看病と嫉妬心 1
ものすごくお久しぶりでございます。
番外編始めました。
お待ちくださった方がいらっしゃるとも思えないのですが、もしいらしたら本当に申し訳ございませんでした!!
ただひたすら主役二人がイチャイチャするだけのお話です。
本編のシリアスをぶち壊す恐れがありますので、ご理解の上お進み下さい。
「ふむ……いやはや、驚異的な回復力ですな、閣下。これならば今日から少しずつ食事を始めても構いませんよ」
アルーディアに滞在して幾日かが過ぎた昼下がりのこと。壮年の軍医からもたらされた診断に、ランドルフは素直な喜びを感じた。何せそろそろ噛むという行為がしたい、という原始的な欲求を感じ始めた頃の朗報である。
「助かった。近頃は腹が減り過ぎて感覚がなくてな」
「はは、それはそうでしょうな。……さて、奥方様」
傍に佇むセラフィナも、自惚れでなければ嬉しそうに微笑んでいる。急に話を振られた彼女は居住まいを正したようだった。
「はい、何でしょう」
「最初の食事ですが、もちろん固形物や油っぽいものはいけません。摩り下ろした果物や野菜、よく煮込んだミルク粥などがよろしいでしょう。量は通常時の5分の1程度からです。ゆっくり噛むように見て差し上げてください」
「はい、承知しました」
セラフィナはごく真面目に頷いているが、ランドルフは少々残念だった。
「なんだ、その程度しか食べてはいかんのか」
「もちろんです。急にいつもの食事なんか取ったら死にますよ」
軍隊の歴史は兵糧と共にある。兵糧攻めを受けて解放された兵士が、急に肉を食べて亡くなったというのはよくある話だ。
もちろんランドルフもその事はよく承知していたので、本気で物足りなさに抗議したわけではない。これは軽口の応酬なのである。
しかしセラフィナは真に受けてしまったらしい。
「それはいけません! 私、柔らかい食事を、責任持って用意して参ります! 軍医様、ありがとうございました」
律儀に軍医に向かって頭を下げたセラフィナは、心なしか青ざめたまま部屋を出て行った。
いつになく素早い動きを見せた彼女に呆気にとられていると、隣からが聞こえてきた。
「可愛らしい上によく働く方ですなぁ、閣下。負傷兵の面倒も見て下さっているので、有り難い限りです」
「何? それは初耳だな」
そんな事をしてくれていたとは知らなかった。オディロンもセラフィナの訪問で回復したという話だし、きっと負傷兵にも良い影響を及ぼす事だろう。けれど。
心配が先立ってしまうのは、心が狭い証拠だろうか。
「大丈夫ですよ。あなたの奥方に邪心を持つような輩はアルデリーにはおりません」
知らずのうちに渋面を作っていたらしい。軍医は診察用の鞄を片付けながら、からかう笑みを浮かべている。
「考えを読まないで貰えるか」
「おや、素直ですな。どうやらすっかり惚れておられるようだ」
ランドルフは今度こそ閉口する羽目になった。
軍医が出て行ってからも上体を起こしたまま過ごしていると、少しの間を置いて待ち人はワゴンを押して戻ってきた。
「お待たせしました。オートミールのミルク粥と、苺です」
セラフィナはワゴンをそのままベッドの側に付けた。そこには湯気を立てるミルク粥と、細かく刻まれた苺、そして水の入ったグラスが収まっている。
「世話をかけたな。しかし、苺などという高級品がよく手に入ったものだ」
アルーディアの物資不足は深刻で、こうして世話になっている事自体憚られるような状況なのだ。
王宮に備蓄されていた食料は、すでに市場へ送る作業が始まっている。それによって徐々に市場価格は安定しつつあるらしいが、王宮内の食料事情は庶民と同程度に質素なものとなったという。
「これは姉上が支援の為に栽培していたものなんです。貯蔵された食料は民のものですが、自分で作り出した食材なら自由にできるからと」
さらりと告げられた事実は、王族の行動としては驚くべきものだったが、割合すぐに納得する事ができた。それはあの気高くも気さくな姫君らしい行動に思えたからだ。
「たった今採りに行って下さって」
「そうだったのか、有り難いことだ。礼を申し上げなければな」
セラフィナはとても嬉しそうに頷いてくれて、見ているとこちらまで胸が温かくなった。
ずっと悲痛な表情ばかり目にしていたから、彼女が笑っているだけで安堵と喜びが押し寄せてくるのだ。我ながらどうかしていると思うが、こればかりは仕方がない。
「ではまず、オートミールから召し上がって下さいね。さあ、どうぞ」
ランドルフは近頃浮かれっぱなしだったので、見事なまでに反応が遅れた。
何せ丸椅子に腰かけたセラフィナが、スプーンに乗せたオートミールを口元まで運んでくれていたのだ。まったく予想外の展開に思考回路が追いつかない。
「……いや、一応手は動くぞ?」
やっとの事でそう絞り出したランドルフだが、その瞬間後悔に襲われた。
こんな事を言っては彼女は大人しく引き下がってしまう。貴重かつ夢のようなこの状況、大人しく食べさせて貰えば良かったのに。
しかし今日のセラフィナは強情だった。
「いいえ、どうかお手伝いさせて下さい。ご自分で召し上がると、ついいつものペースになってしまうでしょう?」
この美しい元姫君は、夫の言うことに極力逆らわないようにしている節がある。どうやら先程の話で余程心配させてしまったらしい。
申し訳ない思いを抱えつつも自らの欲望に忠実になった猛将は、緩みきった顔のまま素直に口を開けることにした。
部下が見たらあまりのギャップに卒倒しただろうし、ルーカスやシュメルツあたりなら大いに囃し立てたであろう光景だった。幸いにもこの部屋には誰もいなかったので、帰ってきた反応はセラフィナの緊張を含んだ眼差しだけだったのだが。
「…………美味い」
長い咀嚼の後にこぼれ落ちた感想には、やたらと実感がこもっていた。
すきっ腹に滋養が染み渡っていくようだ。空腹は最高のスパイスというが、これは特に美味い気がする。何故だろうかと考えていると、セラフィナが嬉しそうに顔を輝かせた。
「本当ですか? ミルク粥を作るのは久しぶりだったので、不安だったんです」
「もしかして、作ってくれたのか?」
「はい。料理人の方にお願いした方が美味しいのは解っていたのですが、どうしても自分で作りたかったので…」
セラフィナは不安そうに目を細めていたが、ランドルフは納得すると共にこの上ない幸せを感じていた。
「そうか、妙に美味いと思った」
妻が手作りの料理を手ずから食べさせてくれる。こんな幸せがあっていいのだろうか。
いかつい男がこんなに華奢な女性に甘えているだなんて、絵面がとんでもなく悲惨すぎるのだが、それはこの際脇に置いておくことにする。
自分を厳しく律し続けて来たランドルフには珍しく、今はこの幸せを甘受したいと思ったのだ。
「良かった…! 無理をしない程度に、召し上がって下さいね」
セラフィナはミルク粥を少なめにスプーンに取ると、軽く息を吹きかけて冷ましている。口をすぼめる仕草が可愛らしい……と一人で和んでいたら、彼女はさらに笑みを深めてスプーンを差し出してきた。
本当に何なんだこれは。ここまでの褒美が出るようなことをした覚えは無いというのに。
じっくりと噛み締めてから飲み込んだのは、セラフィナに心配をかけないようにということと、あとは単にちゃんと味わいたかったから。
自然と笑みが浮かんでくる。やはりそのミルク粥は優しい味がしたのだった。
ミルク粥の後には苺も食べさせて貰い、ランドルフはすっかり満足していた。
やはり食事をとると生きている実感が増すものだ。それが愛妻の手がもたらした物ともなれば、何倍も元気が出る。
「ありがとう。美味かった」
「こちらこそ、全部食べて下さって良かったです」
セラフィナはワゴンの中段に用意していたらしいお茶のセットを取り出していた。カップに注いだお茶を差し出されたので、ランドルフは受け取ってゆっくりと飲む。とても美味しいお茶だった。これは間違いなく、彼女の淹れた紅茶の味だ。
「……美味い」
「熱くありませんか?」
「丁度いい。セラフィナは飲まないのか?」
「はい。頂きます」
セラフィナはもう一つカップを取り出してお茶を注ぎ、お馴染みの丸椅子に腰掛けた。
それからはゆっくりと会話をして過ごした。この数日かけてたくさんの話をしたのだが、ようやく想いを通わせた夫婦の話題は尽きることがない。お互い饒舌な方ではないので時折沈黙が訪れたが気まずさを感じるものではなく、むしろ落ち着くような心地さえした。
「そういえば、ジェレマイヤは元気でしょうか?」
「ああ、ジェレマイヤなら屋敷に置いてきたから、元気にしているだろう。あいつは速いし信頼できる馬だが、気性が荒いから馬車馬にはなれないんだ」
「気性が荒い? ジェレマイヤは優しい子ですよね?」
「……あいつは女性に弱いフェミニストなんだ。私も知らなかったがな」
他愛のない会話が続く。ブリストルを発つ前は、こんな幸せを得ることができるだなんて、夢にも思わなかった。
「あの、伺いたいことがあるのですけど…」
幾ばくかの時間が過ぎた頃、セラフィナがそう切り出してきた。
「ああ、どうしたんだ?」
彼女はいつになく言い淀んでいる。何か大事な話だろうかと身構えたランドルフだったが、それは無駄な努力に終わった。
「エミール・ペルグランという青年を見かけませんでしたか? 線の細い、中性的な容貌の方なのですけど…」
おずおずと紡がれたその質問は、浮かれた気分を吹き飛ばして、更に暴風となって止まるくらいの破壊力を持っていた。