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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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22

 がくりと自分の首が揺れるのを感じて、セラフィナは束の間の微睡みから意識を引き戻した。

 時計を見ると針は一時過ぎを指しており、明るい窓の外を見るにどうやら五分ほど意識を飛ばしていたらしい。セラフィナはランドルフの顔を見て、先程と寸分違わないその寝顔を確認すると、何度目かわからないため息を漏らした。

 この三日ずっと同じ事を繰り返している。皆がきちんと休息を取るよう勧めたが、セラフィナは頑として首を縦に振らなかった。

 ベッドの側に腰かけたまま、時折意識を失うように眠りに落ち、僅かな時間で目を覚ましては落胆する。そんな生活によって確実に体力と心はすり減っていったが、それでも彼と離れて過ごすよりかは余程楽だった。

 静かに横たわる彼を見つめていると、不意に涙が頬を伝っていく。

  気を抜くとすぐにこれだ。セラフィナは苦笑気味に吐息を漏らして胸に手を当てると、深く深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。目を瞑って息を吸い込めば、次第に気持ちが穏やかになっていくのを感じる。


「セラ、フィナ……」


 それなのに掠れた低い声が名前を呼ぶから。大きく脈打った心臓を持て余したまま、セラフィナは恐る恐る声のした方向へと視線を向けた。

 

 すると、金の双眸が確かにこちらを見つめている。


 待ち望んだその輝きに、微かな微笑みに、頭の中が真っ白になってしまって。

 セラフィナは衝動に突き動かされるまま、ランドルフに覆いかぶさるようにして抱きついていた。

 先程止めようとしたはずの涙が堰を切ったかのように溢れ出し、喉が焼け付くように痛んだ。みっともない顔になっている事は解っているのに止まらない。

 目を覚ましてくれた。もう一度名前を呼んでくれた。これ以上の幸せがあるだろうか。

 様々な感情がない交ぜになって、頭が熱に浮かされたようにぼうっとしている。しかし大きな手が躊躇いがちに背を撫でる感触を得て、セラフィナはピクリと身を震わせた。

 暖かい。一番最初にそう思った。泣きじゃくるセラフィナを宥めるようなその動きに、相変わらずの優しさを感じてそろそろと顔を上げる。そこには予想した通り、ランドルフの優しい微笑みがあった。


「ランドルフ様……これは、夢じゃありませんよね? 本当にっ……目を覚まして、下さったのですよね……?」

「ああ、夢じゃない。お前のおかげで戻ってこられた。……ありがとう、セラフィナ」

「——良か、った……!」


 もうそれ以上は何一つ言葉にならなかった。最早しゃくり上げることしかできなくなってしまったセラフィナを、ランドルフは辛抱強く抱きしめてくれる。その温もりに少しずつ実感を得て、力を抜いたその時。


 なんの前触れもなく扉が開け放たれた。


「あ——っ! 兄さん、目を覚ましたんですね!?」


 大いに安堵を含んだその叫びに、セラフィナは弾かれたように身を起こした。

 姿を現したのはルーカスであった。彼は何かあった時のために続き部屋に詰めてくれていたので、セラフィナの声を聞きつけて事態を察知したのだろう。


「ルーカス……お前、本物か……?」


 ランドルフはまるで幽霊でも見たような顔をしている。ルーカスはくしゃりと顔を歪めると、殆ど走るようにしてベッドへと歩み寄った。


「心配……したんだぞ」

「それはこっちの台詞ですよ、もう! なんて無茶をするんですか!」

「それこそこちらの台詞だろう……」


 ランドルフの声は掠れて弱々しかったが、弟との軽口の応酬は既に何時ものテンポを取り戻していた。


「アイゼンフート侯爵、お目覚めですか!? よ、良かった……!」


 次に現れたのはレオナールだった。彼は既に滝のような涙を溢れさせており、その後に続くベルティーユは呆れ顔である。


「もう、しっかりなさいレオナール」

「だ、だって姫様あ……!」

 

 そしてその後は次々と見舞い客が現れて、客間はちょっとした騒ぎになってしまった。

 エルマが飛び込んできたと思ったら、オディロンとクロエが姿を現して、更にはフンケ少佐とその部下たちが号泣しながら雪崩れ込んでくる。彼らは皆一様に目に涙を浮かべて、ランドルフの無事を喜んでいるようだった。

 セラフィナはその賑やかな様子をじっと見つめていたのだが、不意に頭がぐらりと揺れて、ベッドに手をついて体を支えた。視界が黒い幕に覆われていくかのように、急速に閉ざされていく。


「セラフィナ、どうしたんだ……!」


 セラフィナのただならぬ様子にいち早く気付いたのはランドルフであった。彼は大怪我を負っているというのに、横たわったまま素早く手を伸ばして支えてくれようとする。

 もっとこの幸せな光景を見ていたいのに。

 悔やみつつも、久方ぶりに訪れた自然な眠気が温かみを持って全身を包む。名前を呼ぶ声を遠くに聞きながら、セラフィナは安息の眠りへとその身を沈めた。



 ******



 華奢な体がこの胸に飛び込んできた時、ランドルフはこの上ない幸福を味わうこととなった。

 泣きながら縋ってくるこの人が、心の底から愛おしくてたまらない。堪えきれずに小さな背中を撫でれば、涙を湛えた青の瞳がこちらを見返してきて、その儚げな様子に胸が引き裂かれたように痛んだ。

 ああ、こんなに心配させてしまったのか。

 申し訳ない思いと抑えきれない喜びとが渦を巻いて、その複雑にして大きすぎる想いに苦笑をこぼす。

 それでも今はただ、愛しい人の体温を感じていたかった。



 差し出した手を掴んだまま、糸が切れたように突っ伏してしまったセラフィナに、ランドルフはただでさえ青い顔色を紙のように白く染め上げてしまった。


「セラフィナ……!? しっかりしてくれ!」

「あー、大丈夫ですよ兄さん。きっと緊張の糸が切れてしまったんでしょう。寝かせて差し上げるのが一番です」


 血相を変えるランドルフとは対照的に、ルーカスは落ち着いたものだった。彼が軍医を呼ぶよう若い士官に命ずると、その場にいた者達も診察の邪魔になってはいけないと銘々退室していく。それぞれから労わりの言葉をかけられて、その一つ一つに答えていった末に、残ったのはセラフィナとルーカス、エルマだけになっていた。

 ランドルフはセラフィナの前髪をそっと払って、その表情が安らいでいることを確かめるとようやく息を吐く。


「義姉上は丸三日ずっと兄さんの側を離れなかったんですよ。連れ去られてからこっち、きっとまともに眠れていなかったでしょうに」

「そんな無理をしたのか!? 何故……っ!」


 急に大きな声を出したせいで無様にも咳き込んでしまった。

 そういえばひどく喉が渇いている。エルマが吸い飲みを差し出してきたので、ランドルフは引っ手繰るように受け取って中身を飲み干した。


「だ、旦那様……!?」

「何てことをするんです、兄さん! あなたは内臓を損傷しているんですよ!?」

「そんなことはいい。直ぐにでもセラフィナをベッドに運んでやらなければ」


 二人は顔を青ざめさせてランドルフの行動を諌めたが、その気遣いすら今は受け取る気になれなかった。

 しかし勢い込んで上体を起こした瞬間、脇腹に激痛が走って再び声も無くベッドへと沈み込んでしまう。これにはさすがのルーカスも目元を釣り上げ、見たこともないほどの怒りの視線で兄を射抜いた。


「正気ですか!? 縫いはしましたが、あなたの傷口は全くもって塞がっていない状態なんです! 内蔵飛び出ますよ!?」

「……すまん。だが、セラフィナが」

「兄さんは当面の間絶対安静です! 義姉上なら俺が運びます!」

「それは駄目だ」


 ランドルフは反射的に即答していた。以前なら内心で歯噛みしつつも、無表情で頼むことができていたはずだ。

 あまりにも素直に飛び出てきてしまった想いに、誰よりも驚いたのは当の本人であった。


 本当はずっと前から気付いていた。手放してやらなければと思う度に、胸が突き刺されたように痛んでいたことに。遠い祖先に諭されるまでもなく、手放したくないと心が叫んでいたことに。

 この愛しい存在を腕の中に搔き抱いて自分だけのものにしてしまいたい。どんなに想いを押し込めようとしても、そう願わずにはいられなかったのだと。

 セラフィナに向けるこの愛情は、もっと優しいものでなければならないはずだった。それなのに、今はもう弟が触れることすら我慢ならない。

 彼女が幸せになる為なら何だってする。その想いは今でも変わらないが、自分から手放してやることだけは、もうできそうもなかった。


「へえ……駄目、ですか。兄さんも随分と素直になったものですねえ。いい加減に認めたって事でしょうか?」

「………」

「無言は肯定と同義ですよ。エルマ、お願いしていいかい」

「はい。勿論でございます」


 エルマは得たりとばかりに頷くと、軽々とした動作でセラフィナを横抱きに抱え上げてしまった。素早い身のこなしで崖を下っていった時も思ったが、もしかして彼女はかなりの戦功を挙げた兵士だったのではないだろうか。

 しかしエルマがセラフィナを横たえた先は、驚くべきことにランドルフの隣で、これには流石に制止の声を上げることにした。


「エルマ、何故そこなんだ。こんなところではセラフィナがゆっくり休めないだろう」

「いいえ、これが最良の選択です。こんなに必死で看病してらしたのに、目を覚まされた時に旦那様がお側にいないのでは、おかわいそうではありませんか」


 エルマは珍しく満面の笑みを見せると、セラフィナが寝苦しくないように結い上げた髪を解いてやっていた。

 その無防備な寝姿にランドルフは息を詰める。自分からすればセラフィナの側に居られる事はとてつもない幸福だが、彼女にとってはどうなのか。何せ自分の意思で屋敷を出て行ったくらいなのだ。


「あっはっは! 最高だよ、エルマ。いい仕事をしたよね」

「恐れ入ります。では、私はこれで下がらせて頂きます。何かございましたらお呼びくださいませ」


 エルマが優雅なカーテシーをして退室していくのを見送って、ランドルフは気を取り直して弟に仕事用の視線を飛ばした。照れ隠しの意味も多分に含まれてはいたが、何せ聞きたいことは山とあるのだ。


「ルーカス、ここはいったいどこなんだ」

「王宮内の客間ですよ。ベルティーユ様の厚い勧めでこちらに運ばれたそうです」

「革命は一体どうなった」

「それなら、兄さんと俺で大した認識の差は無いと思いますよ。フランシーヌは自害、ジスランは拘束されて裁判にかけられる予定です。今は新政府の発足でてんやわんやしていて、ベルティーユ様やオディロン殿も随分忙しくなさっていましたが、先程は駆けつけて下さいましたね」

「ここからが大変な所だな。ヴェーグラントとの外交は」

「陛下には早馬を出しました。一報が届くのはもう少し先になりますが、おそらく即時対応してくださるでしょう」

「被害は」

「大隊内に限っては死者はおりません。最も重症の者で左腕の骨折、あとは打撲などの軽症者が二十一名。アルーディア国王軍に関しては十八名が死亡、五十三名が負傷。驚くべきは民衆に死者が出なかったことでしょうね。怪我人は六十名、いずれも軽傷です」


  ルーカスから聞かされた状況は、予想と多くは違わないものだった。皇帝陛下から受けた勅命を何とか果たしたらしいことを知って、ランドルフはようやく安堵の息を吐く。


「お前には世話をかけたな。フンケ少佐たちも労ってやらねば」

「そんなこと。皆もあなたが生きていてくれただけで嬉しく思っていますよ」

「ルーカス、お前も無事でよかった。もうあんな無茶はするなよ。お前にはこの先も大いに助けてもらわねばならんのだから」


 その時、ルーカスは泣きそうに顔を歪めたように見えた。弟らしくない表情にランドルフは目を瞬かせたが、それは幻かと思うほどに一瞬のことで、彼はすぐにいつもの爽やかな笑みを浮かべていた。


「ええ、わかっています。ああそうだ、被害についてですが、気になることがありまして」

「ああ、何だ」

「主に革命軍の証言なのですが、アルーディア軍と一触即発の状態になった時、一人の男が幽鬼のように現れて指揮官を仕留めてしまい、そのおかげでアルーディア軍は総崩れになったそうです。同様の証言が九名の戦死者に対して上がってきています」

「それは……随分と妙だな」

「そうでしょう? 何でもその男は女のように綺麗な顔つきをしており、いくら攻撃を受けても倒れることはなかったと。そして血塗れのまま群衆の間に姿を消し、その後は誰も彼の姿を見た者はいないとのことですよ」


 ランドルフの脳裏に優秀なアルーディア工作員の姿が明確な像を結んだ。恐らくはルーカスも同じ顔を思い浮かべていることだろう。もし幽鬼とやらの正体が彼だというのならどうして心変わりしたのか定かではないが、その答えに興味は湧かなかった。いくら犠牲を抑えてくれたのだとしても、セラフィナを刺したという事実は変わらないし許すつもりもない。


「そうか。まったく、よく解らん話だ」

「ええ、本当にね」


 だがルーカスの静かな微笑みを見るに、彼らは崖下で何かを語らったのだろう。それが叛旗を翻すきっかけになったのかどうか判らないが、それでも弟が嬉しそうにしているから、それならばあの諜報員にとっても良い結末であったのかもしれない。




 ややあって軍医が訪ねて来てくれた。彼は同じベッドで休むセラフィナを見て一瞬目を見開いたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。その反応に居た堪れなくなっているうちに診察は終わり、もう命の危険は無いと太鼓判を押される。包帯を替えたり消毒をしたりといった処置を終わらせて、最後に一月は安静にしているようにと言い渡すと、軍医はあっさりと退室していった。


「良かったですね兄さん。では、俺もそろそろ失礼しますよ。今はとにかくゆっくり休んで頂かないと」

「本当に世話になった。お前もゆっくり休めよ」

「また人のことですか? 今の兄さんは、自分と、あとは義姉上の事だけ考えていればいいんです」

「……ルーカス、お前な」

「はいはい、ではお休みなさい!」


 ルーカスは楽しくて仕方がないと言わんばかりの笑みを浮かべると、手をヒラヒラと振って部屋を出ていってしまった。

 途端に室内を静寂が満たす。やることを失ってしまえば、やはり視線は隣で眠るセラフィナへと吸い寄せられていった。

 彼女は心底安堵したとでもいうように、口元に微かな笑みを浮かべて眠りについていた。その安らかな寝姿に狂おしい程の恋情がこみ上げてきて、ランドルフは思わず苦笑をこぼす。

 ルーカスの言う通り、確かにもう認めるしかなさそうだ。この美しく健気な妻を、愛しく想う気持ちが隠せそうもない事を。


「目を覚ましたら、言いたいことがあるんだ。…聞いてもらえるだろうか」


 問いかけに対する返事はない。ランドルフは一瞬だけ愛しい人の頬を撫でると、いつもとは違って視線をそらさないままでいる事にした。


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