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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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 黒一色だった空が夜明け前の薄青に染まっていく。星々がその輝きを失う中、革命軍はますます勢いを増しつつあった。

 裏庭にて女王の身柄を拘束したとの一報が駆け抜けたのはつい先程の事だ。喜び勇んで裏庭へと走る民衆たちの熱気とは裏腹に、その様子を木の上から冷めた目で見つめる若者が一人。


 こうなってしまえば脆いものだ。


 一応王族の一人とはいえ、彼らに対する情など欠片も持ち合わせていないエミールは、しかし民衆たちの味方をする気もなかった。

 この国が嫌いだ。この国に住む人間全てが大嫌いだ。その気持ちは今も揺らぐことはないが、もう国ごと滅べばいいなどとは思えなかった。

 全てはあのお人好しどもと交流を持ったせいだ。まったく忌々しいのに、この胸のつかえが取れたような妙にすっきりした気分は何か。

 ルーカスと交わしたいくつかの言葉の果てに、エミールは復讐をしようとしていた自分を認めた。

 ただ嫌いだからこの国を滅ぼしたいというのは言い訳で、母の命を奪った全てが憎かったからこそ復讐をしようとしたのだと。そしてそう気付いてしまえば、もう母の遺言に反くことはできなかった。


 ——エミール様には本当に無いのですか? 今まで生きてきた中で、優しい思い出の一つも。


 セラフィナの言葉が脳内に木霊する。


 ああそうだな、なかったわけじゃない。母と暮らした暖かな日々。ハイルング人部隊の仲間たちと耐え抜いた過酷な毎日。そんでもってお姫様、あんたと過ごした三年間は、ちょっとは楽しかったよ。

 俺はあんたの事が嫌いだった。同じハイルング人の末裔として、同じように虐げられた少女。フランシーヌのせいで母親を失い、不当な差別を受けたあんたは、それでも前を向くことをやめなかった。ドス黒い思いを抱えた俺が向き合うには、あんたは綺麗で、そしてあまりにも眩しかった。捨てたはずの本名を名乗ったのは、せめて一つくらいは嘘をつきたくないと思ったから。


 正直なところ、エミールは後悔をしていた。母を失って以来一度もそんなことは無かったのに、罪のないセラフィナを傷付けてしまった事を心の底から悔やんでいた。

 だからこの王宮に戻ってきたのだ。ほんの少しでも借りを返すために。あの心優しいお姫様が、これ以上胸を傷めることが無いように。

 眼下では革命軍と国王軍が睨み合いを続けていた。革命軍は数で圧倒的に勝るが、その武器は剣がせいぜいで下手をすると斧や鍬を持つ者までいるような有様だ。反対に国王軍は精鋭揃いで装備も十分、このままでは泥沼の戦いが始まることは想像に難くない。

 まったく既に勝負はついたというのに、この馬鹿どもが。

 エミールは一つ嘆息すると、背から弓を取り出して構えた。

 この国が嫌いだ。この国に住む人間全てが大嫌いだ。だからどちらの味方もしない。できる限りの少ない犠牲でこの難事を終えさせる事こそ、エミールが見出した借りを返すための方策だった。

 ほとんど不死身の自分だからこそできることがある。

 

 両軍の指揮官が戦闘開始の号令を放つ。燃え盛る兵士達の背後、エミールは国王軍の指揮官を狙って矢を放った。



 ******



 一拍の後、爆発的な歓声が裏庭を空気を震わせた。国中に轟くような大歓声は、達成感とこれからへの希望に満ち溢れており、誰もが自らの手で成し遂げたことに誇りを抱いているのが伝わってくる。

 しかしセラフィナは彼等のように素直に喜ぶ気にはなれず、物言わぬ亡骸となった元女王を静かに見つめていた。

 何故なら最期に彼女が笑って見せたあの瞬間、その瞳に宿っていたものは確かに愛だったから。

 彼女も彼女なりにこの国を愛していたのだろう。もしかしたら誰よりも純粋に。

 セラフィナにとっては最愛の母を殺した仇だ。その死を悼むことはこの先もないけれど、しかし喜ぶつもりもなかった。それがせめて自分にできる最大の餞だろうから。

 泣きながら抱き合う周囲の中、ふと上を見ると気遣わしげにこちらを見つめる金色の瞳とぶつかった。大丈夫だと頷いて見せると、ランドルフは表情を緩めた様だった。


「ランドルフ様。助けてくださってありがとうございました」


 セラフィナは彼に向かって深々と頭を下げた。

 もう一度会えて嬉しかった。恐らくランドルフは皇帝陛下の命でここへ来たのだろうに、わざわざセラフィナのことを探してくれた。本当に彼には助けられてばかりだ。


「怪我はないか」

「はい、ありません」

「そうか。ならいい」


 そこで会話は不自然に途切れてしまう。気まずい沈黙が二人の間に落ち、セラフィナは俯いたまま両手を胸の前で握り込んだ。

 言いたいことがたくさんあるのに、そのどれもが声となって出てくる事を拒んでいた。

 ランドルフの顔を見るのが怖い。彼は呆れている? それとも怒っている? いや、それよりもむしろ、もう興味がないと冷めた目を向けられていたら。

  永遠のように思われた苦しい時間は、しかし突然の叫び声によって終わりを告げた。


「あああああ! 陛下! くそ、私は認めない! アルーディアは王族が治めなければならないんだ……!」


 宰相ジスランは血走った目で女王の手にしていたピストルを掴むと、迷わずランドルフへと銃口を向けた。

 その判断は的確と言わざるを得ないだろう。この革命で最もなくてはならなかった存在、それはアイゼンフート将軍であることは間違い無いのだから。

 ランドルフの反応は速かった。背を向けていたにもかかわらず間髪入れずにジスランを視界に収めると、剣の一振りでその狂気じみた行動を終わらせようとしたのだ。


 しかし、セラフィナの行動は刹那の違いでその速さを上回っていた。

 視線の先にちょうどジスランの姿があったことと、愛する人を守らなければという思いが爆発的な瞬発力を生み出す。ランドルフの前に両手を広げて飛び出したセラフィナは、その瞬間、唐突に理解することとなった。

 

 ——母さま、あなたもきっとこんな気持ちだったのですね。


 セラフィナは誰かを庇う時、すぐに怪我が治る自分が傷ついた方が都合がいいと諦めにも似た気持ちでいた。

 しかし今、自分の意思で彼を守りたいと思う。その為ならばこの頑丈な体のなんと誇らしいことか。運悪く心臓に当たったとしても構いはしない。


 誰もが息を呑んでその光景を見つめていた。敬愛する元王女が血を流して倒れる様を想像し、その悪夢のような未来に足を竦ませる。


 そう、ただ一人を除いて。

 

 次の瞬間、ジスランを捉えていたはずのセラフィナの視界が突如として横に流れた。何者かによって右手を引かれたのだと自覚するよりも早く、大きな背中が眼前に立ち塞がる。


 一発の銃声が轟いたのは、それとほぼ同時のことだった。

 

 何が起こったのかわからなかった。

 恐る恐る大きな背中を見上げれば、案の定ランドルフが半身をひねってこちらを振り向いていた。

 その顔に浮かぶのは、普段の猛々しさなどどこかに忘れてきてしまったかのような優しい微笑み。場違いにすら感じられるその表情に、セラフィナは虚を突かれてしまった。

 一度セラフィナの無事を確かめるように頬に触れたランドルフは、そっと右手を解放すると素早く踵を返す。歩む先にはジスランがいて、かの宰相はやけに顔を青ざめさせていた。


「な……く、来るな、化け物め! く、くそ、くそおっ!」


 単発式の拳銃はもう使えない。絶望に染まった表情のまま後ずさるジスランを庇うものは、最早一人もいなかった。声も無く見守る衆人の中、迷いなくジスランの元へと進んだランドルフは、思い切り固く握った拳を振りかぶり。

 渾身の一撃を、ジスランの横面へとめり込ませたのだった。

 この国で二番目の権力を誇ったかつての宰相は、悲鳴すらあげることなく無様に吹き飛んでそのまま気絶した。


 全てが終わった瞬間というものは、案外すぐには実感が得られないものらしい。

 セラフィナは信じられない思いで仁王立ちになったランドルフの後ろ姿を見つめ——そして息を飲んだ。


 彼が歩んだ道筋に、点々と血の赤が描かれていたから。


 その瞬間、セラフィナは世界が止まる音を聞いたような気がした。

 毒々しい赤の意味を、脳が理解する事を拒んでいた。


 そしてその一拍後、ランドルフはぐらりと体を傾がせてーーついに地面へと倒れ込んだのだった。


「ランドルフ様っ!」


 どさりと重い音を立てて仰向けに倒れた愛しい人の姿を目の当たりにして、セラフィナは我を失くして悲鳴を上げる。

彼の名を呼ぶその声が絶望を纏って辺りに響き渡ったのを他人事のように感じながら、震える足を叱咤して駆け出した。


「ランドルフ様……! ランドルフ様っ! お願いです、しっかりしてください!」


 膝をついて彼の顔を覗き込むとすっかり血の気をなくしており、その生気のなさに目の前が真っ暗になるような恐怖を覚える。金の瞳は朝の光に照らされて輝いていたが、焦点が定まっていないのかどこか茫洋として見えた。

 そして脇腹に大量の血を溢れさせる黒々とした穴を見つけて、セラフィナは今度こそ思考回路を停止させた。


「大変だ! 将軍閣下が撃たれた……!」

「軍医をここへ! 清潔な布や湯を持ってこい!」


 フンケ少佐を始めとした部下たちが慌ただしく走り去って行くが、それすらも意識のうちに入って来ることはなかった。

自然と溢れ出した涙を拭うこともしないまま、セラフィナはランドルフに縋りつく。彼の軍服の胸元に、頬を伝って流れる雫が点々と染みを作っていった。


「そんなっ……! ランドルフ様、どうして!? どうして私などを庇ったりしたのです! 私は、私だったら、すぐに治るのに! 貴方がこんな目にあう必要など、無かったのに……!」


 心がバラバラに砕け散ってしまいそうだった。どうしてと、そればかりが脳内を駆け巡っている。

 混乱して激しい痛みを訴える胸を無視して、セラフィナは無意識のうちにランドルフの手を握りこんでいた。その手にも血が付いているのに気付いて改めて彼の体を見遣ると、整えられた芝生の上を血溜まりが広がっていくのを目の当たりにしてしまう。

 こんな、こんな大怪我だなんて。自分ならば死ぬことはないけれど、普通の人間では。

 絶望的な想像に目眩がした。しかし握り込んだ手が微かに動いたのに気付いて視線を上げると、ランドルフは優しい瞳で確かにセラフィナを見つめていた。


「誓った、からな。お前が誰かを庇うなら、私が、そんなお前を、守る……と」


 掠れた声で告げられた言葉に胸を突かれて、セラフィナは息をつめた。この時ばかりは嗚咽すら出て来ることはなく、目を見開いたまま彼の血の気の失せた顔を見つめる。

 そう、確かに彼は言った。「守ると言ったから」ここへ来たのだと。けれど、こんな。こんな無茶をしてまであの約束を果たそうとするなんて。


「……泣くな。元はと言えば、私が、撃たれるはずのこと。お前が、気にすることではない」


 唇を引き結び、ただ首を横に振る。口を開けば全てをかなぐり捨てて泣き喚いてしまいそうだった。

 ランドルフは更に言葉を継ごうとしたが、息を吸い込んだ拍子に咳き込み、それと同時に口から血を溢れさせた。それは一目見て命に関わると解る量だったが、それでも彼は話を続けようと浅い呼吸を繰り返している。


「幸せに、なってくれ。もうこれで、お前は……自由、なのだから」


 ほとんど囁き声のような優しい言葉を聞いているうちに、溢れる涙が視界を塞いでいく。彼の顔が滲んでよく見えない。ずっと見ていたいのに。……ずっと、一緒にいたいのに。


「好きです」


 溢れ出した想いが口をついてこぼれ落ちてしまったのは、衝動に突き動かされてのことだった。

 ずっと胸の内に秘めていた想い。きっと困らせるだけだろうからと、一生伝えないつもりだった。

いや、怖かったのだ。なにせ自分は押し付けられた妻だから。もし気持ちを伝えて迷惑そうにされてしまったらと思うと、どうしても告げることができなかった。

 けれど今、一度口に出してしまった想いは止まるところを知らず、次から次へと飛び出してしまう。


「好きですっ……! 貴方のことを、愛しています。ですから、どうか」


 いなくならないで。

 震える声で告げた言葉は、しかしランドルフが不意に微笑んだことによって、最後まで紡ぐことが出来なくなってしまった。


「……ああ。随分と、都合の良い夢だ」


 苦笑気味に落とされた吐息を最後に、ランドルフは目を閉じる。冷たくなった大きな手から力が抜け、セラフィナの両手から滑り落ちていった。

 

 セラフィナの無言の慟哭を嘲笑うかのように、暁の空は白く澄み渡っていた。


 

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