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ヴェーグラント帝国の首都ブリストルでは、街の中心部にこの国の政務を司る各省庁が集められている。
中核をなすのが皇帝陛下の座すベルケンブルク宮殿で、これを囲むかのように様々な建物が置かれているのだが、中でも巨大にして堅牢な佇まいで他を圧倒するのが、陸軍を統括する陸軍省である。
特に幹部の執務室が入る中央棟は重厚な雰囲気を醸し出していて、そこにいる人間の気を引き締める効果があるのか、常ならばどこか張り詰めた空気を漂わせているはずだった。
しかし今はレナータ姫の戴冠式を控えており、例年にはない大仕事に見舞われた軍人達は、兵卒から将官に至るまで皆慌ただしく過ごしている。
そしてランドルフもまた、この喧騒を構成する一因となっていた。
「アイゼンフート将軍、この書類なのですが…どちらに認可を得ればよろしいでしょうか」
「戴冠式の祝砲の追加か。これはまず財務課に通さねばならんな。急ぎであることをよくよく付け加えよ」
「アイゼンフート少将閣下。今度の金曜日に第一歩兵連隊のみでパレードの模擬演習を行う予定です。できればお越し頂き、ご指導賜りたいのですが…」
「金曜だな。見に行くから、よく練習しておくように」
「閣下、今度の騎兵隊の模擬戦ですが、第一練習場を確保致しました。あとこちらが現在までの進捗表です」
「良くやった、これなら良い模擬戦になるぞ。皆にも通知を。気を引き締めて事に当たれとな」
廊下を歩きつつも次々と指示を飛ばしていく。仕事内容からここ最近は執務室に留まることができず、どこへ行ってもやっと見つけたと言わんばかりに部下たちが駆け寄ってくるのだ。
「よおランドルフ! 相変わらずの人気だな。元気だったか?」
やけに明るい声に呼び止められて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「シュメルツ将軍、出張からお戻りでいらっしゃいましたか。アルデリー要塞はいかがでした」
コンラート・ヘルマン・シュメルツ少将はランドルフより十六歳上の五十歳で、尊敬すべき大先輩であり、また旧知の中でもある。
金の髪を短く刈り上げ、アッシュグリーンの瞳を煌かせる様はとても五十歳には見えない若々しさで、身体つきも無駄なく引き締まっている。ただし彼はランドルフより三十センチも背が低いので、見下ろす格好になってしまい、いつも申し訳ない思いがするのだった。
「ああ、とくに変わりなかったぞ。今のところアルーディアにも目立った動きは無いしな」
「左様ですか。それは何よりです」
「そういや、お前ついにセラフィナ姫を屋敷にお招きしたそうじゃないか」
ランドルフはちょっと脱力する思いがした。シュメルツには一言報告しなければと思っていたのだが、さすがに情報が早い。
「は、もう二週間前になりますが。どこでそれを?」
「そりゃお前、ルーカスに聞いたのさ。あいつ、上手くやってるのかって心配してたぞ?」
ルーカスはランドルフの実弟で現在二十八歳、アルーディアとの国境の要衝アルデリー要塞に勤務する軍人である。そしてこの弟、兄と違って中々にモテるのだ。三股四股は当たり前、しかも相手がそれを認識してなお付き合いたがっているというから理解できない。
「ルーカスが? 私からしたら、ふらふらしてばかりのあいつこそ心配なのですが」
「ははは! ま、そういった意味では心配な兄弟だよ、お前らは。……で?」
「で、とは」
「とぼけんなよ。セラフィナ姫といやあ、妖精姫と名高い絶世の美姫だろう。どうなんだよ、本当に美人なのか? どんなお人だった? ルーカスじゃないが、お前が上手くやってんのか心配してやってんだぜ、俺は」
心配といいつつも、シュメルツの顔はにやけきっていた。この男も人は良いのだが、どうも下世話なところがあるのが玉に瑕だ。
「……そうですな。確かに、噂に違わずとても美しい姫君です」
「ほお。それで?」
「私に怯える様子もありませんし」
「おお! そりゃ良かったじゃないか」
「会話らしい会話は、今のところできていませんが」
「……はあ?」
そう、実はセラフィナが来てから二週間経つというのに、彼女と顔をあわせること自体稀という状況に陥っているのだった。
「一月後にレナータ姫の戴冠式があるでしょう。私は今回、戴冠式の来賓警護の責任者と、パレードの歩兵部隊最高指揮官というお役目を頂戴しております。その準備でどうにも忙しくなってしまい、近頃は屋敷に帰ることすらままなりません」
「なるほど、政治の絡んだ抜擢ってことか。お前も苦労する」
シュメルツがしたり顔で頷くので、こちらもまた苦笑を返す。そう、今回は地位を度外視しての大抜擢なのだ。
今回賜った役目は、本来なら大将以上の階級の者が務めるべき物である。少将であるランドルフが抜擢されたのは、偏にセラフィナの母国であるアルーディアへのアピールの為だ。
皇帝の側室であったにもかかわらず臣下に下賜されるということは、下手をすればアルーディアに開戦の口実を与えかねない程の一大事。対策として新しい夫となるランドルフに重大な役目を与え、「貴方のところの大事な娘さんは我が国で重用される男の元に嫁ぐんですよ〜」と暗に伝えようという訳なのである。
「ま、お前の場合は実力も伴っているけどな」
「いえ、私など」
「謙遜すんなよ。だが、それにしたってまずいだろ。相手は年若い姫君なんだぞ? お前の式だってあるんだ、忙しくてもちょっとは気にかけてさしあげないと」
「まずいのは重々承知の上です。しかし、陛下から頂戴したお役目をおざなりにすることはできません」
「そりゃそうだけどなあ……ん? そういえばお前、昼休みも終わってない今の時間から、どこに行こうとしてたんだ?」
そんなに忙しいのかと心配顔のシュメルツに、ランドルフはいえと首を振った。昼一番の呼び出しだったので、万が一にも失礼が無いよう早めに執務室を出てきたのだ。
「今から陛下の御前へ参るところです。私にどんな御用向きがおありなのか存じ上げませんが」
「よく来た。こちらへ」
皇帝執務室に入るや開口一番にそう促されたランドルフは、執務机の前で片膝をついて最敬礼の姿勢を取った。
銀の髪に翡翠の瞳を持った若き皇帝は、その美貌に秀麗な笑みを乗せると、優雅な所作で足を組んで見せる。
ヴェーグラント皇帝ディートヘルム・アルト・マクシミリアン・フンメル。十八歳で即位して二年、凄まじい政治手腕を発揮して民からの絶大な支持を得るこの皇帝は、しかし態度のでかさも一級品である。
宮殿でのパワーゲームを楽しむかのように常に笑みを浮かべ、時に冷酷な決断を躊躇なく下す様は周囲に畏怖すらもたらしたが、そういった底知れなさも含めてランドルフにとっては仕え甲斐のある君主だ。
「今日呼び出したのは他でもない、お前にしか出来ない仕事を命じるためだ」
「は。光栄にございます、陛下」
「うむ。では、アイゼンフート侯爵に命ずる。お前はたった今から帰宅し明後日の朝まで出仕してはならん。以上だ」
これにはランドルフも二つ返事で引き受けることは出来なかった。ディートヘルムは既に話は終わったと言わんばかりに手元の書類に視線を落としているが、このまま畏まりましたと帰る訳にはいかない。
「恐れながら、陛下。私は何か大きな失態を犯しましたでしょうか。至らぬ点があるのでしたらご指摘頂きたく」
「ふむ。身に覚えがないと申すか」
「誠に恐れながら」
ディートヘルムはやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、書類を置いて組んだ両手に顎を乗せる。その目は詰問するかの様に細められており、ランドルフは知らずのうちに背すじを伸ばした。
「よいか。してしまったのではなく、何もしていないのが問題なのだ。解らぬか?」
そこまで聞けば脳裏に閃くものがあった。プラチナブロンドを煌めかせ、微笑みを浮かべる姫君の姿が思い浮かぶ。
「もしや、セラフィナ姫のことでございますか」
ランドルフの答えに満足した様に頷いたディートヘルムは、至極残念そうにため息をついて見せた。
「お前が仕事に熱心なのは知っているし、余もそんな所を見込んで此度の仕事を任せた。しかし自身の結婚式が二週間後に迫る中、泊まり込みだの残業だの早朝出勤だのと仕事にかまけ、婚約者殿を放っておくほどの朴念仁とはな」
「お言葉ですが、本当にそれくらいいそが」
「彼女が不幸になったのではレナータが黙っておらんのだ。今も大いに彼女のことを気にかけていてな」
「しかし一日半も」
「よってお前には休みを取ってもらい、姫君に対する埋め合わせをしてもらう。ああ、仕事の事なら気にするな。シュメルツ伯にすべて回しておいたゆえ、お前は気兼ねなく休暇を楽しんで来るがいい。……それとも、余の気遣いに対して何か文句でも?」
ディートヘルムは翡翠の瞳を細めると、言外に否やはないと告げるように微笑んで見せた。
強引だ。いつものことだがものすごく強引だ。
ランドルフは再び最敬礼の姿勢を取り、その命を受けたのであった。
自身の執務室に帰るとそこにはすでにシュメルツが待ち構えており、皇帝陛下の命なら仕方ないと快く引き受けてくれた。貸し一つな、と付け加えることを忘れはしなかったが。
家路を急ぐべく馬を駆りながら、先程の皇帝陛下の様子について考える。
ランドルフはなぜあの妖精姫の再婚相手に選ばれたのか尋ねたことがない。しかしあの笑顏だ。あれは確実に何かを企んでいるものだった。
それでも己のすることは一つ。セラフィナがせめて心安らかに過ごせるよう配慮するだけだ。
しかし、と思う。それならば自分が顔を出さないほうが、彼女にとっては気が楽なのではないだろうかと。どんなに気丈に振舞っても不安なのは間違いないだろうし、黒獅子将軍の噂を聞いて恐れを抱いてもいるだろう。
正直言って、忙しいこの現状にホッとしていたのも事実なのだ。会わなければ怯えた顔も見ずに済むのだから。