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頭が意思とは関係なく考えることを放棄してしまったかの様だった。しかし告げられた言葉がじわじわと浸透してくるにつれ、胸が引き裂かれるような痛みを訴える。
「………嘘」
悲しみに掠れた声と共に、堪えきれなかった雫が一つ頬を滑り落ちていった。決壊してしまった涙腺に背中を押されて、セラフィナはとうとう押し込めていた想いを吐き出し始めた。
「どう、して……そんなことをおっしゃるのですか。私は、少しも期待を持たないよう、いつも必死で」
優しさを向けられるたびに、喜びと苦しみがせめぎ合って心を苛んだ。この優しさを愛情から来るものだと勘違いしてはいけない。愛して欲しいなんて、思ってはいけないのだと。
いく筋もの涙が頬を滑り落ち、胸元や膝に染みを作っていった。目の裏が熱を持って脈動し、喉が焼けるように痛んでいる。みっともなくしゃくりあげる様を彼が驚きの眼差しで見つめているのが分かったが、それでも止められなかった。
「わかりません……なぜですか? そんな嘘、つかないでくださいっ……! だって、ランドルフ様は、ずっと、離縁するつもりでいらしたのに!」
絞り出した声は聞くに耐えないほどに引き攣れていた。もうランドルフの顔を見ていることができずに顔を俯けたまま身をよじる。肩を掴む大きな手の温もりが、今は切なくて仕方がなかった。
しかしランドルフはその拘束を緩めるどころか、ますます両手に力を込めてきた。まるで離さないとでもいうようなその力に、セラフィナは涙に濡れた顔をゆるゆると上げた。
「なぜお前がそんな事を知っている? ごく限られた者にしか明かしていない、はずで」
ランドルフは信じられないとばかりに瞳を見開いている。
こんな時でも真摯な輝きを失わない金色に、今は苦しみばかりが募った。本人から直接肯定されるのは初めてのことで、それはセラフィナに想像よりも強い衝撃をもたらしていた。
「もうしわけ、ありません。ルーカス様と、お話しされていたのを、聞いてしまって」
「……あの時か!」
しゃくりあげながらの告白に、ランドルフは全て合点がいったというように叫んだ。
びくりと身を震わせたセラフィナに、彼の方が傷ついたような表情を浮かべると、掴んでいた肩をそっと解放する。
「すまない、驚かせるつもりじゃなかった。……お前は、私が離縁したがっていると知り、だから出て行ったのか」
セラフィナは小さく頷いた。
その瞬間の彼の表情を、何と表現したらいいのか。嬉しいような、戸惑っているような。けれど最も前面に押し出されていたのは、自らへの憤りを含んだ苦い後悔であった。
「私はずっと、お前を自由にしてやりたかった。若く美しいお前に、私のような男は相応しくない。ずっとその身を犠牲にしてきたお前が自由を手にし、似合いの貴公子と結ばれて幸せになってくれるなら、それが一番良いと、そう思っていた。いや、思い込もうとしたんだ」
痛いほどに真剣な瞳が、縋るような輝きをもって訴えかけてくる。セラフィナはその金色から目を逸らすことができないまま、全ての想いを搾り尽くすかのような告白を聞いていた。
「しかし、駄目だった。別れを思えば思うほど、苦しくてどうしようもなかった。お前が笑う度、幸せで。出来ることならこの先もずっと守っていきたいのだと、もう自分から手放してやることはできないと、気付いてしまった」
どこまでも実直な言葉。飾り気がないのが彼らしくて、そして常よりももっと素朴で、だからこそ胸にまっすぐ届く。
「お前を愛している。憐れみでもいい、私に対する情が少しでもあるのなら。……どうか、戻ってきてくれないか」
懇願するように言い切った彼の瞳が不安げに揺れる。告げられた言葉の数々が胸の内に浸透していくが、すぐには現実だと理解することができなかった。
これは夢? 私はもしかすると死んでしまったのだろうか。目を覚まさない彼の枕元で衰弱して、幸せな夢を見ながら気を失っているのだろうか。だとしたらずっとここにいたい。ずっとこの幸せな時を漂っていたい。
「ランドルフ様……」
「うん?」
思うままに名前を呼んでも幻は消えなかった。それどころか躊躇いがちに伸ばされた手が、飽きる事なく溢れ出る涙をそっと拭ってくれる。
ーーー夢じゃない。
そうだ、この温もりは夢なんかじゃない。世界一安心できて、世界一胸を忙しなくさせるこの体温。
この方の側にいることを、私は心の底から願っていた。
「私、申し上げましたのに……お忘れでいらっしゃいますか」
苦しいほどの喜びに声が震えていた。頭が熱に浮かされたようにふわふわして、涙は止まるどころか更に溢れ出してくる。
胸が一杯で言葉が詰まる。けれど伝えなければ。もう一度。伝えたいのだ。自分がどんなにこの心優しい夫のことを想っているのかを。
「貴方のことを愛しています。ずっとずっと、愛していました」
驚愕に見開かれた金の瞳を見つめていられたのもごく短い時間のことだった。肩に回されたたくましい腕が、華奢な体を強く引き寄せる。性急なその動きに驚く暇もなく、セラフィナはランドルフの胸に掻き抱かれていた。
それは優しい抱擁ではなかった。全てを奪い尽くすような力で抱きしめられながら、セラフィナは目を閉じる。幸せのあまり涙が出るなんて、今まで知らなかった。
「ランドルフ、様……」
「ああ」
「お会い、したかった」
「私もだ。お前に会いたかった」
掠れた声が耳朶を打つ。会いたかった、ずっと。ようやく再会したのに、迷惑かもしれないと思うとそれすらも言えなくて。
「あの時っ、手を払ってしまって……勝手に出て行って、ごめんなさい……!」
「……っ! ああ…ああ、わかっている。すまなかった、全部私のせいだ。許してくれ」
嗚咽交じりの拙い謝罪に、ランドルフは息を詰めたようだった。ますます力を増した抱擁は、息苦しさと更なる幸せをもたらしてくれる。
「私が銃弾に倒れた時、お前は気持ちを伝えてくれていたんだな」
「覚えて、いらしたのですか?」
「ああ、よく覚えている。あまりに幸せで、本気で夢かと思っていた」
「……私は、今が夢みたいです」
その呟きは自分で思っていたよりも不安げに響いた。
頭では夢じゃないとわかっている。けれど実感が湧かないのは、大きすぎる幸せを受け止めきれないからか。
ランドルフはそっとセラフィナを解放した。離れていく温もりが寂しくて彼を見上げれば、熱を帯びた双眸と至近距離で視線を交わらせてしまった。
「セラフィナ、お前を愛している」
これ以上ないほどまっすぐな愛の言葉に、セラフィナは頬を朱に染め上げた。
先程からうるさいほどに脈動する心臓が、一際大きくその存在を主張している。疼くような苦しさから逃れようと胸に手を当てたが、むしろ音がよく聞こえるようになるだけだった。
「何度だって言おう。お前が当たり前の幸せを、当たり前に受け取れるようになるまで」
どこかで聞いたような台詞だった。出会ったばかりのあの頃から、彼の優しさは少しも変わらない。
「いや、慣れてからだって、私は幾度となく伝えたい。……お前を愛している。この先もずっと、守らせてくれないか」
ぽろり、と。一筋の涙が頬を伝い、手の甲で跳ねた。
幸せだ。涙が出るほどに。この暖かくもどかしい気持ちを抱いていられるのなら、他には何もいらない。
この人の側に居られるのなら、私はただそれだけで。
「はい。私も貴方を愛しています。この先もずっと……お側に置いてください」
この時、セラフィナは自然と微笑んでいた。
アルーディアで再会してから初めての心からの笑顔に、ランドルフも溶けるような笑みを返す。目尻に溜まった最後の一雫をそっと拭われれば、必然的に距離が縮まっていて。
二人は引き寄せ合うように唇を重ねた。
互いの想いを重ね合わせるような優しい口付けは、しばらくの間続いたのだった。