに質問をしようと顔を上げると、彼はなんとも言えない目でこちらを見ていた。それはセラフィナを心配しているような、しかし嬉しくも思っていそうな、そんな瞳だった。
「この二週間というもの、一日十時間以上机に向かっておられますね」
「はい。……あの、進みが遅いでしょうか?」
「とんでもございません! むしろあまりに頑張りすぎではないかと思うのです。何も結婚式までにすべて覚えよとは誰も申しておりませんぞ? もちろん旦那様もそうです。そもそもセラフィナ様がお越し下さっただけで皆喜んでいるのですから」
気遣いにあふれた言葉に、セラフィナは感謝と申し訳なさで一杯になって思わず俯いてしまった。
ああ、本当にここの人達は優しい。
しかしこれは自分の問題なのだ。これ以上の迷惑はかけたくない。それには必要のない知識でもすべからく取り込んでおく必要がある。
それに、楽なのだ。勉強に没頭していれば、重大な秘密を抱えたまま結婚することへの罪悪感を感じずに済むのだから。
「ありがとうございます、ディルクさん。ですが、私は——」
言いかけたところでノックの音が響いた。
力強いその音にまさかと思いつつ返事をすると、入ってきたのは今ここにいるはずのない人物だった。その姿を認めるやディルクはすぐさま礼を取り、セラフィナもまた立ち上がって深くお辞儀をする。
「おかえりなさいませ……! お出迎えもせず大変申し訳ありません」
「ただいま帰りました。急なことでしたので、誰も対応できなかったのです。そのようなことはどうぞお気になさらず」
ランドルフは軍服を着込んだままで、いかにも今帰ってきたばかりという様子だった。
それにしても珍しい。ここ二週間ずいぶん忙しくしていたのに、いったいどうしたというのだろう。
セラフィナの疑問が伝わったのか、彼はすぐに答えを返してくれた。
「実は陛下より直々に休暇を賜りまして。今から明日の夜まで休めと」
「まあ、それは良うございましたね」
「ですので、貴女とどこかに出かけられたらと、思ったのですが」
「え……?」
それは予想だにしない誘いであった。
セラフィナは知っていた。自分と婚約したせいで、彼に余計な仕事をさせてしまっていることを。
アルーディアへの牽制のためにここまでの超過勤務を課せられているであろうことは、彼が賜ったという役目とディートヘルムの抜け目のなさを考えれば予想がついた。本当に迷惑をかけてばかりなのだから、せめてこのくらいはと勉強にも身が入ったものだったのに。
「ですが、大層お疲れなのではありませんか? せっかくのお休みですのに…」
「私のほうは問題ありません。もちろん貴女が行きたければ、ですが」
この歯切れの悪さを行きたくない故と取ったのか、ランドルフは少しだけ残念そうに笑って、無理しなくていいと言う。だからセラフィナはとっさに頷いてしまった。
「私は、行きたいです!」
「……本当ですか?」
「はい。ですが……やはりお疲れではないのかと、気になってしまって」
自分のせいで忙しくしているのだから、自分との時間を割いて欲しいなどとは思えない。セラフィナが眉を下げたまま見上げると、彼はなんでもないとばかりに首を横に振った。
「お気遣い感謝いたします。ですが、せっかくの休みだからこそ私もどこかに出かけたい気分なのです」
もしかしたら、ディートヘルムに姫の機嫌をとってこいとでも言われたのかもしれない。けれど、こうして遠慮せずに済むような言葉を選んでくれたのは、彼の優しさであると思っても良いのだろうか。
「…はい。喜んで」
どちらにせよ気を遣わせてしまったことに申し訳ないと思いつつ、セラフィナは隠しきれない喜びに微笑むのだった。