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その後の事はよく覚えていない。気付けばランドルフの応急処置は終了しており、セラフィナはこの客間へと寝かされた彼の側で椅子に腰掛けていた。
ランドルフが目を覚ます気配はなく、力なく目を閉じたその顔からはいつもの精悍な活気が失われ、額の傷に充てがわれたガーゼの白が痛々しかった。
軍医によれば、弾は摘出したが出血量が多すぎたため、未だ予断を許さない状況らしい。目を覚ましさえすれば大丈夫だが、ここからは本人の気力次第との事だった。
横たわる彼を見つめていると、既に枯れ果てたと思っていた涙がまたしても盛り上がってくる。
もしこのまま目を覚まさなかったら。
そう考えるたびに胸が張り裂けそうに痛んで、セラフィナは誤魔化すように首を振って暗い想像を脳内から追い出すのだった。
しばらくして、ノックの音が静まり返った室内に響いた。しかしセラフィナは掠れた声でしか返事をすることが出来ず、訪問者には聞き取ることが出来なかったらしい。涙を拭うだけの時間の後に躊躇いがちに開かれた扉の先に立っていたのは、沈痛な面持ちをしたベルティーユであった。
「セラフィナ、ちょっといいかしら」
「はい。どうなさいましたか」
セラフィナは微笑んで見せたつもりだった。しかし姉は痛ましそうに目を細めているから、上手く笑えていなかったのかもしれない。
「お客様よ。貴方と、アイゼンフート侯爵に」
「お客様ですか……?」
いまいち働かない思考回路で鸚鵡返しをしている間に、ベルティーユは一歩身を引いてドアの外へと目配せをする。そうして部屋の中へと入って来たのは、よく知る二人の人物だった。
「義姉上! ご無事でしたか」
「奥様…!」
二人が早足でセラフィナの元へと歩んでいくのを見届けて、ベルティーユは静かに退室した。それにも気付かないほどの驚きに見舞われたセラフィナは、呆然と彼らを見上げるばかりだった。
「ルーカス様…貴方様も援軍に参加なさっていたのですか? ですがエルマまで、どうして…」
「いえ、ちょっと色々あって、俺は援軍には参加できなかったんです。それで今しがたここに着いたばかりで」
「私は奥様が心配で、無理を申し上げて同行させていただきました」
彼らは揃って気遣わしげな瞳でセラフィナを見つめている。どうやら随分心配をかけてしまったらしいと解って申し訳なさが募るが、ルーカスがベッドに横たわる実の兄へと視線を滑らせた段階で、そんな気持ちは彼方へと吹き飛んでいった。
「ルーカス様……申し訳、ありません」
「義姉上?」
「私の、せいで、ランドルフ様がこんな目に。本当に、申し訳ありません」
「何をおっしゃるんです。兄さんが怪我を負ったのは、何一つあなたのせいではありませんよ」
ルーカスは気丈にもその声に笑みを乗せていた。労りを込めた言葉に、セラフィナはますます後悔を深めて首を振る。
「違うのです。私が、思い上がってランドルフ様の前に出たりしたから。きっとお一人でどうとでもなさったはずでしたのに、私を庇ったせいで対応が遅れて」
状況をうまく説明できていないことは解っていた。しかしルーカスは辛抱強く話を聞き、最終的には腰を落としてセラフィナと視線を合わせてくれた。
「仮にそうだとして、あなたが謝るべきことではありません。謝るとしたらそれは兄さんの方ですよ。あなたにこんな顔をさせて……罪深いことですね、この人も」
ルーカスは苦笑気味に兄の顔を見遣る。そのグレーの瞳が揺るぎなく無事を信じているのを見て取って、セラフィナの胸に微かな安堵が生まれた。
「大丈夫、こんな事くらいで兄さんは死んだりしませんよ。何せ不死身の黒獅子将軍ですからね。あの戦争を生き抜いた事に比べたら、これくらいなんてことはありません」
「ルーカス様」
ルーカスは自信たっぷりに頷くと、エルマへと目配せして見せた。それを受けて前へと進み出たエルマは元気づけるような笑顔を浮かべており、その手には大きな籠を携えていた。
「奥様、お着替えをなさいませんか? それにお風呂も。綺麗にしておかなければ、旦那様が目を覚まされた時に心配してしまわれます」
「エルマ……ですが、私は……」
自分の姿が酷い有様であることを、セラフィナは十分承知していた。血がドレスにべったりと付着していたし、短い髪は遊ばせたままボサボサになっている。
しかしそれでもランドルフの側をひと時も離れたくなくて口ごもっていると、その逡巡を理解してか、ルーカスはやけに明るい声を出して両手を打ち鳴らして見せた。
「いいではありませんか、風呂場はこの部屋に備え付けられているのですし。その間は俺が看ていますよ。何かあったら躊躇いなくお知らせに参りますから」
「ルーカス様! その時は外からノックいただければ十分ですからね!? わかっていますか!」
二人のやりとりを見ていたら少しだけ勇気が湧いてきた。セラフィナを元気づけようと、いつもの様に振舞ってくれているのが解ったから。
小さく頷いたセラフィナに笑みを深めたエルマは、早速手を取って風呂場へと歩き出した。
*****
女性二人が去った部屋で、ルーカスはその顔から笑みを消し去ると、目を細めて横たわるランドルフを見つめた。この兄が大怪我をして意識が戻らないだなんて、知る限りでは初めてのことだ。
「……何してるんです、兄さん。あなたらしくもない。大事な奥方をあんなに泣かせるなんて」
ポツリと落とされた呟きは、静まり返る部屋に吸い込まれて消えた。しばらくそうして立ち尽くしていたのだが、扉がノックされる音を聞いて返事を返す。
ゆっくりと開いた扉の先にいたのは、ベルティーユとレオナールであった。
「これは、王女殿下」
「いいのです。私はもう王女ではありませんから」
跪こうとするルーカスを制し、ベルティーユは迷いのない足取りで部屋の中へと入って来た。その後に付き従うレオナールとは先程無事を喜び合ったばかりだが、この王女様と打ち解けた記憶はない。
さてどんな用かと問いかける視線を向ければ、ベルティーユは沈痛な面持ちで目をそらしてしまった。
「セラフィナの事を大切にしてくれたあなた方に、せめて御礼を申し上げたかったのです。……ですが」
「一番伝えたかった人は、ここで眠りこけているというわけですね」
濁した言葉の先を汲み取って明け透けな物言いをしたルーカスに、ベルティーユは初めて微かな笑みを見せた。素朴な美しさを持った人だ。姿形は全然違うのに、その微笑みはセラフィナにどこか似ている。
「私は、セラフィナが泣くのを初めて見たんです。あの子はいつも我慢していました。どんなに苦しいことがあっても目に涙をためて、決してそれをこぼすことはなく……全てを覆い隠して、微笑んでいる。そんな子でした」
「私は兄と結婚してからの幸せそうな彼女しか知りませんので、いまいちピンときませんが」
思ったまま素直に告げると、ベルティーユは泣きそうに目を細めた。レオナールもまた苦しげに視線を伏せてしまう。
「……ええ。私は、そんなことも知らずに、身勝手にも妹を連れ戻そうとしました」
ベルティーユはぐっと拳を握り締めると、震える声で話を続けていく。ルーカスはただ黙って、姫君が血を吐く様にして紡ぐ言葉にじっと耳を傾けていた。
「侯爵様に縋って泣くあの子を見た時、初めて気が付きました。幼い頃から周囲を心配させまいと必死で自分を律してきたあの子は、私にすら本当の意味で甘えることができなかったのだと。ですが……嫁ぎ先で、ようやく甘えられる人を、見つけることができたのだと。それ、なのにっ……!」
唇を噛むベルティーユの肩に、レオナールの手がそっと置かれる。その感触にはっと顔を上げた彼女は、滲む目元を拭ってまっすぐな視線をルーカスへと向けた。
「ごめんなさい。あなたの方が、余程お辛いでしょうに」
「……いいえ。私の苦しみなど、義姉上のそれに比べれば軽いものです」
ルーカスは穏やかな微笑を浮かべた。あなたのせいではないと伝えるように。
「今は信じましょう。もちろん私も信じています。兄は…きっと帰ってきます。愛する人を泣かせたままにするような人ではありませんから」
そう、兄は帰ってくる。そのうちおもむろに目を覚まして、医師の見立てよりも余程早くベッドを飛び出してしまうに違いない。軽々と周囲の想像を超えて、抜群の安定感で皆を引っ張っていく。ランドルフ・クルツ・アイゼンフートとは、そういう人なのだから。
*****
「はい、出来ました。お綺麗でございます、奥様」
「ありがとうございます、エルマ。短い髪を上手く結い上げて下さって」
エルマはどんな手を使ったのか、セラフィナの短い髪をまるでいつもと同じようなアップヘアーにして見せた。お陰で気持ちが少しだけ上向きになったが、鏡の中に移る自分の顔は、微笑んだつもりでまったくそのように見えない。これでは皆に心配されてしまう筈だ。
「奥様、無理に笑われなくとも良いのですよ」
心中を言い当てたようなエルマの言葉に、セラフィナは息を呑んだ。鏡に映る彼女は悲しげに微笑んでいる。
「さあ、戻りましょう。ルーカス様に上手く看病ができるとも思えませんからね」
エルマはそれ以上言葉を重ねることはなく、セラフィナの手を取って立ち上がらせると、ドレッサーの設えられた支度部屋を出た。弱り切った心に彼女の気遣いが有り難かった。
寝室に戻ると、ルーカスは爽やかな笑みを浮かべてセラフィナを迎えてくれた。何かあったら呼んで欲しいと言い残して退室していく二人に深々と頭を下げて、再びベッドの側の椅子に腰掛ける。
彼らはセラフィナの気持ちをよく知っているのだろう。だから気を利かせて二人きりにしてくれたのだ。ルーカスだって兄のことが心配で気が気でない筈なのに。
セラフィナは未だこんこんと眠り続けるランドルフの顔をじっと見つめた。
彼が苦しむ様子が無いのが幸いだが、反面本当に生きているのかと心配になってしまう。そっと口元に手をかざせば微かな息遣いが伝わってきて、セラフィナは安堵のため息を漏らした。
「……どんな夢を、ご覧になっておいでですか? 良い夢だと、いいのですが」
掠れた問いに対する返事はない。しかしセラフィナは構うことなく語りかける。
「私、昔は時折悪夢を見たんです。ですが、ランドルフ様と結婚してから、一切見なくなったんですよ。それくらい、貴方の隣は安心できるのです」
そう、ランドルフはいつだって暖かかった。不安な時、その大きな背中を見つめたまま目を閉じれば、不思議と安らかに眠ることができた。
「いいえ、安心ばかりではありませんね。貴方様のお側にいると、胸が高鳴って仕方がないのです。緊張して、不安で、でも幸せで。周りのもの全てが色付いて見えるのです」
だからこそ。今の世界は、全てが色を失ったように見えた。
アイゼンフートの屋敷を出たあの時、一人で生きていくのだと決意した筈だった。ランドルフが幸せに暮らしてくれるのならそれで良いと思った。
けれど今なら解る。あの時上手くレオナールと合流して、どこかの街で暮らし始めたとしても、真の意味で幸せになれる事はなかったのだろうと。
心がもう二度と離れたくはないのだと悲鳴をあげている。彼に迷惑がられていると知って尚、図々しい恋心が涙を零しているのだ。
「お願いです……お願いですから、目を開けてください。ランドルフ様っ……!」
聞く者がいたとしたら残らず嗚咽したであろうと思えるほどの、悲しい慟哭だった。涙は止まることを知らず、泣き腫らした瞳から飽きる事なく溢れ出してくる。今は滲んだその声を聞き咎めるものは誰もおらず、夕闇に染まる部屋に溶けていった。