15
首都リスヴェルの有様は予想より酷いものだった。
幌の隙間から見るだけでも明らかに陰鬱な空気が漂い、道を行く人の表情は地獄を歩く時でもまだ明るいだろうと思えるほど暗い。そこかしこに失業者が座り込み、アルコール中毒者と思しき者がフラフラと歩いている。
ブリストルとは比べるべくもないほど暗い街並みを、セラフィナは後ろ手に縛られたまま幌の隙間からじっと見つめていた。
まさかたった二年でこんなことになっているなんて。最後に見たリスヴェルも確かに荒れ始めていたが、ここまでではなかったはずなのに。良くしてくれた街の人たちは無事なのだろうか。こんな状態でまだ戦争を続けようとするなんて、女王陛下はいったい何を考えているのだろう。
暗澹とした気持ちを抱えたまま、セラフィナを乗せた馬車は王宮への参道を駆け抜けていった。
かつて六年間住んだ王宮は相変わらず権威の象徴たる煌びやかさで、セラフィナを圧倒するかのようであった。しかし二年ぶりの故郷に懐かしさを覚えるよりも早く、工作員達によって強引に連れて行かれた先は、想像した通り地下牢だった。
石の壁に漆喰の床、家具は今にも朽ちて落ちそうなベッドと、高さの揃わないテーブルと椅子だけ。錆びた格子は斧で斬りかかっても無駄であろう程に太く、地下のため当然窓はない。外は陽気に満ちていたはずなのにここでは湿気ががまとわりつくような寒さを感じて、セラフィナは思わず身震いしてしまった。
「明後日の演説までこちらで過ごして頂きます。見張りは常時ついておりますので、妙な気を起こされませぬよう」
「……はい」
鈍い返事にも特に表情を変える事もなく、この二週間を共に過ごした男達はあっさりと立ち去っていく。彼らの足音が聞こえなくなると、緊張の糸が切れたのか一気に体から力が抜けて、セラフィナは思わずベッドに座り込んでしまった。
今はただ疲れ切っていた。かつて一ヶ月かけた旅路を二週間で駆け抜けたのだから無理もない。馬車に揺られ続けた体はいまだに左右に振れているような心地がしたし、ずっとまともに眠れなかったせいで頭に霞がかかっている。
しかし、試しに横になってみても眠気は一向に訪れなかった。色々なことを考えてしまって、休む気になどなれなかったのだ。
心配事は無数にあった。ベルティーユに謀反の疑いが掛かってはいないだろうか。レオナールはヴェーグラントを出ることができたのだろうか。リスヴェルの住民たちは無事なのだろうか。今頃エミールは何をしているのだろう。ああそれに、突然失踪したのだから、きっと皇帝陛下とレナータは憤慨しているに違いない。エルマやディルク、使用人の皆、親しくしてくれた人達も呆れているだろう。結局あの日はあまり話せなかったが、ルーカスはもう領地に戻っただろうか。
そして何よりも気にかかるのが、やはりランドルフのことだった。
戦争になれば彼はきっと真っ先に前線へと向かうだろう。もしそれで何かあれば、戦争の引き金を引いた自分のことを一生許せない。そんなことになるくらいなら、いっそ。
コツリ。突如として響いた靴音に、セラフィナは思考に沈んだ意識を引き上げた。
この音は明らかに兵士のものではない。もっと軽く、女性のヒールが奏でるような鋭い音だ。ベッドから立ち上がったセラフィナは、明らかに意志を持って近付いてくるその人物が姿を表すのを固唾を飲んで待つ。
そうして現れたのはフランシーヌだった。
この状況を作り上げた全ての元凶は、相変わらず苛烈なオーラを纏い、格子の向こうで赤い唇を釣り上げて笑って見せた。
「久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
健康を気遣う言葉に温度はなかったが、代わりに嫌味が多分に含まれていた。アルーディアに送り込んだ時に死ぬ予定だった人物がこうして再び目の前に現れたのだから、皮肉りたくなるのも心情ということなのだろう。
セラフィナはもう跪いたりはしなかった。この人は敬うべき人ではないのだから、敬意を示すことなどできない。
「ますますあの女に似てきたでしょうか。まったく、忌々しいこと」
「それは、母のことですか」
「ええ。ハイルングの血で王家を汚した、図々しいあの女。ようやくいなくなったと思ったら貴女が似てくるのですから、あの頃は辟易したものです」
「ようやく、いなくなった……? まさか」
無礼な態度にも気にした様子もなく悠然と微笑んだフランシーヌは、ぼろぼろになったセラフィナを見てむしろ機嫌を良くしたらしい。ますます笑みを深めて笑うように告げた言葉は、セラフィナを凍りつかせるには十分の内容であった。
「ああ、せっかく帰ってきたあなたには、教えてあげてもいいかもしれませんね。……そう、あなたの母を殺したのは、私なのですよ」
瞬間、頭の中が怒りで真っ赤に染まった。震える手で格子を掴むと錆び付いた感触が掌を傷つけたが、それすらも気にならなかった。
「結構手間がかかって大変だったのですよ? 陛下にあの女を呼び出すよう焚き付けて、どうすれば死ぬのかわからなかったから、ベルティーユ達には弱点をそれとなく聞いたりしてね。伝説に残っているような力はなく、不死身でないと知った時はホッとしたものです。暗殺犯にはまず陛下を狙い、庇ったあの女を刺すよう指示しました。あなたは一応陛下の血を継いでいますし、何かあった時に使えるかもと生かしておきましたが……まさか、あの戴冠式の件で同じ手を使えるとは思いませんでした。まったく、実に愚かな親子で微笑ましい限りです」
もはや何の言葉も出てこなかった。頭の片隅で考えてすぐに打ち消していた可能性が、真実に形を変えていくのを受け止めながら、セラフィナはただ目の前の冷酷な微笑を見つめていた。
「陛下もせっかく王家の親戚という立場から国王になれたというのに、まさかハイルング人などを囲うほど愚かとは思いませんでした。強固な警備の所為で近づけず、あんな回り道をする羽目になってしまって。神聖なるアルーディア王家の血を残すことが何よりも大切なのだと、即位前からお伝えしていたというのに」
「ど、して……」
「……はい?」
「あなたは、どうしてそんなに血ばかりを重んじるのですか……? そのせいで苦しむ人がいるのに。慎ましく生きていた母が、どうして死ななければいけなかったのですか!?」
セラフィナは愛し合っていたはずの両親が笑い合うのを、一度も目にすることができなかった。重税を取り立て、民を苦しめ、周辺諸国に戦火を撒き散らして。一体そんな事をして何になるというのか。
「どうしてって……そんなもの、アルーディアの為に決まっているでしょう」
しかしその怒りが通じることは無く、フランシーヌは言っている意味がわからないとばかりに首を傾げた。
「アルーディアこそが世界を統べるべきなのです。他の民族などは取るに足らず、アルーディア人こそが人間です。信じて着いてきてくれる国民のためにも、私はまずこの大陸から統一しなければ」
フェルナンのことを愛しているからだと言われた方が余程理解できた。
狂っている。自国民以外を認めないだなんて、そんなことが許されるはずがない。そしてその国民も度重なる戦争に苦しめられているのに、どうしてそんな残酷な事を世間話のように語ることができるのか。
衝撃のあまり何も考えられなくなってしまったセラフィナだが、フランシーヌが思い出したように両手を打つのを聞いて、俯けていた視線を上げた。
「本来の目的を忘れるところでした。これを」
格子の隙間から差し入れられた羊皮紙には、『檄文』との文字が綴られていた。それを見て怒りを取り戻したセラフィナは、強くフランシーヌを睨みつける。
「私は、こんなもの!」
「読めないというのなら、ベルティーユとレオナールを殺します」
淡々と紡がれた言葉は人間の発したものとしてはあまりにも冷酷だった。自分の娘を殺すなどと言えることが俄かには信じられず、セラフィナは限界まで目を見開く。
「あの二人があなたを連れ出すこと……すなわち謀反を計画していたことはもちろん知っています。アルーディアこそを至高とする理念を理解できないとは、ここまであなた方母娘に影響されたのではもう駄目かもしれませんが、ベルティーユも今や数少ない王位継承者。殺すには惜しいですし、あなたがそれを読むというならレオナールを許すのもやぶさかではありません」
「あなたは! あなたは、狂っています……!」
セラフィナの怒りに満ちた叫びにも、フランシーヌは笑みしか返してこなかった。用は済んだとばかりに踵を返した彼女は、来た時と同じようにヒールの音を響かせて、暗い地下牢から去って行った。
しばらく何もする気が起きず、セラフィナはベッドに寝転がって呆然と石の壁を見つめていた。体が冷えて仕方がなくて、ところどころ擦り切れた掛け布団を体に巻きつけてみたが、それでも震えが治まらない。
原因は寒さだけでなく、今更のように突きつけられた真実と、残酷な選択肢のせいだろう。
母はフランシーヌに殺された。それだけでも心が乱れて仕方がないのに、檄文を読まなければベルティーユとレオナールが死に、読めば戦争が起こって大勢の人が死ぬという。
檄文を読むことは本当に開戦へと直結するのだろうか。一瞬考えたが、フランシーヌは最早国民感情など問題にしていないのだろう。彼女が欲するのは開戦の名目。戦争の大義名分なのだ。
誰も死なずに済む選択肢がどうして存在しないのだろう。選ぶなら背負わなければならない。結果として失われる命の全てを。
——ランドルフ様に、会いたい。
不意にその一言が脳裏を過ぎった。
自分から出て行ったにも関わらず未だにこんなにも好きだなんて、この心はほとほと諦めが悪いらしい。一度思いついてしまえば大好きな人を想う心に歯止めが利かず、セラフィナは歯を食いしばってその切なさに耐える。
あの方に縋る権利など無い。彼は離縁を望んでいたのだから、セラフィナがアルーディアへ帰った今、きっと安堵していることだろう。置き手紙一つで出て行った事に関しては、底なしに優しい彼も無礼な奴と怒っているかもしれないけれど。しかしそれも全て自ら望んで行った結果だ。それなのに。
「会いたい、です……」
つい口に出してしまえば、ランドルフを恋しく想う気持ちが次々と湧き出てきて、セラフィナは我慢できずに懐を探って宝物を取り出していた。
暗い地下牢にあってそのリボンは光沢を失わず、青く輝いていた。
それを胸に抱けば不思議と気持ちが落ち着いてくる。会いたい気持ちが薄れる事はなく、胸が締め付けられるように痛んだが、それでも縋るものがあるだけで随分と気が楽になった。
どれくらいそうしていたのだろう。またしても遠くから靴音が聞こえ始めて、セラフィナは慌ててリボンをしまうと上体を起こした。
今度は柔らかい音だが、はたして自分への来客だろうか。せめてその靴音が止まるまではと待っていると、やがて姿を現したのは見覚えのない二十代後半と思しき女性だった。
「セラフィナ様、でいらっしゃいますか?」
「はい。そうですが……あなたは?」
彼女は気の毒なほど震えており、セラフィナが頷くと泣きそうに顔を歪めて俯いてしまった。
「わ、私は……クロエと申しまして、王宮で美容師を、させていただいております。こちら、失礼しても?」
「はい、どうぞ」
クロエは衛兵に鍵を開けてもらって牢へと入ってきた。間近で見てもやはり顔色が悪く、今にも倒れそうなくらい調子が悪そうだった。
「どうしましたか? 具合が悪いのですか?」
「……セラフィナ様!」
心配して声をかけると、クロエは一瞬びくりと肩を竦ませて、我慢の限界とばかりに泣き崩れてしまった。セラフィナ突然のことに酷く驚いたが、ともかく彼女の背を撫でて落ち着かせようとする。
「お許しください。どうか、お許しを……!」
「ど、どうしたのです!? とにかく顔を上げて下さい」
「実は……セラフィナ様の髪を切るようにと、宰相閣下より、仰せつかったのでございます!」
胸を貫くような慟哭に、セラフィナは思わず動きを止めた。その一言で大体の事に察しがついてしまったのだ。
宰相ジスランは女王フランシーヌに絶対の忠誠を誓う側近中の側近である。つまりクロエは『可哀想なセラフィナ姫』を演出するために、髪を切ってこいと命令されたのだろう。
髪は女の命とも言われ、短い髪では外を歩くこともままならない。そんな状態で檄文を読めば、民衆はヴェーグラントでどんな扱いを受けたのかと悪い想像しか浮かばなくなり、開戦への効果はますます強くなるはずだ。
「クロエさん、あなたは脅されていますね? 何と言われたのですか?」
「……子供を殺す、と。で、ですが、こんなこと、私は」
なんて酷い。平伏したままのクロエの絶望に満ちた背中を見て、セラフィナの中に怒りが募っていく。きっと彼女は美容師としてその命令に抗おうとしたが、子供を盾にするという非道に頷かざるを得なかったのだろう。
「いいのです、クロエさん。私の髪であなたのお子さんが助かるなら、安いものです」
「セラフィナ様……!?」
「特に髪への未練はありません。さあ、切ってください」
セラフィナは大人しく後ろを向いて、切りやすいように全ての髪を背中に送った。しかしクロエが一向に動こうとしないので、そっと振り返って様子を伺う。すると彼女はハサミを掴んだままぎゅっと目を瞑り、声を押し殺すようにして涙を流していた。
「こ、こんな…綺麗な髪を、切るだなんて。セラフィナ様に、私、感謝してるんです。戦場で怪我を負った夫が、病院でセラフィナ様の慰問を受けて、すごく元気になって……!」
そんなことがあっただなんて知らなかった。
苦しむ彼らに何もしてあげられなかったと思っていたけれど、少なくともこうして喜んでくれた人がいたのだ。髪を切るくらいでこんなに思い悩んでくれるほどに。
今までしてきたことは、無駄などと一蹴して良いことではなかったのだ。
もう一切の迷いもなかった。セラフィナはクロエの手からそっとハサミを抜き取ると、自らの髪を束ねて一気に刃を差し込んだ。
「ああっ!」
クロエの掠れた悲鳴と共に、長い金糸が膝に落ちる。手には髪の束が残って、毛先が肩口で遊ぶのが視界に入ってきた。ここまで短くしたことは今までで一度もないが、これで子供の命が救われるならと、寂しさなど少しも感じなかった。
「セラフィナ様……! ああ、なんてことを。申し訳ございません! 私が、私のせいで……!」
「一度は短くしてみたかったので、ついやってしまいました」
恐慌状態に陥ってしまったクロエに、セラフィナは何でもないことのように微笑みかける。せめて彼女が罪の意識を感じないよう、無事に子供の元へ帰ることができるように。
「整えて頂けませんか? さすがにこれでは不恰好でしょうから」
「セラフィナ、様。ごめんなさい……!」
クロエはその場で再び泣き崩れてしまって、しばらく顔を上げることができなかった。彼女の震える背中を撫でながら、セラフィナは拳を握り締める。こんなに民を苦しめる王がいて良いはずは無いのにと。




