終
ナイチンゲールの囀りが蒼く澄み渡った空に響いている。ここリスヴェルは春も終わりに近付いているといった様子で、すこし散歩をすれば汗ばんでしまいそうな陽気だった。
王宮の前庭に咲き誇る花々の中、セラフィナは隣を歩く夫を見上げる。すると優しく細められた金の瞳と視線を交わらせてしまい、瞬時に染まる頬を誤魔化すため、木の枝に遊ぶ小鳥へと視線を滑らせるはめになった。
ランドルフが目を覚ましてから、実に十五日もの時が過ぎ去っていた。
当初の予定では一月は要安静だったはずが、昨日の段階でだいたいの調子を取り戻してしまったのだ。彼本来の回復力とお守りの効力、そしてセラフィナから無意識に漏れ出る微弱な癒しの力が合わさって、丁度一般人の半分の時間での治癒を可能にしたらしい。
アルデリーの兵達はとうに帰途についており、ルーカスもフンケ少佐に着いて大人しく帰って行った。エルマもまた宣言通り、一足先にアルーディアを後にしている。
そんな経緯があって、未だ本調子でないランドルフが「これ以上世話になるのも良くないので帰る」と言い出したのも、半ば予想の範囲内の出来事ではあった。
門の前に停められた馬車の側まで歩いたところで、セラフィナは後ろを振り返る。するとそこには見知った顔触れが勢ぞろいしており、皆が晴れ晴れとした、しかしどこか寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「セラフィナ、元気でね。手紙を書くわ」
「姉上もお元気で。私からももちろん書きます。もう手紙のやりとりだって出来るようになるのですから」
ベルティーユは瞳を潤ませているように見えたが、やはり昔と違って涙をこぼしはしなかった。姉の笑みを見ていたらこちらの方が泣きそうになってしまって、きゅっと唇を引き結ぶ。そんな妹の内心を知ってか知らずか、彼女は急に悪戯っぽく微笑むと、妹の耳に口元を寄せてそっと囁いた。
「旦那様と進展したら教えて頂戴。今後の参考にするから」
「あ、姉上っ!」
瞬く間に顔を真っ赤にした妹を見て、ベルティーユは今度こそ声を上げて笑った。その快活な笑みは昔とまったく変わらない。
背後に控えるレオナールは涙を堪えて顔を赤くしていた。
それに気付いたベルティーユが呆れ顔で専属騎士の背を叩くも、あまり効果はなかったらしい。彼は乱暴に目元を擦ったが、震える声は誤魔化しようがなかった。
「セラフィナ様、どうかお元気で……!」
「レオナール、どうか泣かないで下さい」
「すみませんっ……! しかしこれでお二人とも今生のお別れだと思うと、どうしても……! ううっ」
とうとう嗚咽をもらしたレオナールに、ランドルフも困り顔である。彼らの間にはアルーディアに至る道程の中で友情が芽生えていた様だから、この気弱で心優しい騎士が泣いてしまうのも無理からぬことなのだろう。
「レオナール、しっかりしないか。この国が変わろうとも、お前に根付く騎士道精神は失われないはず。武の道に生きる者が簡単に涙を見せてどうする」
「アイゼンフート侯爵……も、申し訳ありません! ですがっ……」
「……はあ、困った男だ。いいか、レオナール。もう両国の関係は回復するのだから、落ち着いたら遊びに来ればいい。ベルティーユ様をお連れしてな」
「あらそれは名案ですね、侯爵様」
「えっ俺も! 俺も行く!」
「いいなー! 俺も行っていいかい、将軍様!」
「俺も!」
ベルティーユに続いて賛同を始めたのは革命軍の面々であった。オディロンとクロエは苦笑をこぼしつつ、彼らを代表するように前へと進み出る。
「図々しいぞお前ら! 悪いな、将軍。あんたには本当に世話になった」
「なんだ、水臭いなオディロン。お前も気が向いたら来い。暫くは目の回る忙しさだろうがな」
「……あんたって、つくづく貴族らしくないよなあ。まあでも、ヴェーグラントの援軍を率いるのがあんたで本当に良かったよ」
握手を交わす男たちを尻目に、セラフィナはクロエと向き直っていた。その視線は彼女の腕に抱かれたイネスに釘付けである。
「本当に可愛らしいですね。目の色がお父様そっくりです」
「セラフィナ様、あなた様はこの子の命の恩人です。良かったら抱いてやって下さいませんか」
「まあ、喜んで!」
恐る恐る抱いた小さな女の子は、機嫌を悪くすることもなく「あう!」と高らかな声をあげて無邪気に笑った。適度な重みと子供特有の体温の高さに慈しみを感じて、セラフィナは思わず笑みをこぼす。
「イネス、どうかお元気で。いつか成長したあなたに会える事を祈っています」
「あい!」
まるで言葉の内容を理解しているかの様な返事に、周囲に集まる者も声を出して笑った。
子供は希望だ。変わりゆくこの国を象徴するかのように、生命力に満ち溢れた存在。この子がどうなっていくのか今はまだわからないけれど、生まれ変わったアルーディアを形作る一部になることは間違いない。
クロエに礼と別れを述べたセラフィナは、慎重な手つきで小さな体を受け渡した。無事に母親の元に返すことができてほっと胸を撫で下していると、ふと視線を感じたような気がして顔を上げる。
「ランドルフ様、どうかなさいましたか?」
「あ、いや……可愛いなと思ってな」
「ええ、とっても可愛らしい赤ちゃんですね」
「……そうだな」
セラフィナは満面の笑みを浮かべたが、対するランドルフは眉を顰めてついと目を逸らしてしまった。不自然すぎるその挙動に首を傾げていると、意思を持った足取りで前へと進み出る人物がいた。
「アイゼンフート侯爵様」
ベルティーユが声を掛けたのは、ランドルフに対してだった。その瞳に宿る真剣さに気付いたのだろう、彼もまた姿勢を正して向き直る。
「本当にこの度はありがとうございました。……妹のこと、どうぞよろしくお願い申し上げます」
優雅な礼から滲み出るのは、彼女の高潔さや妹への愛情、そして感謝の気持ち。その姿を見ていたら、セラフィナは胸が一杯になって何も言えなくなってしまった。
「お任せ下さい。妹君のこと、私の一生を懸けて幸せにして見せます」
それは何時もの如くまっすぐな物言いで、セラフィナは思わず頬に朱を走らせた。
なんの躊躇いもなく示される愛情に、今はまだ慣れることができない。
「もう泣かさないで、とは申しません。どうかこの子を寄りかからせてやって下さい。これはあなた様にしか頼めない事なのです」
「ええ、心得ております。どうぞご安心ください」
その答えを聞いて安堵した様な息をもらしたベルティーユは、次にセラフィナを抱きしめてくれた。暖かな体を抱き返せば、本当にこれでお別れなんだという実感が胸中に広がっていく。
「姉上……本当に今までありがとうございました。幼い頃よりいつも私を気にかけてくださった事、心から感謝しています」
「ええ、私も感謝しているわ。セラフィナ、あなたのことが大好きよ。いつだってあなたの幸せを祈ってる」
「私も姉上が大好きです。あまり無理をなさらないで、どうかご自分を大切にして下さいね」
「それはこっちの台詞だわ。あなたはすぐに無理をするから。これからは旦那様をちゃんと頼るのよ」
「はい。はい、姉上」
最後にセラフィナの背をあやす様に叩いて、ベルティーユはゆっくりと妹を解放した。
周囲を見渡せば、皆が泣き笑いの様な表情を浮かべている。口々に別れや労いの言葉をかけてくれる面々に、涙が溢れそうになるのを堪えながら、セラフィナは深々とお辞儀をした。そしてランドルフに促され、共に馬車へと乗り込んだのだった。
窓を開けて顔を出せば、大きく手を振る人々の姿があった。負けないように大きく手を振り始めたところで、馬車はゆっくりと動き始めた。
土煙の中に彼らの姿が霞んでいく。
慕わしい人達。愛すべき故郷。
遠ざかる面影を追って目を凝らすが、その姿が確認できたのは、曲がり角を通るまでのことだった。
セラフィナは暫くそのまま景色を眺めていたのだが、やがて窓を閉めて腰を落ち着けた。
次はエマや懇意にしていた街の人たちを訪ねる予定だ。手紙で無事を知らせてくれた彼らに、まさか赤い目のまま会うわけにはいかない。
セラフィナは目の淵に滲んだ涙を拭おうとしたのだが、不意に大きな手がその動きを制した。
「まったく、夫を頼れと忠告されたばかりだというのに」
言うなりぐいと腰を引き寄せられる。一瞬のことに驚く間も無く、セラフィナはランドルフの膝の上で横抱きにされてしまっていた。
「ランドルフ様……!?」
「私と共に帰る道を選んでくれた。だからこの涙は私のせいだな」
青い瞳の縁を無骨な指がなぞる。驚きのあまり目を見開く妻の顔を覗き込み、彼は愛おしくてたまらないと言わんばかりに微笑んでいた。
そして目尻に感じる優しい感触。口付けられたのだと理解したのは、彼が低く笑う声を聞いてのことだった。
「なんだ、まだ泣いていても構わんぞ。孤児院に着くまでは間があるようだしな」
「あ、あの、もう大丈夫です。ありがとうございます……」
恥ずかしさのあまり涙はとうに引っ込んでいた。どうしたらいいのかわからず、目を泳がせつつ礼を述べたセラフィナに、ランドルフは不安げに眉を寄せる。
「こうしているのは嫌か」
「そんな、嫌なはずありません!」
そう、嫌なわけがない。ただ恥ずかしいのだ。だってこんな事は誰ともしたことがないし、上手い反応を返すどころか狼狽える事しかできずに情けなくなってくる。
「そうか、良かった。私はいつだってお前に触れていたい」
蕩けるような笑みで告げられた熱烈な愛の言葉に、セラフィナは今度こそ絶句した。
駄目、これでは心臓が爆発してしまう。
これ以上この話を続けるのは危険だと判断したセラフィナは、強引に話題を変えることにした。
「ラ、ランドルフ様。近頃は、私のことをお前と呼んでくださるのですね」
「……ん? ああ、そういえばそうだな。本来、貴女という呼び方はあまり柄じゃなくてな。気付いた時にはやめていた」
それはもしかすると、セラフィナに対して作っていた壁を、全て取り去ってくれたということだろうか。だとしたらとても嬉しいことだと思う。
「私には粗野なところが多々あるようだ。嫌なら改めよう」
「いいえ。私、すごく嬉しいです。思い上がりかもしれませんが、ランドルフ様が近くなったような気がして」
これからはもっと近くに寄り添っていたい。多くのものを背負うこの人を支えられるくらいに強くありたい。そんな決意を持って微笑めば、ランドルフは驚いた顔をしてしばし固まっていた。
何か妙なことを口走ってしまっただろうかと戸惑ったのも、ほんの一瞬の事だった。
「セラフィナ……! 本当に、お前は……っ」
切羽詰まったように名を呼ばれ、切なげに細められた金色が近付いてくる。近くで見ると様々な色を含んだその虹彩を直視できず、セラフィナは反射的に目を閉じた。
互いの唇が触れ合ったのは、それとほぼ同時だった。
二度、三度と角度を変えるうちに深まっていく口付けの、その甘い感触に全身から力が抜けてしまいそうだった。
縋るようにその広い背へ手を回すと、ますます抱きしめる腕の力が強くなる。この二週間で幾度か交わした口付けは優しいものでしかなかった筈なのに、今回のそれはいささか荒々しい。上唇を吸われ、下唇を食まれ、着いていくのにやっとのセラフィナがふと酸素を求めて口を開けた時。
唐突に馬車が止まった。
一杯一杯だったセラフィナはその事に気付かなかったのだが、こういう点でランドルフは流石であった。彼は素早くセラフィナを膝の上から降ろすと、戸を開けられる前に自ら馬車の外へと滑り出て、間髪入れずに閉めてしまった。
一人残されたセラフィナは、今起こったことを処理しきれずに硬直していた。しかしややあって状況に気付くと慌てて身支度を始める。
髪、乱れていない。ドレス、特に皺もない。顔、は…多分、真っ赤だ。
なるべく早く冷まそうと手で仰いでいると、戸がノックされる音が車内に響いた。返事を受けて顔を覗かせたのは、やはりランドルフであった。
「セラフィナ、少し降りてみないか。孤児院はまだだが、随分良い眺めだぞ」
こちらは恥ずかしさでまともに顔を見返せない程だというのに、彼はといえば既に平常心を取り戻しているようだ。なんだか翻弄されてばかりのような気がするが、どうやら御者の好意で名所に寄ってくれたのだと知れば、そちらが気になってくるのも事実。
セラフィナは差し出された手を取ると、導かれるままに馬車の外へと歩み出た。御者達は会釈すると馬車の影へと引っ込んでしまう。どうやら控えてくれているらしい彼らに内心で礼を言いつつ視線を飛ばせば、そこは眺めの良い高台だった。
眼下にリスヴェルの街が赤い屋根を広げている。そして蒼く澄み渡った空の果て、広大な平原に点在する森や街の向こうに、雄大な山影を見つけた。
晴れ渡ったからこそ目にすることができたのだろう。ピルニウス山脈は八つもの国をまたがる世界屈指の巨峰であり、このアルーディアにもその一端を接している。美しくも厳しいその霊峰は、ブリストルから見た時とはまた違った趣を持ってセラフィナの胸に迫ってきた。
「綺麗…」
呟きは春の空気に溶けて消えた。あの山のどこかにハイルング人の里がある。セラフィナと血の繋がった者もいるかもしれない。もしかすると、アイゼンフート家の遠い遠い親戚も。
そう考えてしまえば改めて感謝の気持ちが湧き上がってきて、セラフィナは瞑目した。長い時間をかけた祈りの後に目を開くと、図ったように傍から低い声が掛けられた。
「行ってみたいか」
見上げれば、ランドルフが穏やかな笑みを湛えてこちらを見つめていた。セラフィナも柔らかい微笑みを浮かべて、隣に並び立った夫に言葉を返す。
「ランドルフ様は、行ってみたいとお思いですか?」
逆に問いかけると、ランドルフは思案するように顎に手を当てた。やがて返された答えは、セラフィナの考えと全く同じものだった。
「そうだな、会ってみたいという気持ちはもちろんあるが、彼らの穏やかな暮らしを邪魔するわけにはいかない。アイゼンフートの遠い祖先と、当時の皇帝陛下が守ったものを、壊したくはないんだ」
「そう、ですね。私も同じ気持ちです。……それに」
胸が熱い。心の底から彼を愛しいと思う気持ちが湧いてきて、言葉が詰まって出てこない。そんなセラフィナを、ランドルフは辛抱強く待ってくれていた。
「それに、私の故郷はアルーディアであり、これから生きていく場所はヴェーグラントの……貴方の隣です。その事実だけあれば私には十分過ぎるほどですから、ハイルング人の里を見てみたいとは思わないのです」
心のどこかで一人で生きていくのだと思っていた。けれど今は違う。
この人と共にありたい。それは義務感抜きで抱いた唯一の願い。
「セラフィナ」
掠れた低音が名前を呼ぶ。ランドルフはどこか泣きそうに顔を歪めたように見えたが、すぐに今までで一番優しい笑顔を浮かべてくれた。
そっと引き寄せられてその広い胸に飛び込めば、感じるのは彼の鼓動だけ。何よりも愛しい体温に身を委ねて、セラフィナは無常の幸せを受け止めた。
丘の上を春に色付いた風が吹き抜けていく。
霊峰から届いたその風は、さながら想いを通わせた妖精と黒獅子を祝福しているかのようであった。
《黒獅子と妖精・完》
妖精と黒獅子は、これにて完結とさせて頂きます。
長い物語を完走して下さった皆様、本当にありがとうございました。