13
諸々の受勲や葬式、処理を終えてようやくアイゼンフート領の屋敷に帰って来たのは、終戦から三月も経った頃の事。
父の葬儀の全てを終えた兄弟は、本邸の客間にて慰労会を行うことにしたのだった。
「兄さん、お疲れ様でした」
「ああ、お前もな。ルーカス」
「それと昇進おめでとうございます。さ、どうぞ」
ルーカスはランドルフの持つグラスにウイスキーを注ぎ、それが終わると今度は兄から注いでもらう。グラスを重ね合わせてからその琥珀色を一口含めば、喉の奥が焼けるように熱くなった。
「何というか、いろいろありましたね」
「そうだな。お前にも随分苦労をかけることになる」
「そんなの言いっこなしですよ。俺が領地に残るのは以前から解っていた事じゃありませんか」
この度の戦で三十歳という若さで少将へと昇進したランドルフは、同時に侯爵位も拝命して家督を継ぐ事となった。齢六十になる皇帝は英雄の力に頼るべく、百戦錬磨の黒獅子将軍を重用することにしたらしい。第三師団長に任ぜられた事によって陸軍省そのものが職場となったため、一月後に首都の別邸へと居を移す予定となっていた。これは控え目に言っても大出世である。
「そうは言っても急な話だからな。若いお前には申し訳ないが」
「何です、俺じゃ頼りになりまけんか?」
「そういう事じゃない。お前にも楽に過ごせる時間がもっとあっても良かったんじゃないかと思っただけだ」
冗談っぽく笑うルーカスにも表情を崩す事なく、ランドルフは気遣わしげに目を細めている。
当主が中央へと異動する事によって、領地運営はルーカスが主に行うこととなったのだが、どうやら随分と心配してくれているらしい。
時の人となった兄は、いつしか目尻と眉間に皺を刻んで将たる貫禄を身に付け、遠くへ行ってしまったようだったけれど。兄弟であるという事実は揺らぎようがなく、今も昔も弟を慈しんでくれる眼差しには何の変化もない。それはルーカスにとってとても嬉しい事だった。
「そんなの、二十三の頃から戦場に出てた兄さんだって同じじゃありませんか。俺のことはいいんですよ、アイゼンフート地方でも遊ぼうと思えば遊べますし。それより、今は兄さんの事でしょう」
「私か? まあ将としては若輩だからな。苦労する事も多いとは思うが」
「違いますよ、そんなこと兄さんだったらどうとでもするでしょうに。俺が言っているのは、そろそろお嫁さんでも探したらって事です」
ルーカスの言葉が言い終わらないうちに、ランドルフは露骨に嫌そうな顔をした。
「独身のまま侯爵位を継いであまつさえ将軍職に就いてしまうなんて話、聞いたことがありませんよ。兄さんは今まで頑張ってきたんだから、いい加減に普通の幸せにも目を向けてみたらいかがです?」
「お前は叔母殿のような事を」
「ブリストルでの凱旋記念パーティーでは、随分とお偉方に娘さんを勧められてたみたいですけど」
「その勧められた娘さん方が、揃いも揃って私に怯えていたのだから仕方ないだろう」
「ま、兄さんの顔は昔から迫力ありましたからね。この七年で頬に傷なんかこさえたのもあって、凄みがプラスされましたしね」
「お前はこの七年で言うようになったらしいな」
ルーカスの歯に絹着せぬ物言いにランドルフは視線を鋭くして見せたが、長年の付き合いの中で見慣れたそれは恐ろしいものではない。確かに兄は強面ではあるが、実は笑うとかっこいい事、そしてとても誠実な心を持っている事を自分が誰よりも知っているのだ。
いつのまにかグラスが空になっていた。手酌をしようとすればランドルフに手で制され、琥珀色の液体が注ぎ込まれる。礼を言って口をつけると、もう喉が焼けたりはしなかった。
「手始めに社交界にでも顔を出したらどうです? カワイイ子いっぱいいますよ」
「お前には楽しいところなんだろうが、私はあまり得意じゃないんだ。必要最低限しか行くつもりはない」
「それじゃダメですって、いつかいい人に出会えますよ! その為には出会いをこなさないといけないんです!」
「……おい、ルーカス? お前まさか、この程度で酔って——」
「兄さんの良さがわからない女なんて、ほっときゃいーんです! だって兄さんは、かっこいい! 強くて頼り甲斐がある! おまけに優しい! 顔は怖いけど!」
「ああ、わかったわかった。いいからお前はもう飲むのをやめろ。そういえばお前と酒盛りなんて初めてだったな。一杯で酔うとは思わなかったが」
「俺は酔ってなんかいませんよ? 気分が良くなっただけですー」
「酔っ払いは皆そう言うんだ」
ランドルフは苦笑しつつ、水を注いで差し出してくれた。
酔ってないと言ってるのに、仕方ないなあ。ルーカスは苦笑しつつその水を飲む。
嬉しかった。久しぶりにこうして兄と語らうことができて。この穏やかな時間のお蔭で、父を失った悲しみも楽になるような気がした。
そのまま他愛のない会話を続けるうちに、ルーカスは睡魔との戦いに敗北してしまった。
ふと目を覚ますと、既に夜の帳が部屋を包み込んでいた。
オイルランプに照らされた客間には既に兄の姿はない。うっかり眠ってしまってからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。
ルーカスはいつのまにか掛けられていた毛布を退けると、随分とすっきりした気分で部屋を後にした。ここまで深く寝入ってしまうとは、首都からの旅で無自覚のうちに疲れが溜まっていたらしい。
今は何時なのだろうか。腹も空いていたのでとりあえず食堂に向かって歩いていると、その途中でディルクに会うことができた。
「おや、ルーカス坊ちゃま。お目覚めで?」
「おいおい、坊ちゃまはよせって言っているのに」
「これは失礼しました。慣れませんで」
悪びれも無く微笑むディルクは、どうやら呼び方を正す気はなさそうだった。今回のことで侯爵の弟という立場になったルーカスには、流石に坊ちゃんという呼称はもう似合わないはずなのだが、彼にとっては今も昔も息子より年の離れた存在ということに変わりは無いらしい。
「今お呼びしようかと思っていたんですよ。夕飯のご用意が整いましたので」
「なんだ、まだそんな時間だったのか。兄さんにはもう声をかけた?」
「まだこれからですが」
「じゃあ俺が呼んでくるよ。起きぬけの運動にはちょうどいい」
恐縮するディルクに手を振ってからランドルフの部屋へと向かう。二階に上って自室を通り過ぎると、すぐ隣に目的の部屋はあった。しかしノックをしても返事はなく、ルーカスはおやと首を傾げる。
兄はそうそう午睡なんてする人ではないし、書庫で本でも読んでいるのだろうか。一応と思って取手に手をかけると扉は難なく開き、やはり室内はしんと静まり返っていた。
ならばと書庫へと向かおうとしたのだが、ふと視線を横へと走らせたその時、突き当たりの部屋から明かりが漏れているのが目に入った。
それは父の部屋だった。どうやら兄はあそこにいるらしいと当たりをつけたルーカスは、廊下を奥へと進んでいく。そして薄く開いた扉をノックしようとして——隙間から覗き見てしまった光景に、その手を硬直させた。
兄が、泣いていた。父の部屋で、遺品の軍帽を前にして、たった一人で。
その横顔を静かに伝う涙に、ルーカスは頭をマスケット銃で撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
父の葬式の際、ルーカスは我慢できずに涙を流してしまったけれど、ランドルフは引き締めた表情を終始崩すことはなかった。その毅然とした態度に、何と立派な後継かと参列者たちも口々に誉めそやしていたし、実際自分もそう思ったのだ。
俺は一体何を見てきたのだろう。この人の何を知っていたというのだろう。俺はこの偉大な兄をいつしか自分とは違う人間だと感じていたのだ。あまりにも力の差がありすぎるから、追いつけないのもしょうがないのだと。強く頼り甲斐のある兄は迷うこともなければ立ち止まることもないのだと。
けれど違った。この人は誰よりもお人好しで、誰よりも優しく、誰よりも強いからこそ、人前で涙を見せることができなくなってしまった、不器用で温かい人なのだ。
それなのに、弟である自分のなんと役立たずで情けないことか。
俺は変わりたい。一歩下がった位置でいいから、この人と並び立てるような自分になりたい。
胸に湧き上がった思いを抱き、ルーカスはたった一人拳を握りしめたのだった。
ランドルフが去ったアイゼンフート領で、ルーカスはがむしゃらに働いた。しかし同時にきちんと社交界にも顔を出し、人付き合いにも積極的に務める。自分の取り柄が社交性くらいしかないのは重々理解していたし、兄が若くして領地運営に携わる事になった弟を気の毒に思っていることは、あの酒盛りの時に聞かされていたから。
そうして早くも二年が過ぎた頃、時の皇帝が崩御し、新しくディートヘルム皇子が即位する運びとなった。遠く離れた首都で起こった重大事にあまり関心を抱けないまま過ごしていると、アルデリー要塞の執務室に突然の珍客が訪れた。
「君には諜報員の素質があります」
名乗った後に前置きもなくそうのたまったのは、情報部長マイネッケ大佐である。
この時は完全に初対面だったし、ルーカスは胡乱げな眼差しを目の前の男に向けてしまったのだが、彼は気にした風もなく心を覆い隠すような笑みを浮かべていた。
「君は人当たりが良く、整った見目をしていますが不思議と目立つところがありません。つまり情報収集にはうってつけの人材というわけです。というわけで、情報部員になりませんか?もちろん、このことは家族にも他言無用です。英雄アイゼンフート将軍にもね」
素質がある、などと言われたのは記憶が正しければ生まれて初めてのことだった。今まで何の役にも立たなかった俺でも、これなら人並み以上に良い仕事ができるのだろうか。情報を得ることによって、兄を影から助けることもできるのだろうか。
「やります。やらせてください」
気付いた時には二つ返事で了承していた。その思い切りの良さに、まだまだ言い募ろうとしていた口を閉ざしたマイネッケは、口の端を釣り上げて楽しげに笑った。
訓練の末、ルーカスは歩兵大隊参謀官という肩書きと、皇帝陛下直属の諜報員という裏の顔を同時に得ることとなった。
ランドルフに話せないことだけは心苦しかったが、女性と会ったりターゲットに接近するため歓楽街に赴いたり、社交界に顔を出す事は何の苦にもならず、仕事をすればするほど自分に向いているのがわかってくる。
いくら手柄を挙げても表の階級の昇進にはもちろん結びつかなかったが、それでも一向に構わなかった。役立たずの自分を少しは変えることができたような気がしたから。
セラフィナと博物館で初めて出会ったあの時、ルーカスは正直なところ「大丈夫かな」と思ってしまった。
この若く美しい婚約者に、果たしてこの兄の内面を見抜く目が備わっているだろうか。ついそんな疑心に駆られてしまうくらいに彼女は綺麗で、この世の苦しみや悲しみを一度も味わったことがないような深窓のお姫様に見えたから。
しかしそれは全くの杞憂に終わった。セラフィナは心優しく健気で、底抜けのお人好しで、芯の強い魅力的な女性だったのだ。
ディートヘルムによればハイルング人である事によってとても苦労してきたという彼女は、兄の隣で幸せそうに微笑んでいる。お互い想い合っていることは一目瞭然で、ルーカスは心の底から安堵していた。
だからこそ、ランドルフが彼女を手放すなどと言い出した時は、どれだけ不器用なのかと呆れ返ってしまった。
あれだけお互いを大事に思っているくせに。いや、だからこそすれ違ってしまったのか。
そんな兄夫婦がこのまま離れ離れになってしまうなんて、そんな事が許される筈がない。他者を思いやるあまりに自らを犠牲にしてきた二人は、もういい加減に幸せになるべきなのだ。
その為なら何だってできると思った。それこそが英雄の弟という楽な立ち位置に甘んじてきた俺の、せめてもの罪滅ぼし。最後の最後で無茶をしてしまったけれど、これでようやく役に立てたんだと…そう思っても、許されるだろうか。