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細やかな指先が短くなった金糸を丁寧に編み込んでいく。慣れた手つきに見入っていると、その手の持ち主であるエルマがふとため息を漏らした。
「はあ……それにしても、本当にもったいない。まさかご自分で切ってしまわれるなんて」
この一週間で幾度となく繰り返された恨み言に、セラフィナは苦笑を返すしかない。
髪を切ってしまったことに関しては、当の本人よりも周りの方が余程ショックを受けているようだった。さほど気にしていないセラフィナは短い髪を下ろしたままで王宮を歩くこともあったのだが、すれ違う革命軍の面々は必ず悲しそうに眉をしかめていたし、クロエなどは出会うなり泣きそうに表情を歪ませる始末。
ランドルフに至ってはどうやら今回セラフィナの身に降りかかった事全てが自分の責任だと考えているらしく、勢いよく頭を下げられてしまった。
髪を切ったのは自分の責任であって誰のせいでもないと思っていたのだが、周囲にここまで気を遣わせてしまっては居た堪れない。なのでエルマがここに居てくれることは、セラフィナにはとても有難いことだった。
「エルマが来て下さって本当に助かりました。クロエは泣いてしまうので頼めませんし、エルマはとっても上手ですから」
「そう言って頂けるなら来た甲斐があったというものです。ああでも、あんなに綺麗な髪だったのに……」
エルマは悔しそうに歯噛みしつつも危なげない手つきで作業を終えた。セラフィナは礼を言って立ち上がり、忠実な使用人もそれに続く。
「奥様、ヴェーグラントへ帰る間も私が毎日結って差し上げますから、ご安心下さいね」
「まあ、それは頼もしいですね」
「その為に来たようなものですから」
笑顔で会話を交わしつつ支度部屋を出ると、そこにはすっかり見慣れた男が待ち構えていた。
「それは聞き捨てならないなあ。エルマは俺と帰るのかと思っていたのに」
セラフィナへと充てがわれた客間の中央、ソファに腰掛けて茶を飲んでいたのは、他でもないルーカスであった。
その姿を見るなり目を吊り上げたエルマは、つかつかと早足で彼の元まで歩み寄ると、不機嫌を隠しもしない口調で問いかける。
「恐れ入りますがルーカス様、誰の許可を得てここでお茶を飲んでおられるのですか?」
「まあまあエルマ、ちょっと耳貸してよ」
「本当に人の話を聞かない方ですね。どうして私があなたに耳など!」
エルマは噛み付かんばかりの勢いで対抗していたが、ルーカスが小声で話し始めるとピタリと動きを止めた。
「つまり、二人がようやくまとまったのは、つい最近というわけ」
「な……! それは、本当ですか!? あんなに仲が良いのに、今更!?」
「そ、信じ難いことだけどね。君なら思い当たる節があるんじゃないの?」
「そう言われてみると、確かに」
「要するに、ヴェーグラントへの道程は新婚旅行、蜜月同然なんだよ。使用人だって同行すべきじゃない。わかるだろう?」
なにやら二人はぼそぼそと小声で話し合っている。内容こそ聞こえなかったが、その様子は随分と仲が良さそうに見えて、セラフィナは嬉しくなってしまった。
最終的に頬に朱を走らせたエルマは、セラフィナの元に戻ってくると、こほんとひとつ咳払いをした。
「奥様、失礼いたしました。どうやら私が間違っていたようです」
「エルマ? 一体どうしたのです」
「敬愛するお二人の邪魔はいたしません。私は先に帰りますので、どうぞご夫婦で、ごゆっくりお過ごし下さい」
「え?……え、あの?」
「大丈夫です。髪の簡単な結い方ならお教えしますから」
エルマは有無を言わさない様子で、セラフィナはよくわからないながらも頷くしかない。ルーカスが何を言ったのかわからないが、一体どうやって彼女を心変わりさせたのだろうか。
「うんうん。じゃあ、エルマは俺と帰るよね? 君にアイゼンフート領を案内してあげたいな」
「いえ、私は一人で、最短ルートで、一切の寄り道なく帰りますが」
「駄目だって、女の子一人だと危ないよ?」
「貴方と旅する方が余程危険であることは、ここまでの道程でよくよく理解したつもりです」
そうして始まった痴話喧嘩とでも言うべきやり取りに、セラフィナは笑みを深めた。こうなるとこの二人は長いのだ。止めても無駄なら止める必要も無いのだと思う。喧嘩するほど仲が良いというし。
セラフィナはそっと二人の側を離れると、音もなく客間を後にした。向かうのはすぐ隣、夫がその身を休める部屋だ。
ランドルフの怪我は目に見えて回復しつつあった。撃たれたあの日から十日と少し、彼は既に短距離ならば歩いて移動できるまでに調子を取り戻している。
そんな夫の様子を側で見つめながら、セラフィナは安堵と共に不安と疑問を感じていた。
あんなにも大怪我だったのに、いくらなんでも治りが早過ぎるのではないだろうか。もしかすると、心配をかけまいと無理をしているのでは。
「そうだな。私としても、本当に治りが早いんだなと驚いている」
そして今日ついにその疑問を口にすると、人事ともとれるような言い回しの、妙な返事が返ってきたのだった。
「驚いているとは、どういう意味ですか?」
「……どこから説明したらいいのか。私も今ひとつ実感が湧かなくてな」
ベッドで上体を起こした姿勢で、ランドルフは腕を組んで思案するような素振りを見せる。珍しく歯切れの悪い様子にセラフィナは首を傾げたが、彼がゆっくりと語り始めるまでそう時間はかからなかった。
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「そうでしたか。そんなことがあっただなんて……」
ランドルフが生死を彷徨う中で見たという夢は、セラフィナの胸の内にストンと落ちた。アイゼンフートの祖先とハイルング人、そしてヴェーグラントの関係は、お互いを守ろうとするものであり、それは最も納得のいく真実だと思えたのだ。
「信じてくれるのか」
むしろランドルフの方が戸惑っているようで、その不安げな表情に、セラフィナはすっきりとした笑みを浮かべて見せる。
「もちろんです。当時の当主様は、ランドルフ様の為に隠し通すべき真実を教えて下さったのですね」
「……そう、だな。あの時私は、もう駄目だろうと思っていた。この夢が事実でなければ、きっと助からなかっただろう」
セラフィナは何だか堪らない気持ちになってしまった。
ハイルング人を守ろうとした、当時の当主の想いがあまりにも温かくて。
この人を生かしてくれたハイルングの血が、あまりにも愛おしくて。
「ランドルフ様。……あの、一つお願いがあるのです」
気付けばそんな一言が口をついてこぼれ落ちていた。ランドルフは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに勢い込んだ笑みを浮かべてくれる。
「珍しいな。何でも言ってくれ」
「はい、あの……ヴェーグラントに帰るまでの道すがら、寄りたいところがあって」
「なんだ、そんなことでいいのか? 一体どこに行きたいんだ」
不思議そうに目を瞬かせるランドルフに、セラフィナは泣き笑いのような表情で答えた。
「アイゼンフートのお墓参りに」
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荘厳なる威容を誇るベルケンブルク宮殿の奥、皇帝の居室では、部屋の主とその大叔父が優雅に茶をしばいていた。
「陛下。儂は気になることがあるのですが」
「何です、ベルヒリンゲン公」
「今回の件は一体どこまで計画を立てていたのですかな」
ベルヒリンゲンは探る視線を皇帝に向ける。ディートヘルムは秀麗な笑みを浮かべると、手に持っていたティーカップをテーブルに戻した。
今回の件とは、セラフィナが連れ去られ、アルーディアの革命を支援するところにまで発展した一大事件のことである。
ランドルフ達がブリストルを発って既に一月余りが経過していたが、アルデリーに到着したとの一報以来音沙汰がない。しかしベルヒリンゲンからすれば、気にかかるのは状況の進退よりも、この食えない又甥がどの程度まで事態を想定していたのかという事だった。
「そうですね。結論から言えば、セラフィナを軸にアルーディアとの関係を回復させたいと、彼女を降嫁させた時点で考えてはおりました。様々な状況下での対処法を用意するにあたって、革命が起こる可能性も一応は視野に入れていましたね」
「つまり、どのような状況になろうとも、柔軟に対応して関係回復に結びつけようという腹づもりだったというわけですか」
「ええ、そういうことになります」
なるほど、この有能すぎる皇帝陛下は、セラフィナが狙われていることを承知の上で泳がせていたということか。
まったく冷酷なようだが、狙われるまま放置したわけではないあたり配慮が垣間見える。
「ふむ。たしかに、アイゼンフート候ほど安心できる護衛もおりませんな」
「そうでしょう? 彼女には随分と助けられましたので。身勝手に降嫁させる以上、最も信頼できる男が相手でなければ失礼に値しますから」
「しかし、どうやらあの二人はすれ違い続けていたようですが」
ベルヒリンゲンが苦笑したのを受けて、ディートヘルムもまた笑いを零した。
どういう経緯があったか定かではないが、セラフィナ程に義理堅い人物が断りもなく出て行ったことは、重大なすれ違いの結果と見て間違いないだろう。そうでなくとも、二人が愛し合っていたことは誰の目にも明らかだったのだから。
「それについては、私もどうしたら良かったのか。アイゼンフート候が妻を手放したいと申し出てきたのは結婚式の当日で、まだ二人が上手くいくかわからない時期でしたから。離縁を二人が望むのなら、なるべく叶えてやりたかった。こんなことになるなら、何を置いてもまず夫婦で話し合えと促すべきだったのかもしれません」
「人の気持ちとは難しいものですからな。いくら陛下が推し進めた婚姻とはいえ、不用意に夫婦の関係性に首を突っ込むのは野暮というものです」
政略結婚の夫婦が愛し合う保証もなければ、義務もない。いくら皇帝といえども人の気持ちを操ることはできないし、こればかりは本人達次第なのだ。
「彼らはお互い頑固者ですからね。この機会に気持ちを確かめ合うことが出来るかは、アイゼンフート候の努力次第でしょう」
「そうですな。儂は大丈夫だろうと思っておりますが」
「私もそう信じることにいたしましょう。……さて、ベルヒリンゲン公。私にもあなたに伺いたいことがあるのですが」
「なんですかな、陛下」
「アイゼンフート侯はハイルング人の末裔なのではありませんか」
「おや。気付いておられましたか」
ベルヒリンゲンはわざとらしく片眉を上げて見せた。この可能性について思い至った者は初めてだが、彼なら気付いても不思議はない。
「ええ、可能性はあるだろうと。かなり力は弱いようですし、尋常ならざる体力をもつ侯爵のことなので、皆疑問を感じていなかったようですが。さすがに四年前の大戦で見せた回復力は人のそれを少々逸脱しています。あと、あの家ではハイルングのお守りも発見されていますから」
「ふむふむ、流石ですな。そう、侯爵は高確率でハイルング人の末裔でしょう」
ランドルフがハイルングの血を引いているであろうことは、幾度となく彼に外科治療を施した経験から導き出した見解だった。ベルヒリンゲン自身と比べれば彼の回復力は強くはなかったが、それでも一般人よりは明らかに怪我の治りが早かった。
「では何故、彼にそのことを教えてやらなかったのです?」
ディートヘルムの目は真っ直ぐな疑問に彩られて輝いていた。腹の読めない又甥のこんな表情は珍しく、年相応の様子にベヒリンゲンは相好を崩す。
「それはもちろん、ハイルング人達が自身の存在の隠蔽を望んだが故に。奥方は出自の解明を願いましたが、アイゼンフート候は自らがハイルング人の末裔だとは露ほども考えていない。仮に本当にそうだったとして、それは彼の祖先が隠蔽を望んだ結果であり、それを儂が無下にする訳にはいきません」
ハイルング人が望んだ平和な世界。彼らを原因として戦争が起こることは無くなったが、それでも人は争いを止めずにいる。
しかし、それでも。彼らに存在の隠蔽を託された者の子孫として、出来る限りの事をしたいと思う。それはディートヘルムも同じだった様で、彼はベルヒリンゲンの言葉を受けて面裏のない笑みを浮かべた。
「なるほど確かにその通りです。ハイルング人の存在を隠し続けることは我がフンメル家の使命ですから」
「確証もなく、お前はハイルング人の末裔だ、などとは申せませんでしょう」
「ええ。遠くない未来、誰かがピルニウスに足を踏み入れ、隠れ里を発見する日が来るのかも知れません。もしかすると人が空を飛び、上空から見つけることも……しかしそれまで、私達は彼らを守り通さなければならないのだから」
若き皇帝の笑みは頼もしく、まっすぐだった。それはこの国の未来を暗示しているかの様に見えて、ベルヒリンゲンは目を細める。
その時、ノックの音が慌ただしく響いた。
ディートヘルムの返事を受けて姿を表したのは皇后レナータだった。彼女は興奮気味に息を切らしており、勢い良く手にした手紙を差し出してきた。
「ディート、ルーカス殿からの報告が届いたの! ……あ。ベルヒリンゲン公、いらっしゃっていたのですか。失礼しましたわ」
「気にせんで下さい、皇后陛下。さて陛下、報告とやらを儂にも聞かせて貰えますかな」
「ええ」
ディートヘルムは一つ頷くと、レナータから手紙を受け取って封を切った。そしてその中身に目を通していくうちに、秀麗な美貌に食えない笑みが広がるのを目の当たりにすることになった。
「……ふ、やってくれる」
「ほう。では、つまりは」
「革命は成し遂げられたとの事。セラフィナは無事です」
まずはレナータが歓声を上げた。彼女はずっと親友のことを心配していたので、無事を知って心底安堵したのだろう。
「侯爵が怪我を負ったとの事ですが、まあ彼の事ですから問題ないでしょう。さて、こうしてはいられません。使者を立て、新政府と関係回復の交渉に努めねば。ベルヒリンゲン公、失礼を」
俄かに立ち上がったディートヘルムに続いて、レナータも慌ただしく部屋を出て行く。途端に静まり返った空間において、ベルヒリンゲンは一人笑みを浮かべて茶を啜った。
全く、若者たちの何と頼もしく逞しい事か。
世界は少しずつ変わっていく。アルーディアが王制を廃止したことによって、大陸でも右に習う国が現れ始めるかも知れない。
しかしこうして正しく人を導く者や、何かの為に戦おうとする者がいる限り、きっと人の営みは続いていくのだろう。
ハイルング人達に誇れる世界になったとは言えないが、彼らがこうして足掻く我々の姿を見たとしたら。
きっと喜んでくれるのではないかと、ふとそんなことを思った。