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妖精と黒獅子  作者: 水仙あきら
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
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16

 一体どれくらいの時間が経ったのか。一切の日光を絶たれた暗闇に時間感覚を奪われたセラフィナは、まんじりともしないまま長いような短いような時を過ごしていた。

 檄文を読むか、読まないか。考えれば考えるほど思考の渦は激しさを増し、セラフィナを底なしの海へと引きずり込んでいくかのようだった。

 せめて気を紛らわせようとベッドを降りて深呼吸をしたその時、人の訪れを告げる扉の音がセラフィナの耳朶を打った。

 衛兵の交代だろうか。セラフィナは茫洋とした視線を鉄格子へと向ける。しかしすぐにその靴音が女性のものであることに気が付いて、にわかに体を硬くした。

 永遠にも思える時間の後に鉄格子の向こうに現れたのは、果たして懐かしい人物だった。


「あね、うえ……?」

「セラフィナ……? セラフィナなのね!?」


 ベルティーユが泣きそうに顔を歪ませて鉄格子に取りすがったのと同時、セラフィナは脇目も振らずに駆け出していた。


「姉上……! 姉上、お会いしたかった!」

「セラフィナ……! ええ、私もよ!」


 これは現実なのだろうか。アルーディアを出た時はもう二度と会えないことを覚悟していたのに、こうしてまた会えるなんて。

 昔と変わらない優しい瞳が涙を溢れさせるのを見つめながら、セラフィナは降って湧いたような再会を噛みしめた。

 喜び合う姉妹の横で、衛兵が鉄格子の鍵を開け放つ。セラフィナはびっくりして彼を見るが、ベルティーユはなんでも無いことのように扉を潜っていた。


「ああ、こんなにやつれてしまって……顔色が悪いわ。それに、この髪」

「これは自分で切ったのです。そんなことより姉上、どうしてここへ? 女王陛下は、その」


 事実とはいえ実の母に脅しの口実に使われているなどとは到底言えず、セラフィナは言い淀んでしまった。ベルティーユはまだ何か言いたそうにしていたが、ややあって苦々しげに表情を歪めた。


「女王陛下が私の反逆に気付いて、さもなくば始末しようとしていることは知っているわ。だってあの人は昔からそうなんですもの。私のことを物としか見ていないの」


 ベルティーユがフランシーヌのことを苦手としているのは知っていたが、まさかここまで冷え切った関係だったなんて。姉はいつも快活に笑い、素直に感情を出す事ができる人だと思っていたから、胸の内にこんな苦しみを秘めていたとは考えもしなかったのだ。


「ですが、なおさらどうしてここへ? 私に会いに来たのだと知られたら、今度こそ言い逃れは出来ません」

「決まっているじゃない、あなたを助けに来たの。約束したのに忘れてしまったのかしら?」


 ベルティーユは涙を拭き、いたずらっぽく笑った。アルーディアを離れる前の晩、絶対に助けるから生きていてと言ってくれた事を忘れるはずもない。


「ですが、姉上はレオナールを遣わせて下さいました。私にはそれだけで十分過ぎるほどです」

「でも結局失敗しちゃったわ。レオナールにも苦労をかけてしまって……けど、もう一度脱出計画を立ててきたの。私ももうここにはいられない。だから、セラフィナ。一緒に行きましょう」


 決意を込めた瞳を正面から見返して、セラフィナは絶句してしまった。

 結局のところ、ベルティーユにここまでさせたのは他ならぬ自分なのだ。

 優しい姉は妹を助けようとするあまり、絶対権力者である女王陛下と敵対するに至ってしまった。どれほど関係が冷え切っていても親子なのに。いや、セラフィナと交流を持たなければ、そもそも仲が悪くなる事自体無かったかもしれない。


「何故、ですか。何故そのように良くして下さるのですか。姉上にとって私たち母娘は、父上の不義の結果でしょう? それなのに、どうして」


 ベルティーユのことは大好きだったけれど、その分だけいつも苦しかった。

 王宮に出てからは、妾の子と囁かれるたびに姉のことを思った。一組の家族の幸せを壊してしまったのではないかと。この世に産んでくれた母と父には感謝していたが、自分のせいで姉に苦しい思いをさせてしまっているのではないかと。

 顔を蒼白にして訴えかける妹に、ベルティーユは始め驚いた顔をしていたが、すぐに優しい微笑みを浮かべてくれた。仕方のない子ね、とでも言うように。


「私ね、おばさまとあなたに感謝しているのよ。母はあの通りの人だったから、私は誰にも顧みられる事なく育ったの。あの頃の私は高慢で鼻持ちならない嫌な奴だったわ。でもある日あの離宮に迷い込んで、あなたたちに出会って……世界が変わったの。おばさまは私のことも愛してくれた。本妻の子供なんて憎んで然るべきなのにね」

「姉上……」

「本当に温かい人だった。それにセラフィナ、あなたのことが可愛くて。素直で明るくて、思いやりがあって。私はあそこに通うようになって、初めて家族を得たのよ。だからね、私はたった一人の家族に幸せになって欲しい。それだけなの」


 そう言い切ったベルティーユの表情は慈愛に満ち溢れていた。

 知らなかった。姉が自分達親子のことをそうまで想っていてくれたなんて。温かい気持ちが心を満たしていくのと同時に、胸の中で決意が固まっていく。

 檄文を読めば戦争が起こり、檄文を読まなければベルティーユは殺されてしまう。

 その二つを回避するには共に逃げる以外の道は無く、今その道は姉によって指し示されている。彼女に立場を捨てさせてしまう事が申し訳ないけれど、しかしこれが最後のチャンスであることは間違いなかった。



 ベルティーユに案内されたのは王宮の裏道だった。猫しか知らないような狭路を進んだ末に暖炉の奥の隠し通路に入り込むと、そこからは暗い石造りの廊下が続いている。

 手に持つオイルランプの明かりは漆黒の暗闇を照らすには心許いが、ベルティーユは恐れなど微塵も感じさせない足取りで走り続けていた。


「セラフィナ、頑張って! 今は少しでも早くこの王宮から抜け出ないといけないの!」

「はあっ…は…っ! はい…!」


 セラフィナはもともと運動が苦手で、今は長旅と寝不足で既に体力を使い果たしている。

 そんな状態でベルティーユの足についていけるはずもなく、ほんの少し走っただけであっという間に息が上がってしまった。不甲斐ない妹にも姉は辛抱強く付き合ってくれて、今は心持ちゆっくり走っているようだった。

 全身が酸素を欲して脈動し、酷使された肺がこれ以上は無理だと悲鳴をあげている。足がもつれて転びそうになる度に、力強い姉の手がぐっと握り返してくれた。そして永遠にも思える時間の後、行き止まりに小さな螺旋階段を見つけた。ベルティーユが迷わず階段を登っていくので、セラフィナも震える足でそれに続く。

 頭上の鉄扉を押し開けた先に待っていたのは、宵闇に包まれた裏庭であった。

 姉に引っ張り上げられるようにして隠し通路から這い出たセラフィナは、乱れた息を整えるべく深呼吸を繰り返す。流石のベルティーユも疲れ切っているらしく、二人はその場にへたり込んだまましばらく荒い息を繰り返した。

 しかしようやく呼吸が正常に戻ってきた頃になって一つの異変に気が付く。

 この時間帯はしんと静まり返っていて然るべきこの裏庭に、何やら人の声が聞こえるのだ。それも数人ではない。数百人…いや、ひょっとするともっと多いか。とにかく大勢の人間のざわめき声が、どこか離れた場所から聞こえてくる。


「姉上、この声」

「問題ないわ。行くわよ」


 困惑するセラフィナを余所に、ベルティーユは安堵したように息を吐いて立ち上がった。セラフィナも疲れ切った体を強引に引っ張り上げて、早足で歩き出した姉の後を追う。衛兵の一人もいない裏庭は、おそらくベルティーユによる計画の賜物だろう。


「今回の脱出計画はね、実はもう一つの計画と並行して行っているの。あなたがヴェーグラントへ嫁ぐ前から、ずっと温めてきた計画よ」


 ベルティーユの横顔は凛として美しく、上に立つ者の威厳を纏っていた。

 セラフィナは彼女が王位を継ぐ者として突出した才能を有していることをよく知っている。尊敬する姉は、民のために出来得る限りの手を尽くして、この国を良くしようと努力を重ねていた。

 そんなベルティーユが言う計画とは一体何なのか。セラフィナには想像がつかなかったが、悪い事では無いと無条件で信じることができた。


「結論から言うと、革命を起こしたの。今この時を持って、ね」


 しかし、セラフィナもこれには流石に絶句してしまった。さらりと言ってのけたその言葉は、二つ返事で納得するには余りにも重かったから。


「今頃は民が王宮に詰めかけているはず。私達はこれから革命に賛同した一部の近衛騎士と合流して、市街へと抜ける予定よ。あなたはそのまま逃げてちょうだい。私は革命軍に加わるから」

「ま、まってください、そんな」

「もう絶対王政は限界を迎えてる。私は王族だけれど、ずっとこの国の制度や思想自体がおかしいと考えていてね、街に降りた時に王政を廃そうとする動きがあることを知ったの。それから彼らと連絡を取り続けて、ようやくここまで来た」

「姉上っ!」


 セラフィナはたまらずに叫んでいた。驚きと悲しみで胸が張り裂けそうだった。


「あ、姉上……そんな、そんな事! それは、あなたの母君を追いやる事に他ならないのですよ!? それに、本物の姫君であるあなたが、戦場に立つだなんて! それに、いったいどれ程の勝算があるのですか。近衛騎士達は、いったいどれ程の人数が協力してくださるのです? ただ逃げるだけでは、どうして駄目なのですか……!」

「それは、私が王女だからよ」


 ベルティーユは立ち止まってセラフィナを真正面から見据えた。その瞳に悲壮な覚悟を感じ取り、言い募ろうとした言葉の全てが喉に張り付いて出てこない。


「だからこそ私は民を捨てて逃げるわけにはいかない。彼らが成し遂げようとしたことを最後まで見届けなくてはならないの。それが、私の王女としての最後の勤めだと思っているわ」


 ベルティーユの眼差しは静かな炎を宿し、どんな説得にも揺らぐことはないのだと、言葉にするよりも雄弁に語っていた。

 この国で共に暮らした頃、嫌いな授業をさぼり、人目も憚らずに涙をこぼしていた姉はもういない。セラフィナは著しい成長を遂げた姉を眩しく見つめた。


「ならば……ならば、私も共におります。姉上を一人にはさせません」

「それはだめよ」

「そんな! なぜですか?」

「あなたはもうこの国の者ではない。だからこんな事に巻き込まないように、先に保護しようとしたくらいなの。あなたは今まで十分この国の為に尽くしてくれたわ。もう自由になって、ね?」


 優しい優しい、姉の笑顔。

 この人にもう二度と会えないかもしれないと思ったら、悲しくて何も言えなくなってしまった。

 どうしたら姉の役に立てるのだろう。民のために全てを背負い込もうとしている気高い姫君を、死地に追い込まずに済むには、どうしたら。

 セラフィナはくしゃりと顔を歪めてベルティーユを見つめる。しかしほんの数秒の時間の末、彼女はふいと視線を逸らしてしまった。

 妹の返事を待たずに問答無用で歩き出そうとしたベルティーユは、しかしすぐに足を止める。セラフィナも周囲に起こった異変に気が付いた。慌ただしい足音が複数聞こえていたのだ。


「何かしら。ここまで迎えが来るはずないけど」


 この庭園に隠れる場所はない。訝しげに呟いたベルティーユは、警戒心をむき出しにして足音のする方角を見つめる。セラフィナもまた身を硬くして同じ場所を見つめた。

 そして闇の中から現れたのは、考え得る中では最悪の人物だった。


「あら? あらあら! ベルティーユではありませんか!」


 女王フランシーヌは五名の近衛騎士を従え、ランプに照らされた赤い唇をニヤリと釣り上げた。その隣には宰相ジスランも居る。

 逃げた私たちを追って来たのか。セラフィナはその身に緊張を走らせたが、どうやら彼女達の様子はそれとは違うようだった。


「あら、セラフィナもいるのですね。うまく逃げおおせたものです。……さて、ベルティーユ? あなたに聞きたいことがあります」

「……なんです、陛下」

「理由がわからないのですが、暴徒と化した民衆が王宮に詰めかけて来たのです。あれはあなたの差し金ですか?」

「その暴徒に追い立てられるようにして逃げて来たというわけ? 惨めったらしいわね」

「質問しているのは私ですよ、ベルティーユ」


 実の娘の名を呼ぶにしては余りにも冷え切った声だった。ベルティーユは一瞬言葉に詰まったが、それでもセラフィナを庇い立てるようにして前へと進み出る。


「だったらどうするっていうの」

「哀れな民達を騙くらかしての非道な所業。さすがに死んでもらう他ありません」


 近衛騎士達の間に一気に緊張が走る。フランシーヌが優雅な動作で腕を上げると、彼らは一斉に抜刀した。

 女王がその腕を下ろしたのと、セラフィナがベルティーユの前に躍り出たのは、全くの同時だった。


「セラフィナ、駄目っ!」


 ベルティーユが叫んで背後からセラフィナを抱きしめる。姉妹はお互いを庇うように抱き合いながら、その時を覚悟して硬く目を瞑った。

 

 しかし予想された衝撃は訪れず、代わりに金属のぶつかり合う激しい音が鼓膜を震わせた。一体何が起こったのかと恐る恐る目を開けたセラフィナは、そこに到底信じられない光景を見た。

 

 見上げるように高い身長。固そうな黒髪。軍服の大きな背中。後姿でも見間違えるはずもない、心の底から会いたいと願った人。それでも二度と会えないと諦めようとした、大好きな人。


「ランドルフ……様……?」


 震える声で呼びかければ、彼は近衛騎士二人を片手に持った剣で受け止めた姿勢のまま、わずかに後ろを振り返って見せた。


ようやく再会しました…!お待たせしました!

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